(その四)

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

 一、自力の心

 二、他力の心

 三、自力の心をひるがえす

 四、他力をたのみたてまつる

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「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる悪人」

 第三章は第一章第二章の延長であり、或いは第一章第二章の具体化である。第一章が中心である。第一章は弥陀の本願であり「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」というところに『歎異抄』の全体がこもっている。この一点が明らかになるならば、『歎異抄』全体が明らかになるのである。『歎異抄』全体はこの展開であると言える。『歎異抄』は「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」であり、一言で言えば「弥陀の本願」である。この弥陀の本願が私の上に成立する、私の上に明らかになるということが中心である。この本願がいかにして私に届くかということを明らかにしたのが第二章である。「親鸞におきては『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』とよき人の仰せを被りて」とある。そのよき人の仰せというところに本願の具体化がある。よき人の仰せとは「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず、仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したもうべからず 善導の御釈まことならば法然の仰せそらごとならんや」。法然の仰せがよき人の仰せであるが、それは本願の歴史的な伝承である。第一章の本願が電流であるならば第二章は、電流が電線を通って伝わってくることを明らかにしている。具体的ということが大事である。具体的にわかるとは、(1)私において、(2)この現実において。この私においてとは、職業、年令、男女など色々の条件下にあるこの私において。この現実とは、色々な環境、色々な問題をもった現実の中で。(3)実際には何か。これが具体的ということである。この私が一体何をしたらいいのかがわからなければいけない。具体的の反対は概念的。頭だけでわかっている。これは何の役にも立たぬ。本願が具体的にわからねばならない。本願が具体的になるとは、私において、この現実の中で、実際には何かということが明らかになることである。

 いま、既成宗教が役に立たぬというのは何故か。それはこの現実の中でどうしていいかがわからないことである。これを宗教の無力化という。現在は鎌倉時代の祖師たちがぶつかった以外の問題がたくさん出てきている時代である。鎌倉時代の祖師たちとは道元、日蓮とか、法然、親鸞である。その頃になかった問題というのは、事件ということから申せば公害があり人種差別問題あり、科学の進歩があり社会の変化がある。色々と変った。日蓮にも、道元にも、思いもかけなかったような事件が起っているのである。

 この時代に生きている私、こういう具体的問題を悩んでいる私が、一体どうすることが救われることか、どうしたらいいのかということがわからねばならない。そういうことは日蓮、親鸞、道元が既に言っているというのではない。具体的にこれを我々は明らかにしなければならない。これを推求という。推はおしはかり、求はもとめる。祖師たちは基礎だけははっきり言ってあるのである。しかし現代において実際にはどういうことなのかを、我々はおしはかり求めねばならない。この推求ということを忘れてきたところに、既成宗教の無力化が生まれてきたのである。推求する力こそ信心である。しかしながら、基礎がはっきりわからないと推求もできない。その基礎は第一章、第二章である。第一章は如来の本願こそが人間の迷いを断ち切る力を持っているということである。その本願が私にかかわり合いをもってくる具体的な道が第二章である。

 その本願が私において成り立った事実が第三章である。よき人の仰せを被って私に本願が至り届くところには悪人の誕生がある。「他力をたのみたてまつる悪人」である。これが一番根本である。この根本が成り立った上に、現実問題への対処が推求されていく、そこに宗教の現代化がある。

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