五、ただ念仏して

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 「ただ」とは、このこと一つというのであります。ただこのこと一つ。二つない。ただ一つ念仏一つである。それを今「ただ」という。これについて誤りやすい例をあげて比較してみます。

 蓮如上人の書かれた『御文章』というのがある。この中に「ただ」という言葉を幾つか使ってある。たとえば三帖目第四通に「ただ声に出して南無弥陀仏とばかり称うれば極楽に往生すべきように思いはべり、それは大きにおぼつかなきことなり」とある。もう一つ、五帖目第十一通に「何の分別もなく口にただ称名ばかりを称えたらば極楽に往生すべきように思え、それは大きにおぼつかなき次第なり」と、両方ともに厳しいお誡めです。

 そうすると、この「ただ」と「ただ念仏」の「ただ」とどこが違うか。蓮如上人は「ただ声に出して」「ただ口に称名ばかり」即ちただ口先だけで南無阿弥陀仏と申す、そういうことを戒められている。これはただ南無阿弥陀仏一つというふうにもみえるけれど、そうではなくただ口先だけである。そういう「ただ」である。「ただ念仏」というのは南無阿弥陀仏とただ口でいうだけではない。口先だけで声に出して南無阿弥陀仏というのでなしに、いわば「一行一心専復専」である。これは善導大師のお言葉であるが、専復専はセンプセンと読む。「一行一心もっぱらにしてもっぱらなれ」という教。はじめの尊は一行即ちただ念仏、復専は一心。信心決定してただ念仏する。一行一心。ただ念仏、ただ信心。南無阿弥陀仏というものは大行のままが至心、信楽、欲生、それが私に届いて一行一信となる。これが「ただ念仏」となるのである。

 ただこのこと一つという。ここには深い選択、これを仏教読みにすると、呉音で発音してセンジャクと読む。法然上人の書かれた『選択本願念仏集』。略して『選択集』という。選もえらぶ、択もえらぶ。えらびえらぶということである。

 誰が選択するのか。普通の場合、我々人間である。我々が何をなすべきか、いかにあるべきかを選択する。我々の選択は理性、理知、知性というものを基にして選ぶ。しかしそこには、このこと一つというものはなかなか無い。或るたった一つのものに最高の価値があるという結論は我々の理性では出し得ない。そう決めるわけにはいかん。

 行として大切なものは、大体五つ位になるのであります。その一つは読誦。これは読むということ。次に観察。観察とは考える、或いは思索。次は礼拝、称名。インドの礼拝は五体投地と申しまして、大地に体を投げ出して頭を地にすりつけて礼拝する。称名というのは南無阿弥陀仏と念仏申す。そして讃嘆供養。だが、どの行が一番傑れていて、ただこのこと一つといえるかは理性の上からは殆んど不可能だと思う。皆同じような価値がある、理性からいえばみんなやらなければいかんということになる。これがわれらの選択である。この中のどれかを一つ選ぶとなると、自分の出来やすいもの、或いは仏教において過去にいい伝えられてきたものを基準として選ぶということになろう。われらの選択は理性による限り、結論的なこのこと一つというものはなかなか出てこない。それが普通であろう。しかるに「ただ念仏して」となるのはなぜか。「ただ」というものが出てくるのは「われ」というものの追求である。

 これは少し横道になりますが、自由という、自由とは自らによるということで、現代は自由の時代であるといわれる。仏教も自由ということをめざしている。自らによるということが仏教の最後の問題であり、自由な人間をつくることが究極の目標である。けれども仏教のいう自由は普通とは違う。自らによるというが、その自らとは何か。生まれて、大きくなって、煩悩をかかえて右往左往しているこの人間を「自ら」というのか。それとも人間革命によって新しく転回された「自ら」をいうのか、そこが問題である。

 ここに卵を「自ら」というのか。それとも、この卵はヒヨコになる可能性を持っているが、そのヒヨコを「自ら」というのか、そこが問題である。その「自ら」を深めて真の「自ら」となって、本当の自由になれというのが仏教の中心課題である。我々は「われ」というものは何かということを追求してゆかねばならない。

