二、孝

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

第五章は孝について述べてある。親子という問題を孝ということで言われるのであるが、広く言えば夫婦、家族というような家庭全体の問題を、孝を以て代表していると考えてよい。

先ず孝とは何かということについて述べよう。

(1)中国の『孝経』

『孝経』は仏教のお経ではない。中国の古典である。この書に有名な言葉がある。

「身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」

体の全体を父母に受く。それを傷つけたり怪我をしたりしないのが孝の始めである。『孝経』の始めにこういうのが出ている。後の方には、

「それ孝は親に事えることにはじまり身を立つるに終る」

とある。はじめは体を傷つけないで健康を保つということが先ず出発点である。が、遂に自分自身が身を立てる、即ち自暴自棄して泥の中に身を棄てるようなことをせず、また何かによりすがり引きずり廻されて生きるのでなく、本当に独立できる人間になる。そこに孝行があるのだという。これが『孝経』の中心であろうと思う。

身を立てるということについて、孔子は『論語』に、「われ十有五にして学に志し」(十五志学)人から言われてやるのでなく、本当に自分自身の自己形成をしていくための勉強をしようと決心した。「三十にして立つ」(三十而立)「四十にして惑わず」(四十不惑)ここが大事。「五十にして命を知る」(五十知命)「六十にして耳順い」(六十耳順)「七十にして心の欲するところに順って規を越えず」と言った。これは孔子であるが、私共が進んでいく上の大事な年令的なものを表わしている。孔子は別のところで「四十にして聞こえるところなくば恐れるに足らず」という。四十になって、あの人はしっかりやっていると人がほめないようなら問題にならぬという。これは四十才を重要視しているということである。リンカーンも「四十になったら自分の顔に責任を持って」と言った。その四十への一つの大きな道標が三十である。立つ、身を立てる、勉強をするのである。これは学に志すというところがなければ出てこない。そしてはじめて自分の依るべき大地が明らかになり、それから人生の最も苦しい三十代の十カ年間の努力、修業、現実にぶつかって、やがてこの私の立っている大地が揺ぎのないものであったと、迷いのない世界に出ていく。それが四十才。そしてそこから自己の使命を知るというものが生まれてくる。自己の生命を捧げる使命を発見する時期が来るということであろう。これらを「身を立てる」という。そこに真の孝がある。

仏教ではどのように言っているか。『父母恩重経』というお経があって、孝ということを説いてある。このお経は偽経と申して、後(のち)に中国で作られたお経ではないかといわれている短いお経である。しかしこれは省略しておく。

ページ頭へ

(2)観経

仏教は孝ということを非常に大事にしている。『観無量寿経』は、仏教の八万四千といわれるお経の全体の総まとめの面を持つお経であるが、その中にこのように言ってある。「彼の国に生ぜんと欲する者は、三つのことを実行しなければいけない」。本当の国に誕生し本当の世界に進んで行こうと思う者は、三つのことを実行しなければならないと述べてある。その一番始めに父母に孝養するということを述べている。

三つの事とは第一に世間善、第二には小乗善、第三には大乗善を実行せよという。この三つの善が必要である。その世間善の一番はじめに孝養父母というのを出している。親に孝行であれという。次に奉事師長、次に慈悲ということを言っている。もう一つ十善即ち道徳的善を実行せよという。小乗善というのは戒律を保つと言うことを言う。大乗善とは菩提心をおこし、また他へ働きかけるということを言っている。その孝行とは現代的に言ってどういうことであろうか。孝行という問題は、一つは親への深い愛情ということであろう。愛とはE・フロムが言うように、尊敬と配慮と責任と理解というものであろう。尊敬とは、子として謙虚な立場でもって親を尊び敬うというものが根本にあり、また心を配ることである。花を愛するということは単に花を愛するだけではなく、水が足りなければ水をやり、虫がつけば取ってやり、風が吸いてくれば支えをしてやるというような配慮をする。責任とは応答、その問いかけ語りかけに答えることを言っている。それと深い理解。これがフロムの愛の定義であるが、それが孝というものの一つの柱であろう。

