二、誓願不思議

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

1 不思議

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」ここに第一章の中心がある。また同時に『歎異抄』全体の中心がある。この文章が正に親鸞聖人の正しい信心の内容でございます。その中で弥陀ということを先に申しましたが、今日は誓願不思議ということを申しあげたい。そこで誓願ということについて申しあげねばなりませんが、これはまた後にゆずることにして、先ず不思議ということについて述べたいと思います。

 この文章「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」とありますが、試みに不思議という言葉を除いて読んでみますと違った趣が出てくるのです。「弥陀の誓願にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」そこに単に感じが違うというのじゃなしに何か足りない、物足りなさを覚える。そしてこの不思議という言葉が無視することのできない深い意味を持っていることを感じるのであります。ところで我々は不思議ということをどう考えるかというと、普通には何やら人間の知性では理解できないものあるいは納得できないもの、何やら神秘的な働きを持っているものといったふうなものを申します。最近、念力とか予言とか霊魂を呼んでみるとか様々なことがいわれる。そういうものを我々は一応知性的には打ち消しておって、「そんな馬鹿なことがあるか」と考える。事実スプーン曲げのようにトリックがあるとわかったのもあります。けれどもやはり、何やら神秘的なものが実在するのじゃないかという感じがあります。そういう神秘的なものを感じた時、それを打ち消したいのだけれども何やら恐れを抱く、そういう現実があるわけです。例えばある九州のお寺の方のおっしゃるには、近頃先祖の供養を申し出る人がふえたという。それはなぜかと申しますと、その人達がある所へ行って先祖の霊魂を呼び出してもらった。すると先祖の中に葬式をして墓を造ってもらっていないのがいて、供養してやらないからそれが祟ると言われた。そういうことは信じないんだが一面そうかも知れないという気持ちもある。それで法事をしてもらいに来たという話である。馬鹿々々しいと思うならそんな事せんでもよかろうにと思うんだが、やはり何か悪い事があるかも知れんから一応とりあげざるを得ないということが実際にはあるわけであります、昔からのいわゆる宗教心の大半は、何か訳がわからないけれど不思議な事、ミステリーというものに対して恐れを持つ、そこでそれを解消するためにお祭をしたり色々なことをやって、崇りを取り除いてもらおうという気持ちなんですね。特に現代のような世の中、不安、動揺、心配、不幸が続々と起って来る世の中ではこういうことがますます盛んになるのです。こうしたことは非常に悲しいことなんであります。本来、そういう恐れというものを無くするということが仏教なのです。

 大体宗教と申しますと二つに分けられます。一つは不幸その他一括しまして地獄と申しますか、その地獄を恐れる宗教です。したがって不幸が起らないように、逆に言えば幸いというものが来るよう願っている、そういうことがたてまえになっている宗教で、これが大部分といってもよい。地獄を恐れる宗教ですね。それに対して不幸を恐れない、地獄を恐れない宗教がある。実は本当の仏教がこれである。恐れというものを持たないんであります。恐れというものから解き放たれるのであります。

 そもそも恐れというものの根本は何かといいますと、次のようにいわれている。「諸々の衰憂苦の根本はみなこれ我見なり」これが仏教のたてまえである。また「我見はこれ諸々の衰憂苦の根本なり」という。我見とは何かと申しますと迷いであります。自己中心の迷いです。かねて申しますように、我々は生まれながら皆、殻を持っている。この殻を無明という、あるいは自己中心という、またこれを我見と申します。そこから諸々の衰−気力のおとろえ、憂−くよくよ心配する、苦−苦しみ悩むという事が生じてき、恐れが生まれるのです。即ち我見というものが根本であって、これが打ち砕かれるところには衰憂苦悉く無くなるわけです。それを教えるのが仏教である。それではその我見とは何か。これが親鸞聖人の教ではもう少し具体的でございまして、この我見を不了仏智という。仏智を了せずという。了とは了解する、わかるということです。大きな大きな仏の智慧というもの、もう少しつづめて申せば、大きな大きな世界に目が開かないということです。即ち仏様がおいでになるということがわからない、それを我見、あるいは自己中心と申すのです。大きな大きな存在、仏様がわからんから自己中心に考えるしかないわけです。それを具体的に不了仏智というわけです。大きな大きな世界がわかると何も心配することが無くなる、何も恐れるものが無くなる。何が起っても恐れない、それを我見を打ち砕かれたというのです。それを無我という。無我というと非常に誤解がある言葉ですね。我が無いと書くので何もないのか、いわゆる自分の考えがないとかと申しますけれどもそうではない、我見が打ち砕かれたことをいうのです。むしろ無私と言った方がよい。私というものを持たない。したがって広くものを考える力を持っている。なぜかと申しますと仏というものが明らかになるからでございます。仏が明らかになるとたとい何が出てこようとそれは私の業であるとうけとめることができる。荷が出てこようとそれが私のための仏道であるとうけとめる。地獄が出てこようと餓鬼が出てこようと鬼が出てこようと、それが私のための仏法の内容となる。恐れがないのでございます。少し脇道にそれましたが不思議ということに関連して或る種の恐れを伴うのが普通でありますが、それとは違うということを先ず申した次第です。

