九 摂取不捨

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

 1.利益 2.二益法門と一益法門 3.摂取不捨

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1 利益(りやく)

 「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」

 すなわちというのは、即座に、直ちにということでございます。ここにいう利益とは何であろう。利益とは結果の一つであります。一つというのはどういうことかといいますと、本当の結果のあらわれる最初のしるしで、それを現益(げんやく)と申します。

 すべて宗教の内容は教、行、証といえる。教を行じていくとそこに結果が出てきます。その結果を一言で言えば証といい、これをさとりと申します、そのさとりに伴って起ってくる現実を利益というのであります。現実という言葉ではうまく言えませんが、例えて言うと、現在田植が方々で進んでおりますが秋になりますと実りを生じて、そこでもみが採れるわけであります。もみが採れるというのが田植の結果であり、それが証果であります。米がとれるとそれに伴って必ず(わら)がとれます。その藁の方を利益と申すのでございます。したがって利益というのは結果に必ずついて起ってくるものであります。藁の方はまだ米の実がとれる前から現実にできている。米のとれるしるしとしてできている。浄土真宗、本願の宗教では証というのは米であり、藁の方が利益である。そういうふうに二つ申すのでございます。いま念仏申さんと思いたつ心のおこる時、即座に、そこに利益が現われてくる。それは証果、即ちさとりの世界を得る身と定まるしるしであってこれを現益と申します。実際に利益が現われる。しかしそれだけでなしにそれは証果への道に立つとき随伴するもの、必ず伴ってくるものである。それが摂取不捨という利益である。

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2 二益(にやく)法門と一益(いちやく)法門

 そこで摂取不捨の利益とは何かということであります。宗教は大きく分けて二益法門と一益法門の二つになります。従来の浄土門では教を聞いて念仏申しましても、この世では我等は畢竟(ひっきょう)凡夫であり、死後に浄土に生まれて仏となると申してきました。こういうのを一益法門と言います。それは死んでから先に利益があるので、これを当益(とうやく)と申します。当とは将来で、まさにあるべき利益。したがって死ぬ時に仏に迎えられるとか、また死んでから極楽に往生していくというふうに、未来の利益を説くのが普通の浄土門でございます。それに対して聖道門ではこの世でさとりをひらいて覚者となる。死んでから先でなく、いま、この世でさとりをひらいて覚者或いは仏陀となる。これを即身成仏と申します。このように現世の利益というものを主張する。一方はあの世でと言い、一方はこの世でという、これをともに一益法門と申します。聖道門は人間が煩悩を抱えている身であることを忘れて理想に走り、いわば人間の分際を無視しているものである。しかしながら浄土門がこの世では駄目だ、死んでからさきと言うのは、深い本願のおもむき、本願のお心というものを知らない。一方は行き過ぎ、一方は行き足りない。

 本当の宗教に立てば、この世ではっきりしたものが生まれなければいけない。従ってこの地上を生き抜く上の大きな力が現実に与えられるものでなければならない。それと共にこの世だけではない、この世の煩悩の果てる所に、更に大きな世界が開けてくるということが約束づけられなければならない。これを二益法門と申すのであります。二益というのは現在(現益)と未来(当益)の両方にわたって、明らかな結果というものが生まれてくる。これを二益と申すのでございます。現益を摂取不捨といい、また正定聚不退の位、あるいは不退転の菩薩と申します。当益は必ず滅度に至る、必至滅度と申します。

