一、慈悲ということばの意味

『歎異抄講読(第四章について)』細川巌師述 より

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第四章は慈悲ということについて述べてあります。

一、慈悲ということばの意味

慈というのは仏教用語で、原語ではマイトリー(maitri)である。この原語からいうと、慈とは友情という意味である。友情とはもとより愛情の一つである。普通、愛情というのは男女の愛情とか親子の愛情とかいうのであるが、友情とはそういう普通の愛情と異って無償である。無償とは償いを求めない。普通の愛情は無償性ではない。それを貪愛(とんあい)という。貪とは独占であり、ひとりじめである。「愛は限りなく奪う」というように、奪い取って自分一人のために独占するということをはらんでいる。親子の愛情もそういう面があり、わが子を嫁にとられたといって泣く母がいる。その点では無償ではなく有償である。子を愛することが自己愛の変形になっている。これを貪愛といい、渇愛という。喉が渇いている者が塩水を飲むが如くに、飲めば飲む程に一層満たされなくて、更に飲むということになる。

慈は無償の愛を言っている。愛情も、もう少し厳しく定義する必要があるが、今マイトリーとは、普通でいう愛とは違い、友情ということを言おうとしているのである。

悲とはカルナー(karuna)という。呻きである。悲しみ(うめ)くという。あるいは深い嘆きをいう。それは相手の苦しみ、相手の呻きに対して、自分もまた呻き悲しみ深く嘆くことをいう。

これを合わせて慈悲ということばができた。

愛情という問題について考えてみよう。慈悲には愛情と訳したい一面がある。しかし、本当の愛情とはどんなものだろうか。

E.フロム(コロンビア大教授で精神分析学者、日本にも何回か来て鈴木大拙師に就いて禅を勉強した人で、『禅と精神分析』という書物を書いている)の著作の一つに『愛するということ』というのがある。すぐれた書物で、世界的ベストセラーズの一つになった。日本では紀国屋書店から出版され、懸田という順天堂大学の先生が訳している。原題は『The Art of Loving』である。これを『愛するということ』と訳してあるが、あまりいい訳ではない。なぜかというとArtというのを訳していない。アートは美術、あるいは文化とか学芸、教養と訳せるが、ここでは身についた教養、あるいは身についた徳というものであろう。Lovingも愛し続ける、愛しぬくといった方がよいように思う。愛しぬくために身につければならないもの、本当の愛情をもって愛しぬくために身につけなければならない教養、とでもいおうか。そういう意味であると思う。その中で本当の愛情とは何かということについて言っているのが、慈悲に近いのではないか。

フロムによると本当の愛情とは、相手に対する尊敬と配慮と責任と連帯である。尊敬とは、相手の長所や徳を尊敬する謙虚さ、配慮とは心遣いである。例えば花を愛するとは、ただ愛しているのではなく、虫がいれば虫を取ってやり、水が足りなければ水をやり、時々日光に当ててやるというような配慮があってはじめて花を愛しているということができる。赤ん坊を愛しているというのは、ただ可愛がるというのではなく、その世話をしてやって、おなかがすけばミルクをやり、機嫌が悪ければその原因をさぐって手当てをしてやるというのが愛しているということである。配慮とは自分中心でなく、相手をいたわる心を持っていることである。

責任とは彼の問いかけに精一杯答えてやることである。連帯とは深いつながりである、相手の苦しみが自分自分の苦しみであり、相手の喜びとなるというようなむすびつきを持つ。

そういう愛情は誰でも持っているというわけではない。そういうものを持つためには私自身に努力せねばならぬものがある。身につけねばならぬアートがあるということをこの本は書いている。これは真の愛情というか、慈悲というものにかなり近いと思う。

愛情のない人、無慈悲な人は、その人にどれ程高い学歴があろうと、どれ程高い地位があろうと、人間としては失格である。無慈悲である、愛情のない人であるということは、冷たい人でありわがままな自己本位の人、自己中心の人であり人間味がないということで、欠陥人間といわねばなるまい。

