十、六道(六趣)四生

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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「六道四生のあいだ、いづれの業苦に沈めりとも」先ず言葉の意味。

六道とは六趣とも言う。趣とは世界という意味である。六つの世界。なぜ趣というかというと、ある原因によってそこまで進んでいって、その結果そのような世界に到った。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つである。地獄、餓鬼、畜生を三悪道といい、修羅、人間、天上を三善道という。これらは善を行ずる力が残っているので三善道という。特に人間は考える力を持ち善を行う力がある。しかしこの六道全体を迷いの世界という。この迷いの世界を出ることを出世間という。あるいは仏道という。迷いの世界、六道を世間道という。それは自己中心の迷いの殼の中に閉じこもって、うろうろと流転している。その姿を六道輪廻という。死んでから先、へめぐっているのかというと、死んでから先はともかく、生きている間に確かにへめぐっている。即ち人間が考える力を失ったならば下の方に落ちてくる。不平不満と欲に引きずられている世界である。その苦しみの世界を地獄という。この頃地獄という言葉がはやっているようである。大分以前に梅原猛という人が『地獄の思想』というのを書きました。これは日本文学の中から十を選んだ。始めは『源氏物語』から最後は太宰治の『人間失格』まで十編を選んで、地獄の思想というものがそれらの底を流れているのだということを書いている。死んだ人の行く世界とは彼は書かなかった。そのように人間が生きている間にへめぐってくる世界を六道というのである。

地獄とは苦しみの絶え間のない世界をいう。なぜ苦しむかというと、十悪という悪業を積み重ねることによって、その果として地獄という世界に趣くわけである。すべてそういうわけで六趣という。この苦しみを自業自得という。何かほかのもの即ち運命とか神の祟りとか、神の審判とかでなしに自分の業行(行い)で自分がそういう世界に行くのである。果を得るのである。行業果得といって自分の行いの結果である。この自業自得というのが仏教の根本的な考え方である。すべて因縁業果報である。迷いの因(たね)があって働きを起して結果が出てくる。十悪の結果として出てくる世界を地獄という。

餓鬼、餓鬼道とは、不平不満で感謝することを知らない。人の持っている物を欲しがり、持っている人に深く嫉妬する。そういう世界を餓鬼という。原因は無慚無愧という。恥ずかしいということを知らずそのような世界に堕ちていくという。

畜生、独立ができなくていつも何かに引きずりまわされている。忘恩によって畜生の世界に生まれるのである。これには忘恩のほかにも色々の説がある。

修羅、阿修羅の如くという。闘争をする。上の人にすぐ突っかかり反撥し喧嘩腰である。修羅というのは須弥山の地下にもぐっている。そして上にいる天人を見ては嫉妬心をおこす。深い劣等感を持っている。そのためにいつも喧嘩腰になっている。こういうのを修羅という。微悪を行ずることによって修羅となる。

人間、人間は考える力を持っている。そして仏法に一番近い所にいる。過去において善を行じた因縁をもって人間に生まれた。その人間にも苦しみがある。それは四苦八苦である。生老病死の四つを四苦という。人間が生きていく上に苦しみがあり、老病死という苦しみがある。苦しみは免れない。

天上、天というのは欲を離れた世界。何も苦しみはないが、ただ一つ退没苦がある。退没苦とは、いつかは苦しみの世界に堕ちこんでいく、その時に非常に深い苦しみにあうという。どうして天にいるかというと、十善を行じたからである。人間よりもも少し多くの善を行じて天人となる。

これらを合わせて六道という。時には五道、五趣ということがある。五道という時には修羅を略して人間の中に入れる。地獄、餓鬼、畜生、人間、天上を五道という。これをひらいて六道という。

六道とはそのような世界、あるいは、あらゆるものの現にある状態をいう。人間に限れば人間の堕ち込んでいく世界、人間の今ある状態を六道という。この六道の世界にいることを、身を受けるという。地獄の身を受けることを地獄身という。人間の身を受けることを人身という。三帰依というのがあってその始めに「人身受け難し今すでに受く」とある。人間の身を受けたという喜びを言っている。何が身を受けるのかというと、自分の長い過去の働き、今までの行業、業が身を受けるのである。