 必ずこの二つが同時に成立する。これを浄土真実の宗教というのでございます。大きな大きな海がある。こちらに高い高い山がありましてその頂に池がある。池は堅い岩にかこまれて、この池の水は出ることが出来ない。この池の水がいわば人間の現在である。人間は大きなとらわれにとり囲まれてこれを出ることができない。どういうものにとり囲まれているか。これをいうなれば自己中心の煩悩というものである。この山に名前をつけるならば憍慢山と言えましょう。憍慢山の上に池があって、その中に人間の心は閉じ込められている。いま「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつ心の(おこ)る時」この堅い岩が打ち砕かれたならばこの池の水は流れ出る。海に向って流れ出る。それは直ちに起るのであります。これを「すなわち」という。それは一度流れ始めると後戻りして元の池にかえるということはない。必ず海に向って前進して行くのである。それを不退という。そういうものがこの世においてこの人間我々の上に生まれてくるのであって、これを現益というのであります。そして遂に海へ入って行くのである。この海を滅度という。滅度とは涅槃、或いはさとりの世界、大いなる世界ということです。その大いなる世界に入ってしまうのは今ではない。今は山をかけ下りている段階。しかし必ず海に入るようになっている。そういう立場に立たされる。従って当来、即ち将来必ずそうなるので海に入るのを当益という。人間は小さな池を出て必ず本願の海の中に入って仏陀となる。こういう立場に立たされるので現当二益法門と申すのであります。本願を頂いても我等は凡夫である。憍慢山の中にいる。けれどもそこにはすでに今までと違った新しい世界に生まれ出る。これが現在の利益ですね。と共に煩悩の果てる所、山の尽きる所必ず大きな海へ帰入していくのである。これを必ず滅度に至る、涅槃、真如の世界に至るという。この世とあの世、二つの世界を持つのでございます。それを夜が明けたとも言うのである。夜は明けたが真昼間になったのかというと、まだなっていない。いわば(あかつき)であります。暁に立ったわけであります。暁というのはまだ闇が残っている。けれども、もはや真暗ではない。東はすでに明るい、そして少しずつ明るくなっている。太陽が真上に輝く時が必ずくるのである。けれども今は暁闇である。無上浄信の暁という言葉がありますが、暁闇に立つ、これを二益法門という表現で表わすのであります。そこに人間の分際がある。その上に成立する大悲がある。そういうことを現当二益と表わすのであります。

 私共に今一番大事な問題は何であろうか。それは勿論、現実人生を生き抜くという問題であります。この生きぬくということのために何が要るのか。例えば椰子の実、椰子の木から生み出された状態が椰子の実であって、堅い殻の中に胚芽が秘められている。これが海の上に浮かんで流されているこの椰子の実がどういうふうに生きたらよいのか。椰子の実がどんなに頑張ってみても、海の中にいる限り風が吹けば流され、潮が流れてくれば押し流されてゆくほかはない。結局、流転、行きつ戻りつというだけである。そういう中でどう生きるかとなると、いわゆる処世術というものを考えるしかない。テクニックでございます。つまりどのようにしたらうまく金が貯まるかとか健康であるかとか、要するに生きるという問題が処世術で終るわけでございます。が、どのように生きようとも流転であることには変りない。この椰子の実が本当に生きるということは椰子の木になることである。これが仏教です。それには生まれ出るということが大事である。発芽することが大切である。そのために必要なものは唯一つ、大地であります。陸地に辿り着く、或いは島に打ち寄せられると、そこで初めて大地を持って、椰子の実は発芽することができる。そしてもはやどのような波風にも動かされない、一つの大きなよりどころを持ってくるのであります。そのよりどころを与えられる、それが二益法門ということなのであります。大地を与えられるとそこで発芽が起り、根をおろし芽が伸びる。大地を与えられた者において発芽がある、この発芽を念仏申さんと思いたつ心のおこる時という。この時直ちに起ってくるのが彼の堅い殻が破れるということであります。そしてそこに深い根を下ろしてくる。そしてもはや流転をうち止めされて、方向を持ち、依りどころを持つ存在となる。それがいわゆる現益であります。処世術ではなくて生まれ出てくる、これを摂取不捨と申します。そしてだんだんと椰子の実から椰子の木へと伸びてゆき、遂に大きな一本の木となっていく。それは今から先の問題である。それを当益と申します。それは必ず伸びていくのである。現実の世界では必ずしもそうはいきませんが、仏法の世界では必ずです。今はまだ小さい、殻を出たばかりであるけれども、これが大きく美しく伸びてゆくべき立場に立たされた。それを生まれ出る、真に生きると申すのでございますこれを二益法門と申します。

 なぜそうなるのかというと、これは弥陀の誓願でございます。浄土真宗というのはその依りどころを無量寿経と申します。無量寿ということを問題にしているのであります。『仏説無量寿経』上下二巻(『大経』)と『観無量寿経』(『観経』)、『阿弥陀経』(『小経』)を浄土三部経と申しまして、この中に弥陀の誓願というものを説いているのでございます。その三部経に共通なものは無量寿ということであります。阿弥陀というのはいわゆるサンスクリットで無量寿ということを言うのでございまして、正確には無量寿、無量光と言うのであります。いま無量寿というと長生きをする、長寿であることと考えるが無量寿とはそういうことではなく、いのちということを言おうとしているのであります。命というものが大事である。命のないもの、それは物質といいます。例えばここにホンコン・フラワーがある。この花は良くできている。色も形も良くできているが、これは物質である。なぜかというと、これには命がないからであります。色々なものを寄せ集めてしばりつけただけである。しかし命がないから香りもないし蝶も蜂も飛んでこない。働きがない。人間も命がないと物質になる。物欲或いは財欲等にふり回されてそこに命がない。命というのは何かというと、人に対する深い愛情、思いやり、更には智慧或いは働き。命のない人間とはそういうふうなものがない。あるのはエゴと申しますか、自己主張の考えだけ、自己中心だけてあります。それは人間という一つの形をした、いわば物、アニマルになっているわけであります。我々の結婚というのも、いわばアニマルとして結婚するというのが殆んど全部であります。初め愛情がありましてもだんだんと無くなり、或いは尊敬がありましてもだんだんと無くなり、ただ欲で結びついているだけ。こういうふうなものを物質化していると申します。人間としての命を持たぬアニマルとして生活しているわけであります。

