十六、自然の理(じねんのことわり)

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」

(1)自然

 自然というのは二つある。一つは素朴的自然。普通我々が考えているよう自然である。煙は高い所にのぼり水は低い所に流れる。柳は緑、花は紅というように、それぞれのものが自然にそうなっているもの、これを素朴的自然現象としての自然である。そういう性質をみな持っている。誰が見てもわかる。なる程蛇はくにゃくにゃ蟹は横這いであって、それが彼等にとって真直ぐに歩くということなのである。

 素朴的自然と混同してはならないものがある。それを自然(じねん)といい、おのずからしからしむるという。それが第二の自然である。自覚された自然である。これを法爾自然(ほうにじねん)という。これはただ見たらわかるというものでなくて、心の転回によってわかる法の働き、大きなものの働きを自覚的自然、これをじねんのことわりという。

 ドングリが風に吹かれてころころしているのも自然である。が、ドングリはいつまでもドングリころころではない。もし彼に水と光と時が恵まれたならば芽を出して大地に根をおろす。殻を破って発芽してくると、もはやころころしなくなる。このように太陽の光と大地からの水が与えられるならば、ドングリは一本の大木に成長していく道理がある。例えていえばこういうものを自覚的自然という。

 もっと言うならば、絶対と相対の関係というものである。絶対とは大きな世界、相対とは小さな我々の世界である。その絶対と相対は単に並んであるのではない。相対と絶対が並列してあるのではない。仏と衆生が対立してあるのではない。必ず大きなものが小さなものを包んでいるのである。赤ん坊と母親が並んであるのではない。母親は赤ん坊を抱いているのである。たとえベッドに寝かせていようとも、赤ん坊は母親の心の中にいるのであって、二つ並んで別々にいるのではない。包まれているというが単に包んでいるのではない。大きなものが小さなものをただ包んでいるというのでなく、必ず絶対なるものは相対に働きかけて自己を届けようとする。自己表現しようとする。「絶対は相対に対して常に自己表現をする」とは西田幾多郎氏の言葉であるが、これが絶対と相対の間にある道理である。この働きをじねんのことわりという。

 母親が赤ん坊をただ抱いているのではない。乳を呑ませおむつをとりかえ、あやし、語りかける。そして愛情を手に注いでこれを大きくしようとする。

 今、太陽と氷が並んであるのではない。太陽が大きく包んでいるといわねばならない。が、単に包んでいるというのでなしに、太陽は氷に働きかけて氷の中に自己を届けようとする。太陽の熱エネルギーによって氷を水にするのである。氷の中に太陽が自己を表わして氷の中.に内在しようとする。こういうのを自然の道理という。

 我々は相対有限である。どんなに長くても百年以上生きることは困難である。そういう短い人生を大きく包んでいるものがある。その大きく包んでいるものを如、一如、永遠という。その一如と人生とが二つあるのではない。一如がただ人生を包んでいるのではない。その一如の世界から働きかけてくるもの、現われてくるもの、それを如来という。如より来生するという。一如真実、真如法性の世界を人生に届けようとする。その働きを自然というのである。それを願力自然という。願力とは本願の働き、その具体的な姿を南無阿弥陀仏という。親が子に乳を呑ませるように、太陽が氷を融かしていくように、人生、いや私の中に働きかけて私の殻を破り私を育てて、大きな世界にあらしめようとしてやまないもの、それを自然の道理という。

 南無は帰れという呼びかけである。阿弥陀仏は如来そのもの。一如真実の世界に帰れというのを南無阿弥陀仏という。この名告り、よびかけ、本願を自然の理という。従って「自然の理」とは如来の本願力、本願の働きをいう。如来本願の働きは、いとも小さな私の上に南無阿弥陀仏と呼びかけて、私の中に自己を届けようとする。私の中に入って私の信となろうとするのを自然の理という。これが自然の道理である。

 仏法とキリスト教の根本的な相違は、キリスト教は「はじめに神ありき」である。これは非常に大事なことであるが、現代人にとって何となく反撥を感ずるものがある。この大前提そのものに首をかしげざるを得ないようなものがある。仏法はそう言わない。はじめに私というものがある。そしてその私を包む大きなものがある。それを一如真実、法性、法という。神でなく法という。相対を包む絶対があるのだ。これは何人も肯定せざるを得ない、それが如である。その如が道理として働くのだ、自然の理として働きかけるのだ。それを願力自然という。自然の理というものを力説するのが仏法である。これを明らかにするのが『大無量寿経』であって、そこに本願の宗教があらわされている。それは自然なのだ。世の中に自然ほどこわいものはない。自然とはおのずからしからしめられるもので、無理がない。これが仏教の特色である。道理であるから皆がうなずかざるを得ないものがある。神を信じない人も道理は拒否できない。

