六、いづれもいづれもこの順次生に仏となりて助け候べきなり

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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いづれもいづれも助け候うべきなり、この順次生に助け候うべきなり、仏となりて助け候うべきなり。で、いづれもいづれも、助け候うべきなり、このことについて先に申しましたが、「私の」という立場を超えたというか超えさせられたというか、そこに友よと呼ぶグルントを与えられた。いわば私的立場を離れて殻を破った世界に出た者は、私の子供も友であり、あの人の子供も友であり、私の父も祖父も、いづれもいづれも友であり兄弟であり、あるいは仏法の言葉でいえば同行であり師主善知識である。いづれもいづれも、助け候うべきなり、そこに小さなグループ意識、小さな関係でなく、公的というか広いものが出ている。重ねていうように私的な立場を超えた所にあらわれてくる願い、そこにいづれもいづれもそれに対する痛み、悲しみ、そして願い、そういうふうなものを持たざるを得ない。そういうものを「いずれもいずれも助け候うべきなり」という。

我々は「私の」という感じが非常に強いわけで、学校に奉職していますと私の教え子、私のクラス、私の大学、私の何々と、そういうものは非常に関心があるけれども、それ以外のものには関心はないということがある。そうではなしにいづれもいづれもである。いずれもいずれもそれに対してDuと呼びかけるものを持つ。そして間違っている相手には痛みと悲しみと深い願いを持たざるを得ない。そういうふうなものをいづれもいづれもと表わしてある。

順次生というのはこの次の世と申します。この次の世とは、今は此の世、この世の次の世、これは説明を要する。我々は科学的に考えると、この次の世なんてものがあるか、人間は死んでそれで終りではないか。死んでしまえばそれまでよという歌もある。これは変な歌ですね。やけのやんぱちみたいな歌である。が、迷いの世界というか普通の世界ではそれしか考えられない。仏道に立つ、あるいは本当に殻が破れて広い世界に出ると、ものが変ってくる。一つは対象というものが友よとなる。も一つ自然界に対する考え方が変ってくる。「私それ」の時にも自然界というものを考える。即ち山も川もあるいは鶏も其の他の動物もすべて物に見える。山を見たならばあの山にある木は何という木か、あれを売ったらいくらになるか、あの山を開発したら儲るだろう、そういうことになりやすい。鶏を見たらあれをしめて食ったらうまかろうということになる。Es化している。

こういうふうなのが変ってくる。どう変ってくるかというと、仏法では「山川草木悉皆成仏、一切衆生悉有仏性」。山川草木悉くが仏性ありという。それをDuとよぶ。山、川、それに対する深い連帯感、結びつけそれと一体になっている、そういう世界がある。山を拝むような気持ち、川に対する深い感謝、わが郷土というものが生まれてくる。現代の公害とかあるいは開発とか、そういうふうなものはまことに、Es化された考え方であるが、そういうものを超えてものの見方が変ってくる。それをDuという。

いつも申しますのは山陰の山の中に住んでいるおばあちゃんの言葉です。彼女は鶏を養ってその卵を売って小遣いを得ているわけですが、餌をやる時鶏に言う。「この次は人間に生まれてこいよ、人間に生まれて仏法を聞いてくれよ」という。これは実にDuというものをよくあらわしている。そのようなものが一つ。

同時にも一つ変ってくるものがある。それは時というものである。時とは時間です。この次の世というものが出てくる。普通はいわゆる輪廻思想とか言って、人はこの次の世に生まれ変わってくるのだという。僕等が小さい時聞いたのは、御飯を食べてすぐ横になると親からおこられた。お前は牛になるぞと言っておこられた。お前はこの次に生まれてくる時は牛になって生まれてくるぞと言われた。何のことやらさっぱりわからん。おこられたことはわかるが牛になるなどと思った者はいないと思いますが、次の世というものがある。次の世というのは何か。生まれ変わり死に変わり、どうしても果さなければならぬものがある。時というもの、長い長い時を持つようになる。永遠というものが彼の上に生きてくる。Ich-Esの世界では生きてこない。ここでは永遠というものを物質化し対象化して、永遠というものを考えているだけである。ところが、私を汝と呼ぶものによって私が変えられたなら、私は永遠を持つようになる。そこに順次生というものがある。次の世というものがある。次の世とはどういうことかというと、この世は被教育者、この世は一生を被教育者として教えられる立場に立って生きぬいて、この有漏の穢身というか、煩悩の身の果てるところ、そこに必ず助け候うべきなり、どうしても私が助けていきたいというものを持つ。それをこの順次生と申します。この世は被教育者としてよき人の仰せを被り、大いなる世界からのよびかけ、教というものを聞きぬいて私が汝と呼び、汝と私から離れないその生を終って、そこから本当に働きかけずにはおれぬ次の世というものを持つ。