 無量寿とは何かというと、それはこのようなアニマル化しているもの、或いは物質になっているものに本当の命を与えようとするもの、それが無量寿というのであり、それを無量寿経と申すのであります。弥陀の本願というのはそういうものですね。この椰子は椰子という物体である。ただ海をあちらこちらにさまよっている物体であった。さきに申した池の水は山の頂のただ単なる水という物質であった。そういうふうなものは何等の動きも働きかけも持たない。弥陀の誓願というのは、この命なきものを命たらしめたいという誓願である。無量寿たらしめたいという願いである。

 無量寿たらしめたいというのはどういうことかというと、長生きさせたいというようなのではない。長生きしても養老院や老人ホームのベッドの上で百年、二百年生きて植物人間のようでは生きているとは言えない。本当の人間として生きるということが大事である。即ちそこにホンコン・フラワーのような物質でなく働きを持つ。そこに感謝があり、深い懺悔があり、深い愛情があり、深い智慧がある。たとい肉体の働きを失っても、そういうものにつながっているということ、これが大切な問題であります。この椰子の実が椰子の木として生まれ出るというのは命の問題であります。この物体を生きた命あるものにする、これが大地というものの働きであり、この大地からの働きかけがそこに命を支えるわけであります。それを無量寿経と言います。それは死んでから先に与えられるのではなしに、直ちに与えられるのであります。「すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と申し、これを現益と申します。これを生まれ出るという表現で言うのであります。今までは物体でありアニマルであったものが、命を与えられて立ち上って、そこに命なきものが遂に愛と智とを持ち、働きのあるものになる。そこに初めて自己中心の殻が破れて芽が出てくるのであります。初めて池から水が流れ出してくるのであります。そういうふうなものは直ちにでございます。従ってこの命というものの上に立つならば、或いはこの命というものを我々が頂くならば、初めてそこで生きるということが成り立つ。生きるという所で物の見方が変ってくる。今までは殻の中で考えていた。何を考えていたか。先ずそれは、人はどう思うかという名聞であります。人がどう思うか、人に良い所を見せたいということ。また、打算、即ち損をしたくないという利養。負けてはならないという勝他。そういうものが物を考える基準になっていた。そういうものをアニマル、物体と申します。もっとも仏教ではアニマルとは言わないで地獄、餓鬼、畜生と申します。地獄、餓鬼、畜生の世界に堕ちておったわけであります。感謝もなければ、御恩でございますというものもない。いつも不平不満にふり回されている。これを物質化している、アニマル化していると申します。それを打ち砕かれる、これが生きる、生まれるという問題であり、それは直ちにであります。なぜ生まれ出るかというと、それは命を与えられるからである。繰り返しますがそれが直ちに、即刻であり、それで即ちという。それではこの殻は全部破れてしまったかというとそうはいかない。まだまだ残っている。しかしながらすでに芽が出てきたのである。この芽は今から必ず更に伸びてゆき、遂に大きな存在となっていくのでございます。これを「現当二益」と申します。

 名聞、利養、勝他、これらはいわば殻の中にいて、閉鎖的で殻に閉じこもっている者の心であります。それが破れたというのは、大きな世界に顔を出すようになったことである。これを如来の前を生きる、或いは如来の前なる生活をするようになると申すのであります。仏が生きる相手になる。西郷隆盛は「人を相手にせず、天を相手にせよ」と言った。それが「敬天愛人」となる、即ち天を敬い人を愛する人物が生まれる。これは陽明学という儒教の学問から出た言葉であると言われておりますが、これは深い宗教の世界を出している。仏の前を生きる時、同時に人に対しても深い深いよびかけを持つようになます。人を愛し天を敬し、天を敬い人を愛するという、本当に人になる。ここに命を与えられるのである。命を与えられるもとを無量寿というのであります。

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3 摂取不捨(せっしゅふしゃ)

