十二,先ず有縁を度す

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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有縁というのは因縁のあつい人、深い関係で結ばれている人をいう。本文にあるのは父母である。更に兄弟、夫婦、そういうのが一番近い関係である。何よりも先ず、何をおいても先ず自分の因縁の深い周囲の人々から働きかけていくべきである。遠い他人でなしに、近い所から働きかけていかねばならぬ。

(1)『盂蘭盆経』の目連の母

先にも述べた『盂蘭盆経』に出てくる目連の母の話がある。私はこのお経を読んで、目連の眼に映ったものが先ず母であったというところが非常に印象に残った。

人は自分がこの世に生まれた第一の誕生を経て第二の誕生をするとき、先ず思い出すものがある。それは有縁の人、周辺の人である。それが人間の心である。ドライな立場から考えれば親も他人も同じ人間である。この第五章にも「一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり」とあって、自分の父だけが父ではなく、自分の母だけが母ではないんだということがある。が、しかし父母は本当に因縁のあつい人である。自分が恩を蒙った人、色々とお世話になった人、その人があった為に自分の今日があった、そのような人である。その人のことを先ず思う。これが人間のまことである。自然である。このことに親鸞聖人も触れていられるのである。先ず助くべきもの、取り組むべきものは何か。『盂蘭盆経』では母である。

(2)『観仏三昧経」

これは『教行信証』行巻に引用されている。このお経は、覚りを開いた釈尊の所に父と母が尋ねてくるというお話である。釈尊は王子であったけれども二十九才の時、城を捨てて求道の旅に出た。そして三十五才で覚りを開いた。その釈尊の所に年老いた王夫妻が尋ねてくる。釈尊の本当の母は亡くなり、その母の妹即ち叔母に当る人が王妃となった。その父母が尋ねてくる。この父母に釈尊が何を教えられたかというのがこのお経である。親鸞聖人は安楽集からこれを引いて行巻にのせられている。

念仏するということを釈尊は教えられる。これに対し父王は尋ねる。「仏法は広大なもので、一切空という第一義を教えると聞いているのに、なぜ私には念仏を教えるのか」と問う。釈尊は答える。「そのような、一切空というようなことは、普通の人ではとてもわからないことである。皆に出来ることは念仏である」。このように言われる。そこにわが父母に可能な道を諄々として話される釈尊が描かれている。

(3)蓮如上人

有名な『御一代記聞書』の文章がある。先にも述べた「わが妻子ほど不便なるものはなし、これを勧化せぬは浅ましきことなり、宿善なくば力なし、わが身を一つ勧化せぬ者があるべきか」という言葉である。最後はわが身を一つ勧化せぬ者があるべきか。

最後は私一人である。宿善なくばとは、時期純熟しないならばということ。宿善なくば力及ばぬことである。教えても教えても、勧めても勧めても、私の願うようにはならぬということがある。これを時期熱せずという。時間がかかるということである、が、そのように思う通りにならなくとも、わが身を一つ勧化せぬ者があるものか。蓮如上人の厳しいこの最後の言葉が大切である。それではそういう時には、妻や子は放っておいて私だけ一人やると言っていいのかというとそうではない。それは違う。既に述べたようにそれを背負って立つのである。その人の分まで背負って私が聞いていくのである。背負う、これを荷負という。荷負群生、為之重担、群生を荷負してこれを重担と為す、こういう心がでている。

「先ず有縁を度すべきなり」という所に、私がお世話になった人、私が深い因縁のある人から先に働きかけていくべきであるといわれる。有縁というのを蓮如上人のお言葉では「わが妻子」とあるが、親、子、妻ということになろう。この私が親、または子という立場から助けてやらねばならぬというのでない。

「先ず有縁を度す」とは、友よ!という呼びかけを持つのである。子に対して友よ!であり、妻に対して友よ!である。親にも友よと呼びかけるものを持つ。それには私が大きな世界から友よと呼びかけられているということが根本になければならない。

友よという呼びかけを南無という。私に南無とよびかけて下さる。南無は「来たれ」である。「汝!」である。「汝、来たれ」である。それが私にわかる時に南無と答えざるを得ないものがある、私を呼んで下さるその呼びかけが私に届いて来たならば、私は南無と答えていくほかない。それを南無阿弥陀仏、念仏という。それが同時に人生に対して、どうか道に立ってくれよという深い願いとなる。「先ず有縁を度すべきなり」という願いとなるのである。話が少しずれますが、宗教家というか、仏教を説く人、(キリスト教も同じですが)説く人というのは、教を説くところにだけ大事なことがあるのではない。その人が実際に自分の家庭で、家族に対してどういう生き方をしているかということが大事だと思う。従ってその人の話の中に少しも自分の家族のことや、それに類することが出てこない。あるいは具体的な問題が出てこないということになると、その人は学問的には傑れた人であっても、本当の行者という所からは遠いのではなかろうかと思う。観念的なところがあるのではなかろうかと私は思う。自分の身近な有縁の者が具体的に出てくると、なまなましい具体性がある。実際には自分の子供といえども思う通りにいかない。しかし、皆自分の思う通りにいくようでもいけない。各々の個性を発揮していなければいけない一面があるのであるが、問題の中心は南無と呼びかけられた自分が南無と答えて、親を妻を子を背負って立つということがなければならない。そこに具体的な求道がある。

私は九州で会をやっています。その会で私が厳しく言うことは先ず家庭です。奥さんと一緒に聞法できないようでは一人前ではない。しかしこれはなかなか難しい。が、本当に夫婦が一緒に聞法出来るようにならなければいけないということを厳しく言う。そこに具体的聞法があるからである。自分だけの小さな信仰に終らないで家庭を背負って立つには、夫婦がしっかりしなければならない。夫が妻を背負って立ち、妻が夫を背負って立つようにならなければ道とは言えない。子供はその次です。子供は妻よりもっと大きな問題である。子はもっと深刻な問題である。要するに有縁を先ず度さなければいけない。これは実にいただくべきことである。これで第五章を終ります。

 

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