二、他力の心

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

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 他力の心とは何か。「友よ!」である。私が得しようと損しようとどうでもいい、「友よ!」である。わが子が、「友よ!」にならなければ解決がつかぬ。子供よりも親の問題である。しかし、親がしゃんとしなければ子供がよくならないという語をしているのではない。親の自力の心に問題があるのだ。親の自力の心が打ち砕かれねばどうしようもない。それがひるがえされたら子供に対する考え方が違ってくるのである。それが出発点である。子供に対して友よ!とよびかけて、お前が地獄に堕ちるならば私も地獄に堕ちようという心が親に出てこなければ親にならないのである。子供を道具として扱っているのだということがわからねばならない。人のことではない、私のことである。我々にはいつもいつも自分のことしかない。それが我々の本心である。これを自力の心という。

 廻す。()という。()という。ひっくり返えされる。たたき枠かれる。打ち砕かれることを廻すという。廻心という、私の自力の心が転回されることを廻心という。

 次に、「他力」とは他の人の力を借りるというようなものではない。他力とは如来の本願力である。これは仏教における定義であって、「他力とは如来の本願力なり」と『教行信証』に出ている。他力がなければものは育たない。ここに種を播く、この種は自分で発芽するということはあり得ない。燦々たる太陽の熱と、彼を潤す水とによって発芽するのである。そのような他の働きかけを他力という。如来の本願力という。

 如来の本願力とは何か。我々は今、知性という大地に立って、知性というものの上で色々なことを考えている、世間を考え、世界を考え、商売を考え、家庭を考えている。知性を基盤にしている。そして一つの結論を見出す。こうしたらこうなって……というように結論を見出す、これを外道という。我々は全て外道の立場に立ってものを考えている。外道とは外側に結論がある。どうしたらよいかと外に条件を考え、こうしようと外に結論を求める。世界は平和でなければならない。年とってくれば社会福祉というものがなければならない。このような条件が備わらないと幸せにならないと思う。

 如来の本願はどこから私にかかってくるのか、どこから呼ばれているのか。それは私の地盤の下からである。内側からのよびかけである。南無と私を呼ぶのである。私が私自身にかえっていって、外に向いていたものが内に向くようになる。これを如来の本願力にかえるという。

 それではそのようになったならば外側のことは考えないのか。家庭とか環境とか政治とかは関係ないのか。そうではない。内に帰っていくことによって本当に外が成り立つのである。

 どんぐりがある。堅い殻の中に入って大地の上にいる。その限り自己中心であり、どんぐりころころである。風の働き、水の流れによってどこまでもころがっていく。それが如来の本願力に帰るとはどういうことかというと、彼を支えている大地に根をおろすということである。根をおろすと彼ははじめて大地(地下)と虚空(地上)という二つの世界を生きる。如来の本願に帰るままが、外の世界を成就する。あなたは外の問題ばかりを問題にしているけれども実はころころ転っているだけではないか。固い殻の中に閉じこもって、相手を道具化して、ひとりよがりの所にとどまっているのではないか。それが破れて大地に根をのばし、深い深い呼びかけに応じていくと、外に対して本当に生きることができるようになる。外に生きる姿を友よ!という。友よ!という姿をもって生きてゆける。外に本当に生きるには、内に本当に生きなければならない。外だけならばどんぐりころころである。内面の大地に生きるということが外に生きるということになる。従って社会、家庭等を決して無視するのではなく、そこに対する深い生き方を持ってくる。他力という言葉の意味を申しました。

 「たのむ」とは憑依(ひょうえ)という。よりよるという。また帰依ともいう。大きなもののよびかけに帰って、それをよりどころとして持つ。これをたのむという。

 真実報土。報土とは本願によって成就した仏の世界。往生とは、往いて生きるという。死んでから往くのではない。大きな世界に出ることを言っている。即ち今まで殼の中に閉じこもっていたものが、殼が破れて大きな世界へ芽を出してきた。それを報土往生の第一歩という」。

 次に内容に移る。

 「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」。これが中心である。次は「真実報土の往生を遂ぐる」となる。

 自力の心とは自己肯定、我々の本の心である。それがひるがえされる、廻心、転廻。打ち砕かれる。そして如来の本願に帰依していく。言葉の意味はそうである。しかし内容はどういうことであるか。そしてそれはいかにして可能であるか。具体的にわかる必要がある。

 世の中には説明のつく事とつかぬ事がある。たとえば砂糖は甘いと言っても、砂糖をなめたことのない人にはどれ程説明してもわからない。それと同じで、自力をひるがえすということはなかなか説明はつかぬが、言わなければならない。

