(その三) 

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

 一、自力作善の人

 二、他力をたのむ

 三、弥陀の本願にあらず

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一、自力作善の人

「その故は自力作善の人はひとえに他力をたのむ心欠けたるあいだ弥陀の本願に非ず」

 「その故は」というのは、前の「この条一旦そのいわれあるに似たれども本願他力の意趣に背けり」の理由である。

 自力の心とは何か。親鸞聖人は自力ということについて、『唯信鈔文意』(『島地聖典』20-6)に四つ言われている。

1.       自らが身をよしと思う心。自分自身は間違いのない正しいものと考えている。我々の深い自己肯定の心である。これが根本である。人は無意識のうちに自らが身をよしと思う心に立っている。

2.       身をたのむ心。たのむとは頼りにするという意味で、自己の可能性を深く信じ、自己過信になっている。何でもやれば出来ると思い込んでいる。うぬぼれている。

3.       悪しき心をさがしく顧みる心。悪しき心とは、我々の心の中には腹が立ったり人を嫉んだりする心があり、後で考えると「しまった、どうしてあんな事したのだろう」と思う。さがしくとは賢げにわが心をあれやこれやとあつかいまわして自己卑下する。初めには強い自己過信をもっているようであるが、裏を返せば強い自己卑下、劣等感になる。自己過信を表とすれば劣等感は裏である。

4.       人をよしあしという心。人の事については冷たい批判、厳しい批評をする。

これらは人間の殻であり、この自力の殻の中に人間は閉じこもっているのである。

他力の心というのはどういうのか。他力とはその殼を打ち砕かれた時に顕われる如来心をいう。

1.       われはわろし。自らが身をよしと思う心が打ち砕かれてわれはわろしとなる。これは陰うつなジメジメした自信のない心かというとそうではない。明朗な謙虚な心である。これに対して自己肯定の心は傲慢な心である。傲慢な心を打ち砕かれて深い謙虚さを持つ、それを他力の心という。人間は謙虚になろうとしてなれるものてはなく、殻を打ち砕かれる外に謙虚への道はない。

2.       大いなるものへの帰依をもつ。身をたのまず大いなるものにまかせるのである。大いなるものに帰依合掌していくのが他力の心である。

3.       懺悔。我々はどうしてこんな事になったのだろう。あの時ああしなかったばかりに……と悪しき心をさがしく顧みるのであるが、それは後悔である。その反対は懺悔である。懺悔とは仏の前に私を投げ出してお詫びをすること。あれをこうしてこれをこうしてと自分自身をとりつくろうことなく、仏の前に自分を投げ出すこと。懺悔念仏である。

4.       人は常に業縁によって生きていることを知ること。我々は人に対して冷たい批判をする。それを自力の心、迷いの心という。他力とは業縁によって生きていることを知ることである。

 業縁とは、たとえば今海が荒れている。なぜ荒れているか、けしからんと言ってみてもどうにもならない。海が悪いのではない。そうなる業縁があるのである。風が吹けば海が荒れる。風が悪いわけでもない。大気の関係で風が吹くようになっているのである。バイカル湖の上の方の寒気が北西の冷たい風を日本列島にもたらす。それが悪いといってみても仕方がない。次々と理由があるのである。人を冷たく責めるのは業縁がわからぬからである。そうなるようになっているのである。また、背の高い人になぜそんなに背が高いか、色の黒い人になぜお前はそんなに黒いかといってみても仕様がない。そうなるようになっているという一面がある。その業縁がわからない、それを自力という。自己中心の小さい殻の中に閉じこもって相手を責めたて、自分は間違いないんだという迷いの心を自力の心という。

 作善とは廃悪修善いう。悪いことをやめよう、善いことを実行しようという心。これをいう。善いことをやり悪いことをやめようというのは、人間の深い理性、知性でありけなげなことであるが、それを自力作善という。考えねばならぬ問題がある。それは人間存在の持つ限界、人間の分際を知らねばならぬということである、力の程を知らないのではあるまいか。悪いことをやめ善い事をやるというのはけなげではあるが、自らを神様と考えているのではないか。

 ここに赤ん坊がいておしめを当てられている。そのおしめが汚れた。そこで赤ん坊がこのおしめをきれいにしなければならないと思って洗濯しはじめたとする。だが自分で洗濯をしようというところに無理がある。自分で洗濯機を廻し始めようとするところに、身の程を知らぬということがあるのではないか。