身を受けるという。身とは肉体である。仏教では、身は手とか足とかいうような器官でなしに、生きている存在を身という。身とは私の存在の根底をいう。色々の機能と心を身という。たとえば目というのは身の一部ではない。目だけならばレンズであり、物としては人の目も魚の目も似ているようであるが、その働きが違う。物を映し取る働きは同じだと思うが、違うのである。魚の目玉は書物とか立派な絵とかを見ても、見る働きがない。本を見ても本と見えないのである。人間の目は字を見てもただ見ているのではなく、字を読んでいる。識別する働きをするのである。目は物質的な物理的なものと考えるが、そんなものではない。人の目と鳥の目と魚の目とは違う。構造は似ているかも知れないが、働きは全く違う。目に入るものと入らないものがある。我々は目の前にミミズがいても食物としては目に入らない。けれども鳥はそれを食物として見るだろう。ちょうど我々がご馳走を見るようなものであろう。このように同じものを見ても、機能はたらきが違う。物理的機能ではない。こういうのを身を受けるという。ミミズを見ても食物とは思わない。そういう身を受けた。それを判断し、色々な感情を引き起し、それについて意志を持つ。そういう心を根底にしたものを人身という。人の身を受けているということは大変なことである。牛の身を受けているのではないから目も牛の目と違う。物理的な目玉としては同じであろうが働きが違う。受け取る機能が違う。人間の目は人間としての機能であり、人間としての目なのである。

人身を受けるという。受けるとはものを考える、本当の意味でものを受けとめることができること。どのように受けとめるか、感謝して受けとめることができ、美しいものを美しいと受けとめることができ、私に語りかけるものとして映るのである。「人身受け難し」という。本当に人間としての感情を持って受けとめることができる。その一番大事なところは仏の世界(自分をはるかに超えた大きな世界)の語りかけを受けとる力を持っているということである。感じ取る耳を持っている。それを人身を受くという。放蕩三昧であれば人間の身でありながら人身でないということになる。

印度で発見された狼少年の話がある。狼にさらわれた人間の子供が狼に育てられ、何年かたって発見された。その時には完全な狼になっていた。人間でありながら四つ足で走り、月を見てウォーと吠える。我々は月を見て吠えようなどと思ったことはない。狼には月がどう見えるかわからないが、吠えるのである。そういうのは人身を受けたとは言わぬ。人間の身は受けたけれども、月を見ても受けとり方が違う。働きと心が違う。この場合は畜生の身を受けた。畜生身であるという。地獄の身、餓鬼の身、畜生の身を受けるという。それを我々の至る状態、居る世界という。畜生道に陥るという。こういうことを六道輪廻という。今生きている人間我々が色々の身を受ける。色々の世界に沈んでいく、色々の状態に堕ちこんでいく、それを六道に沈むという。六道は必ず苦しみである。なぜなら自業自得であるから。即ち自分の考えで色々なことをやり、その結果としてそうなっていく。それを六道に沈むという。

人身を受けるとは、人間の身を受けるということである。それを父母所生縁という。父母を縁として自己の業を因として身を受ける。生物学的に言えば、父と母とによって子が生まれるということになるのであるが、だんだんと自分自身が深い心に達してくると、自分がここにこのような状態で在るということは、父と母によって全く思いもかけず勝手に私が生まれてきたというようなものでなく、自分が為してきた長い長い行業が父母を縁として人身を受けたということになる。長い長い過去ということを考えざるを得ない。業というものはなくならない。長い長い私の迷いが父母を縁としてここにわが身を受けたのである。