現在では人間味のない人がずい分ふえたそうですね。東大附属病院の神経科のある先生が書かれたのによると、最近奥さん達の相談が多いという。「うちの主人は一流大学を出て一流会社に勤め、エリートコースを歩いているのですが、欠陥人間ではないか」という訴えが多いそうである。思いやりがない。家に帰って来たらさっさと食事をしてテレビを見て寝てしまう。子供のことを相談しても少しも応じてくれない。問いかけても答えてくれない。自分の事だけしか考えない。うちの主人は欠陥人間ではないのかという相談がふえたと書いてある。これではどれ程学歴があろうと人間失格であろう。本当の愛情、仏法のことばでは慈悲、それが人間に備わらなければならないわけです。

人は一流大学を出て一流会社に入って、エリートコースを歩んで行けば成功と思うが、そんなものではない。世の中は人間関係である。一人で生きているのではない。家庭があり、社会があり、職場がある。親があり妻子があり、同僚があり、上司、部下がある。そういう人と人とのつながりがうまくいかなければ、本当の人間として成り立たない。真の愛情、慈悲というものは、ある方がよいというものではない。なければならないものなのだ。それが無ければ人間は成り立たない。

それでは、本当の愛情はどうしたら成り立つのか。この問題は必ずしも充分は検討されていない。大抵は愛情を持てというところで終ってしまっている。持てといってもなかなか持てるものではないのではないか。どうしたら持てるのか、というのが先のフロムの書物の課題である。その解決はこの『歎異抄』第四章にある。

人間の上に本当の愛情が生まれるにはどうしたらよいかフロムはなかなか面白いことを言っている。先ずトレーニングが必要であるという。愛するということを身につけるためには訓練が必要だという。

先ず規則正しい生活をすること。規則正しい生活が愛情に関係があるのかと誰しも思うが、彼はそう言っている。また、つまらぬ友とつき合わないことが大切という。そして毎日静座をせよと書いてある。これはさすが禅を勉強した人らしい言葉である。朝晩何分か静座して無念無想の境地に入るがよいと言っているが、なかなか面白い。が、結論は、愛情を持つには人間はナルシシズムを超えなければならないという。ナルシシズムとは前にも言ったようにナルシス(ナルキッソス、ギリシャ神話に出てくる美青年)がビーナスの女神の恨みをうけて魔法にかけられ、自分自身しか愛せなくなった。そして池のほとりへ行って水に映る自分の顔を見つめながら、やせ衰えて死んでいった。自分自身しか愛することができない、自己愛、自己陶酔、自己の主観に閉じこもって人の言うことが聞けない、こういうのをナルシシズムという。これを超えなければならないというのがこの人の結論である。これが、愛するために身につけなければならないものである。

それではナルシシズムはどうしたら克服できるか。大抵の書物はある程度までは書いてあるが、つきつめては書いてないものが多い。方法論を示さない。大抵は、しっかり頑張れというのがおちである。これが欠点である。しっかり頑張れといわれても、どういうふうに頑張ってよいかがわからない。方法論をはっきりしなければならない。この点、仏法は実にはっきりしている。仏教は方法論をもっている。それが何よりの強みであり、すぐれたところであると思う。

フロムはナルシシズムの克服について触れている。それは、ただ一つ宗教に依るほかないという。それではこの人のいう宗教とは何かというと、少しむずかしい。必ずしもキリスト教ではないようだ。

ナルシシズムの克服は宗教によるほかない。実に然りである。ナルシシズムの真の克服は宗教によるしかないのだ。それを言い切ったところに、このフロムの書物がベストセラーになった原因の一つがあるのではないか。が、そこをはっきりせねばならない。それが歎異抄第四章の問題である。

慈悲とは何か、本当の愛情とは何かということを少し詳しく言っておこう。慈悲の内容、本当の慈悲が成り立つ条件、本当の愛情はどんなものでなければならないのか。

(1)智慧
 本当の情愛は智慧と共なるものである。盲目的な愛はかえって相手を損ない、自分自身をも破滅させる。本当の愛情とは叡智である。エスプリ、智慧である。

あるとき石切り場から馬車に石を積んでいく馬方があった。馬車を引っ張っていく途中に窪みがあって、そこに車が入ると馬方は馬をひっぱたく。馬はヒーヒーいいながら引っ張る。これを見ていた人が「かわいそうに、あの窪みさえなければ……」と思ってその窪みを埋めてやった。これで馬も助かるだろうと思った。ところがそのうちに馬はとうとう死んでしまった。何故かというと、はじめから石をたくさん積んでゆかねばならぬようになったからである。窪みがある時は初め石の量を調節しておかないと引き上げきれないので、やっと上がるだけのぎりぎりの荷を積んでいたから、あとは楽であった。しかし窪みがなくなると初めから石をたくさん積まされて、とうとうへたばって死んでしまった。馬のためを思ってやったのだけれど、かえって悪い結果になった。窪みの所だけがわかっていて全体がわからなかった。智慧がなかったのである。

