はじめに

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

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 第一章、第二章、第三章を安心訓(あんじんくん)という。このような解釈をされたのは了祥という人で、『歎異抄聞記』に記されている。

 安心とは信心である。信心とは一面から言えば安らかな心である。安らかとは不安をもたない、恐れをもたない、劣等感をもたないことである。禅宗では平常心という。平常な落ちついた心を安心という。安養というのは、身を養い心を安んずるといい、安は安定した気持ちである。感情的動揺が激しいのを情緒不安定という。これではない。信心とは、何かを信じ込んでいるというものではなしに、安心という言葉で表わされる。我々は不安を持ち恐れを持ち、いつもびくびくしている。また、いつもつまらぬことを言って殻の中に閉じこもっている。そういうものを打ち砕かれて広い世界に出、安定した情緒をもっている。そういうのを安心という。その安心の教が第一章 第二章 第三章である。

 信心、安心はどうしてできるのか。その根本は弥陀の本願である。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」というところに安心の根本がある。これが第一章。我々は何か心を安らかにするのが安心だと思うが、そうではない。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」というところに安心があるのである。

 それをも少し具体的に言うのが第二章である。それは「と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」。根本的には弥陀の本願であるが具体的にはどうなるのが安心なのかというと「親鸞におきては『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』とよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」と、よき人の仰せを被るということが安心を得る具体的方法である。小さな小さな私、その心は不安と恐れと劣等感でかたまっているが、教を聞いて安心の天地、信心の天地に出すのはたった一つ弥陀の本願によるということが根本である。これが第一章。

 その弥陀の本願が具体的に私に届くには、「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず、仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば法然の仰せそらごとならんや」、釈尊にはじまる伝承のよき人の領解を貫いて遂に法然が現われ「よき人の仰せを被りて信ずる」ということになる。これが第二章である。大いなるものが私に到り届くために、具体的には伝承の歴史を頂くのである。それを通して本願を頂くのである。

 第三章はどうなっているか。本願がよき人の仰せを通して私に到り届くと、「他力をたのみたてまつる悪人」の誕生となってくる。それを安心という。悪人とは自覚されたる悪人である。他力をたのみたてまつる悪人の自覚を生むのである。安心の内容、信心の内容というものが第三章に出ている。この三章が安心訓である。

 『歎異抄』は「耳の底にとどまるところ、いささかこれをしるす」と前序に出ているが、「いささかこれをしるす」といいながらすぐれた配慮がなされ、心づかいのゆきとどいた順序配列があって、第一章、二章、三章という配列が非常によく整えられている。人間のもつ本当の信心、安心というのは「他力をたのみたてまつる悪人」の誕生である。悪人とは罪悪深重といい、仏に対し親に対し妻に対し夫に対して悪人である。そのことが本当にわかった者が正しい機、本願の正しい目当て、南無阿弥陀仏の成立する対象である。これを悪人正機といい、第三章の問題である。これが信心の人である。

 ひるがえって、この世における我々の問題は何か。いつの世にも、どのような立場の人にも、善悪、よしあしという問題は人のいる所につきまとって離れない問題である。先ず我々は人の事を考える。まわりにいる人、親、子、あるいは夫、妻に対してよしあしを考える。また広く社会に対し、職場に対してよしあしということをいつも考えているわけである。悪をあのようにのさばらせておいてはいけないのではないか、一遍きびしく言わねばならんのではないか、善い事を実行しなければならないのではないか、というふうによしあしという問題が人間のあるところ一生ついてまわる。その善悪という問題の解決が大きな問題である。

 この問題の解決はどこにあるのか。先ず自分が何であるかがわかるということがなくてはなちない。自分自身は何であるかがわからねばならない、即ち、我々自身が善人であるのか悪人であるのか、いやそのような平面的な考え方でなしに、本当に仏法に照らされてみると、人間我々はどういうものであるかがはっきりしないと善悪という問題は解決しない。それがはっきりするのが信心である。

 更にいえば宿業がわかること。業とは、ある因縁のもとにその人がぶつからざるを得ない現実である。この業ということがはっきりわかることが大事である。これはまだ説明を要するが、先に結論だけ申しておく。

 宿業とわかるとはどういうことか。それは赦されてあるということである。仏によって赦されてあると知ること。これは非常に誤解を受けやすいし、わかりにくいことである。逆に言うと、赦すというところに善悪という問題の根本的な解決がある。悪い事をした者が赦される筈がないではないかと思うのであるが、あなたは何か、いや私は何であるのか、その私に大きな願いがかけられ本願がかけられている。「たすけんと思召したちける本願」がかけられているとはどういう事かというと、その事自体が私が赦されてあるということである。私を赦そうとするものが本願であって、そのことがわかると我々は善悪に対する根本的な改革を持つようになる。

 人間の持つ大きな問題の一つは善悪という問題である。もう一つは愛情である。愛情とは何かというと、夫婦、親子等に対する人間の深いつながりである。E.フロムは『愛するということ』という本の中で、本当の愛情とは深い尊敬と連帯と責任と配慮であると言っている。単に、可愛がっているとか愛しているとかいうのではなく、深い尊敬をもつ。そして切っても切れない結びつき、連帯、相手に対する深い責任感、それに心遣い、これが愛情の中心であると言われている。この愛情を人間が本当に持ち得るということが人間としての課題である。心に深い愛情を持つ、そして善悪という問題に対すら考え方をしっかり持っているということは、人間にとって大事な根本的課題である。これはどんなに時代が変ろうとしっかり考えねばならぬことである。

 今日、人々の間が非常に断絶している。これをどうしたらよいか。人に対して「友よ!」というよびかけがなければならない。嫁に対し子に対し老人に対し、友よとよびかけることが本当の愛情である。それが第四章、第五章の問題である。そのような人間を生み出すもの、それが第三章の悪人の自覚である。

 悪人正機というのは、自分自身が一体何であるのかということを問題にするものである。それが第三章である。この第三章がやがて第四章、第五章を生むのである。第三章と第四、五章の間にこのようなつながりがあると高原覚正師(『歎異鈔集記』)は指摘されている。

  

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