三、すくい

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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1 普通の考え

 先ず「たすけられる」ということについて普通に考える常識的な考え方というものを、例をあげて考えてみたい。ここにねずみの家庭があったとする。そのねずみにとってたすけられるとはどういうことか。仮にこのねずみがねずみ教という宗教に入ったとします。このねずみ教ではどういうふうにたすけられるか。ねずみ教の教主に色々のお供え物をし、お祈りをし、また行事にも参加して、そのおかげで一家健康で、経済の面でも安定が得られ、この不況の中でも何とか食っていける。色々の願いごと、例えば子供の受験などが順調に叶う。これを一言で言えば幸せということになる。その他、種々のトラブルが解決する。つまり問題の解決、こういうふうなことがたすけられることである。ところがここに問題が出てきた。この信者のねずみが、ある目突然猫に出合って首っ玉を押えつけられて食われそうになった。こうなっては日頃の幸せも問題の解決もどこかへ行ってしまう。このねずみはたすかりようがない。万一たすかるとすれば何かが現れて猫を追っ払ってくれる、あるいはやっつけてくれる、さもなければ自分に不思議な力が湧き起って猫をやっつける。つまり何かそこに神秘的なものが現れる。そういうことがたすかるということであろう。そういうのを我々はたすかるという。普通の宗教はそのたすかるということを目的にしているわけです。ところが神様に祈ったがどうにもならない。とうとうかじられ食われてしまった。殺される時にそのねずみは言った。「これ程願っておるのにたすけて貰えんとは、神も仏もあるものか」。これを聞いておった息子のねずみは教主に文句を言った。「あれ程熱心にやっておった親父が猫に食われて死にました。神も仏もあるものかと言いながら死んだんです」。するとこの教主は厳然として言った。「あれは信心が足らんからじゃ」。信心が足らんという一言で片付けられた。「そういう猫に逢うわけがない」とまあ言いのがれのような話で終るわけです。

 本願の宗教では、猫に押えつけられているねずみが食われようとしている場合にたすかるとはどういうことか。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」というのは、どうなるのをたすかるというのか。そこの所が大事な問題である。それは悠々として食われていくのである。私の業として、悠々として食われていくのである。

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2 救済と自覚

 真の救済ということは一面では救われるということであるが、他の一面は自覚である。自覚ということが成り立たなければ救済ということも成り立たない。自覚というのはめざめである。たすかるということと、めざめるということは裏表である。これについてもう少し言いますと、アランという人がいる。この人はフランスの哲学者でして『幸福論』という書物を書いた。三木清がこの中の文章をうまく引用しています。「本当の幸せとは、それがもし得られたならば他の幸せは衣服を脱ぎ捨てるように捨てることができる。しかしその幸せだけはもはや脱ぎ捨てることができない。なぜかというとそれは彼自身だからである」。ねずみ教では幸せというものは外側につけるものです。私という本体に健康あるいは財産あるいは家庭などたくさん何かをつけていくことを、幸せが生まれると言います。ところがアランは、こういうものは脱ぎ捨ててしまうことができるという。本当の幸福というものは彼自身の身についたもの、彼自身に密着し取り去ることのできないものである。密着したという面白い表現をしている。

 仏教ではどういうかと言いますと、幸福だけを言わないで、本当の幸せは智慧が伴うので福智という。外側につけるものではなしに、内側に智慧が開けるのである。その智慧が開けるままが福と智が離れなくなるのである。智とは智徳であり、それがその身に生まれる。即ちその身につくのである。その身に密着するのである。体得されるのである。彼に本当の智慧、本当の徳が体得される。身について得られる。そこに幸せがある。