現在、イギリスやスウェーデンなどは社会福祉が進んでいて、日本などは及びもつかぬ程である。ところがこの前テレビで「苦悩するヨーロッパ」というのを見ると、このすぐれた社会福祉の中で、働かずに優雅な生活をする人がでてきた。朝早く起きて散歩して、一日中職業紹介所をまわって帰って来て、カラーテレビを見て優雅な生活をしているという英国人が紹介されている、何もせずに食べていけるわけである。イギリスそのものは経済的な地盤沈下が激しく、インフレも世界一という。そういう中にあって社会福祉のおかげで何もしないで食うていける。それをまた何とも思わないというのである。これは人間としては失格ではないか。社会福祉に汚染されているのではないか。ナルシシズムもいいところではないかといわれる。

こういうことを考えると、社全福祉で人を助ければいいというだけではすまされない。やはり人間のやることは本当の意味で智慧がないのではないか。愛することが本当に慈しみ育てるということになるのかどうか、考えねばならない時がきていると思う。

盆栽を育てている人がある。私の所に話を聞きに来る人のお父さんである。その人に尋ねた。「たくさんありますが、お世話も大変ですね。水などはどうしておられますか」「水は朝昼晩やったり、また朝晩だけのこともある」。「水をやるだけでも大変でしょうね」ということから初まって、「盆栽を育てるにもコツがありましてな、水をいつもやってはいかん。水なしで耐えさせることがなくてはいけない。水をやらずにこらえてこらえて、もうこらえきれぬというとこまでこらえさせてそれから水をやる。そういうこともやらないと、いい盆栽は出来ません」という。我々は植物には水を充分やり、こやしをたくさんやって育てるのがよいと思うが、それでは駄目ということである。やはり鍛えねば駄目ということである。盆栽をきたえるという話は初めて聞きました。

要するに、可愛がって育てるということだけが慈悲ではない、智慧が要るのである。

(2)平等
 次は平等ということである。慈悲が成り立つというのは、ある人だけに責任をもち、尊敬し配慮をし連帯を持つということではない。それは慈悲とは言えない。偏愛といわねばならない。愛は平等であり、あらゆる人に共通であり、あらゆる人に対してなされるというのでなくてはならない。差別があってはならない。そうでなければ本当の愛情ということは言えないといわれる。しかし平等というのは実は大変なことである。仏教で平等というのは、四十八位以上の大菩薩でなければ成り立たないといわれている。


(3)喜捨
 慈悲は必ず慈、悲、喜、捨である。慈悲喜捨というものを持つ。喜とは随喜という。随喜とは相手の喜びに私が共に随って喜ぶことである。この反対を嫉妬という。我々が慈悲という場合には自己より低い人、困っておる人に対しては慈悲ということがおこる。自分よりも年下であるとか、あるいは幼い、自分より低いという時には愛情をかけるということが成り立つが、大きくなって自分以上になったら慈悲の心というものは成り立たないのではないか。それでは本当の愛情、慈悲にならない。慈悲は相手が自分より上であろうと、自分より幸せになろうと、それに対して随喜していくことができる心である。その人の幸せを私が「よかった」と言って喜んであげることができる。これはなかなか難しいことである。

昔から言う、土蔵が建つと隣に病人ができると。隣の家が栄えると一方の家は劣等感を持って胃が痛む。随喜ができない。慈悲喜でなくてはならぬ。随喜というところに大事なものがあるわけでございます。

捨とは捨てるという。二つの意味があって一つは慈悲喜を捨てる、即ち自分があの人にこうしてあげたとか、愛情をかけたとか、私がこうして相手に随喜したというものに執われないで、慈悲喜をしながらそれを片端から捨てていく。これを捨という。何物も残らない。