 『観無量寿経』に九品を説く。九品とは上品、中品、下品があり、それぞれが更に上、中、下に分けてある。先ず上品即ちAクラスの人間について説く。それは大乗善、即ち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知慧という六度の行、特に人のために尽すということができる者をAクラスという。次に中品で小乗善というものを説く。即ち自分自身の確立、人に迷惑をかけないで守るべきところを守り、戒律を保ち、自己を確立していくようなもの、それを中品と説く。次にBクラスの終りに世間の善、即ち道徳を実行できる人、親に孝を尽し、世間のために慈愛をつくすのが中品下生、これがBクラスの下の人であるという。下品とはCクラス、ここで初めて念仏を申すということが出ている。念仏ということが『観経』に出てくるのは下品である。ABCとつけられたら、初めから自分はCだと思っている人は一人もいない。たといAクラスには入れないでも、せめてBクラス位ではないかと思う。新聞などでよく見るが、生活程度というのを調査すると、「私は中流程度です」というのが非常に多いそうです。AではないがCではないと思っている。これが我々の意識でありましょう。Bの最後は親という問題であり、また慈愛である。こうなると次第に自信がゆらいできます。

 頭では出来ると考える。だがこれでは観念的である。それを打ち破るものは、自己の追求という一点だけである。その関門として親に孝、世間に愛、ということがある。親に孝というが我々は親には非常に強い反発心を持つ。小さい時は別として、大きくなると親と対立してくる。親孝行というようなことはほとんどしたことがない。親の思いはしりぞけてでも自分の考えを通したい。それが私の現実である。そうなると我々は、Bクラスからだんだんと転落してくるのではないか。どこに、Cクラスに。Cクラスに説かれているものが念仏であるとすると、そこに暗示されているものは、我等の理性、知性の破綻において「念仏」というものがでてくるのではなかろうかということである。

 安田理深師は「もし本願に遇う資格が要るとするならば、プラトンにならって考えると、それは悲劇というものに会うことであろう」と言われる。悲劇とはたとえば愛し合っている者が別れていく愛別離苦、かわいい我が子が死んでいくことである。私の先生は十八願への転回の一つの因は苦労をすることだと言われた。また一つ、頭を下げることだと言われた。

 これらを別の角度からいうと、ごまかさせない現実にあうことだと思います。事実を厳粛に見ていく。その代表者が親鸞という人であろう。現実をごまかさない、またそれが自分をごまかさないことである。そのことが仏法を深めていく上で大きな条件であると思うのであります。悲劇は待っていても来ないかも知れないが、待っていなくても来るものであろう。しかし何がきてもごまかさないということは、いつも考えていかなくてはならない大事なことです。「ただ念仏」ということは、自己をごまかさないで現実にぶつかることから生まれるといえます。

 もう一つある。それは如来の選択という問題である。如来の選択である。我々は、如来とか仏とかは、初めは馬耳東風であり気にかけない、しかし如来の選択がある。それを本願と申す。それを如来の選択本願という。いわゆる四十八願、『大無量寿経』に説くところの本願、その選択本願とは何か。選択し選択しぬかれたその最後の本願を「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という。これを南無阿弥陀仏という。それを説くものが浄土三部経である。選択本願が南無阿弥陀仏である。これを今、ごく概略を申しあげます。

 大きな大きなものが、小さな小さな世界に願っているもの、それを本願と申します。いつも申しますように、ここに種があるとする。この種が発芽するために何が必要か。この種の発芽を待っているものを大きなものという。この種に対して大地が与えられ、水と光が与えられてはじめて発芽する。大地、水、光、それを他力というのであります。種が自分で大地を作り、光を作るわけにはいかない。種は大きなものの働きがなければ発芽はできない。そこに与えられねばならないものを大地と水と光といい、その大地を浄土というのである。その光を光明といい、光の世界を無量光明土といい、浄土という。浄土の具体的な働きが光であり水である。これを諸仏称名という、名号という。南無阿弥陀仏の名号を十方の諸仏が讃えてくれる、即ち十方諸仏の讃える南無阿弥陀仏のその名号、これが浄土の働きなのです。それによって発芽するのである。水はよき師(諸仏の因の姿)、光は教、これをだんだんわかって欲しいと思います。

 親鸞という人は、いかにして発芽したか。それは法然上人に遇うたからであります。法然上人に遇うたということは、それは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という教に遇うたのである。その「ただ念仏して」を南無といい、「弥陀にたすけられまいらすべし」これを阿弥陀仏という。曾我量深先生がそう言われています。親鸞聖人は「南無阿弥陀仏一つ」というよき人の教を聞いたのであります。光と水が浸みこんできて、そこに届いてくるものが南無阿弥陀仏である。大地の中から浸み出てくる水が、十方諸仏、それがよき師よき友。これを通して、南無阿弥陀仏が届いて私に生まれてくるのである。如来の選択とは「ただ念仏」せよということにきわまる。それが届いて明らかにわかるところを信という。それを廻心という。厚い自分の殻が破れて発芽する。その出てきたところを信というのである。よき師よき友を通して光が届くと、信というものが必ず成立するようになっている。これを一行一心という。