私自身にはもう親はいない。家内の両親も亡くなった。いつも思い出すのに、学生時代に化学の先生が実験の合間に話されたことである。「親孝行というのは親と話をすることですよ」と言われた。その時はそんなものかなあと思った。親は何でもいいから話をすると喜ぶのだと聞いたが、孝とはそういうものかも知れません。

愛情のほかにもう一つある。それは仏教の言葉で言うと、孝とは供養というものではないだろうか。供養とはさしあげること。供養には財供養と法供養がある。財供養とは金や物(決して金めのものでなくてもよい)をさし上げること。私にも四人子供がいる。小さい時分その一人が修学旅行に行った。帰ってきて「これおみやげ」といって差し出す。「お前おみやげを買うてきてくれたか」という。嬉しいものである。「なあに、もとを言えば俺がやった小遣いで買うてきたんで、少しも嬉しい筈はない」とは思わないですね。物の中に心がこもっているのでこの心がうれしい。心が形をとって出てきたものを財供養という。「物には心を添えよ、心には物を添えよ」。物質が心の表現になり、また物質には心が伴わなければ意味がないということを言っている。これが財供養である。

法供養とは、法を供養するのではなく、教をわが身につけていく、頂いていくことである。親の願いは何か、色々あろうがその奥に、しっかりせよ、正しい道を歩んで独立者となれと親は願っている。それを自分がしっかりと理解し、その願いに報いていこうとする。それを法供養というのである。こういうことが孝というものであろうと思う。先の『孝経』というのもこのことに尽きるであろう。

しかるにわれらの現実はどうか。

ページ頭へ

(3)親の現実

先ず親の現実はどうか。親は子に対して深い愛情を持っているが、それは私的愛情にとどまり、わが子かわいやと、わが子という血縁の愛情につながって、猫が子をなめるようなそんなところにあるのではなかろうか。また過保護になっているのではなかろうか。ひとことで言うと子供は公的なもの、仏の子たるべき存在であることを忘れている。それを顛倒してあやまった考え方にとらわれていて、自分の子供を愛するという形において自己を愛するというように、子を自己愛の道具に使っているのではないか。このような間違った考え方にあるのではないか。親の現実として考えなければならない。

これをよく表わしているのが『盂蘭盆経』というお経である。この中に出てくる人は目連尊者である。このお経は短いお経である。目連尊者が釈尊のもとで修業して、そこで天眼智通を得て遠くまで見渡した。彼は亡くなった母を探した。するとなんと彼女は餓鬼道の中で逆さになっていた。これを倒懸という。その餓鬼道の中であれも欲しいこれも欲しいと言っている。そして人の持っているものを羨ましがり欲しがっている。母は餓鬼道に堕ちていた。それを見て目連尊者は大変驚いて早速かけつけて、食物や水を持って行って母に供養する。母はこれを喜んで食べようとするけれども、それを口に持っていくと水も食べ物も火になって燃えあがる。そこで彼は泣き泣き釈尊の所に帰って、この母を助けるにはどうしたらよいでしょうかと訴える。このようなお経である。そこに母というものを非常によく表わしている。母はなぜ足りない足りない、と人のものを欲しがるのか。それは母が愚かであるというよりも子供故である。子供の為に欲しいのである。子供のことを思うからあれもしてやらねばと思い、満足ということがなくなって、不平不満と嫉妬という世界に堕ち込んでいく。それを子供である目連が、天眼智通を得ても助けることが出来ない。どのように言ってもどう尽しても、子供では親の心を助けることは出来ない。どんな人も自分で自分の母を助けることはできなかった。なぜかというと、母は子供を縁として迷っているからである。それではどうしたらよいか、これを釈尊にたずねて行くのが『盂蘭盆経』の中心点である。これを読むと、親というのは迷うのだなということがわかる。親はいつも餓鬼道に堕ちる。それはわが子を思うからである。

