二、第一章から第六章までのつながり

『歎異抄講読(第四章について)』細川巌師述 より

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『歎異抄』第一章から第六章までつながりを見てみよう。

第一章は、これが『歎異抄』の根本であり、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」とあって、つづめて言えば「弥陀の誓願」ということになる。略して本願です。これが根本です。

第二章は、その本願が具体的に我々に届いてくる、明らかになる、しっかり自分に了解される、その道程が第二章である。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」というが、具体的には「よき人の仰せを被りて」ということが、本願が具体的に私に届く道である。

第三章は、本願がよき人の仰せを被って私に届く時に私の上に生まれる自覚が、「他力をたのみたてまつる悪人」の誕生であることを教えている。

第一章から三章まで、ただでたらめに並べてあるのではなく、だんだんと具体化されている。この第一章、第二章、第三章を了祥という人は名前をつけて安心訓(あんじんくん)と言われた。古い表現ですが、人間の上に本当の自覚が生まれてくる道行というものを明らかにしている。自覚の成立の過程、内容である。

自覚の成立とは何か。ドングリが固い殼をかぶっていて、その中に小さな胚芽がある。このドングリが殻の中に入っている限り、南から風が吹けば北に転がり、東から水が流れてくれば西に押し流されてゆくというように、ドングリころころである。これを流転という。この流転のドングリに本当の自覚が生まれる。これを安心(あんじん)という。安心とは安定した精神である。それには発芽するしかない。発芽するために要るものが本願である。本願即ち大きなものの育み、大自然の育みというものがなければならない。ドングリ自体が自分の力で安定しよう、確立しようとしても出来ないことである。大きな育みを今、本願という。具体的には水である。それはよき師よき友である。本願が具体的に我々の上に成立して発芽が出来るということは、よき師よき友によるのであり、それを「よき人の仰せを被る」という。も一つ、光である。光とは教である。光と水である。光と水を得てはじめて固い殻を破って発芽して大きな世界に出てみて、はじめて自分が固い殻をかぶっていたのだということがわかる。殻の中に閉じこもっている時にはわからない。殻から出てはじめてわかるこの殻をナルシシズム(自己愛着)という。仏教では自力という。これを超えたところに自分の殻を発見する。これを悪人という。悪人の自覚である。深い殻、ナルシシズムの殼の中に閉じこもっている自己が明らかになってくるところに、大きなものに依って発芽するということが成り立つ。そこに本当の安定がある。これを安心訓という。

何事もすべて具体的にわからねばならない。どうしたらそうなれるのかという具体的な道がわからなければならない。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」とあるが、これが根本である。この「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」とは具体的にはどういうことか。それがはっきりしなければならぬ。それは具体的には「よき人の仰せを被りて信ずる」ということである。「信ずる」というのは信じ込むというのではない。信知する、本当にそれがわかることである。従ってそれには時間と努力が必要である。よき人の仰せを聞き開いて本当にわかるようになりそれに従うことができるようになる。それを信順という。そして何事が出てきてもそれを受けとめることができるようになる。これを信受という。これが信心の内容であり、殻を破ることである。

第二章をいただくと、よき人というのははじめ法然上人である。しかし最後では「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず」とあり、更に「仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したまうべからず」と、釈尊、善導、法然というよき人の伝承が述べられている。従って本当に本願を聞きひらいた人の伝承によって、われらの上に具体的に道が成立することが信の成立である。これが第一章と第二章に明らかにされている。

第三章は、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」である。その悪人の自覚の誕生が発芽です。これはすでに繰返して申しました。

次に、第三章の悪人の自覚が生まれるところに成り立つものが第四章である。第四章には慈悲という問題がとり上げられている。慈悲という問題は真の愛情という問題である。第五章には、親に対する孝行という問題が出ている。広く申すならば家庭という問題であろう。家庭の代表的な関係は親子であり夫婦であるが、その本当の家庭関係が成り立つ道それを一般的に孝行であらわしている。広くいえば家庭の問題である。第六章というのは師弟の問題である。師弟というのは人間と人間とのつながり、本当の人間関係、即ち真の友情の成立をいう。本当の人間関係というのは、人間が友情というものによって結ばれることである。「友よ」というよびかけ、友がき、共に手を握り肩を組んで生きてゆく友がきの成立ということである。人間は最後は、たとえ親子であろうと、夫婦であろうと、師弟であろうと、年令の差を超え男女の性を超え、職業の別を超えて、「友」というよびかけをもつようになることが、本当の人間関係の成立である。親子も、夫婦も、「友よ」ということにならねば本当ではない。そこに真の人間関係の成立がある。これを第六章には師弟で表わしている。

この四、五、六章を了祥師は「利他の起行訓」といわれた。第一、二、三章と合わせて安心起行という。安心とは自覚、起行とは実践。自覚は生活になっていく。具体的な人生生活の中に自覚が生きてくる。それを実践あるいは起行という。「他力をたのみたてまつる悪人」という自覚が生まれるところに、本当の社会人、本当の家庭人、本当の師弟関係が生まれるのだ。これを安心起行、自覚実践という。

この第四章は慈悲という問題であるが、突然に出て来たのではなく、つながっているのである。何とつながっているかというと、一章から三章までの信心につながっている。一章から三章までの内容を経て、本願が遂に私の信となる。信が成り立つと、四、五、六章が展開してくる。第四章はそういう位置にある。第一章から第六章まではそういうつながりにある。

この私はただ一人の私として、個人とし生きているのではない。私は社会の中に生きており、家庭の中におり、人間関係をもって生きている。社会においては、人々に対する愛情という問題がなければならない。これが慈悲の問題である。家庭においては親子、夫婦という問題がある。更に友とのつながりという問題がある。それらが成立しないと社会から孤立し、家庭から孤立し、人間関係から孤立して、孤独な小さな殻の中に入って生きるしかない。問題はこの殻がうち砕かれるということである。この殻をうち砕くものは「宗教だ」とフロムは言った。今、われらの世界においては、私にかけられている本願、(これが一番わかりにくい、しかしながらこれが中心である)この本願が本当に私に信知される、本当にわかるということが大事である。

その本願は(第一章)私の上に「よき人の仰せを被りて」(第二章)明らかになってくるそして穀がこわれる。そこに悪人の誕生、深いめざめが成立する。(第三章)それが成り立つ時に、私の上に慈悲が与えられる。(第四章)そこに私の上に家庭が成り立つ。(第五章)今はそれを孝という問題で出してある。また私において真の人間関係が成り立つ。(第六章)これを師弟ということで言ってある。この第一章、二、三章を安心といい、四、五、六章を起行という。こういう組織になっている。この組織を見る時、方法論がわかる。慈悲という問題の解決は第一章から第三章までにある。第一、二、三章、の解決が四、五、六章の解決になることがわかる。根本は第一章にある。しかしながら第一章の成立は具体的には第二章にある。そして第二章が、も一つ具体的にわからねばいけない。それが第三章の自己自身への自覚である。

『歎異抄』の第六章までを通観すれば、このように安心、起行というようになっている。これは了祥という人の『歎異抄聞記』という書物の中に出ています。

先に出ました慈悲というものの持つ矛盾点は、殼の中で考えるとどうしようもない。智慧、平等、慈悲喜捨、あるいは無償、連帯を持った真の愛情は、穀の中に入っていては成り立たない。慈悲はこの殼がこわされるとき、そこに届いてくれるもの、与えられるものである。本願の徳である。その与えられたものからほとばしり出るところに起行がある。私になかったものがあらわれてくる。そこに慈悲というものの成就、成立ということがある。

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