 現代は五濁の時代である。五濁悪時悪世界という。五濁とは、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁という。劫濁とは、劫とは時代ということ、汚れた時代をいう。大きな川の上流は汚れていないが、中流になると汚れてくる。下流になれば澄みきった川というのは一つもない。大きな川であればある程、下流は濁りきっている。私は川が好きで、川の水を調査するのが専門のせいもあってよく河に行った。どの河川も同じで、外国もまた同じである。我々は時代の濁りの中にいる。そこにいる人はすべての人が濁っている。濁らざるを得ないのである。それでよいというのでなしに現実として濁らざるを得ないのである。従ってそこにいる人はすべて見濁である。考え方が自己中心的になってしまっている。考え方が濁っているのである。これを見濁という。時代の流れの中にますます人は自己中心になっている。煩悩濁、これは異性間の問題、金の問題等、さまざまな人間の持つ煩悩をかきたてていく。これを煩悩濁という。衆生濁、時代と共に人間は小さくなり、スケールの小さい人間ばかりになる。大きな目で人を見ることの山来ない人間しかいないのである。命濁とは智慧のない状態になる。これを五濁という。今は五濁の世である。人間のいる所は、たといはじめはきれいであっても、それが時間と共に必ず汚れてくるということを知らねばならない。その中にあって、善い事をやり、悪い事をやめようということがどこまで続くか。それはちょうど赤ん坊が汚れたおしめを洗濯しようとするようなものではないか。それがわからないのを自力作善の人というのである。善いことが出来るんだ、悪い事をやめるんだ、やれば出来るんだということに囚れて人を責める。自分が出来ないことがわからない。その心の根底に、深い深い仏を知らず自己が高上りした心があるのである。これを自力作善の人という。けなげな心ではあるが、人間の分際を知らないのである。

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二、他力をたのむ

 「自力作善の人はひとえに他力をたのむ心欠けたるあいだ弥陀の本願にあらず」

 他力とは他の力と書いてある。これを誤って他人の力で相撲を取るというような、人の力を借りることと思ってはならない。これは仏教の用語で、他力とは弥陀の本願の働きをいう。曇鸞という人が仏力を他力と言われた。本願とは何か。二つ意味がある。根本の願い、仏の願いは色々あるがその中の根本の願いである。も一つは本来の願い、本来ある願いである。本来とはアプリオリー、人間が作ったものでなく、人間が考え出したものでなく、もとからあるもの、人間のある所にはじめからあるものを本来という。根本の願い、本来の願いを本願という。

 今、子供がいるとする。この子供には親がいる。親には必ず子供がいる。子がいなければ親とは言わぬ。親子は離れない。その親が子に対してどうしても持たざるを得ないもの、それを願いというのである。子は子、親は親だ、願いなどやめておけといってもやめるわけにはいかない。そうなっているのである。それを本来という。自分で作ったのでも何でもない。もとからそうなっているのである。自然の願いである。親は子に願わざるを得ない。それを本願という。願わなくてもよさそうな筈だが願うのである。これを願力自然という。願わざるを得ない自然の願いである。

 願いといってもたくさんある。元気でやってくれ、幸せになってくれ、人に迷惑をかけるな、いい嫁さんを貰ってくれ、会社でしっかりやれよ、と色々な願いが無量にある。その中の根本の願いである。それは何か。人に迷惑をかけずにしっかりやってくれよ、独立者になれよというのが一番根本であろう。これが本願である。そうならざるを得ないのである。

 今、親を如来といい、子を衆生という。如来は衆生あるが故に如来となるのである。衆生に関係がなければただ如である。これを一如という。一如より来り現われるのを如来という。これを南無阿弥陀仏という。衆生がなければ如来はない。如来と衆生は離れない。如来の根本の願いは「汝、殻を出でよ」ということである。小さな殻に閉じこもっているのでなくて、どうか大きな世界に出て大いなるものと共にあれという願いである。南無は帰れ、共にあれ。阿弥陀仏は大いなるもの。即ち「大いなるものわれと共にあれ」「大いなるものに帰れ」というのを南無阿弥陀仏という。これを他力本願という。

 「たのむ」とは、どうぞ助けて下さいと頼むこと、お願いすることではない。依頼ではない。依(ひょうい)という。依るという。他力を依り処にして生きるのでかる。依るとは中国の古い書物に「草木は地に依って立つ」という。草木は大地を依り処にして一本立ちしていく。我々が依るというのは、それによりかかる、もたれかかる、よりすがるというのではない。依るとは大地の上に木が根を張って、大地をよりどころにして育っていくように、大地によって立っているのを依るというのである。「他力をたのむ」とは、弥陀の本願を拠り所とし、その上に人間の本当の姿において立っている。それを独立という。卓立という。

