第五章

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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第四章は慈悲即ち真の愛情について述べられている。慈悲といえば対立社会や色々な人達に対する深い愛情、深い連帯感、痛みというものが述べられて、本当の慈悲とは念仏であるということを言われているのが第四章である。

第五章は孝ということであるが、もう少し広く言えば、親子から始まって夫婦、兄弟、家族というつながりを孝ということで代表させて、真の家庭ということについて教えられてあるといえる。

第六章は師弟という問題である。もう少し広げていうならば友というものであろう。即ち本当の師弟というのは真の友である。これを真の人間のつながりということができる。

私という存在が社会につながる真の連帯が、慈悲という言葉で表わされるものである。その私がまた一方においては家庭につながっている。その家庭における問題が第五章である。また広く友とのつながりが第六章である。

このように私を中心とする人間関係が第四、五、六章にわたって言われている。私が深く社会と連帯を持ち、家庭と深く結びつき、友という深い人間関係を成り立たせることができる道は何か。これが四、五、六章の問題である。一箇の人間の人間形成が単なる一箇の人間形成に終らないで、社会、家庭、友との深いつながりになって展開する。今はこの中で、家庭という問題で孝ということが述べられている。

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一、本願の宗教

本願の宗教によって本当の人間が成り立つ。人間形成が成り立ったその人において、はじめて社会や家庭における本当の結びつきができる。従って本願の成立、即ち一、二、三章がはっきりしなければいけないので、復習かたがたもう一度申しておきます。

本願とは何か、本来の願いという。本来とはもとからあるもの、アプリオリという。私が気がつく、つかないにかかわらず、私にさきがけて私よりも以前から私にかけられている願いがある。これを本願という。

このことを非常にうまく言ったのはキリスト教である。「ヨハネ伝」には「はじめにコトバがあった、コトバは神であった」という。そこに本来というものをよく表わしている。人間のあるところ、はじめからコトバがあったという。しかしこのコトバは、キリスト教では明瞭でない。「ヨハネ伝」のはじめから終りまでひっくり返してみても、このコトバということがはっきり出ていない。

コトバとは「なのり、よびかけ」である。本来の願いである。それがあった。そこに神があったのだと、とても大事なところを言っている。人間のあるところ、そこによびかけがあった。しかしどういうよびかけか、これを遂に「ヨハネ伝」は明らかにし得なかった。キリスト教全体でもこれは明らかになっていないのではないか。それを明らかにしたのは仏教であろう。

そのよびかけを南無阿弥陀仏という。コトバとはよびかけである。仏教語で言えば名号という。親鸞聖人は大行と言われた。その点から言えば、はじめに如来の行があった、働きかけがあった。それを南無阿弥陀仏、「大いなるもの、われに帰れ」「小さな世界を出でて大いなるものに帰れ」というよびかけという。それを明らかにしたのが『大無量寿経』である。そこに本来の願いというものが明らかにされている。

小さなドングリが殻の中に閉じこもっている。その小さな世界から大きな世界に出でよとよぶのを「南無」という。大きな世界を「阿弥陀仏」という。このよびかけがドングリに届いて発芽が起ってくる。よびかけとは具体的には水であり光である。光と水になってよびかけるよびかけを南無といい、発芽して出る大きな世界をアミタユース、アミターバー「阿弥陀仏」という。これを本願の宗教という。

本願とは更に根本の願いともいう。根本とはたくさんある願いの中で一番の根本という。また我々の根源となるというものを言う。根本の願いとは、この小さな殻に閉じこもっているものに対して、発芽せしめるには何が根本となるのかというと、光と水がドングリ自身になる。これが一番根本である。これを光明無量(ひかりきわなきもの)寿命無量(いのちきわなきもの)という。今、いのちを失った物質的な存在、なんらの働きも持たず、ドングリころころの状態、即ち伸びることもできず、止っていることもできない、ただ自分の小さな殻に閉じこもっているこのドングリの、いのちとなろうとする、これを寿命無量の願いという。智慧となろう、これを光明無量の願という。これを合せて南無阿弥陀仏という。パウロは言った。「神、われにおいて生きたもう」と。彼が私に生きて、私の命となる。いのちとなろうというのを南無阿弥陀仏という。それは単なる願いでなしに、働きかけであり、絶対意志であり、救済意志である。それを願いという。