 ここに卵があるとします。その卵にとって幸せとは何か。卵にとってたすけられるとは何か。それはこの卵の置き場所を店先から冷蔵庫の中に変えた、あるいは床の間に飾っておいた、金の箱に入れた。そういうふうに入れ物や場所を変えることがたすかることか。それは違いますね。卵の殻に色を塗ることか。そうすれば見た目は上等に見えるが、こうするのが卵の幸せか。違ってますね。身についたということは、卵を温めて、そして目玉ができ嘴や羽が生えてヒヨコになることである。こういう問題を自覚といいます。そしてとうとう殻を破って広い世界に出ていく。それが救済であり自覚である。これがたすけられるということである。たすけられるとは彼が真の自己形成を遂げることである。いわば彼が彼になることである。卵が本当にヒヨコになることである。

 智慧とはどういうことか。龍樹菩薩は堪受力、いわゆる受けとめる力と申します。智慧が与えられるとは受けとめる力が与えられる、即ち何が出てきましでも受けとめる力がある、忍は堪える。忍ぶということ。しかし歯を食いしばって堪えるというのではなく、また目玉をひん剥いて忍ぶのでもない。悠々と忍んでいくのである。悠々と忍んでいくとは本当に受けとめることである。本当に受けとめるとは、私の業として受けとめるのである。悲壮な覚悟で受けとめるのでなしに、私のための仏道として受けとめるのである。こういうことを昔の人は私の業として受けとめると申しました。私の業として受けとめる。私は現在、業という言葉はあまりよい言葉ではないと思うのです。何か縛られたような、どうしようもないような感じがするからです。業というのは私のための仏道として受けとめるということ、それが智慧であり、徳である。私の業として、いや私のための仏道として受けとめる。明るいですね。

 ここに一本の木がある。彼は大地を持っており、そこに根を伸ばし、そこから水を吸収し養分を吸収している。そこに大風が吹いてきて枝が折れた。その木はそういうものを受けとめるしかないわけですね。私の方は九州でございますが、玄海灘から吹いて来る強い季節風が松林に北西の方から吹きますから、木が風によって虐げられ自分の思う通りに伸びない。けれども曲がりながら伸びている。そこに真すぐ伸びていった木とは全く違った風情が生まれる。何とも言えないですね。本当に風情があります。これを受けとめるという。

 本当に大地を持っておるもの、そしてそこから養分を取り水分を取っておるものは、たとえ枝が打ち砕かれようと、鳥が来て糞をしようと、虫がついて葉が食い荒されようとそれを受けとめている。歯を食いしばって頑張っておるのでなしに、それを念仏の材料としそれを南無阿弥陀仏という念仏として受けとめて自己形成をする。そういう世界があるのである。こういうふうなのを堪受と言います。要するに生命のあるものであってはじめてそれを受けとめる力が与えられる。堪えるのでなく念仏の種として受けとめる力ができる。従って先程のねずみが首玉を押さえた猫によってかじられようとするとき、これは悠々としてかじられることができる。これを私は業として、ここに私の業があったかと悠々として死んでいく。そこに本当の智慧がある。そこに本当の救済がある。

 そこに変革されるもの、変えられるものがあるのです。安田理深先生の表現を借りると、一つは時が変わるということです。時が変わるということは時間が変わることです。時間とは何か。我々の持っている時間はその一番はじめは誕生である。いわゆる母親の胎内からオギャーと生まれた。そしていつかわからないが、或る所までいってそこで死ぬわけです。それを死亡という、この間が私の時間である。「今何才ですか」、「当年とって何才です」ということになる。時をそういうふうに我々は普段考えているのです。こういうふうなものを物理的、機械的あるいは暦で計った、あるいは時計で計った時間といいます。「弥陀の誓願不思議にたすけられる」と、時間が変ってくるのです。どういうことかというと、質的に変ってくるのです。時間にも質的と量的な時間とがありまして、みな量的な時間を考え、長生きをしたいと思う。三年でも五年でもより長く生きたいという。量的な時間を考えている。しかし、養護老人ホームのベッドの中で三年も五年も長生きしたからといって必ずしも幸せかどうかわからない。質的というのはどういうことかというと内容が変わることです。空しかった時間が満ちてくる。空虚であった時間が感謝で満ちてくる。充実してくるのである。たとい量的には変らなくても質的に変わるのである。

