十四、独立者の誕生

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 仏教のめざすところは一つ、独立者の誕生ということである。独立者の反対を奴隷という。奴隷からの解放ということが仏法のめざす目標である。仏法を聞いてゆくとその結果として必ず生まれるのが奴隷からの解放である。奴隷解放を真の自由という。

 自由とは何か。自らに由るである。由るとは依り処を持っている、自分の原点を持っていることをいう。原点とは物を考えていく一番中心点である。その上に立ってそこから物を計るわけであり、発想をする。依り所が自らであるということが大切なことである。

 しかし自らとは何か。自らとは生まれたままのこの私か、も少し深い自己か。ドングリは固い殻の中にとじこもっているが、これは親木から生まれてきた時の姿である。この自己によるのか、それとも光と水を得て穀を破って発芽し、苗木になって大きな世界に芽を出したその自己によるのか。自己とは何かが大事な問題である。我々が自己と思っている自己は殻の中に閉じこめられた小さな自己ではないのか。この小さな自己によるというのか。それともその小さな自己を破って生まれた大きな自己によるのか。そこが大事な問題である。

 この小さな自己を奴隷という。何の奴隷か。それは自己中心の殻に閉じこめられた奴隷である。この自己中心の殻の中に閉ざされている閉鎖的な自己を依りどころにしていていいのか。

 先ず小さな自らの殻から脱却して大きな自己が建設されねばならない。この大きな自己に依って他に依らない。これが本当の自由ではないのか。我々はいかなるものの奴隷になっているかというとまず欲である。またナルシシズムである。ナルキッソスというギリシャ神話に出てくる美青年が、ビーナスの魔術にかかって自分自身しか愛することができなくなった。いわゆる自己陶酔、自己愛着である。彼はいつも泉に写る自己の姿に陶酔してじっとみとれていた。そしてだんだんやせ細って死んでしまった。そして水仙になった。これをナルシシズムという。自己の主観に閉じこもって人の言うことを聞かない。こういうナルシシズムの奴隷になって、いるのではないか。自己の体験の奴隷になっていないか。その他、神様、祟り、迷信の奴隷になっていないか。そして先生の奴隷になっていないか。

 本当の独立者は何物の奴隷にもならない。奴隷とは繋縛(けいばく)である。縛られている。だから自由がない。宗教自身も一つの繋縛になることがある。宗教をやめようと思うがやめられない。みんなに引っぱり出され、文句を言われ、なかなかやめることも出来ない宗教もある。新聞に出ていましたが、中学生が野球部から出たいというと、バットで殴りつけられたという。宗教も同じで、やめようとしてもなかなかやめにくいというものもある。解放を目的にした宗教にかえって縛られることもあるのである。

 親鸞というお方は徹底した人ですね。「面々の御計なり」。あなた方お一人お一人のお考え次第である。あなた方がお決めになる事である。このようにあらゆる人を縛から解き放って、取る取らないはその人達の自由にまかせる。そこに独立者の風貌がある。自らが独立者であるところには、「面々の御計なり」と最後にはすべてを自由の天地に放って、自らは独り進むという趣があるのでございます。

 それは冷たいじゃないか、もう少し暖かく頑張れと励ますのが本当ではないかとも言えましょう。しかしこの親鸞聖人のお言葉の意味をはっきりわからねばならない。

 奴隷からの解放とは縛から放たれるということである。殻から出るということである。エゴが殻であろう。また欲、ナルシシズム、体験、神仏、先生などが穀となり、自分はその召使いになる。それを奴隷といい縛というのである。そうではなくて私の方が主人にならねばならない。私を縛りつける何ものをも持たない、それを独立者という。独立者の誕生が大切である。

 奴隷は道具として存在している。男性と女性でも、自己の欲求を満足する道具として相手を愛するのである。相手は欲を果たす道具であり、物体である。そこにはいのちがない。

 命を持つとはどういうことか。卵を親鶏が温めて、親鶏の命が体温として伝わってヒヨコになった時に、卵は物体ではなくなる。卵という物でなくなる。生きたヒヨコになる。これを奴隷解放という。