この願をどのようにして私に伝えるのか。諸仏即ちよき師よき友の上に生きることを通して私に伝えよう、これを諸仏称名の願という。たとえば電流が伝わるには電線が要る。電線を通して電流が伝わってくる。よき師よき友を通して私の上にいのちと智慧が与えられる。これを信の成立という。この信を成立せずばおかぬというのを根本の願というのである。これが第十八番目に誓われている願である。本願という時には第十八願をいう。光明無量、寿命無量ならしめんとして私によびかけている。それが私に伝わってくる順序次第が十七願として成り立っている。十七願の究極は私に信を成立せしめようとするところ即ち十八願にあるから、十八願を根本の願という。いのちとなろう、この願いが、よき師よき友を通して成立するところを信というのである。信とは、何かを信ずるというような盲信、狂信ではない。小さいドングリに光と水が届いてドングリ自身となり、殼を破って広い世界に発芽していく、そのめざめを信という。従って自分の力でできるのではなしに、教を聞き、よき師よき友に近づいていくことが本願の宗教の骨格である。

本願の宗教の特色は何か。本願の宗教の特色は積極的な教学である。積極的とは消極的の反対である。消極的とは、これをしてはならない、こうあるべきだというものに縛られ、また我々の中から何かを切って捨てなければならないもの。そうではない。我々自身の心は煩悩といわれ、あるいは愚かさといわれる色々のものをかかえている。三木清の表現で言えば、我々の中で一番大きく我々を妨げているものは、傲慢と怠惰と我執である。これがわれ自らを理解することを妨げている。傲慢とは高上りであり、怠惰とは懈怠、不精進であり、我執とは自己自身にとらわれていることである。

今、積極教学とは、我々が傲慢を捨てなければならない、怠惰、我執を捨てなければならないというのではない。我々の上に一つだけ与えられるものがある。それを持つことによって、傲慢も怠惰も我執も自ら廃たっていく。例えばドングリに一番大きな妨げとなるものは殻であるが殻を破らねばならないのではない。殻はそのままで、光と水を吸収していきさえすればおのずから破られていく。そういう宗教である。それを今は積極という。

筍が地上に芽を出した。それを見ると皮ばかりである。皮ではつまらぬ、竹でなければならないと思うが、皮を問題にする必要はない。はじめはみな皮である。しかし光と水を受け取って進んでさえゆけば皮は自然に落ちていく。光と水を吸収することによって、一番厭なものが落ちていく。このような意味で積極的な宗教である。普通の宗教は、何々してはならない、何々すべきであるというが、そういう点からいうと非常に違った一面を持っている。それを積極的という。仏教語でいえば円融である。

我々のいのちとなろうとするもの、光明無量、寿命無量の働きを南無阿弥陀仏という。このことを聞き開いて本当にわかることを通して、いのちと光が私に成立し、殼が破られていく宗教である。

この宗教ではただ自分がわかった、満足した、よかったというところで終らない。彼は必ず立ちあがって伸びてゆき、大木となってそこに人々の憩いの場となり、あるいは多くのドングリに対して水分をもたらし、安定した場所を与えるものとなる。いわば他への働きかけをする。これが社会に対して慈悲、家庭において孝、人間関係において友情を持つ人間になる根本である。このことをあらわしたのが第四章五章六章である。

しかしながら仏教に対する非難として、仏教は消極的な宗教で、何も社会活動はしてないではないか、自分が喜んでいるだけで人への働きかけはしてないではないかという反論がありましょう。それは長い徳川時代以来の因習の中で、仏教が眠っておったためと言わねばならない。今や親鸞の真の生き方をはっきりしなければならない時代である。親鸞を継ぐ人、蓮如上人は全国を草履がけで廻った。晩年には足の指の間に草履のあとがくっきりと残っていたという程の、積極的な働きの人であった。かってはそういう人があった。ぜひそれを復活させねばならない。そういう積極さがこの第五章に表われている。

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