 不思議なものはあるものかという立場もあります。神秘的なものを受けつけない、一そういう人はこれまた我見ですね。なぜかというとこれらの人は人間の知性というものに自信を持ち過ぎているんですね。人間過信ですね。現代では不思議というものはないんだという考えが非常に進んでおります。けれどももう一つ謙虚に、不思議というものがあるということを認めねばならない。これが真の科学の立場です。仏法は不思議という言葉を使うのであります。仏法での用い方は大きな働きに対する驚き、その働きに対する嘆称です。そこで五つの不思議ということがあります。

その第一は「衆生多少不思議」です。衆生とは生きとし生けるものすべてをいう。人間だけでなくて空飛ぶ小虫、地を這うミミズなどのようなものも衆生というのである。少というのは意味のないそえ言葉で、中国ではこういうふうに意味のない言葉をそえられることがよくあります(多少楼台煙雨中、という詩がありますように、少には意味がなく多くの高い建物をいっています)。生きとし生けるものみんなが強い生命力を持っていて、もはや死に絶えたと思われるような時であっても、必ずそれがもり返してくる、この生命力の働きについては驚く他ない。我々はDDTとかBHCとかいう農薬によってたくさんの小さな生物が被害を被った事をよく知っている。しかし現在では前よりかえって強いものが出てきた。DDTではきかないものがある。こういうことになってきた。その生命力の強さ、それに対する率直な驚きがある。なぜそのような生命力があるのか証明できるということは殆んどないと思います。何も驚くことはないではないかというかも知れませんが、率直にこれに驚くこと、これを「衆生多少不思議」という。そういう驚きをもつことは私は大事なことだと思います。何もかも理屈をつけてそれが当然だというのは一部の人のいうことで、このような言い方には何か大切なものが抜けているのではないかと思います。

第二は「竜力不思議」である。竜力というのは、昔は竜というのが大自然の現象をつかさどるものだと考えられていた。自然現象に対する驚き、大暴風、大地震その他色々な自然現象は昔の人にとって大きな驚異であった。それを竜力不思議という。今日も自然現象には不思議というほかないものがたくさんあるのです。

次に「業力不思議」。業力というのは過去の力、過去世の力である。ものはすべて長い長い歴史をもっている力その歴史というものが非常に思いもかけないような働きをするわけでございます。西瓜の種とかぼちゃの種はよく似ているのですが西瓜の種を播くと西瓜ができ、かぼちゃの種を播くとかぼちゃができる。あるいは大根で申しますと種はよく似ていますが、長い大根ができるのもあれば丸い大根ができるのもある。かぶの種と大根の種は、大きさは違うけれどもよく似ている。しかし、かぶの種からかぶができ、大根の種からは大根ができる。種には長い長い過去がこめられている。茄子の種からきゅうりはできないのです。というふうに、過去の蓄積が思いもかけないような働きを展開するのである。

更に「禅定力不思議」という。禅定力というのは精神力であります。いざという時になりますと、か弱い女性の力ではとても持てそうにないものを軽々と持ち上げる程の強い精神力というものがある。