 さて摂取不捨とは具体的には何か。摂取不捨の利益にあずけしめたまうとは何か。摂取不捨とは、摂め取って捨てずという言葉でございますが、これは『観無量寿経』の中に出てくる言葉でございます。「光明徧照十方世界、念仏衆生摂取不捨」というのであります。これについて親鸞聖人は『末燈鈔』の中で「尋ね仰せられて候ふ摂取不捨の事は『般舟三昧行道往生讃』と申すに仰せられて候ふを見まゐらせ候へば「釈迦如来、弥陀仏、吾等が慈悲の父母にて様々の方便にてわれらが無上の信心を開き起こさせたまふ」と候へば、まことの信心の定まることは釈迦、弥陀の御はからひと見えて候。往生の心うたがひ無くなり候ふは摂取せられまゐらせたる故と見えて候。摂取の上にはともかくも行者のはからいあるべからず候。浄土へ往生するまでは不退の位にておはしまし候へば「正定聚の位となづけておはしますことにて候ふなり。まことの信心をば釈迦如来、弥陀如来二尊の御計にて発起せしめたまひ候ふと見えて候へば、信心の定まると申すは摂取にあづかる時にて候ふなり。その後は正定聚の位にてまことに浄土へ生まるるまでは候ふべしと見え候ふなり」。まず信心の定まることを言われておる。「往生の心うたがい無くなり候うは摂取せられまいらせたる故と見えて候」。

 さて、この信心という問題であります。信心、この問題ほど誤解のあるものはありません。信心というのは先ず信じ込むとこういうふうに思われておりますが、そういうことではありません。或いは盲信、又は狂信というものではありません。信心というのは一言でいえば明らかになるということ。明らかになるというのは何かといいますと、本当の認識が生まれるということです。真の認識が生まれる、それを不疑という。

 人間には誰にも初めは信というものは無いのであります。求道の一番初めを資糧位と申します。これは聞いて考えるということで、これが第一の段階であります。仏教を求めていくのには資糧位というのが一番初めである。資糧位というのは、もとでになる、そういうものを集めるという段階でございます。そこでかねて申しますように、聞いて考えるということが大事なのです。ここで信じるということを強制する、或いは要求するということは間違いであります。宗教によっては、これを非常に強制するものがある。「信ずる者が救われる」と、こう言うのであります。そうでなくて聞いて考えて、理解しなければいけない。どんなものかということがわからなければならない。そのためには尋ねなければならない。聞、思、尋求といいます。これが仏教の特色です。

 第二の段階は加行位(修行)という段階で、これは実行するということです。ここまでなかなかいかないのであります。そして遂に、その果てに現われますのが通達位と申して、これを信の位と申すのであります。ここで初めて明らかに信になるのであります。次が修習位であります。殻が破れた、それを信というのであり、そこから水が流れ出て海へ向って進む、これを修習位と申します。

 摂取不捨とは何か。それは信心の定まることである。仏法を求めぬいて真の認識が生まれてきた。何に対してかというと、それは私自身に対する真の認識を得るのであります。同時に、大きな世界というものについて明らかになる。それを信というのです。これを現益と申すのであります。これは必ずできるのであります。人間の努力でできるのであれば、必ずしもできるとは限らないけれども、これは仏の誓願である。十方衆生徧く皆の上にかけられている誓願によるのであって、それ故必ずできるようになっている。それでは私共は何もしないでよいのかというとそうではない、資糧位、加行位ということがあるのである。自ら努力し聞いて考えて、実行し質問するということがなければならない。そういうことの後に、誓願によって生まれてくるものである。これを蓮如上人は「聴聞を心に入れ申さば御慈悲にて候ふ間、信を獲べきなり」と申された。かくて遂に海へ入る。それを当益というのであります。

