三、一切の有情は世々生々の父母兄弟なり(その1)

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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本文は「親鸞は父母の孝養のためとて一遍にても念仏申したること未だ候わず」という書き出しで、その理由が二つ述べてある。その一つ「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という問題を考える。これが孝、家庭というものを考えていく根本である。それは愛情の超越ということであろう。

愛縁とは因縁による愛情であり、恩愛ともいう。血のつながり、あるいは長く一緒に暮す間に生まれてくる愛情であり、人間的愛情である。愛縁を超越するとは人間的な愛情を超えるということである。

恩愛とは実際には私の子供、私の親、私の何々というような私的愛情をいう。「一切の有情は」とは、有情とはもとの訳は衆生である。新しい訳では有情とある。同じことである。生きとし生けるもの皆をいう。人間だけでなく、みみず、おけら、蛙などすべてである。一切の生きとし生けるものはみな、生まれかわりした私の父母兄弟であるという。これはまた大変なことである。

先ず超越とはどういうことか。これは何か飛び越えるというような気がするがそうではない。超越とは随順ということである。随順とは随っていくこと。今ここに海がある。海を超越することはどういうことかというと、空を飛んでいるのでなしに、海の中を船が進んで行く。それには海を越えている部分がなければならない。海に染まらない部分があると共に、海に随順している部分がある。即ち愛縁の中にあって恩愛はどうすることも出来ない愛情であるが、その中にありながらそれを超えたものがある。わが子といいながらわが子に対し、わが子を超えたものを持っている。中に居て中に染まないということがある。泥田の中にあって泥田に染まない蓮華がある。因縁あって共に暮しているのであり、因縁あって親子となったのであり、そこに他のものと違った深いつながりがある。その中にいるのであるが、それを超えたものがある。それがまず「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と言えるものである。

恩愛に沈んだきりであるのを、殼の中に入っているという。殻は何かというと私心という。仏教では我見といい、我執という。私というものに執われている。その中にあるものが愛縁である。自分の家に一緒にいるものならば猫でもかわいい、しかしよその猫はかわいくないということになる。私心とは常に排他性を持っている。偏愛をもち、依存し道具化している。愛することの中に自分の思う通りにしたいというものを孕んでいる。それが私心である。それが破られたところに超越がある。発芽するとまだ殻はついたままであるが、もはやそれを出て超えているというところを持っている。そこに表われるものは「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」というものである。生まれかわり死にかわりしてきた父や母というのは仏教における因縁観である。非常に優しい表現であると思う。が、説明しようと思ってもなかなか困難である。それで、非常に達意的だけれども、これを現代語で言いかえると、それは友よ!という呼びかけであろう。

あらゆるものに対して友よ!と呼びかける。

友よ!というのをドイツ語でDuという。Duは切っても切れない関係にあるものを呼ぶ親称である。「汝」と訳してある。友よ!兄弟よ!というようなものである。これが殻を破ったところに出てくるよびかけである。これを一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という。ここに深いよびかけ、愛情、連帯が出ている。

今頃はちょうど種を播くのにいい時期で、野菜や花の種を播くのになかなか忙しい。私が家にいると種播きをやる。いない時は家内に頼む。種を播くと、やがて一せいにパーッと芽が出てくる。「よう出たな」とほめてやりたくなる。本当にけなげなことである。天のなせるわざと思う。出てこないと心配になるが、ほじくるわけにはいかぬ。辛抱強く待つしかない。二週間も出ないと、またやりなおすことになる。芽が出てくるのでさえも嬉しい。生きものならなお嬉しい。鶏でも嬉しい。うちには四十日びながいる。

初め送って来た時は大変おびえている。まだ四十日びなだから四月でも箱に入れて座敷の片すみに置いておく。すると一晩中ピヨピヨ、とうるさい。水をやろうと思って近づくとおびえて箱の中を逃げまわる。輸送の途中に恐怖感があったに違いない。このひなが大分大きくなり、もうすぐ卵を生むようになった。私が行くと寄ってくる。そして私の顔をしげしげと見る。大分私の言うことを聞くようになりましたね。私が外に出してやるとよろこぶ。「帰れ」というと、何遍も私の顔を見て頭を傾けながら帰って行く。時々頭の悪いのがいて帰らない。「何をしておるか」と叱ると、驚いて走って帰る。大分慣れてきた。友よ!というわけでもないが、「おいおい、お前達」である。聖人のように父母兄弟とまではいかない。親鸞聖人は私よりずっと深いからこう言われたのであろうが、私にはまあ「友よ」が適当な言葉である。

なぜこうなるのか。鶏を卵を生ます道具と考えて小さな殻に入っていたのではできない。しかし私に働きかけるものがある。「汝!」と私を呼ぶものがある。「十方衆生よ!」と呼ぶものがある。私自身は誠に無慚、親に対しては「怒り腹立、目を瞋らし怒り答う」である。まことに「言令和せず、違戻反逆なり」である。そういう私に「汝来たれ」と呼ぶものがある。それを本願という。私を「汝」と呼ぶものによってとうとう殻が破れて出てくると、この私から「汝!」と呼ばざるを得ないものが出てくる。この「汝」は「友よ、兄弟よ」である。即ち本願が私に届いたならば、私自体を媒体として本願が私の上に生きて、私の中から「友よ!」と呼ぶ心になって下さるのである。これを「父母兄弟よ」といわれるのであろう。

そのよびかけは、親が子に対するとき「友よ!」となる。わが子、私が生んだ子でなしに「友よ!」となる。同行よである。共に道を歩く友よである。また子は親に対して善知識として仰ぎ、私に仏法を与えた先輩と拝む。そういう関係が生まれてくるところに本当の親子の関係が出てくるのではなかろうか。そこに親は親として立ち、子は子として立つということがある。

親が親として立つとは、親は責任者として、独立者としてあるいは家族を背負う者として、仏の前に立つ。子は子として恩を知って親の徳に報いようとするものを持つ。そういうところに本当の家庭の成立があるのであろう。その根本は私に対する呼びかけを聞いて殻を破って出るということである。ここに本当の家庭の成就がある。


この第五章は「親鸞は父母の孝養のためとて一遍にても念仏申したること未だ候わず」という文章のテーマでありこれが中心である。それは厳しい表現である。「親鸞は」という表現は、聖人は大事なところに自分の名前をなのっておられる。第二章では「親鸞におきてはただ念仏して」とあり、第六章になると「親鸞は弟子一人ももたず候」とあり、後序には「親鸞一人が為なりけり」というように、大事なところに名前が出ている。第五章では「一遍にても……未だ候わず」というように、否定を重ねて厳しく言っておられる。

親鸞聖人は幼い時に両親とも亡くされた。そして九才で出家されたのである。従って父母に関する孝養と言えば、亡くなられた父や母の追善供養のことである。しかし追善供養のためには一度の念仏もしたこともないと強く言ってある。念仏を、亡き父母の為の供養として申したことはないと言って、以下の文章にその理由を二つあげてある。一つは父母というものの考え方についてである。一切の有情がみなもて世々生々の父母兄弟であって、わが父わが母だけが父母ではないということである。そして次には念仏について「わが力にて励む善にても候わばこそ」、それを廻向して父母にさしあげるということもあるけれども、そうではないのだと言われる。従って第五章は孝養父母に関して先ず父母ということについて、次に念仏について、この二つが柱になっている。今はその始めの、仏道に立つ者にとって父母とは何かという内容を頂く。

 

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