 これを独立者の誕生という。親鶏と共に歩き、仲間と共に進む。「ここに餌があるぞ」「そこは危ない」と皆を呼び、語りかける。このような働きかけ、智慧、愛情というものがはじめて生まれてくる。これを独立者という。いのちがあるという。

 物体にすぎなかったものが生きてくる。それがいのちである。いのちはいのちあるものによって与えられる。物体はそのいのちを賜っていのちある存在となる。

 独立者が誕生すると、人を奴隷として扱うことができなくなる。友よ!というよびかけを持つようになる。「友よ、一緒に頑張ろうよ」とよびかける。奴隷同志はお互いにナルシシズムの中に閉じこもって、人をまた奴隷扱いする。現在の資本主義の時代は、人を道具として扱い、労働力とみている。できるだけ安く働かせようとする。これが道具化である。共産主義は道具化ではないのではないかというとそうではない。共産主義も道具化である。革命のためには、血を流すのはやむを得ないと言っている。道具化の悲劇は自分が相手を道具化することによって、自分自身も人間性を喪失して道具になっているということです。これが現在の悲劇ですね。

 鶏をやしなうと、早く育ててブロイラーにして売ろう、出来るだけ能率よく卵を生ませようと小さな籠に入れて水をやり電燈をつけ、早く大きくなれ、一つでもよけいに卵を生めと言っている。鶏は金儲けの道具、物体である。そしてそのままこちらもまた道具になっている。血も涙もかれ果てたアニマルになっている。欠陥人間になっているのである。これをブーバーはIch-Esという。私-それの私である。

 私の家にも鶏がいる。大きいのが五羽、これはもうおばあさん。次がおばちゃん位で九羽。それにヤングが八羽。みんなで二十二羽いる。毎日これを外に出してやる。鶏は頭は小さいが考える力はある。こちらの言うことがわかる。餌をやる時はコツコツと入れ物を叩くと寄ってくる。畑に入る鶏には「畑に入っちゃいかん」というと、うなずいて出て行く。大分しこんである。只今兎のテスト中です。兎はなかなかうまくいかない。外に出してやると「帰ってこい」といってもなかなか帰ってこない。もう三匹失敗しました。

 偉いおばあさんがいて言われた。「私は鶏に餌をやる時、いつも言ってやるんです。お前は今度生まれてくる時は人間に生まれてこいよ、そして仏法を聞いてくれよ」と。この人は偉いですね。こういうのをIch-Duというのである。友よ!である。友よとよびかけるところに、この鶏も道具でない。ということは、この人自身が本当の人間である。人を、そして生き物を道具として扱い得ない。こういう人を独立者というのである。

 本当の人間、この独立者が師であるならば弟子に対して「わしのいう通りにせよ」とはならない。「友よ!」という深い深い願いを持つ。彼を自由の天地に放って、「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまた棄てんとも面々の御計なり」というものを持つ。その底には「どうか必ず道に立ってくれよ」というあついあつい願いがあるのである。聖人は『正信偈』の終りに、
  道俗時衆共同心 (出家も在家も、あらゆる人々よ、共に心を同じくして)
  唯可信斯高僧説 (ただこの高僧の説を聞いてゆこう。)
と結ばれている。これは私を奴隷にしようとするのではない、独立者の心です。

 しかしこれではあまりにも美しいが、非現実的であって、そんなことでは聖人についてゆく人は一人もいないだろう、も少ししっかり皆を洗脳して引っ張っていくべきだという説もあるかも知れない。が、そうではない。仏教はこのような行き方をして伝わってきたのでございます。

 本当の自由人、独立者が仏教を伝えてきたのである。何者からも縛られなかった人、彼等が伝えたのが自由の宗教である。数の勢力は弱いかも知れない。しかし真の勢力というのはこれだけであろう。無理は一つもない。自然であり、道理にかない、本願の生きた姿であるから揺がないのである。仏法はこのよう独立者を生みつつ、このような独立者によって伝承されてきたのである。

 その弟子が独立者であるならば、自由の天地に放たれてもなおかつ帰ってくる。南無阿弥陀仏という喚びかけに帰ってくる。義理でなく、人情でなく、人間的愛情でなく、何ものにも縛られるのでなく、自らに由って帰ってくる。これを帰依三宝という。ここに本願の世界があり、親鸞聖人の世界があるのでございます。

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