 信を得る。これは信じ込むことでなく明らかになる、自分自身が明らかになるのであります。ソクラテスは「汝自身を知れ」というデルフォイの神の言葉を頂いた。汝自身を知ったらどうなるか。これがなかなかわからないのであります。しかし先ず「汝自身を知る」にはどうしたらよいか、その道がさきにいうように、第一の資糧位から出発して第二の加行位へ進んでゆく、即ち進展してゆく。このためにはどういうことが必要であるかというと、四ついわれてあります。その第一は因力であります。これはあなた自身の深い宿縁である。或いは宿善である。深い深い過去の善根の集積である。我々は今日ここに仏法を聞いているのでありますが、それは尊い因縁があるのである。道綽禅師はこう申されました。「今日仏法の座に連なって仏法を聞こうとする者は、その過去の中に恒河砂(ごうがしゃ)の仏に遇うたのである」。ガンジス河の砂の数ほどの、無数の仏に遇った過去の宿善が、人を仏法の座に連れ回すと申された。これを宿善といいます。次に大事なことは資糧を積まなければいけないということ、これが第二です。資糧位から加行位へ進むには、あなた自身が努力してもとでになるものを集めなければいけない。即ちよく聞く、或いはよく本を読む、こういうことであります。第三は友であります。よき友によって勧められ、励まされ、その人を手本に学ぶ、こういう善友というものが必要である。第四は決意である。決心である。あなたが決心しなければいけない。どういう決心かというと、最後の最後までやりぬくぞという決心であります。どれ程たくさんの人が仏教に関心を持って出発したことか。たくさんの人が聞法を始めるのですが、大半は途中でやめる。加行位まで達しない。加行とは念仏を申すということ、「南無阿弥陀仏」と念仏することであります。そこまでなかなかいかない。それには努力が必要なのであります。そしてどこまでもやりぬく、たとえ石に噛りついてでも自分はやりぬくという決意が必要である。これは大体『成唯識論』にあることであります。

 それでは加行位から通達位へいくにはどういうことが必要であるかといいますと、『歎異抄』の前序の中で言われているように「幸に有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得ん哉」という言葉があります。いうなればよき師よき友が必要である。なぜ必要か。これは具体的な実例がわからないと、最後の認識が出てこないのであります。私の前に具体的に本願に生きる人がいないと、観念的な所で止まってしまうのであります。具体的な人とは、法然上人に親鸞聖人がお通いした。そして本当に、念仏とはこういうものと身をもって具体的に教えられた。これがよき人の働きというものであります。もう一ついえば苦労というもの。安田理深先生が、「プラトンは、哲学を学ぶ者には一つの資格が要る。その資格とは、幾何学をマスターした人でなければ哲学はわからない、と言った。本当に念仏がわかるのに資格が要るとするならば、それはおそらく苦労をすることだろう」と言われた。これは非常によい所を言っておられると感心しました。苦労という意味はなかなか難しい。色々な人生体験を経て、或いは貧乏したり、或いは子供を亡くしたり、或いは色々の苦しみに会って、そこでコツンと頭を打ちつけるわけであります。その所で自分自身を知る明らかなチャンスを与えられる。そういうふうなものを苦労という言葉で表わされたのでありましょう。私の先生は「二十願の世界を出るためには苦労すること、もう一つは頭を下げること」と申されました。さてそこで、信心の定まること、これを摂取不捨と申すのであります。ここで我々は初めて自分の大地を与えられて、その大地の中から本当の命というものを頂くのでございます。大地とは何か、これはいわゆる僧伽ということであります。仏法僧の三宝のまします世界、これを大地というのであります。そこには仏がある。仏とは法を説く人であります。そこには仏法が説かれている。そして仏法を行ずるよきひとよき友がある。そこに教が生きている。そういう世界を三宝まします世界といいます。それを与えられること、そこに大地があるわけでございます。それを僧伽といい、その根源を浄土と申します。僧伽とは、そこで仏法が説かれている、そこに仏法を生きている人がいる、そういう世界をいう。信心が定まるというのは、僧伽を持つことによって成就するのであります。親鸞聖人は法然上人にお遇いになって、そこで仏法の生きている世界に出られたわけである。そこに初めて仏法が明らかになり自己が明らかになったのである。いわゆる本当の認識を与えられたのであります。それを、摂め取って捨てずと申すのであります。信心の定まる、そのことが摂取不捨なのであります。

 摂取不捨の利益とは何か。それは信心定まる時にあらわれる利益です。これを親鸞聖人は現生十種の益といわれた。その中に喜び(明るい)というのがある。これを心多歓喜の益といいます。心に歓喜多しということですね。人はある時には大きな口をあいて笑えるように幸せな事があるけれども、しかしながら深い悲しみの中に落ちて、涙ながらに日を送らなければならないこともある。が、この人はどんな時も喜びを持ち明るさを持っている。どんな苦しみの中に入っても心に歓喜多し。歓喜というのは喜びであります。その喜びは顔だけの喜びではない。人がいるから無理矢理に笑い顔をしているのではない。本当に心からの明るさを持っている。これを心多歓喜の益と申すのであります。