 一行一心専復専。如来の内なる思いを本願という。それが表われたところを如来の行という。これを「内心境に渉る」という。如来それ自体を如来の行という。それを「ただ念仏」「南無阿弥陀仏」という。これが我々に届くところに我等の心の転回がある。それを信というのである。そのためには機の成就ということがなければならない。機とは人間の心である。その機が転回しなければならない。それがあって初めて、如来の選択本願の行が我等の選択の行となるのである。

 人間が成長していくにはどうしたらよいか。それには食べることが必要である。食(ジキ)という。食物が我等を養い、だんだんと成長するもとになる。食べないと成長しない。どんな重病人でも食物が咽喉を通りはじめたら回復の見通しがついたということになり、どんな健康な人でも何も食べないということになると、行く先まっくらである。食べるということが大事である。そこで食べるということをつけ加えておきます。

 世間の食べ物を世間食という。それは段食、触食、思食、識食の四つがある。段食とは、御飯、麺類、スパゲッティ等をいう。なぜかというと分段又は分断といい、幾つかに分けて食べる。一年分をいっぺんに食べるわけにはいかない。三日分食べておくというわけにはいかないので、分けて食べねばならないから段食という。つまり普通の食べ物である。これだけが食べ物かというとそうではない。

 次を触食という。これは我々の感覚に触れるもの、即ち六根にふれるものを食べているという。たとえば目で食べていると申します。試みに御飯を犬の皿に入れ、おかずを猫の皿についで食べようとすると、いかに空腹でも食欲は出てこない。見た目が汚い。また、まっくらな闇の中で食べる、これも味気ない。やはり我々は明るいところできれいな盛り合せがしてあって、きれいな皿で出されたものに食欲をそそられるのである。たしかに目で食べるという一面がある真また、耳で食べる。となりでおやじがガミガミいうとせっかくの御馳走も味気ない。バック・グラウンド・ミュージックというが、音楽を聞きながら食べたり、親しい友と和やかに話したりしながら食べるとおいしい。このように耳で食べている一面がある。鼻でも食べる。悪い臭いのものはのどを通らない。このように六根に触れるもので食べている。

 次に思食という。思いとは希望をいっている。明日死刑になるということになりますと、どんなに山海の珍味が出ても食べられないだろう。癌であと三ヶ月しかもたいということになると、ガクッと食欲が落ちる。我々は希望があるから食べられる。希望がなくなると食べられない。希望を食べているという一面があり、こういうのを思念と申します。

 また識食という。識別して食べる。これはおふくろが作った御馳走だ、これはうちの畑で出来た大根だということになりますと、特別の味がある。このように食べるとは、食べ物と共に環境を食べていると、仏教では申すのであります。人に御馳走でもしようという時には、新しいテーブルかけをかけて、きれいな皿に盛って、花でもかざって、みんなで和気あいあいとやると、これが本当の御馳走です。ただ単にたべものがあればいいというのではありません。そういうものを世間食という。

 また、出世間食ということをいう。出世間食とは、心の食べ物である。心の食べ物を食べていくのが成長である。心の食べ物を食べさせないで体の食べ物だけ食べさせるものだから、いつまでたっても心は小さい時と変らない。人間の欲求や自己中心の思いというものは少しも直らない。この出世間食を仏法の食べ物と申します。これによってだんだんと心が成長していくのである。そして法が届いてくるのである。

 出世間食の一つは禅定食(禅悦食)という。悦とは喜びであり、禅とは心の落ちつきをいう。これが心の食べ物である。それから法喜食。これは仏法を喜ぶ、法を喜ぶということが心の念となる。念食、これは億念をいい、心の中に深い世界を憶う。或いは仏を憶い、よき師を憶い、よき友を憶い、教を憶う。そういうのが心の食べ物となる。願食、自分だけのことでなしに、一人でも仏法を勧めていき、あるいは自分自身も更に深まっていかねばならない。そういう願いを持つことが心の食である。解脱食、これは煩悩に引きずり廻されないで、それからだんだんと解き放されていくことを申します。この五つが心の食べ物であります。