 時間が質的に変わることをカイロスという。変った時間をカイロスという。カイロスというのはギリシャ語で切断、断ち切られるということです。単なる時間、物理的な時間が断ち切られ、そこから質的に違った時間が始まるのである。それは長い長い昔から私の存在の底を流れ、そして信の所から吹き出してきたものです。その吹き出した所を救済という。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」というその時である。その時から時間が変わるのです。それは久遠というものを考えるようになる。それは七百年前の親鸞、更に三千年前の釈尊、更には永遠、久遠ということにつながるのです。

 この『歎異抄』の前序で申すなら「(ひそか)に愚案を(めぐ)らして(ほぼ)古今を(かんが)ふるに」、「古」はいにしえ、「今」はいまですね。「粗古今を勘ふるに」ということは、長い長いというか広いというか、過去を考え未来を考える、尽未来際、未来際を尽すという、即ち久遠とか永遠とかというものを考えるということです。人類の運命というか、人類の行く末というか永遠の彼方を思う。残念ながら我々は昨日と今日と明日とを考える位しかない。それが人類の未来というようなことを考えるようになるのですね。死というのは通過点である。それ以上のものでもなくそれ以下のものでもない。新幹線の「ひかり」に乗って東京から京都まで行こうとすると、静岡や浜松は通過して行く。ああいう所を通過点という。死は私の業の果てる所、それが通過点として現れてくるわけです。それで終りではない。永遠というものにあずかるのであります。従って猫に押えつけられて、とうとう頭をかじられた。これが私の業の終る所です。しかし私の死ぬ時ではないのです。肉体は滅しようと永遠の時というものを与えられているのです。そういうものを無量寿という。無量寿の御いのちというものにあずかっている。それを帰命無量寿如来という。あるいは南無阿弥陀仏という。無量寿の御いのちにあずかる時に、すでに死というものを越えていくのである。死というものは問題にならないのである。

 同時にまた、智慧というものが与えられるのです。私共は不幸せや不安というものをたくさん持っているのですが、一番大きなものを不活畏といいます。それは食べていけないのではないかという問題です。不活というのは口濯ぎをするということ、おまんまが食べていけなくなるのではないか。そういう心配がなくなる。なぜなら智慧ができるからである。それは弥陀の誓願というものに遇うて智慧が与えられるからである。智慧ができますと少欲知足、足るを知る。足るを知ることが智慧である。私共はたくさんたくさん物を持っておりますが、実はそんなにいるものではないのです。しかしながらあれもいる、これもいると思っている。家内が言います。私の所は夫婦二人ですので色々仕事があります。そこで愚痴を言う。「あれもしなくちゃならん、これもしなくちゃならん、忙しい忙しい」と言います。そういうから忙しくなるのであって、あれをやってからこれをやると思ったら、一つも忙しくないのです。しかし、あれもやらねばならない、これもやらねばならないというと大変です。足るを知るというのは非常に大きな智慧がいるのです。また感謝、与えられたものに感謝する。それには大きな智慧がいる。食べていけるかという心配がなくなるというのには智慧というものがいる。いよいよ図ればそれに応じた生き方がある。そういうことがあって、不活畏というものがなくなる。救われるということは必ず変革というものをはらんでいる。その時に改革されるもの、変ってしまうものとして、時がある。智慧というものがある。