生きている人間の状態を六道という。人身を受けるとは、父母を縁として生まれたということである。仏法というものがよくわからないとこのこともわからない。我々は色々な状態をめぐっている。一番下の状態を地獄という。ある先生が六道を楕円形で表わされた。天上から地獄に堕ちる。この図でいうと右廻りに廻る。人間に生まれたということは、仏法の世界に一番近い所にいるということである。六道の世界を迷いの世界という。その中でも仏法の世界(殻の中から出た世界)に一番近い所にいるのであって、これを「人身受け難し」という。私が過去の行業によっていかなる身を受けても仕方がないのに、今私は父母を縁として人間に生まれた。それを人身受け難しという。人間よりもっと上に天というのがあるが、天では楽しみの中に沈んでしまって、もはや仏法を聞こうという気持ちは起らない。人間は苦しみがあり現実問題を抱えているから何とかこれを解決したいと思い、深まりたいという気持ちがある。だから仏法に一番近いのである。地獄、餓鬼、畜生では、苦しみの中に埋没していて仏法どころの話ではない。あれが欲しいこれが欲しい、あれをやっつけねばならない。苦しみの連続という所にいて仏法どころではない。一方は苦しみの中に埋没し、一方は楽しみの中に埋没している。その中で人間は苦しみの中にありながら、その苦しみを解決していこうという意欲を持つ。だから仏法に一番近い所にいるのだという。

このように考えると、私は父母を縁として人身を受けた、「人身受け難し今すでに受く」である。これは「仏法聞き難し今すでに聞く」ということにつながっているのである。対になっている。仏法がなければ「人身受け難し」がわからない。

四生、四生とは胎卵湿化といって、ものの生まれ方をいう。印度の昔流の分類である。胎というのは哺乳動物のように母親の胎内で育てられて、形あるものとして生まれてくるものをいう。卵生というものは卵として生まれ、それを親鳥が温めて孵化し、はじめて形あるものとして出てくるもの。湿生とはしめり気のある所に生まれてくるもの。例えばカビとか植物などであろう。化生とは突然出てくるもの。昔は生まれ方をこのように分けた。そして生まれ方によってまた生きている状態もきまるわけである。胎生、卵生は動物、湿生は植物、化生は変化(へんげ)。

六道四生合わせると、今は人間に限るが、どのような苦しみの状態、どのような堕落した状態にあっても、私がぜひともこれを神通方便をもって先ず有縁を度し、色々な人々に働きかけずにはおかないというのである。

「六道四生のあいだいずれの業苦に沈めりとも」の主語は何かというと「人々が」である。「ただ自力を棄てていそぎ覚を開きなば」というのは第四章では「念仏していそぎ仏に成りて」とある。これらは同じことを言ってある。「自力を棄てて覚を開く」が「念仏して仏になる」となる。「自力を棄てて」「念仏して」を現在といい、「覚を開く」「仏になる」を当生という。当生とはこの人生を終るところから開ける天地をいう。この世はたとえていえば原油みたいなものである。原油は鼻もちならぬ臭気と、ベトベトした粘稠さをもち、まことに黒く醜いのである。この世における求道は何か、それはその原油に火がつくことである。これを殻を破るといい自力を棄てるという。念仏するという。これがこの世の我々の可能な天地である。即ち殻を破って発芽するということである。これを「念仏して」という。そしてとうとうその油が燃え尽きて、完全燃焼して気体になってしまったところ、殻を出て一本の木になったところを「仏になる」「覚りを開く」という。これはこの世のことではありません。この世では覚りを開くというわけにはいかぬ。当生とは、まさに来たるべき生ということで必然的につながりをもっている。即ち発芽したものが必ず伸びていくという過程の出発点を現生という。そして必ず到達すべき点を当生という。

「いそぎ」というのは直ちにということである。長い時間を要するのではない。この世の終るところ、直ちに大いなる世界に転回するということをいっている。

本当の覚りの世界の全現、完璧な姿を当生というなら、それの分現を現生といい念仏という。現世利益という。この世において分現の働きをするのである。仏としての全体の徳の一部分が現われてくる。


「自力を棄てていそぎ覚を開きなば、六道四生のあいだいづれの業苦に沈めりとも」とあるこの初めの方の主語は「私が」である。私が自力を棄てて「いそぎ覚を開きなば」である。あとの方は「人々が」である。

人々が六道四生のあいだどのような所に居っても、先ずその中から有縁を度すべきであるという。人々とは何か。前には一切の有情とある。しかしこの章には父母とあるから、父母が六道四生のあいだに沈んでいるのではないか。こういう疑問もある。これを考えてみょう。

