七、煩悩障と所知障

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

 専修念仏のともがら、即ち念仏一つと決定して深く教を聞きぬいた人達が、わが弟子ひとの弟子となぜ言うのか。それは所知障に執われてもう一つぬけないところがある。そのためである。

 このことは非常に現代的な問題である。煩悩障を超えているという人はかなりある。宗教団体には、いわゆる日常的な執われというものはもうすでに捨てた。名聞、利養、勝他というものはもう捨てたという人はたくさんある。宗教者でなくても新左翼という学生運動等をやる人達も、世間的なものはもう捨てたという人が殆どである。どんなに人から悪く言われようとも、損な立場に立とうとも、同級生がどんなポストに就こうとも関係ない。俺はこれに打ち込むんだという思いがある。芸術家も芸術に打ち込んで名利は捨てたということがある。だが、その捨てた人がいかにもスケールが小さくて、攻撃的な批判、相手を責めたてるような批判に明け暮れする。そこに深い傲慢さと、自分だけがわかっているという自己陶酔をはらんだ不純性というものがあることが多い。もう一つ転回しなくてはならないのではないか。そういう問題がある。このような課題が全世界に渦巻いている。今日の宗教、或いは政治、芸術、集団などで、真剣に考え、純粋に行動している人達が、他の人の不純さに対し悪魔的な攻撃的批判を加えて破壊的である。ここには私有化というものがあるのではないか。これを所知障というのである。一つの殼からは出たが、またもう一つの殼に入ってしまった。そこには本当の人間のつながりは生まれない。

 ここでは何が足りないのか。それは感謝、ありがとうございますというものが足りない。感謝のひとかけらもない。これが致命傷なのである。これが執われていることの証拠なのである。人間が何かに執われていると感謝を持たない。本当に執われを脱したならば我は必ず感謝すべきものを持つのです。私のまわりの私とつながりのある人、物、事柄に対して、私の弟子、私の使用人、私の…というのでなしに、それに対する深い感謝が生まれてくる。もし単に私の会社の従業員、私の寺の門徒しか思えないなら執われているのだ、縛られているのだ、我執、法執の人だ。その執を超えたところに深い感謝と喜びがある。遠く因縁を喜び宿縁を喜び、出遇いを喜ぶという、誠に不可思議である。あなたとお遇いできたことを喜ぶ。深いつながりを感謝し感銘する。ここに本当のつながりがある。「わが弟子ひとの弟子」というところにはそういうつながりがない。それを執われているという。我執という原始的な執われは打ち砕かれても、形を変えた第二の我執、即ち法執という深い執われがそこにある。それは深い潜在意識としての我執、深い私の執われ、その奥の深層の中にあるそういう意識ですね。この点を高原覚正師(『歎異抄集記』中巻)は指摘されています。

 これは少し余談になりますが、何日か前にテレビで『禁断の惑星』という映画をやっていました。これはアメリカ映画で、ずい分昔のものです。1950何年かだから30年近くも前のものです。私はずっと前に見て記憶があるのですが、今度見たらまた色々考えさせられました。

 地球によく似た惑星があった。その惑星で以前に行方不明になった人達をたずねて行って、そこで起ってくる事件が中心である。結論はこういうことです。そこに非常にすぐれた生物が住んでいて、すぐれた高度の文明を築き上げた。何でも自分の思いのままにやれるようになった。ところが最後にどうなったかというと、何でも思いのままにやっているうちに、お互いが殺し合ってとうとう死んでしまう。なぜかというと、何でもやれる、従って思いのままにやって幸せになったんだが、その時理性の底に潜んでいる憎しみが出てくる。それが形をとって出てきて、思いのままにやれる世界で思いのままに殺し合って、絶滅してしまう。その惑星を受け継ぐ者があって、そこから悲劇が起ってくるわけだが、これは実に面白い。人間の理性というもののとおりにやれば幸せでなしに、底に深い憎悪を持っているんですね。何でもない時にはわからないんですが事に触れて深層意識から出てくる。日頃憎い憎いと思っているのがいつか表面に出てくる。だから人間は酒を飲んで酔っぱらったりした時、一番下の深層意識が出てきて「おいこの野郎!」となって本音を吐くということがある。飲まない時は心根に潜んでいる。人間の表面的な我執は打ち砕かれた。が、深い所にある我執は深層意識として残っている。それが出てくる。表面では利養も勝他もないが、人とのかかわりにおいて私有化という形で出てくる。それを所知障という。これを打ち砕くところに大乗仏教がある。何もない時には奇麗事(きれいごと)で済む。しかし沢山沢山人がいる、物がある。そういう時、私の無くなっていたと思っている我執が形を変えて出てくる。どういう姿でかというと、私有化、私的立場、そして人の不純性に対する攻撃的批判として出てくる。それが問題なのだ。そこにもう一つ叩き(こわ)されなければならないものがあるのだ。こういうのを大乗仏教では法執と言っている。

