三、聖道

『歎異抄講読(第四章について)』細川巌師述 より

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聖道の慈悲という。聖道とは何か。努力して私が仏となる道、仏陀への道を聖道という。仏教は呉音で発音するのでショウドウと読む。理想主義的なゆき方をいう。理想主義的なゆき方とは、人間にとって第一番目の、出発点の考え方である。

聖道とはここにいる私、小さな殼の中に閉じこもっているこの私が、教を聞き色々なものを吸収して、自らこの殻を破っていこうとするゆき方で、仏陀への道ということである。目覚めたる者、自覚者、あるいはナルシシズムの殼を打ち破って広い天地に出た者、それを覚者という。覚者となるために努力していこうというのを理想主義のいき方という。

このいき方の始めを先ず資糧位という。もとでになり、かてになるものを集める。聞いて考え読んで考えることである。色々な書物を読んで考える。人生の時期に適したものを読んでみると非常に役に立つ。

少し話がずれるが、人の伝記を読むべき時期があると思う。立派な人はどのような生き方をしたかを考える。人生に二回伝記を読むべき時期があると、森信三という人が書いている。一つは二十才前後に、一つは四十才頃という。たとえば内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』という本がある。この人がどのようにしてクリスチャンのなっていったか、その精神的な苦闘や色々の苦労がとてもよく表わされている。例えばそのようなものを人生の出発点において読んでおく。これは実に大切である。

も一つ読む時期があるという。それは人生を下る時である。自分はあと何年生きるだろうかと考えると、あと二十年か三十年かという時。残りの人生をどのように送ったらよいか。このように考える時、人は伝記をたずねてみることが大切だとこの人は申しています。僕もかなり伝記を読みました。巖松寮の図書室に並べていますが、学生はなかなか読まない。興味がないとみえる。

色々なもとでやかてを集め、これと思うものは実行する。資糧位(聞思)加行位(修)という。これが第一の段階、第二の段階で、理想主義のいき方である。しかし聞思修でとまる。やっているけれどいわゆるゆきつもどりつになる。その上は通達位という。覚、めざめである。この通達位に至る手前でとまる。資糧位、加行位を世間道と申します。世間道とは人間のもつ世間心、それを知性といい理性という。この知性に基礎をおいて進展していこうとするものを理想主義という。理想主義とは、仏道はエスカレーターみたいなものだと考える。しっかり頑張っていけば一階から二階へ、更に三階へとだんだんエスカレートできるんだと考えている。ところが実際やってみると出来ない。壁にぶつかるようになっている。そこで理想主義が崩壊する。もっとも、やりもしないうちから理想主義は崩壊するんだというのも大人げない話である。先ずやってみなければいけない。そのいき方を聖道という。聖道門は、自分が聞いて考えて実行し、こうしてやっていくならば、自分が求めるような本当の世界をもつようになるだろう。「頑張らなくっちゃ」という、その出発をいう。

次の通達位、修習位から本当の生活が始まる。そして究竟位、即ち完全な仏陀の世界をいう。この通達位、修習位、究竟位を仏道という。穀が破れたところが通達位、更に発芽が進んでいくところを修習位、そして遂に一本の木になったところを究竟位という。これを仏陀という。

我々は資糧位から一段一段登っていって仏陀に至るという考え方を持っている。努力していけば一段ずつ進んでいって、遂に高いところに行きつくのだと思う。こういうのを理想主義のいき方という。聖道門という。ものの始めは聖道門からはじまる。即ち理想主義から始まるのである。それは先ずやってみなければいけない。

「聖道の慈悲というはものを憫み悲しみ育むなり」。慈悲というものを非常に適切に言っている。ものとは人物という意味で、人を言っている。また、生きとしいけるもの皆、衆生を言っている場合もある。ものみなにあわれみの心、悲しみの心をもつ。あわれみの心とはこれが慈であり、かなしみの心とは悲である。従って深い連帯感である。はぐくみ育てる、はぐくむとは、親鳥がひなを羽の下で育てていくように育てていくのをはぐくむという。古歌に「旅人の宿りせん野に霜ふらばわが子はぐくめあまのたづむら」というのがある。空飛ぶ鶴達よ、旅で野宿している私の子が霜の置く冷たいめに逢ったならば、どうかその羽の下に入れて温めてくれ、という親の情をうたっている。