 小さいとか大きいとかいうのは、我々の持っている次元である。次元というのは、物理とか数学とかで使われる言葉でディメンションという。我々が現実に住んでいる次元は三次元である。これは低次元の世界である。この低次元の世界を包む高次元の世界(大きな世界)がある。がしかし、低次元と高次元と二つあるのではない。高い次元の中に低い次元は包まれいるのである。が、単に包まれているのではない、高い次元から低い次元に働きかけてくるのだ。これが仏法の世界である。そして低次元の世界を高次元化しようとする。その働きが高次元の自然の働きであり、これを自然の道理というのである。この働きを本願力という。これを法爾自然という。その自然の道理が、具体的には南無阿弥陀仏なのである。

(2)自然の理が成立するとは

 成立することをかなうという。かなうとは昔の言葉であって、古語辞典を引いてみると、適合する、あるいは無理なく合うという。岩波の古語辞典では万葉集の古歌を引いてある。「にぎたつに船のりせんと月待てば、潮もかないぬ今はこぎ出でな」という歌である。潮が満ちてきて、無理なくうまく船出が出来るようになったという。

 自然の理にかなうということを時機純熟という。南無阿弥陀仏という名告りが私自身に届いてくるということは時機純熟である。時が熱した。ちょうど春がめぐってこなければ花は咲かない。大地の温度がある高さにならないと花は咲かない。本願力がかけられてあっても時機純熟しなければ成就しない。それをかなうという。適合、時機純熱である。時が要るのである。

 また自然の理にかなうとは、自力のはからいがすたることをいう。人間を大きなものと一体にならせないものがある。それは自分の持つ殼である。この殻を自力のはからいという。それが打ち砕かれたのを、自力のはからいがすたるという。その時に自然の理にかなうということがある。

 自然の理にかなうとは、真の『教行信証』を持つ身となるということである。親が子を育てる、子がだんだん大きくなり本当に育ってくれるまでには時間がかかる。三日や四日、二年や三年ではできない。多くの時間がかかる。本当に育つとは独立が出来ることである。それは大きなものの働きかけに応えることができるようになることである。応えるとは応答する、それが殻が破れたということである。自力のはからいがすたるということである。如来の働きかけに応答する。応答とは、教を聞きぬき行を持ち心の自覚を持ち、そしてはっきりした心の確信を持つ。大道に対する確信というか自己の確立というか、そういうものを持っている。これが自然の理にかなうということである。

 大きなものに応えていくということが出来ない段階は、まだ殻の中に入っていて、大きなものと自分とがばらばらである。そうでなしに応答していく、この応答こそが『教行信証』である。

 『教行信証』とは何か。「教」とは教を聞く。自分が本当に教を聞いていこうとする。教とは本願の教、南無阿弥陀仏の教。「行」とは南無阿弥陀仏と念仏を行ずる。また五念門の行という。念仏する身となることである。「信」とは心に憶念する、本願を憶い御恩を憶う身となる。「証」とは深い大道への確信を持つ身となる。このような身となっていくことが殼を破って出るということである。これを自然の理にかなうという。大事なことは自己の殻から出るということである。それは単なる自然現象と違うのであって、待っていたら潮が満ちて来たというようなことではない。求道というものがいるのである。

 自然の理にかなう道、その道程の第一は、積極的聞法である。即ち深い殻を破ることができるのは、外側から如来の働きがかけられているからである。如来の働きは具体的にはよき師よき人の仰せである。即ち本願を本当に領解した人、親鸞においては法然上人、そのよき人の仰せを被るということが、如来の働きを受け取る具体的な姿である。春が来たということは暖かい風が吹いてくるということである。春は春風という具体的なものになって表われてくる。これを聞きぬくことを積極的聞法という。積極的聞法というのが大事なのであって、向こうからはよき人の仰せ、私から言えば積極的聞法がなければならない。禅宗では啐啄(そくたく)同時という言葉がある。