 この法執といわれる問題は、日常的執われは解脱したが、いわば宗教的な執われが残っていると言うことができる。イズムとか教とかに執われるところがあって、それを私有化する、私物化するという。

 我執を脱するということは深い転回であって、これを廻心という。我執に対する深い懺悔、深い反省を持つ。自分が名聞、利養、勝他に執われていた。小さなことに執われていたなあとわかる。その懺悔の体験或いは転回の体験は既に持っているのであるが、その体験が私有化される。そこには感謝がない。転回はまことによき人の教を被ってできたのであって、私の力ではない。それであるのに深い御恩であったという感銘でなしに、「私がそういう経験をした。人は誰もそういう経験はしないのに私だけがした」というように、そこに執われるということがある。これをまた体験の私有化という。

 廻心の体験はまことに得難い体験であるが、しかしながらそれが私物化した。その体験が、「おかげである、誠に私の力ではない」という感銘にならず感謝にならない。それを聖人は疑惑和讃にうたわれた。「七宝の宮殿に生まれては、五百歳の年を経て、三宝を見聞せざるゆえ、有情利益はさらになし」。これは『大無量寿経』にある教をもとにして作ってあります。七宝の宮殿に生まれるとは、高価な宝で飾られた宮殿に生まれる。まことに得難い宝物に満ちている。しかし閉鎖されている。我執の殼は出たけれどもまた一つの世界に閉じこめられる。そこに法執というものがある。五百歳の年を経て、長い長い間教を聞く耳を失い、第二の殻の中に閉じこめられている。仏法僧の三宝に触れず、教というものを本当には聞かない。有情利益はさらになしと、社会性を失っていく。そして攻撃的批判、あるいは体験の私有化というところにとどまってしまう。これが法執の姿として出ている。小さな殼を脱した、その脱したという体験が私有化されている。これを七宝の宮殿に生まれるという。煩悩障を脱したことが感謝とならない。感銘とならない、御恩であるということにならない。有難うございますというものにならないで、自分の努力と自分の意志で私がこのような経験を生んだのであるということになって、深い世界に出ないのである。懺悔や廻心の体験は決して自分一人で出来るものはない。それには必ずたくさんの因縁がある。よき人の仰せ、よき友の勧め励まし、色々の因縁に恵まれて、我々は深い体験をするのである。その因縁を断ち切ってしまって自分だけの手柄にし、私がやったんだというところに私有化というものがある。これが所知障を生んでくる。深い我執が形を変えて、仏法における体験までも自分のものにしていく。そういう我見の名残、残滓(ざんし)が潜在意識の中に残っている。これが最後の問題である。

 さて、その体験の私有化が打ち砕かれるにはどうしたらよいか。それは非常な難問である。時を待たなきゃならんというか、時間が必要であります。しかしながら先ず原則だけ申しておくと、この難問の解決はたった一つ、よき師よき友によるのである。よき師よき友の生活実践にふれるということである。それを仏法の言葉でいうと、十七願海に照らされると申します。

 よき師よき友の生活実践にふれることが法執を転回せしめるたった一つのものである。そのためには次のことを言わねばならない。

ページ頭へ | 「八、親鸞は弟子一人も持たず候」に進む | 目次に戻る