(1)、父母

父母には亡くなった父母があり生きている父母がある。亡くなった父母は、生きている間は色々と私に順縁、逆縁のどのような親であろうとも、六道四生、地獄餓鬼畜生の中に堕ち込んでいるということはない。どのような父母であろうとも、私が自力を棄て大きな世界に立って、ブーバーのいう「Ich-Du」という世界に出たならば、亡くなった父母は必ず私にとって感謝と懺悔のよき人であり、その徳をたたえずにはおれない報恩謝徳の人である。

生きている父母は現実の父母である。私に深い関係をもって私を励ましてくれる父母もあろう。私と同じ道を進んでくれる人もあろう。または愚痴ばかり言っている親もあろう。自分が深い世界に立つならば父母の迷いを見出さざるを得ない。その迷っている父母はどうなるのか。六道四生のあいだ、生きている間中そこをへめぐっているのである。色々の状態にある。苦しみの中に堕ちこんでいることもあり、不平不満の状態もあり、欲ばかりにふり廻されて恥ずかしいのもわからないという状態もあろう。阿修羅のように喧嘩腰の人もあろう。これらを迷っている状態という。現実の父母はたしかにこのような面を持つのである。

それに対してどうするのか。この文章の通りにいうと、先ず私が自力を棄てて覚りを開き、念仏して仏になって、それから六道四生の間のどのような所におっても、先ず有縁の父母から働きかけていこう、ということになっている。

これは具体的にはどういうことか。この世においては現実に私はただ前進あるのみ(往相という)。そして遂に仏となってこの世に還って(還相という)真の働きかけをする。往相の果てに還相があるという。仏になってはじめて本当に人を助けるということができる。しかし往相即ち自己の前進の中に、利他(他への働きかけ)が分現する。彼が前進していくままが他への働きかけを分現する。これはどういうことであるか。

我々には連帯がある。自分だけよければいいということは許されない。自分がよければ他人も少しでもよくなって欲しい、自分が幸せになればみんなも一緒に幸せになって貰いたいと思う。しかしこの世においてはなかなかそんなことはできない。私が本当に泳ぎが出来なければ人を助けるわけにはいかぬ。自分の泳ぎが不充分ならばそこに人が溺れていても、うかつに飛び込むと一緒に溺れてしまうに違いない。ちょうどそのように、自分が本当に力がなければ人を助けることはできない。泳ぎが出来なければ助けられない。人を助けるにはかなりの力を要するであろう。そうすると本当に力がつくまでは人を助けることは出来ないということになる。そういう矛盾がある。自己が確立するためには、人にはかまわないで自分のことを一生懸命やらねばならない。しかしそれなら人を救うことは出来ず、多くの人が死んでいくではないか。このような矛盾がある。我々はこれでいいのであろうかと責任を感ずる。

自分が進んでいくそのままが人を助ける働きとなるのである。即ち往相の中に還相がはらまれている。それを廻向という。親鸞聖人は「小慈小悲もなき身にて有情利益はおもうまじ」と言われた。私のような力のない者は、人を助けるというようなことは思うまいと言われた。それが聖人のお心であって、「悲嘆述懐和讃」に出ている。彼は自分の道をひたすら歩んだ。彼の主観においては「小慈小悲もなき身」であるが、彼自身がやったことは客観的には決してそうではなかった。彼は年老いても色々な歌(和讃)を書き、書物を残した。これが後世多くの人々を救い慰めて、真の道に立たせる働きを発揮した。彼は「私自身には人を救う力はない」と言って、ただ前進していった。しかし実際にはその徳が他の人の上に働いて、具体的に多くの人に働きかけをしてきたという事実がある。我々も同様である。我々がただ前進する中に、生きている人々への働きかけが分現してくるのである。私が前進するについては私一人が前進すればよいとは決して思わない。

どうか有縁の人達、迷っている父も母も、それをぜひとも助けねばならないという思いが私の中に燃えていて、しかも自分は「念仏していそぎ仏になりて有縁を度すべきなり」という深い前進の姿がある。そのままが生きている現実の父母への働きかけとなるのである。