我々の力というものは実に小さなものである。我々はどうしても理想主義というものを脱し得ない。理想主義というのは、私が物を対象的に考える、かくあるべきだ、かくあってはならないという世界を考え、それに近づこうとする。そこに我々は自分というものを、それが出来るんだ、そうしなければならないんだと考え、その理想主義の立場に立って自分というものを進めようとし、また人もそうであって欲しいと思う。そこで破綻が来る。なぜ破綻するのかというと現実がわからない。現実を見失う。自己の現実は何なのかということを知らせるのは「汝」である。汝と呼ばれることによって私が何であるかを知らされる時に、この世ではわれらはまことに被教育者としてこの世を終らねばならない。それがこの世における私のつとめであるということがわかって、そして、この順次生にということが生まれてくる。

ある所でこういう話を聞いたことがある。ある篤信のおばあさんが言いなさった。私のおじいさんは深く聞法した人であった。私は両親が早く亡くなってそのおじいさんの所で育てられた。おじいさんはいつも小さな子供の私に言われる。「わしは仏になってな、お前を必ず守ってやるぞ」と、その小さな子供の私に言って聞かしなさった。本当に素朴な話ですね。自分が仏になって必ず守ってやるから心配するなと言って、仏法を聞いてくれよと言われた。素朴な話のようですが実にいい所を言ってある。誠にその通りである。我々が永遠の時というものを持つと、この世は衆生、この次の世は「順次生に仏になりて助け候うべきなり」というものが生まれてくる。そこに深い認識というものがある。Ich-Duという認識の具体的なあらわれがある。


これは何遍も申しましたが、往相と還相、一つの電車があってこの電車がパンタグラフを上げて前に進んで行こうとする。が、電流が流れているのに電車が進まない。なぜかというとこの電車自身に問題がある。それはスイッチが入らないということである。スイッチが入らないということである、スイッチが入らんといかん。もしスイッチが入ったら進んでいく。彼は前進し始めた。殻を破って出始めた。彼においては往という、前進ということしかない。するとそこにランプがつくのである、前進する時にヘッドライトがつく。そして前を行く電車を見出す。前を行く電車が私を照らしているということを見出す。その電車自身はただ前を照らして進んでいるのである。その人が私を照らしておった、それを還という。還相という。還相という、往というのは自利、自己の前進です。還というのは他への働きかけ、そういうものを私は深く受けていたんだということがわかる。この人のお蔭で私の前進があったんだということがわかる。往の者は必ず還の者、私への働きかけ手、そのよき人の働きを見出すと同時に、自分のうしろにも他への働きかけというものがおのずから出来るようになっている。「この順次生に仏になりて助け候うべきなり」という願いが生まれる。自分が今人を助けるというのではなしに、自分は前進していくだけだ。しかし人に対する願いというものがおのずから出来るようになっている。そこに人々に対する深い願いと連帯感が生まれるようになっている。これは自分が主観的に意識して思うのではない。無意識界裡にそういうものが生まれるようになっている。このことは度々前の四章の時にも申したことでざいます。「この順次生に助け候うべきなり、仏になりて助け候うべきなり」というのが我々の無意識の願いである、他の人は放っておいてわし一人というのが願生浄土かというとそうではない。願作仏心が度衆生心になっている。自分ではわからない、自分には意識できない、そういうふうなものを含んでいるのである。そこに指導者意識というものがない。主観の天地においては往、それは指導者意識を持たないのである。私は前を行く車の被教育者なのである。この世は被教育者、この次にというそういう思いを「この順次生に」とあらわしている。ここに、時間を超えて永遠の時に立たされた世界というものが出されている。