目連だけでなく私共も皆そうである。年輩の女性のうち、すぐ見分けられるのは独身の女性です。次に子供のない人です。子供のある女性とない女性とは違う。どこが違うかというと、子供がいると苦労する。小さい子がいると夜中でもギヤーギャー泣く。すると男はグーグー寝ているが母親はすぐ起きて世話をする。それを喜んでする。何とも思わない。わが身を犠性にして苦労をする。子供で苦労した女性には何となく温かさというか柔らかみというものがある。子供がない女性にはどこか冷たさがある。それがよくわかる。

釈尊は目連尊者に教えられた。「夏の安居が終った時に、求道者たちの安居あけの自恣の日がある。その時皆にご馳走をして供養をしなさい」と教えられた。その日が盂蘭盆会の始まりである。目連は母を助けようというのをやめて、自分自身が求道をしているたくさんの人達に色々の物を供養して、その人達の教を聞いて謙虚にその人達に仕えていった。そのことが母を助ける道になった。これが『盂蘭盆経』の大意である。

親の現実は私の息子、私の娘というような私的感情に陥り、子の独立というのでなく動物的な愛情に終る。そこに、親が子故に迷っている現実がある。いや、子が縁となって自分の迷いが露出しているのである。そこに同時に物質や財産への執着がおこり、また子への過保護になり、餓鬼道に堕ちてゆく。こういう親の現実があるのではなかろうか。

ページ頭へ

(4)子の現実

大無量寿経』の五悪段に、子の現実というものがよく表わされている。それをひとことで言うと反逆ということである。「父母教誨すれば目を瞋らし怒り答ふ、言令和せず、違戻反逆なり」とあって、言うことに悉く逆らって、「たとえば怨家の如し、子無きに如かず」。仇同士が一緒になったようなものである。「子無きに如かず」とは実に胸をさすような言葉である。親が子に言っているのではない。仏言として言ってある。

親鸞聖人は『唯信鈔文意』に「一切有情まことの心なくして、師長を軽慢し父母に孝せず」と言い「心口各異、言念無実」と言われる。心と口が違っていて、言うこと思うことに真実がない。子の現実は親に対して不孝を尽すようになっていることを痛み悲しんでいる。私自身も親に対して「子なきに如かず」というようなことではなかったかと、この言葉にあうたびに痛烈に胸に響くのでございます。

これらをまとめてみると、実際の親子というものは親は子を愛し子は親に仕えるということにならない。現実はそうではない。

しかしながら親子という問題は人間にとって大切な問題の一つである。それが人間と動物との違いである。親があり子があるということは動物も同じだが、親子があるのは人間だけである。動物は始め生まれた時は親子であるが、やがて親子ではなくなる。雌と雄がいるだけであり親子というのは成立しない。そういうものになっている。人間は違う。人間は親子が本当に成り立つところに人間の成就、真の人間形成がある。これが孝ということの意味である。換言すれば親が子を、子が親を本当に考えるという親子の結びつきができない限り人間形成ということはあり得ない。どうしたならば親子の間に真の人間関係を成就し得るか、これが第五章の問題である。

これは単に親子だけの問題ではなく、夫婦兄弟においても同様の問題である。人間成就ができるということは、同時に家庭が成就するということでなければならない。家庭の成就がなければ本当の人間の成立はあり得ない。従って念仏、仏教、信心といっても、本当の家庭が生まれなければ意味がない。家庭が成就できない時には、その人の信仰にどこか欠点があるといわねばならない。教に欠点があるか、あるいはその人自身の信仰に欠点がある。家庭は、一つは親子であり、一つは夫婦であり、一つは兄弟である。この間に本当の人間関係ができねばならない。親子においては孝であり、夫婦においては敬と愛であり、兄弟においては深い連帯。これらをひとことで言えば、真のつながりを持つこと、それを社会においては慈悲といい、家庭においては孝としていうのが第四章第五章である。

 

ページ頭へ | 三、一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり(その1)」に進む | 目次に戻る