目連尊者の母の話がある。『盂蘭盆経』に述べられている。目連尊者が天眼通を得て、自分の母はどこにいるかとさがしてみると、迷いの世界に沈んで餓鬼道に堕ち込んでいる母を見出した。目連は驚いて母親を救いに行った。が、それは不成功に終った。釈尊は母親を救う道を教えられた。供養諸仏ということを教えられた。目連尊者が母を救う道、それは目連尊者あなた自身が多くの求道の人達に供養をし、その教を聞きぬけよと言われた。これは自己の前進である、そこに母が助かっていく道があるのだと教えられた。

目連の聞法によってなぜ母は助かるのか。それは聞法する目連の思いの中に、自分の母を背負って聞法しているからであろう。目連において母は、無視することも忘れることもできない存在である。それを放っておいて自分だけ聞くのではない。聞かない母、仏法にうとい母、遥かなる流転の世界、餓鬼道の中にいる母を背負うて、この母を助けずにはおかぬという思いを内に持って聞いているのであろう。そこに母が助かっていくのである。思いの中に母を背負って聞く。そこに深い願い、つながり、「汝」と呼びかけざるを得ないものを持って、しかも自分だけが聞いていく。そこに、遂におのずから母が助かっていく道がある。いそぎ仏になって救うのであるが、実は今背負って聞くのである。

私共はだんだん聞法を重ねてくると、あの人にも仏法を届けたい、この人にも聞かせたいという気持ちを持つ。仏法を聞かせたいという人ができる。けれどもその人達に一人一人当って勧めてみても力及ばず、なかなか思ったようにはいかぬ。それならそんなことはもうやめて私一人で聞くという人もあろう。が、これをどうしても助けずにはおかぬ、聞かぬ人の分を背負うて聞いていって、「仏となったら必ず助ける」という強い強い気迫がこの「ただ自力を棄てていそぎ覚を開きなば、六道四生のあいだいずれの業苦に沈めりとも神通方便を以てまず有縁を度すべきなり」という『歎異抄』の言葉になると思う。これが大乗仏教であろう。強い迫力を持っている。これはこの世では私一人ただ念仏して仏になって、それから助けに行くというような、悠長きわまることではない。そうではない。非常に強いものである。今助けたいと念じて、背負って聞いているのである。母が念仏になるのである。

前にも話したと思うが、ある婦人が小さい時に両親に死に別れておじいさんに育てられた。そのおじいさんは老年で「わしはお前を救ってやることはできん。だが仏法を聞いてくれよ」と言っていた。そして「今は救ってやることはできんが、わしが死んだら必ずお前を救ってやるぞ、心配するな」と、いつも言っていたと話してくれた。私はその時に、この五章の心というものがよくわかった。そうか、ここを言っていなさるのだ。必ず救ってやる。これは何か空想的なことのように思うかも知れぬが、そうではない。先ず私が念仏していそぎ仏となる。今は助ける力はないが、必ず仏となってどんなことがあっても必ず助けるという老人の言葉、それは夢物語ではない。今である。今幼い子を背にして聞いていったのである。それ故その子が大人になって聞法する身となって救われたのである。

(2)有縁の人々

父母は有縁の第一である。また夫婦、子供も同じであろう。「わが妻子ほどふびんなることなし」と蓮如上人は言われた。妻や子供ほど深い関係にあって可愛いいものはない。「それを勧化せぬは浅間しき事なり」。これに一生懸命仏法を勧めないということがあってよかろうか。この事を「先ず有縁を度すべきなり」という。けれども「宿善なくば力なし」。もしまだ本当に因縁が熟さないというのであればいたし方がない。「わが身を一つ勧化せぬ者があるべきか」。まことに厳しいお言葉である。「わが身を一つ勧化せぬ者があるべきか」。妻や子は仕方がない。仏法を聞かぬのだからもう放っておいてあなたが一生懸命聞きなさいというようにもとれるが、決してそんなものではない。自分だけが聞くのは小乗仏教。大乗仏教は「普く諸々の衆生と共に」である。しかし普く諸々の衆生は聞かんではないか。聞かなくてかまわぬ。その聞かぬ人をあなたが背にして進んでいく。たとい全世界の人が聞法せず流転をしていようとも、必ず私はそれに働きかけずにはおかぬという気持ちが、背負うて聞くということである。そういう強い迫力が『御一代記聞書』のこの中にもこもっていると私は思う。

 

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