 我々人間全体に共通のもので、それに縛られると、喜びと明るさを失ってくるというものがある。その一つは劣等感であります。劣等感というのは心理学では、理想の姿、あるべき姿、又は他人の姿と比べて起る不完全感情というふうにいってあります。不完全感情とは不満感或いは不安定な感情で、いわゆる情緒不安定、或いは無力感、或いは罪悪感、こういうふうなものを総称して劣等感というのであります。不安感というのはおずおずした何か落ちつきのない感情である。無力感というのは、自分のような者は世の中の役に立たない。自分が生きていることがかえって皆の邪魔になるのではないかというような、自信を失った状態。罪悪感というのは、自分の犯した事はまことに深い罪で、自分のような愚かな罪人は生きる価値がないのだと自分自身をさいなむ心、それらを劣等感と申します。

 この劣等感は色々な所に現われてきますが、だいたい小中学校時代など年少の時には、自分の家の職業とか家が貧しいとかいうことが気にかかる。私も非常に劣等感の塊みたいな時代を長く持っておりました。それはやはり少年の時であり自分の家のことでありました。第二は環境、自分の家庭環境であります。それから自分の体。肥えておるとかやせておるとか、背が高いとか低いとか、眼鏡をかけているとか、そういうことが或る時期には非常に胸を痛める問題となるのであります。ですから私は学生には「女性の前で肥えておるとかやせておるとか言わないがよい」と言うのですが、どうも男性にはよくわからないらしいですね。しかしそういうことが女性には痛切に感じられる時期がありますね。これもある時期までで、青年期になりますとそれらはやむを得ない事と超越できるようになりますが、その時期になると今度は自分の性格が問題になる。内気で人に物が言えないとか、軽卒ですぐにとちってしまうとか、或いは非常にのんびりしすぎて人についていけないとか、そういう性格的なことが問題になる。最後に自分の才能というものがあります。どうしても他人に比べて負けている、そういうふうなものがでてくる。これらは非常に深い、いわば人間の心の奥にある問題で、しかも皆が持っている問題であります。

 この劣等感を解決しなければ本当の明るさというものは出てこない。この劣等感の解決の仕方というのが幾つかあります。気持ちの持ち方を変える、これは一つの方法ですね。それは要求水準を下げるということでございます。大学に通らないでもよいではないか、短大でもいいではないか、短大へ行かなくても高校だけでいいのではないか、そんな人もたくさんいるというふうにレベルを下げて考える。こういうのが心理的な療法ですね。もう一つは価値観。即ち外側が問題ではないのではないか、内側が問題である。「埴生(はにゅう)の宿」という歌がありますが、たとえ家は小さくてもよいではないか、その中にいる者が仲よく手を取り合って、しっかりやっていく事が大切。外側だけが問題ではない。外側がよくても中味が悪ければ何にもならない。背は高かろうと低かろうと仕方がない。中味が問題だという価値観の転換。これらはなかなか人々を元気づける力を持っております。ある時期にはこれで非常にうまくゆけます。が、これは根本的な解決ではありません。一種の心理療法である。要求水準を下げるということで本当に解決するといえるかどうか。なる程苦しみは無くなるかも知れないが、人間としての甘えが出るのではないか。価値観の転換といい、中味が中味がということを言いますが、それでは中味というのは何なのか。それは非常に主観的なところに陥ってい客観性というものを備えていないのではないかという疑問がある。要するにこれは徹底性を欠いているという感じを免れないのであります。

 仏教の考えは徹底的である。仏教はそういうことではすまさない。仏教は、劣等感の根本は我慢、慢という煩悩であるという。この我慢は、人間の深い深層意識(マナ識)に横たわっている、人と比較するという心理である。人と比較をして自分の方が高くないと気持ちが悪い。そういう非常に根本的なものである。この我慢を打ち砕く、そこに劣等感の根本的な排除というものが成り立つのであります。先程申しました高い山の池の水の周囲をふさいでいる岩が問題で、それは気持ちの持ち方で直るというものでなしに、それは打ち砕かれなければならないものであります。それを打ち砕かれると、人は他人と自分を比べなくなる。そこに根本的な解決がある。なぜそうなるか、それは十方の衆生よと喚びかけられる仏の心というものがわかるからであります。そこに根本的な解決ができて、何等彼を縛るものがなくなって、深い深い喜び、徹底的な明るさを持つようになるのでございます。今まではよそに比べて金が無いとか、背が高いとか低いとか、自分の性格を考えてつまらないとか、そういうことを言っていたが、椰子の実が殻を破って広い世界に生きてゆくと、この殻が破れる所に我慢が破れるのである。即ち劣等感の根源が破れ、そこに徹底的な明るさを持つようになる。それを心多歓喜という。これを信心の利益の第七番目に挙げておられるのであります。