 もう一ついうならば「とらわれ」というものから解放されるのです。とらわれとは何か。それを執といいます。執というのは非常に難しいものです。執というものはいわば絶対にしてはならない、そうあってはならない、そういうふうに我々が思いこんでいるものです。そういうものから解放される、これが救われることです。自覚です。我々はとらわれるんですね。あまりよい例えではありませんが、私がお育てを被りました先生には、子供さんが二人ありました。しかしその奥さんとは離婚され、間もなく次の奥さんを貰われたのです。それは年の若い奥さんでありました。そこに非常に大きな非難が起りました。「大体宗教家が自分の妻を離婚するなんて。宗教家という者は女性関係において厳格であらねばならない」。これは我も人も共に思うことです。そうであらねばならない。そうでなければならないのにそうでない。そうするとそこに非難、攻撃そういうものが起るのである。それが人間の業であるということがわからない。我々は何かに対してとらわれている。夫というものはこうでなければならない。夫婦というものはこうでなけれあならない。妻というのはこうしてはならない。教育者はかくあらねばならない。そういうように、あるものを思いこんでいるのである。理想というものにとらわれ、そしてそれをもって人を批判する。それによって自分自身もふりまわされるのである。それを対象化という。傍観者の立場で考えている。理想というものをふりまわしているが、あなたとはつながっていない。生命が通っていない。対象化というのは固定化ともいいます。理想を固定化することによって、理想と現実の間に生命の通いというものがなくなるのです。それを法執という。人間が救われる、たすかるというのはどういうことかというと、それは正しく執というものが打ち砕かれることである。

 今のはあまり適切な例えになりませんでしたが、暁烏(あけがらす)(はや)という方がありまして、先頃『暁烏敏伝』という本が出ました。非常に厚い本であります。その暁烏先生は女性問題が多く、非常に多くの非難を被られた。私はそれが暁烏先生という人の非常に大きな転回、そういうものの契機であったろうと思います。なぜか?それはたすけられるということは、してはならない、そうあってはならない事実、それが私において現にあるという目覚め、これが大事なことである。あってはならない、そこまでならば執、それが私においてあるという目覚め、その時その執が打ち砕かれるのである。それは「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」という姿である。この言葉は『歎異抄』の第九章に出てきます。「われら」ということは複数に聞こえますが単数でありまして私、このような私ということです。それを「かくの如きのわれら」というのです。かくの如きのわれらというのが、それが自覚である。それは深い深い自覚である。それは現実に当って始めて生まれてくるのであります。「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」それが即ち「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせ」るということである。従って、暁烏先生のような場合、人が見たならば浮気としか見えないであろうが、そういう中から暁烏先生は転回されたのであろう。「かくの如きのわれら」を発見されたのであろう。そこに届く弥陀の大慈悲というものが頂かれたのだと思うのです。我々がたすけられるという問題は、深い自覚というものを伴うのである。

 たすけられるということは、弥陀の誓願不思議ということが本当に受けとめられる、いわゆる誓願を領受する、弥陀の誓願を体得することである。弥陀の誓願の対象がまさしくこの私であると明らかになることである。弥陀の誓願という言葉を別の言葉でいうと、至心廻向という。至心とはまごころである。まごころというのは如来の精一杯の心。廻向というのは如来によって我々に与えられるものをいう。それが至心廻向であります。たすけられるとは「至心に廻向したまえり」というもの、如来の廻向というものを受けとめる、そこに「たすけられまいらせ」るということがある。

 我々は空気を吸うている。食物や水は三日位口に入れなくても死にはしない。しかし空気はものの十分も吸わなければ窒息してしまう。空気というものは非常に大事なものである。しかし感謝なんてしたことがない。日頃、与えられているなんて考えたことはない。この空気は与えられている。空気といってもわれらは酸素をとるのであるが、酸素というのはつくられている。それは炭酸ガスからつくられている。下はプランクトン、上は植物の葉緑素の光合成によってつくられている。しかし誰も空気や木に感謝する者はいない。けれども汚染が進んで空気が汚れてくると、空気や木の緑の有難さがわかってくる。与えられているということがわかった時その自覚が救済である。われらに与えられているものを『教行信証』という。廻向というのは、例えば卵にとって廻向されるものは何かというと親鶏の働きかけであり、これによってたすかるということがある。ここにどんぐりの種があるとする。このどんぐりの種に廻向されているものは何か。それは太陽の光と水である。この二つの働きがあってはじめてこの種が根を出し芽を出し、そして伸びてゆくわけである。その光と水を受けとめてゆくところに、この木の実のたすかるということがあるのである。