最後に少し付け足しになりますが、ご承知のように西ドイツでもテロとかハイジャック、そういう事件が起って、赤軍派といわれる人達が色々世の中を騒がすような問題を起した。そういうものについて我々は深い関心を持たざるを得ない。西ドイツのこれらのテロリスト達の生い立ちと、日本の過激派の若者のそれとには共通する点がある。一つは父親が厳しい。父親が厳格で母親がやさしい。母親が過保護に育てて父親の権力に対して愚痴をこぼす。そういうところで育った子供、そういう家庭で育った子、それが内向的な性格を持っている場合、その母親を通じて父親というものを非常に憎んでくる。そしてその父親を通して権力側、支配者側に反感を持つ。同時に小さな出来事に対する強い感受性と、情緒不安定な要素が加わってくる。こういうことが言われている。これらは大体共通であるという。そうするといわゆるテロリストといわれる人達はどこから生まれてきたかというと、それは家庭だ、親だ、そういうことになります。現在ノイローゼとかあるいは神経症といわれる人達も大体同じです。親です。従って家庭というもの、即ち親子、親子兄弟という、その家庭が本当に健全であるならば、大きく言えば世界の平和というものにつながる。そこに現在家庭教育というものを考えなくてはならない今日性がある。家庭は何からできるのか、それは夫婦である。妻と夫です。そこが根本です。そこから親子が出来るわけであって、その夫と妻が小さな殻を破って前進する電車となる。みずからヘッドライトをつけて前進しはじめたら家庭は変ってくる。そのことが世界の平和につながるのである。

先に書きましたモロア『結婚』の中の親子という所の最後の結びに次のように言っています。「子供にとって幸せな幼年時代を送るような、そういう家庭を造らねばならぬ。子供にとって幸せな幼年時代とは何か。それは両親が固く結びついていて、優しい愛情と共に公平さと訓練を忘れない、そういうところに楽しい幼年時代というものがある。そしてその家庭がいつも新しい空気によって換気される。たとえば宗教、一家揃って『バイブル』を読む。あるいは芸術、そういうところに家庭の持つマンネンリ化を打破して、新しい空気が常に外界から入ってくる。そこに子供にとっての本当に幸せな幼年時代がある」。こういうことを最後の結びにしています。この書物はそこらあたりが非常にすぐれていると思います。彼は換気と言ったが、今は繰返しますように私的な関係から公的というか、そういうものへの換気であろう。そういうものへの転換であろう。これが根本的な換気であろう

今日は「いづれもいづれも、この順次生に仏になり」というところを中心に頂きました。


第五章に大きな題目を立てるならば「家庭の成就」というべきであろう。その中心を、ここでは親子という問題で出してある。しかしながらそれは真に夫婦であり兄弟である。このような家族関係が本当に成り立つためには、真の自覚と実践が必要なのだ、信心決定して念仏申すというところにそれが成立するのだというのが第五章である。

本文には先ず「親鸞は父母の孝養のためとて一遍にても念仏申したること未だ候わず」と出してある。これが中心である。即ち私は親に孝行を尽すといって一遍でも念仏申したことはないという。家庭の成就という点からいうと逆のような立場から言ってある。この文章で注目すべき所は、「親鸞は」ということです。聖人は大事なことを言われる時には自分の名前を出される。私の場合「細川巌はこういうことは一遍もありません」というのは非常に珍しいことである。それと同じで非常に厳しい表現である。未だかって一遍もないというのも、極めて厳格な表現である。

その理由が二つ出ている。第一は、一切の有情即ちあらゆる人達が世々生々の父母兄弟であって、私の父、私の母、私の家庭というような、「私の」というものではない。いわゆる私的な父母というものについて自分は考えないのだ。仏道に立つ者の姿勢として私的立場の放棄というか、愛縁の超越というか、ついに公的な立場を与えられているということを先ず言われている。第二は、念仏申すという念仏が、わが力で励む善でなしに、与えられたものであって、私がそれをさし向けるというような私的なものでないということを言われている。この柱は念仏というものの考え方。「ただ自力を棄てていそぎ覚をひらく」。ここに第二の柱がある。で、今はその第二の方を推したいと思う。そこにわが父母への働きかけが自然に展開してくるのである。私が努力してさし向けるのではないのである。

 

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