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1、問い

 先ず問いを出す。「君はそれでよいのか」。私はこれでよいのであろうか。ここに自力であろうと他力であろうと、あらゆるものの出発点がある。私は幸せであると叫んでいる人がある。しかし「君はそれでよいのか」と問われると、これでよいのだということを言い切れないものがある。そこが出発点、自力からの出発である。そこで何をやったらよいのか。我々はやらねばならないことがある。それは廃悪修善の道と至心発願である。まごころこめてやろうと決心する。このことである。まごころこめてというのは、続けてやろう、やりぬこう、諸々の功徳を修してやりぬこうということを決心して実行することが大事である。この前にも一つ大事なことがある。「君はそれでよいのか」と言ってくれる人がなければならない。しかし下手に言うとおかしなことになる。今頃は父親が息子に向かって「お前はそれでよいのか」というと、反撥して「お父さんはどうなんだ」ということになる。息子や娘の方が親を批判し、「お父さんやお母さんはなっとらん」ということになると、この問いが成り立たない。この問いが成り立つためには、この問いを問うにふさわしい威厳を持った人、力を持った人がなければならない。そこに先ず必要なものは、よき師よき友である。さらにも一つ前を考えると、言ってくれるよき師よき友がいても、必ずしもそれを聞くとは限らない。今までの子を育ててきた歴史、わがまま放題に言いなりに育てていると、その子供はどんな人に逢っても、言うことを聞かないことがある。それを宿善の問題という、長い間の歴史である。子供を育てる時に是非守らねばならない、子供にやらせねばならないことがある。それは、人に迷惑をかけない、自分のことは自分でやるということ、これは当然のことである。転んだら自分で起き上らせる。それを子供の言うなりになり、甘やかしていると、いざというときどうにもならない。

 先ずよき師よき友に逢うて、この問いをこうむって、よしやろうということにならなければ、自力の心をひるがえすということにはならない。「至心発願修諸功徳」これが出発点である。

 しかしながら、この道は必ず行き詰まるようになっている。なぜならば矛盾があるから。矛盾があるから途中で空中分解してやれなくなる。たとえば六度の行は仏教の基礎的な行である。布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧の六つ。度とは渡すという。世間を渡って彼岸に至る、これを六度の行という。この迷いの世界を超えていく道を教えている。この順番で教えている。

 布施とは、自分の持っているものに囚われないで出来るだけ与えなさい。あなたの持っている力や物を尊いことのために寄附し、困っている人の為に与えていく、これが大切だという。生活の上でやってはいけないことをやめ、やるべきことを励んで生活を正しくしなさい。これが持戒。はずかしめにおうても罵しられても怒られても、じっと忍んでいくことが大事である。これが忍辱。次に努力精進。そして禅定、深い心の平静を保ちなさい。そして智慧に至る。何をやるべきかというと、布施、持戒、忍辱、精進である。だがこれは矛盾をはらんでいる。布施、持戒……とやっていったら智慧に至るというのであるが、実は智慧がなければ布施も持戒も忍辱も成り立たない。出来ないのである。本当に智慧が成立しなければ、誰に物を与えるべきかがわからない。蝮の子がいる。それに食物を与えて育てていけばかえって害になる。従って本当の布施にならない。育てれば大きくなって人を咬み、かえって人を困らせるということになる。それでは布施にはならない。また、はずかしめを忍ぶという。歯をくいしばって耐えるというが、そんなことをしたら胃が悪くなるか心臓が悪くなるかどっちかである。自分が参ってしまうということになる。やはり言うべきときには言わねばならない。これも智慧の問題に帰る。

 私は学生部長を二年やりました。学生部長というのはあまりなり手がない。なぜかというと、学生問題で振り回されて血圧が上がる。学生は腹の立つような事ばかり言う。それを受け流していても、いつの間にかカッカして、血圧が上がり寿命が縮むですね。だからやる人が少ない。命と引きかえである。だが智慧が本当に成り立つと、やり甲斐のある仕事である。これは歯をくいしばって忍ぶのではない。そこに起ってくる問題が南無阿弥陀仏になる。それが私にとっての深い念仏の種になる。忍ばんでもよい。傍から見ると忍んでいるように見えても、本人は受けとめているのである。受けとめるには智慧がなければならない。信心の智慧が成立しなければ六度の行はやれないのに、智慧を得るためにこういうものをやれと書いてあるところに矛盾がある。それは自力をひるがえすための方便である。それをしっかりやっていくと、絶壁にぶつかるようになっている。何にぶつかるのかというと、思ったように出来ないというところにぶつかる。これが、他力をたのむという世界に出るための次なる段階である。

 その時発せられるべき問いは、「如来ましますか」である。この問いもまた、痛烈なものである。普通の人はこの問いに答え得ない。「如来はいると思います。そういうふうに本に書いてあります」とか「と、人が言っています」という程度にしか答え得ない「如来まします」と言い切れない。これが問題点である。それでは信じなければならないのか、そうではない。