 食ということでもう一つ考えねばならないことは、食べるためには歯が丈夫で胃も腸も丈夫であるということが必要である。そうでないと食べることができない。しかしながら、初めから歯が丈夫で胃も腸も丈夫であるという人は一人もいない。初めは赤ん坊であり、歯は一本も生えていない。胃も腸も弱い。固い物を食べると下痢をする。この胃腸はどうして丈夫になるのかというと、先ず食べられるものを食べる。赤ん坊ならば乳であり、流動食である。これを食べているうちにだんだんと歯ができる。固いものも次第に食べられるようになる。

 同じように心の食べ物においても、最も大切なのは教を聞く耳を持つことである。この耳は教を聞いていくことによって大きくなり立派になる。法を聞くということが中心であり、出発点である。聞法が心の食べ物である。けれども教法が初めからわかる人は誰もいない。しかし、わかるところだけでも聞いていく、いや聞いているうちにわかるところがとりいれられていく。そうするうちにやがて歯が、胃腸ができる。初めわからんから聞かないというのではどうしようもない。それは、まだ歯が生えていないから食べないというのと同じである。食べているうちに歯が生えるのだという一面がある。だんだんできてくるのである。即ち如来の法が機において成就するには時を要する。南無阿弥陀仏という弥陀の誓願、その本願の行というものはすでに『大無量寿経』に明らかにされ、すでに釈尊、龍樹、天親、そして親鸞、三世十方の諸仏を経て我等の上に到達している。しかし我々はそれを食べるすべを知らない。心が成長していない。したがってわかるところだけでも食べていくことが必要である。わかるところを食べていくことによって、だんだん心が成長してくる。そしてとうとうはっきりわかるようになり、咀嚼(そしゃく)できるようになっていく。それを機の成就という。その時に向こうの言われることが本当にわかるのである。それを如来の選択が自己の選択となるという。大事なことは食べていくことである。教法を聞いていくことが大事である。「ただ念仏」ということは、「ただ念仏」という教を聞きぬいて広まれる自覚であり、行である。

 われらにおける選択ができるためにはその基盤に、ごまかさないということが大切である。順逆二境の中で現実をとりおとさないで法を聞いていく。そこに遂に生まれるものを信という。信は如来のまごころ、それが私にとどいて一心となる。一行一心。一行は如来の行、それが私にわかって一心となり、そこにまた一行というものがでてくる。それを行信行次第という。仏念が届いて念仏が生まれる。如来の行が届かないで、ただ口先だけで念仏しているのを「ただ声ばかり称名する」という。そうではない。行信行である。即ち「ただ念仏して」というのは、教を本当に聞きぬいて、そこに生まれてくるものを「ただ念仏」といわれるのである。

 「ただ念仏」ということは、もう一ついうならば親鸞聖人の全生活である。「ただ念仏」とは、念仏生活即ち生活のすべてが念仏中心である。念仏というものによって成り立っている。これを「ただ念仏」というのである。口先だけの問題でない。一行一心である。また、生活全体である。それを「ただ」という。

 生活とは何か。かねて申すように一つは活、一つは生。仏教ではこのように分けていう。活とは食べていくことである。小学生にとっては宿題をすることも活である。この世で仕事をもって生きてゆくことを活命という。受験も就職も教育も、この世のことはみな活という。食べていくということに関係している。しかし活命だけで終ってしまって、生が忘れられている。

 生とは何か。それは生き甲斐という問題である。何のために生きているのかという問題を生の問題という。仏教では(しょう)という。後生の一大事、往生の一大事という。何のために生きているのか。何のために生まれたのか、この問題を追求するのが仏法であるといえる。人間は活で忙しい間は、何のために生きているのかなどと考えない。が、活がパタッと止むと、生が問題になって出てくる。病気になったり老人になったりすると、私の一生は果して何であったろうかと考える。しかし、活が止まったときでは少し遅いのです。

 私は福岡朝日文化センターという所で、新聞社の「心の教室」というのを引き受けた。色々な人が見えますが、半分は婦人で女。半分は停年退職した人とかその他色々な人が来られます。心の支えになるものを求めたいという人たちです。毎週二時間、一月四回、六か月単位ということになっている。授業料は一月二千円です。講師を頼まれて、色々考えたあげく、結局行くことにしました。面白いですね。私が今まで接したことのないような人に接することができました。大体お寺にまいらない人です。一時間半程話をして、三十分座談会をする。色々な話が出まして、みんなの前でプライベイトな話も出てくる。だんだんと親鸞という人もわかってもらいました。とうとう一人の人が「あなたの信者になりたい」と言われた。これには参った。しかし何とか一つはっきりしたいと願うことです。