 もう一つ挙げると、転悪成善の益であります。これはどういうことかといいますと、どんな苦しい事に出逢っても、どんなにがい経験も生きてくる。悪というのは罪悪、最悪といい、愚かなことを致しますと自分で苦しむのである。悪いことをした人をあまり責めなくてもよいのであります。なぜかというと自分でその罪を受けて、自分を責めて後悔しているからでございます。しかしながら悪い所がわからないという人もおりますから言わなければいけないということもあります。しかし悪い事をすると人は必ず深い後悔をしております。後悔を悪作というそうです。悪を憎むという意味で、悪作とはした事を憎むことです。どうしてあんなことをしたのだろうかと、自分で自分を憎む、それを後悔といいます。そういうにがい経験を人は持つ。信心の利益というのは転悪成善といい、それがどんなににがい辛い経験であろうとも、引きちぎって捨てたいような経験であろうとも、それが善となって生きてくる。それはその悪事が私に念仏を申させてくれ、私自身を知らしてくれる母体となるからであります。それが自己自身を知る、深い生きたものになるのでございます。従って悪に苦しめられず常に明るいのであります。善があれば仏のおかげと感謝し、悪が起れば自己自身を知らされ、何がおきても明るいのであります。

 人は多くのとらわれ(執)を持っております。この執というのはどういうものかといいますと、これだけは許せないというものを持つのであります。自分自身に対して、或いは人に対して、或いは自分の子供に対して、これだけは許せないというものがある。あの人は自分に嘘を言ったとか、この人は自分を裏切ったとか、そういうような絶対に許せないということがあるものであります。それは一人一人違う。家庭の婦人であれば自分の夫の浮気だけは絶対に許せないという。愚かな行為、馬鹿な事、とんでもない事が起きた。こんな私は自分ながら愛想がつきるということがある。その時に、本当の信心は、そのことだけは許せないというような事でも、南無阿弥陀仏とこれを許してゆくことができるようになる。これは非常に大事な問題であります。それを業として担うと申します。どんな辛い経験もこのように念仏の種として生きてくる。これを転悪成善といいます。他に更に八種類挙げてあるのが現生十種の益と申すものでございます。

 もう一ついわれている。それは即得往生、住不退転ということであります。これを又、摂取不捨の利益と申すのであります。即得往生、住不退転と申しますのは、即はすなわち、直ちにということ。又、つく、天子が位につくことを即位と申します。直ちにつく。往生を得るという位に定まりつくのであります。必ず往生を得るという。即ち遂に憍慢山の頂を離れて、大きな大きな海の中に入っていく。これが往生を得るということ。必ずそうなるような往生を得る位につく。これを即得往生というのです。直ちに我々が仏になるのではない。往生を得べき身と定まりつくということは、それを即得往生といい、そこに摂取不捨ということがあるのであります。即ちこれは現益であります。直ちに今そうなるわけであります。もう一ついうならば住不退転、不退転に住す。もはや後ずさりをして人生を西へ東へ右往左往する者にはならない。必ず往生を得る不退位につき、住みつくのでございます。それを摂取不捨といいます。即得往生だけであるならば、我々はこれを直ちに今往生を得る、と誤る。直ちに浄土に到達する、と誤る。しかるに住不退転という制限がある。従って住不退転ということが述べられていることによって、即得往生という意味が明らかになるのであります。直ちに往生を得て仏になってしまうのではなく、往生を得る身と定まる。住不退転があるために、即得往生は、つくということになるのであります。また住不退転だけなら、不退転に住すということはわかるが、しかし往生を得るかどうか、往生の成否ということはわからない。ただ後ずさりをしないというだけに終る。即得往生、住不退転、この二つが相寄り相助けて本当の意味を、即ち摂取不捨という意味を表わしているのであります。即得往生、住不退転とは何かというと、これは本願成就文にある文であります。本願成就文とは初め諸有衆生、聞其名号、信心歓喜という。この最後にあります言葉が即得往生、住不退転という言葉で、これが現益なのであります。そこに『歎異抄』第一章の根本があるわけであります。まことに『歎異抄』第一章は親鸞の言葉でありながら、その根拠が『大無量寿経』の本願成就文にあるのであります。

 しかし、即得往生、住不退転というのは、必ず滅度に至る(必至滅度)その前提である。滅度とは大きな大きな如来の海である。大涅槃であり、真如の世界である。これを滅度という。必ず滅度に至る、それが往生を得るということで、そういう身と定まる。そう定まって不退転に住す。不退転とはこれを歓喜地ともいい、歓喜地に住すともいう。そこに心に歓喜多し。必ず明朗であり、必ず明るく朗らかで、あふれるばかりの喜びを持っているのである。それは即得往生、必ず滅度に至るという当益の前提として、直ちに住不退転と現益が生まれてくるのでございます。