 たすかるとは、廻向のものがらを受けとめていくということ、即ち『教行信証』を受けとめ領解してゆくことである。これを至心廻向といい、本願の成就という。我々に対する深い願いとその廻向が我々に受けとめられて「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 即得往生」となってゆく。

 本願成就。大変ややこしい語で申しわけありませんが、いわゆる大きな願いが私に届くという問題、その届くところに廻向が成就するのであります。その内容が廻向の内容であります。先ず「其の名号を聞く」ということ。「其の」というのはこれをよき師よき友という。何を廻向されているのかというと、よき師よき友を賜うている。名号というとこれは南無阿弥陀仏であるが、これをいうなれば、よき師よき友をとおして本願の教を賜わっているのである。

 今、春という世界に我々が出るということは、桜の花が咲いているのに出あうということである。梅の花はとうの昔に咲いた。ひばりが空高く飛んでピイチクピイチクと春を告げている。そういうものがあってはじめて春というものがわかるわけであり、春という世界に出たというのである。我々が念仏のよき師よき友に遇うということが、如来廻向に出遇うということである、それをたすかるというのである。

 マルチン・ブーバーという人はこのことをうまく言った。『われと汝』という論文の中で、「みめぐみによって『汝』が私とであう。すべて真の生はであいである」と言う。「私は『汝』とであうことによってわれとなる」。こういう意味の言葉がある。今大事なことは、みめぐみによってということである。そもそも私というものに対して人はどういう立場にいるか。また、私は人をどう思っているかというと、私−それと思っている。ドイツ語でいうとIch-Esである。英語ではI-itである。即ち我々は人を道具化しているのである。あなたは私の欲求を満たす道具である。あなたを求めているのは実は物として求めているのである。役に立つ存在としてあなたを欲している。道具化というのは欲求だけあって心が通わない。命が通わないのである。本当にたすけあっていくというのではなくて、役にたつ物として見ているのである。その時にあなたを汝と呼んでいるのではないという。われ−汝という汝は命の通うたもの、私と同体であって、もはや離れ得ないもの、私の半身であるようなもの、そういうふうなものを「私−汝」という。これをよき友というのである。この友とであうのは、みめぐみによって「汝」が私にであうというのである。これは実に素晴しい言葉である。

 これを日本語でいいかえれば、友は如来によって与えられたのである。真の友というのは、あなたが得よう得ようと努力しないでいいのである。それよりも、あなたが一道を歩いていくと如来によって与えられるのである。即ち、みめぐみによって賜うのである。したがって、たすかるということはどういうことかというと、そのみめぐみを受けとめた、即ちよき師よき友を得た、そこにたすかるという事実があるのです。私に賜うているものを私が本当に頂いた。それをたすかるというのである。親鸞聖人という方は二十九才で法然上人に出逢った。それがたすかったのである。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせ」たという事と同じことなのである。従って『歎異抄』第二章には「たとい法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」とある。そこに彼のたすかった姿があるわけである。それが廻向を頂くということである。もう一ついうなれば、聞くべき教えを頂いておるということであります。それがたすかっておるということであります。このことは大変簡単なように思いますが決してそうではない。

 我々はいざとなるとどこへ尋ねて行ってよいのかわからん。どういうことを中心に生きていってよいのかわからんのである。最近大阪で会を開くようになりまして、そこで一人の婦人に会いました。その人は主人と離婚して、たった一人の子供さんを育てておられた。その子を東京の大学へやっていたが、その子が、昨年大学三年の時部屋で自殺しておった。何で死んだのかわからん、遺書も何もない。母親はそれから狂わんばかりになっていた。それが縁で仏法の語を聞かれるようになった。もう一年以上になる。その人が言いなさる。「自分の所へ色々な人がきて、色々な宗教を信ぜよ、聞けと言うてくる。そういうものをしりぞけることができるようになってきた。そういうものに引っかからないようになってきた。聞くべき教というものがはっきりしてきた」という。聞其名号とは名告りです。それを聞く。まことに聞くべき教があるということが大事なことである。