またもう一つは自己中心を捨てる、ナルシシズムを捨てるという。仏教では小我を捨てるという。小さな自己中心の心を捨てることを捨という。

以上慈悲というものには、我執を捨てるということが要る。これが大事な要件です。


(4)無償性
 も一ついうと無償性ということである。代りに何物も求めないということ。仏教でいう慈悲とはそういうことでございます。先のフロムの言う真の愛情というよりも厳しいものです。

 さて仏教はこのような慈悲の人を生産することを使命としている。そしてこのような人を生産する方法をもっている。そこが大事なところです。しかもその方法が、一部の人には可能であるが大部分には出来ないというようなものではない。万人に可能な方法論をもっているということ、それが仏教の一番尊重すべき所であり、大事な所である。

いつも申しますように、今日の仏教は非常に誤解されている。第一に仏教とは死んだ人のためのものである、死んだ人の魂を慰めるものだ、死者のために葬式をしたり法事をしたりするのが仏教であるといわれているが、これは大間違いである。確かにそういうふうになっている一面があります。が、本当の仏法はそんなものではないのだ。生きた人間のためのものである。生きた人間を本当の人間にして、本当の愛情をもつ人にするためのものである。

第二の誤解は、仏教は個人的なもの、個人的な救いであり、弱者即ち年寄りや病気の人がその避難場としてそれを頼りにするものと考えられている。しかしそうではない。仏教は、本当はシャンとしたド性骨のある人でなければできない。禅宗であろうと真宗であろうとこれは同じこと。しっかりしたバックボーンを持たない人には仏教は成就しない。聖人を見るがよい、道元禅師を見るがいい。それはひよひよした人間ではありません、実に頑丈な人間です。本当の社会性をもった人たちですね。

 さて慈悲というものは、さきに言うような条件をもち、仏教はこの慈悲の人をつくる教である。しかしここに一つの矛盾があるのであります。それはどういうことかというと、慈悲即ち愛するということ(仏教のことばでは利他という)と、自己の確立(自利、自分がしゃんとする)は両立できないということである。利他をやろうと思えば自利はできない。即ち自分が充分に自己の進展をしようと思えば利他はお留守になる。このような矛盾点がある。社会のためにも、職場のためにもやらねばならぬことはたくさんある、が、そればかりやっていたならば自分の勉強はできない。しかし自分の勉強ばかりやっていたならば、他人のことはできないだろう。そうすると我々はどちらをやるべきかと迷わざるを得ない。この一つ、自利と利他とは相反している。方向が異なったものである。そういうものであって、この二つが同時に成り立つということは非常にむつかしいといわねばなりません。

慈悲というものは、それを一生懸命やろうとすれば自分のことがお留守になる。自分自身がお留守になれば、ちょうど泳ぐ術を十分に知らない者が溺れている者を助けに行くようなものであって、助けることは出来ない。かえって自分も溺れ死ぬことになろう。しかし自分が一生懸命やろうとすれば他人のことはお留守になる。

自分が一生懸命泳ぐ練習をしておれば、自分は上達するかも知れないが、その間に人は溺れていくではないか。そういう矛盾がある。

いわゆる学生運動というものが何年か前に盛んに起ったが、ある教授が言う「君達はそんな事をやるより自分の勉強をすべき時ではないか」と。「体制を変えるのは後だ。もっと自分の勉強をした上でやれ」というが、学生は納得しない。「放っておいたら誰もやらないではないですか、我々がやるしかない」という。「泳ぐ術もよく知らないで人を助けるようなもので、君も溺れてしまうぞ」と、言っても「仕方がない、自分達がやらねば誰もやる人はない」という。これはいつまでたっても平行している。なぜならば、少々練習したぐらいで泳げるようになるものではない。相当練習しなければ人を助けるようにならない。その間に人はどんどん溺れていく。人を助けようとすれば未熟な自分でもとにかく飛び込んで助けにゆくしかないという。そして一緒に溺れてもかまわないということになって、次々と悲惨な事件が起ってきた。

そういう矛盾はどうしたら解決するか。いかに解決されていくのか。はじめに申すように、慈悲がなければ人間になれない。あの人は無慈悲な人だと言われたのでは人間として成り立たない。夫として、妻として社会人として成り立たない。それ故是非とも私において慈悲が成り立たなければいけない。だがそこには矛盾がある。

今は慈悲という言葉のもつ意味と、その問題点をあげてみました。これらに解答するのが『歎異抄』第四章である。


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