 当益と現益というのはどういうものかと申しますと、これはつながっている。今ピストルの弾丸が発射されて命中した。当ったという所が現益、やがて倒れる、これが当益で必ず倒れる。ピストルの弾丸が当った結果が出てくると倒れる。その第一段階を現益という。本当に教を聞いていくとそこに喜びが出てくる。「俺は喜びが出てくるのは嫌だ、いつもにが虫を噛みつぶしたような顔でいたい」と一生懸命努力しても、そうはいかないのであります。内側からニコニコ出てきて、にっこりせざるをえなくなる。「嬉しさを昔は袖につつみけり、今宵は身にも余りぬるかな」と言って、どうしようもないのであります。そういうふうに、いわば必然にして自然にそうならざるを得ないものが出でくる。聞いて聞いて聞きぬいていく、諸有衆生、聞其名号の果てには信心歓喜、もはや自分の力ではとめようもない利益が出てくる。これはもはや自分ではどうすることもできないような利益が出てくるのであります。それを『幸福論』を書いたフランスのアランという人の言葉を借りると、「本当の幸福とは密着したものである」アランの言うことはなかなか面白い。「色々の幸せがある。それらはいわば一枚二枚着物を自分の身につけていくようなものである。そのようなものは本当の幸福を手に入れると脱ぎ捨てることができる。しかし本当の幸せというものは、脱ぎ捨てようにも、もはや脱ぎ捨てられない。なぜかというとその人に密着したものであるからである」こういうふうに言っております。フランス人らしい面白い表現ですね。密着したという表現、もはや脱ぎ捨てられないという所が面白い。もはや捨てようにも捨てられないのである。その人自身に燃えついてしまった、火がついてしまった、ピストルの弾丸が当ってしまったのでもはやどうしようもない。心多歓喜、そういうものが自然に出てくるのであります。アランの言うもはや脱ぎ捨てることのできないようなものであります。この厳しい人生、右往左往せざるを得ないような人生で、そういうものが本当に与えられる。これは誠に夢のような話でございますが、事実なのであります。この世の中で人はすべて劣等感を持っているのに、色々な厳しい競争の中で何等の劣等感もない明朗な広い世界が与えられる。

 「あずけしめたまう」というのは、いわゆる預かるということです。賜うということです。「預流果(よるか)」という言葉があります。これを住不退転と申すのでございます。流れに預かる、それを預けしめたもうと言うのであります。私はそういうものを頂く資格のない者である、そういうことに価しない自己である。それがかたじけなくもそれを頂く身になる。それ預かると申すのであります。かたじけなくも、そしてまことにたまたま思いがけなくも、その器でない者がそういうものを頂くのである。そういう感銘が「預けしめたまう」という心です。我等はまことに諸有衆生であって、愚かな存在である。聞法をしない昔も愚かであったし聞法してきた今もそれは変らない。そういう者が勿体なくも即得往生、往生を得べき身と定められてそこに無限の喜びを賜うのである。もはや脱ぎ捨てることのできないようなものを与えられた。それは誠にたまたま預からしめたもうのである。このようなまことにこまやかな表現がここに出ています。

 したがって今は信心の利益、現益を説かれておる。そのかげに必ず浄土に至るというものがかくされているのであります。私は皆さんが、そういう人に接して頂けるとよろしいと思うのですが、そういう実際の人は私のようなこういう所でしゃべるには余りないのでございます。こういうことを壇上でしゃべっている人間は、大体理屈っぽいですね。本当の人というのは、いわゆる地方の草深い田舎で鶏を飼い、或いは田んぼを打ちながら生きておられることが多い。菩薩は野にある。そういう人が全国の至る所で本当に喜んで念仏を生きている。都会の人達、或いは学問を学ぶ人達、いわゆるインテリと称せられる人達は、そういう人に一遍逢わなければいけないと思います。そういう人に逢うと念仏がわかるのです。実物に逢うとわかる。そして「摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」というようなことが、空理空論でなしに、絵に描いた餅でなしに、本当に身にしみてわかるのであります。悲しい哉、そういう実物を都会ではなかなか見ることが出来ない。そういうところに人はだんだんと、仏法の話を聞きながらも観念的に終ってしまって頭だけの問題になる。これが一番の悲しいことでございます。願わくは機会を得られて色々な本当の人に逢われますように。私は大変幸せなことに、学生時代からそういう人達の間にかなり交わって、共々に教を頂く機会が多うございまして、今でもあのおばあさんとか、このお年寄りとか、そういう人々を思い出すのであります。

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