 我々は学問といえば難しいことをおぼえて何でも解けるようになるのが学問だと思いますがそうではないですよ。何でもおぼえる、そういう勉強ばかりしていても駄目です。本当の学問というのはわからん問題にであった時、そのわからんことは何を調べたらわかるかということが、わかるようになることが大事なことです。こういう問題は誰に聞いたらわかるか知っておるということが大事なのです。これはいらん話になりましたが、我々はどう生きたらよいかというその問題に答えてくれる教を頂いている。それを聞きぬいてそれを領解することがたすかるということです。したがってたすかってないとはどんな状態か。聞くべき教を持たないということです。よき師よき友というものを持たないということです。それがたすかっていないということです。そしていわゆる乃至一念、これが行ということ。念仏という行を賜うている。念仏といえば南無阿弥陀仏という。これは今や落語とか講談とか漫才とかで人を笑わせる材料になっている。近頃はもはや笑いもしなくなって忘れ去られている状態であるが、念仏はまあ大変なことである。この意味が本当にわかり、念仏というものが本当に賜うているものであるとわかる時、そこに本当に広い世界が開けてくるのであります。自分の行というものを賜うている。そして目覚め、信というものを賜うている。そして遂に即得往生――これを証という。悟りという。そういう世界を賜うている。これを至心廻向を領受すると申すのであります。

 ドングリの種がたすからないとはどういうことか。それは太陽の光が照っているのに、それが至心廻向されているのにそれを受けとらない。これをたすからないというのである。水が働きかけてこのドングリの実を潤そうとしているのに、それをシャットアウトして受けとらない。それをたすかってない状態と申すのである。従って人は本当に受けとるということがなきゃいかん。それを受けとめてくると中にしみこんできて、それが働きかけてきて、ドングリはこの小さな殻を破って根をおろし、芽を出して伸びてくるようになるのである。これは先のねずみ教のたすかったというのとは違う。そういうものでなしに大きな働きというものを受けとめることができたのである。

 このような廻向を受けとめるためにはどうしたらよいのか。それは何よりも親近ということである。何に親近するかというと、よき師よき友に近づいていく。その人にまず近づくということである。足を運んで行くということであります。このことで大事な問題は、物を言うということである。物を言うというのは言葉を言うことであります。お礼をいう、質問する、自分の感想や意見を述べる、これらが親近ということの内容であります。

 次に恭敬ということである。恭というのは頭を低くして謙遜する。敬は相手をうやまう。恭敬の反対を憍慢という。自分が高い所に立っていて相手を批判しながら聞いていては受けとめようがない。恭敬というのは自分をからにして聞くということである。コップがあるとする。そのコップをうつむけておくと、水をどれだけ入れてみても一滴も入らない。コップを上に向けていないと水が入らない。恭敬というのは自分を空しくして相手のいうことを聞くことである。

 最後に供養ということ。供養というのは何か。一つは財供養。この度この会は、田中先生にお世話頂いて会員の皆さんから会費を出して頂くようになったということでありますが、私の心としては会費など出していらない、一人でも多く来て頂ければそれが本望です。しかし一面から考えますと、ただというのはあんまりよくないのです。本を作ってもこれをただであげたらあんまり読み手がない。三百円でも五百円でも金を貰わないといけないという一面がある。それが読んでもらう秘訣です。人間というものはおかしなもので買うたのなら読む。御法もそうです。仏法はただで聞いていると身につかない。やはり自分の金を出して聞く時、はじめて受けとめるということができる。これが供養ということである。もう一つは法供養である。その法のために自分のあらゆるものを捧げて聞きぬいていく。いわゆる捧げるという気持ちというものが大事なことであります。

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