 この生の問題がはっきりすると、活というものもはっきりする。生と活と合わせてこれが念仏生活です。何のために生きているのかという問題がわかると、何のために就職し結婚し、子供を育てているのかということがわかるのです。活を貫く生という問題を解決するならば、その生は活を貫いていく。それを生活という。生活が成り立つ。生活のすべてが意味づけられる。私の一生は何のためにあるのか。そういうふうなものを独断的に考えるのでなく、主観的に思うのでない。教に聞いてゆく。問題は生というところにある。

 生とは生きるということ、また、生まれるということ。本当に生まれ本当に生きることによって、それが活に響いてくるのである。人はすべて自分の生活の道具として仏教を求める。これが先ず初めである。どのように人生を考えていったらよいか、どのように過したら幸せになれるか。仏法というものを聞いてそれを参考意見にして、私の生活を成り立たせよう、私が生きていくための道具にしようとする。そうではなくて全生活を貫き通し、私の生涯を意味あらしめる教を持つ。言いかえると、教をいただくための生涯、これを「ただ念仏」という。「ただ念仏して」というところに、親鸞聖人の全生涯がある。聖人は全生活を念仏に捧げられた。彼の生活を貫くものは本願念仏であった。

 私共の先生はこういう表現で言われました。「念仏成就のための人生か、人生成就のための念仏か」。人生成就のための念仏とは、道具としての念仏です。一方は教をいただき念仏を貫いていくための人生。ここに大きな分かれ目があります。初めはみんな人生成就のための念仏ですね。私もそうでした。その限り「ただ念仏」ということにはならない。念仏のほかにやらねばならぬことが沢山ある。あれも必要、これも必要ということになる。即ち生活中心の人生です。いや、活だけの人生です。

 選択というのでも少し説明しておきます。ここに種がある、種が殻の中にとじこもっている限り、彼の人生は一つしかないんです、それは世間道という人生である、世間の中を生きるしかない。これを活という。それしかない。けれども、もし彼が根を下ろし発芽したらどうなるか。そのよってもって立つ大地を出世間道という。仏道という。発芽するとこの種は二つの世界を持つ。世間道と仏道、これが二つであってしかも一つであり、一つであってしかも二つである。それを生活の中心を持っているという。それを念仏生活という。活だけしかない人生か、生活のある人生か。本当の生活か、あるいは活のみか。この生活ということが成り立つ本源が念仏である。だんだんと大地に根を伸ばしていくということがそのまま、上に伸びていくことである。上に伸びることと下に伸びることと二つあるのではない。二つのままが一つである。二つありながら一つ、これを念仏生活というのである。「ただ念仏して」というのは、生活が生まれることである。

 具体的にはどういうことか。「ただ念仏」という世界に出ると、この世は恩徳報謝である。報恩行である。仏の恩に報いるための、大きな世界に出させていただいたそれに報いるための報恩の行をつくす世界である。名聞のためでなく、利養のためでなく、仏法のために役に立っていきたい、その働き場がこの世間である。

 ニーチェは人間には三つの段階があるという。初めはラクダという。動物のラクダです。ラクダとして先ず出発する。ラクダはおとなしいが、厳しい砂漠を重い荷を負うて、何も食べないでゆっくりゆっくり歩いて人を運んで行く。どんな苦しみの中でもこれを耐えて進んで行く。こういう段階をラクダと言っている。その次はライオン。ラクダで終るのでなしに、次にライオンにならねばならない。一人の独立者としてわが道をゆく。そして最後は子どもになる。子どもとは遊びである。遊びとは、儲けても損してもいいのである。集めたものはみんな紙きれとかメンコみたいなものである。仏法の言葉でいうと、薗林遊戯地(おんりんゆげじ)という。そういう転回を子どもであらわしている。なかなか面白い。これを「ただ念仏して」という。何もやらんのではない。大いにやるが、こだわらない。執われない。そういう面を持っている。それを報恩行という。それを「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という。これを念仏生活のすべてが一つのもので貫かれている。それを「ただ」というのである。

 この念仏生活「ただ念仏して」は、師法然上人の仰せです。そのままが親鸞聖人の生活です。師の教を頂きぬいて、わが生涯を尽すところに「ただ」がある。真の生活とは、教えを頂いて一道を進むところにある。一貫しぬくところに真の人生々活がある。

 「ただ念仏して」というのは、師と共なる人生、教と共なる生活、そのままが、大いなるものを生きる生活、そこに真の生があり、同時に真の活が成り立つことを知らされることであります。

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