聖道の慈悲というのは、いきとし生けるものをあわれみ悲しみはぐくむことである。我々は人に対して慈悲を行ずることができると考えている。が、できないのである。なぜか。一つは絶壁があるからである。一つはそういうこと自体に矛盾があるからである。先にも述べたように、自分が努力し資糧位、加行位とやっていくと同時に、人のために慈悲を尽していくということには矛盾がある。自分のことをやれば人のことはやれない。人のことをやれば自分のことは出来ない。しかしながら我々の理想主義はそれが出来ると考える。それを聖道の慈悲と申します。

これは劇であるが、石川五右衛門という大泥棒が捕えられて、わが子と一緒に京都の河原で死刑になる。それもむごい死刑で、大きな釜に油を入れて下からどんどん火をたき、釜茹での刑に処せられた。初めは自分の子を手で上にあげて、子供だけは助けようと頑張っているが、だんだん熱くなると、とうとう子供を足の下に敷いて自分の足の焦げるのを防ぐ。それが人間の現実である。

世間道と仏道との境には大きな絶壁がある。ここに大きな転回がいるのだ。転回とは私が生まれ変わるということである。生まれ変わるとは、穀の中に閉じこもっていたドングリが遂に発芽をするということである。この転回は一段二段三段と階段をのぼるようなわけにはいかない。ひとたびの回心である。

いわゆる常識的な宗教と真実の宗教との差はどこにあるかというと、断絶の有無にある。俗な宗教はたくさんある。「信じなさい。信じたら助かりますよ」という宗教はたくさんある、がこれは嘘である。行ずればよいという宗教も同じである。

キリスト教は断絶を説く。キリスト教は人間と神との間の断絶を説く。さすがにキリスト教である。無責任なことを言ってはいない。「頑張ったら究竟位に達しますよ」などと、自分でやってみもしないことを言うのは無責任である。自分がやってみてできることを人にも教えねばいかん。また自分だけではいけない。長い歴史の中で、自分と同じようにやり遂げてきた人があるということの証明がされなければいけない。客観的実証がなければ普遍性をもたぬ。要するに断絶のわからないものを理想主義というのである。しかしながらこれが道への第一の出発点である。

さて、世間道から仏道へ、どうしたら人が生まれ変わるのか。それをブーバーは次のように言っている。「私」に二つある。「私−それ」の私と「私−汝」の私との二つがある。「私−それ」の私は世間道の私。「私−それ」はドイツ語ではIch-Du。英語ではI-It。

それであり相手を道具化するのである。道具として考えるような私である。これを世間道の私、ドングリの殻の中に入っている私という。例えば仏教をなぜ聞くのかというと、仏教を利用して私自身が明るい人間になりたい、自己充実のために聞くのだ、というように道具にしてしまう。「私−汝」の私は「Ich-Duである。Duは切っても切れない関係にあるものであって、それを「友よ」という。「友よ」とよびかける私である。私の欲求を満足しようとして相手を考えるような私、これは「私、それ」の私である。「私−それ」の私から「私−汝」の私に変わるのが、生まれ変わりということである。

どうしたら変れるのか。ブーバーは言った。この私を「汝」と呼んでくださる人に遇う、即ち私に「Ich-Du」と呼んで下さる方に遇うことによって、私が「Ich-Du」のIchに変っていくことができると言っている。世間道の私が仏道に入る、その回転はどうしてできるのかというと、究竟位の彼方から私を呼ぶもの、即ち本願南無阿弥陀仏によって、はじめて人は転回するのである。南無とは帰れ、共にあれというよびかけである、これを浄土門という。いみじくもブーバーが言っているように、(彼はユダヤ神学の泰斗であった)神のよびかけによって人は変わるのである。人間が努力して変っていくのではない。よびかけによるのだ。そこは全く軌を一にしていて、本当にブーバーの表現は優れている。私を「汝」とよぶものによって私が「私−汝」の私に変わるのである。そこに「友よ」というよびかけをもつ私が生まれる。本当に慈悲の人間に変わるのである。これを浄土の慈悲という。


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