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三、弥陀の本願にあらず

 非本願の世界という。本願の世界と非本願の世界と二つある。非本願の世界とは、人間の知性や人間の努力を依りどころとして、自分で始末をつけ、自分で立っていこうとする。これを非本願の世界という。いわば人間の世界である。人間が立ち上る第一の世界、これが出発点である。

 宗教の出発点は次のように言える。「君はそれでよいのか」と。これは人間の知性に訴えている。「君はそれでよいのか」という問いに対して人は皆これでよいと言えないものを持っている。この問いは手ごたえのある問いですね。現在はこういう言葉でさえも手ごたえのない人もいます。が、大多数の人にはまだ手ごたえのある問いである。

 非本願の世界は本願の世界への出発点である。これではいけないというものを持っている。どうしたらよいか、自分の力でやると言うが自分の力だけではどうにもならない。よき師よき友を持たなければ進展はない。

 よき師よき友を持つことが他力をたのむ世界、本願の世界への第一歩である。「他力をたのむ」というが、他力をたのむとは具体的にはよき師よき友を持つということがその第一歩である。

 この第三章(悪人正機)は、第一章(弥陀の本願)、第二章(よき人の仰せを被る)を基礎にしている。第一、第二、第三章とつながっている。第三章に直接するのは第二章であって、よき人の仰せを被るということである。第一章の弥陀の本願がわれらに届く姿が第二章のよき人の仰せを被るということであり、その上に第三章の「他力をたのみたてまつる悪人」が誕生するのである。これが第一章、第二章、第三章のつながりである。従って他力をたのむとはまず具体的にはよき師よき友を持つこと、これがはっきりしなければいけない。「君はそれでよいのか」、「君に大事なのはよき師よき友ではないのか、よき師よき友を持て」。これが非本願の世界から本願の世界への第一歩である。

 よき師よき友とは私を勧め励ましてくれる人、これを勧励という。私に対して忠告し適切な励ましをしてくれる人。すべて人にはこういう人が要る。自分でやれると思うがそうではない。よき師よき友がいる。先ず友が大事である。友とはまた、その道が確かなもの、誠であることを証しだてしてくれる人。私の模範になってくれる人である。また私を念じ護ってくれる人、これを証誠護念という。

 宗教といっても色々ある。迷信、邪教と真実の宗教とをどこで見分けたらよいか。一般的にいうとその見分けるポイントが二つある。一つは真実の宗教は断絶あるいは自己否定をもつ。これを持たないものを邪教という。しっかりやれよ、頑張れよ、頑張っていけば必ず出来るぞ、というのを断絶を持たぬという。否定というのは、自分自身の悪いところに気がつかねばならない、自分自身を徹底してあやまりいらねばならない、懺悔ということがなければならぬ。これを否定という。人間の努力をつづけて、しっかりやれば出来るんだというのを否定をもたぬという。人間と如来との間に断絶をもたぬのである。エスカレートというが、努力と共に上にあがっていくようなのを断絶、否定をもたぬという。これは真実の宗教ではない。断絶とはわが身を投げ出して転回する「仏の前に自己を投げ出してあやまりいるということがなければならない。これを、断絶を持つ宗教という。本当の宗教には必ず断絶がある。

 も一つ、供養を強制する。即ち「金、物、力を出せばそれだけの効果がある、効果がある為にはそういうものを出さねばならない」と言うのは真実の宗教ではない。何かと引きかえに、たとえば病気が治るためには金をあげなければならぬというような宗教は迷信である。このように供養を強要するものは邪教、迷信といって間違いない。本当の宗教というのは何物も要求しない。ただ転回を願っている。何物をも出さないのに私を護ってくれ思ってくれるのである。これを護念という。

 よき師よき友とは勧励、証誠、護念、そして讃嘆の人である。讃嘆とは、私を本当にほめてくれる人、私を理解し、正しく評価してくれる人である。われらはこのような人をもたねばならない。そうすれば私が正しい道を進んでいるのかどうかがわかる。私におべんちゃらを言い、調子を合わせる人は沢山いるけれども、本当のことを言ってくれる人は少ない。これをよき人という。よき人を持つことが他力をたのむ第一歩である。

 非本願の世界、自力作善ということが出発点で、他力をたのむという本願の世界はここからはじまる。友を持つということからはじまるのである。

 何故人間の理性が非本願であるのか。非本願とは反本願である。人間理性が反本願である。理性は先ず自分の力の分際を知らず、自分を絶対視しているからである。うぬぼれているからであり傲慢であるからである。赤ん坊が汚れたおしめを洗おうとするようなもので、自分で自分の汚れをきれいにし得ると思っている。