 卵が親鶏によって孵化する時、ひよこが内側からつつく、外側からは親鶏がつつく。一致して同時につついて殻が破れることを啐啄同時という。ただ如来の本願とよき人の仰せがあって、それによって高い所から低い所へ水が流れるように、自然の道理にかなうというようなそんなことはない。それは自然現象、素朴的自然である。しかし精神的なもの、自覚的な自然というものには人間の努力を要するという一面がある。向こうが叩けばこちらも答えるという一面がなければならぬ。こちらの努力なしには出てこない。しかしながら、こちらの努力も実は向こうからの働きかけによって生まれたものである。親鶏が外からつついて、中からひよこがつつくというけれども、始めは卵であってつつくべき嘴も持たなかった。

 それは親鶏が抱いてやって始めて出来るのである。親鶏の力である。最後はひよこのつつきになって一体となって破れるのである。これを機法一体という。

 よき人の仰せを被って私がとうとう消極的聞法から積極的聞法へ進むというのが自然の道理にかなう道である。消極的とは受け身である。よき人が来たから私がそこに行って聞く。こういうのを消極的聞法という。そこに本があるから読んだ。こういうのを受け身、消極的という。積極的とは自分が立ち上がって行く、昔風に言えば命をかけるという。こういう言葉は現代においてはだんだんわからないものになったが、命がけというのは大切な言葉である。

 『歎異抄』第二章では「身命をかえりみずして尋ね来らしめたまう御こころざし」とある。命をかけるという。福岡の万行寺の七里恒順というお方が言われた。「梅と桜を両手に持つな、一度世間を捨てよ」と言われた。積極的聞法、命をかけよということを言っておられる。昔のことと思ってはならない。そういうことがなければ自然の理にかなわないのである。

 それでは命をかけるとか、世間を捨てよとかいうのはどういうことか。それは私において具体的に何かを深く考えねばならぬ。私の領解は次の通りである。それは継続一貫、どんな事があってもやめないこと。そして一年の計画を仏法中心に立てて、この講習会には必ず出ようというような計画を前年から立てて、一年、五年、三十年、と続けるということであった。継続一貫することが私におけるささやかな積極的聞法であった。自分自身についてはそれしか出来なかった。「世間を捨てよ」とは、大学をやめて聞法に打ち込むことかと始めは思ったが、そういうことではないと思う。人間は職業を持っているということが、世間に対する一つの責任である。しかし、それにふり廻されてうつつをぬかすのでなく、勤めながら聞法を継続一貫どんなことがあっても貫き通すということが、私において積極的聞法なのではないかと私自身は考えた。積極的とは自分においては何かということを、自分でよく考えねばならない。

 自然の理にかなう道の第二は現実との取り組みである。現実を見失ってはならない。曲った釘をハンマーで叩いて真直ぐにしようとするには、ハンマーと釘があればよいというものでない。砂の上に釘を置いて叩いたとしても釘は真直ぐにはならない。大事なことは私というものが現実という鉄床(かなとこ)の上にのっているということである。私が鉄床にのって、はじめて教、願力自然、大いなるものの南無阿弥陀仏という呼びかけは私に届くのである。先に言うNHKのドラマでも、折角大きくした息子や娘は皆親の元から離れて行って、親の事など考えない。この現実を受けとめて始めて教が届くのである。自然の理は南無阿弥陀仏と私を呼んで下さるよびかけであるが、どうしたらそれが届くかというならば、私においてなさねばならぬものが二つある。その一つが積極的聞法であり、も一つが現実を受けとめることである。その現実こそが私に南無阿弥陀仏と応答せしめる為になくてはならぬもの、契機なのである。従って人は苦しい問題に直面した時が、大きなピンチであると共に絶好のチャンスである。その時こそ我々が自然の理にかなうことが出来る好機である。

 これが実に時機純熟である。時機純熟して自然の道理にかなってくるのである。自然の理にかなうとは私に教のハンマーが届いて、「南無阿弥陀仏」と答え得る身となること。教のハンマーが届く為には現実の鉄床にのっていなければならない。「南無阿弥陀仏」と答え得る身となるというのを広く言えば、『教行信証』をもつ身となること、一言で言えば念仏申す身となるのである。「南無阿弥陀仏」と呼びかけるものがあって、私がそれに「南無阿弥陀仏」と応えていく、これが人間の深い転回である。本願の宗教、真実宗教というのは、何かを設定するのでなく、法則にかなうということである。四十八願と説かれ南無阿弥陀仏と説かれている。それが法、その法の道理に従っていくから自然である。自然であるから無理がない。自然であるから何も要らない。遂に人間の決意を要せず信仰を要せず念仏を要せず、ただ自然である。ただ南無阿弥陀仏である。

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