 信ずる、と普通言う時には向こう側に如来をおいて、私が決心してこれを信じよう、疑うまいというのを、信ずるという。そういうものではない。一般に人は信ずるということは、何を、どのように、信ずるかということが、問題と思う。従って信心の問題は、何を信じたらよいでしょうか、ということになる。キリスト教でしょうか、観音様でしょうか、仏教でしょうか、生長の家でしょうかということになる。どのように信じたらよいかということは、人があまり問いません。信じ具合のことである。こういうのをすべて対象化という。あなたの信じようとしているものは向こう側にある。そしてあなた自身は信ずるというだけで少しも変らない。何を信じたらよいかということを求めている。こういうのを物質化という。道具化という。あなたは結局、何かを信じて助けてもらって実利を得ようとする。道具に使おうとしているのである。あなた自身の内面化、あなた自身が自分自身に深く目がさめるということはないではないか。「如来ましますか」というこの問いに真に答え得る時、「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」ということが出てくるのである。

 このためにはよき師よき友をもって聞きぬくということが大事である。教を聞きぬく。他力の心、如来の御意を聞きぬく、「聞其名号」という。「聞」とは聞きぬく、聞いて聞いて聞きひらく。「其」は前の言葉をうけるのだが、よき師よき友である。「名号」とは南無阿弥陀仏、如来の名告りである。

 如来とは何か。如より来たる。如とは大きな大きな世界で一如という。私の世界に如より来たる、これを如来という。南無阿弥陀仏という。これは仏の名前、名称ではなしに名号という。号は名告り、呼びかけをいう。名告り叫んであるのである。南無(帰れ、来たれ、出でよ)と私によびかけている。阿弥陀とは大いなるもの、永遠なるもの。「大いなるもの、無限なるものわれに帰れ」というよびかけを名号といい、南無阿弥陀仏という。その名号を聞きぬく、聞きひらくことが、「如来ましますか」という問いに対する答である。

 「ヨハネ伝」には「はじめにコトバがあった、コトバは神と共にあった。コトバは神であった」とある。コトバとは何か。呼び掛けであり語りかけであり、私に対する深い深い名告りである。これを指摘したのはキリスト教であった。しかしその真意を明らかにしたのは仏教であった。「はじめにコトバがあった」そのコトバは何であったかを「ヨハネ伝」は遂に明らかにしなかった。仏教においてそれは明らかである。そのコトバ、よびかけが南無阿弥陀仏である。「大いなるものに帰れ」というよびかけである。それがわかるということが、教を聞きひらくというのである。普通の信ずるというのではない。信じようとしても信じられるものではない。それは深い根源から我々によびかけてきて、固い固い殻の中に閉じこもって自己中心の思いにとどまっていた私がだんだんと育てられて、遂にそのよびかけを明らかにする。これが自力の心をひるがえすということであり、「如来ましますか」という問いに対して「如来まします」と言い切れるのである。「如来、まします」とは、南無阿弥陀仏ということである。これは一度でわかるという問題ではありません。何遍も何遍も聞いて貰わねばならない。聞きぬかねばならない。

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2、廻心、懺悔

 自力の心をひるがえす、即ち廻心といのは必ず廻心、懺悔である。懺悔とは仏の前に自己をあやまるということである。自己をお詫びすることである。我々は残念ながら小さなことに対して仏に詫びることしかできない。今日はバスの中で席を譲ってあげることが出来なかった。今日は子供に少し言い過ぎた。その程度のことしか詫びることができない。これは枝葉末節の懺悔である。そうではなしにもっと根本的な、根源的懺悔が廻心心懺悔といわれるものである。

根源的懺悔とは何か。私の存在そのものが仏の前に詫びねばならぬ、そういう存在であるということである。涅槃経の言葉を借りると、私が難治の三病をかかえている。治らない病をかかえている。難化の三機である。まことに申訳のない存在であるということ。このことを仏の前に謝するということである。これを懺悔という、三病、三機とは何か。謗法、五逆、一闡提という。謗法とは謗大乗といい、仏法をそしるという。仏説無視である。仏法無視ということを口でも言わない、心で思ったこともないかも知れぬが、実際の生活では仏法を無視して生きているのである。それが問題になるのを根源的懺悔という。これがなかなか問題にならぬのである。五逆とは恩知らずという。一闡提とはやる気のない私である。私の本来の心では三日でも十日でも仏の前に合掌するということがない。全然やる気のないお粗末な私を一闡提という、一闡提はサンスクリットで訳すると断善根という、善根の絶えはてた私である。

 そういう自己にぶつかりこれが明らかになる。なかなかわかって頂けないかも知れない、しかし皆さんがわかろうがわかるまいが言っておかねばならない。ここが明らかになることが大事なのである。これが「自力の心をひるがえす」ということである。ひるがえすということは自分でひっくり返るのではない。教を聞いて、教えてくれるよき師よき友に遇うて聞きぬくというところに生まれてくる結果である。その時「如来ましますか」という問いに対して、「如来まします」と廻心懺悔していくということが、他力をたのむということである。そうなるのである。自力の心をひるがえしてそこに生まれてくるのが悪人というものである。

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