 なぜそうであるのか。人間は我執を持っている。我(が)とは、おれがおれがという自己主張、利己心。執(とらわれ)は執着、こうと考えたらもうその考えから離れない。一度自分のものということになると、それを離すことが出来ない。このような人間の我執を根本としてなされる善は、形は善であっても本当の善ではない。自己中心的な善である。我執を本とした善は本当の善とはいわず、これを雑毒の善という。悪がまじっている。エゴのまじった善であって、毒の入った饅頭みたいなものである。青酸入りのコーラみたいなものである。見かけは善であるが中に自己主張、利己心、深い執念が入っている。このように魂胆が見えすいているような善である。頭をペコペコ下げて謙虚なように見えるが、その裏には選拳の一票につながるという心がある。また自分がその善をやることによってよくなろうとする。そういうエゴを脱することはできない。これを雑善という。これではどれほどやっても本物でない。これを非本願の世界という。それから抜け出さなければならない。それを「他力をたのむ」というのである。なぜ抜け出さねばならないかというと雑善で終るからである。

 よき師を持つということが他力への第一歩である。『涅槃経』梵行品に「丈夫」ということが述べてある。丈夫とは道に立つ人、ますらおという。丈夫とは男性をいうのであるが、女性も丈夫という。非本願の世界、第一の世界から、他力をたのむ世界に出た人を丈夫という。「一切の男女にしてもし四法を具すれば即ち丈夫と名づく」と。四法とは四つのものがらである。それがわが身に備わると男となるという。丈夫志幹となるという。丈夫志幹とは男の中の男、人間の中の人間である。これは男性によらず女性によらず、老人によらず子供によらずみな丈夫となるのである。「何等をか四となす、一つには善知識、二つには能聴法、三つには思惟義、四つには如実修行なり」善知識をよき師よき友という。人はしゃんとしていなければならぬ。しゃんとした人を丈夫という。独立者といい行者といい、菩薩という。それを他力をたのみたてまつる悪人という。その丈夫は四つを備えるということがあるのであって、その第一が善知識をもつということである。

 二つには能聴法、よく法を聴く。聴とは耳を傾けてしっかり聞く。聞きぬき、聞きひらくこと。三つには思惟義、義理を思惟する。思も惟も考えるの意。そのわけがら、意味を考える。これは、そのわけを辞書を引いて調べるというようなことではない。「それは具体的に、私において何か」を考えることを思惟義という。実際問題として、与えられた環境で、問題をかかえている私において、教の本義を考えるのである。今頃、お寺まいりの人達が本当の求道者にならないということがあるならば、それは考えないからである。頭の上を春風が吹きぬけていくように、考えないからである。考えると、わかるところとわからぬところがわかって、従ってわからぬところを質問することができる。大体何も質問しないというのは、わかっていないなと思う。何を質問していいかがわからない。わかっていて黙っているのではない。顔を見るとそれがわかる。なぜそれでは質問がないかというと考えないからである。うわの空で聞いて聞きっ放しにするのでは、いつまでたっても「丈夫」にならない。右往左往するばかりで少しも進展しない。

 四つには如実修行という。よく修行する一聞いたことを実行する。先ず聞く。その聞いたことが私にピタッとして、その人の言うことをやっていこうという、その人を持たねばならない。それがよき師よき友である。その人の言われることをよく考えて実行するのでなくてはならない。考えると最後には、よしやろう、しっかりやらねばならぬという決心、決断が生まれる。そこから実行ということがうまれるのである。そういうことの出来る教をもたねばならない。そういうことの聞ける先生をもたねばならない。よき師よき友をもたねばならない。こういうことになる。「若しは男、若しは女、この四法を具足すれば則ち丈夫と名づく、若し男子ありてこの四法なきときは名づけて丈夫となすことを得ず、何を以ての故に、身は丈夫と難も行は畜生と同じきが故に」。もし男であっても丈夫ということはできない。身は男であっても四法がないと非本願の世界にとどまって、第一の世界にうろうろして、やっていることは畜生と同じである。「若し女人なりともこの四法を具する者は丈夫と名づく」。女性であってもこの四法を備えている時、丈夫というのである。

 要するに自力作善の人というのは、自己中心であり、うぬぼれの中に閉じこもって我執を離れない。やっていることが主観的な行いである。これが非本願の世界である。他力をたのむということは、非本願の世界から本願の世界に出ていくことである。本願の世界に立つ人を丈夫志幹というのである。

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