最後に「仏法力不思議」があります。仏法力というのは誓願不思議であります。仏法は本願にきわまる。仏法力を本願力といいます。極重悪人あるいは地獄一定の存在であっても、もし仏法にであったならば転じて菩薩となり、真の人間形成を遂げていく。それが「仏法力不思議」であります。

 始めの四つはいわば驚きであります。先程少し申しましたが驚きというものをもたないで科学の力というものを過信していきます所に非常な不幸が生じてくるわけでございます。人間が考えた通りになるんだ、何でもわかっているんだという考え方、これは非常に不幸になるのでございます。

私は現在、公害の方に関係がありまして福岡県の公害対策審議会の会長をやっています。現在困っている問題の一つはダムです。建設省は各地に沢山ダムを造った。なぜ造ったかといいますと洪水調節のためですが、困ったことにはダムの水質が悪くなった。プランクトンがものすごく繁殖しました、ダムで川をせき止めますから水がたまる。たまりますと上流の温泉や町からの排水の中の栄養源がふえ、そのためにプランクトンが非常に多く発生する。九州には築後川という大きな川があります。その上流に水郷日田という所がある。鮎がとれて非常に水に縁のある観光地ですが鮎がだんだんいなくなってきた。なぜかというとダムから流れてくる水が濁っているために鮎が住みつかなくなった。そこで日田市は損害を被ったと騒いでいる。一方ダムからの水で水力発電のタービンを回しているわけですが、プランクトンのためこのタービンに故障が起って頭をかかえている。こうしたらこうなる、科学的に考えて、ダムを造ったらこういうふうな利益があると考えて造ったが、こんな被害が起るとは予想できなかった。自然現象というのは人間がはじめ考えているようにはいかない。思いもしなかった事が起るのです。今はダムの話でございますが、ダムの中でもっとも大きな悲劇はエジプトのナイル河の上流に造ったアスワンハイダムです。大ダムでございますが、エジプト政府はこれによって大きな利益があったということは言わない。これは問題が起っているということでしょう。ナイル川流域の農業が衰えてきたといわれています。もとは毎年大洪水が起って泥を運んできた。従って大洪水は困るけれども、泥は非常に肥料の多いものです。ダムができて洪水はなくなったが、土地がやせてきて化学肥料をやるようになってきた。化学肥料をやると後に硫酸分が残りまして、土地がだんだん酸性になります。そうなりますと根が土に深く入らない。酸性を中和しても硫化水素というものができるんですね。このため植物に悪い影響が出て収穫がよくない。ダムのために困ったことになった。

 私達には自然の関連というものがよくわからない。科学は小さな所を深く研究しますから小さな所はよくわかるわけであります。しかし全体のつながりがわからない。科学というものはWhyなぜ、なぜそうなるか、そういうものを解くものではない。科学というものはHowといいます。どのようにしてそうなるか、その一部のつながりを解くものでございます。我々はなぜかと問われるとわからない。科学でもわからない。わからないことをわからないと率直に認めると深い驚きがおこるのであります。こういうのが仏教の不思議という立場なのであります。しかし驚きはあっても恐怖感はない。この点は一つ強調しておきます。仏教者は恐怖感というものは全然持たないのであります。いわば大きな働きに対する驚きと共に嘆称をもつのである。

 「仏法力不思議」とは深い感嘆という事であります。「仏法力不思議」とは仏法の功徳の大きいことを嘆称する、不可称、不可説、不可思議といいます。不可称というのは不可称量と申しまして、はかることの出来ないような、心に思議することの出来ないような大きな大きな功徳。そういうものに対する讃嘆の声、ほめたたえることが仏法力不思議ということであります。従ってそれは仏法の外に立って「仏法というものは不思議やなあ」と言っているのではなしに、仏法というものに出遇って、本願力というものを本当に頂いてそこに生きられる喜び、あるいは深い讃嘆、それを「誓願不思議」というのであります。

「誓願不思議」という中には喜びと感謝と深いほめたたえというものがある。これが「誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」という文章から不思議という言葉を除けない理由であります。これを除くと変なものになる。理屈っぽいものになる。何か味の抜けたものになる。なぜかというと深い讃嘆がないからであります。喜びがないからであります。喜びがあるから「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」となるのである。讃嘆ということは誠なる哉ということ。不思議という言葉を別の言葉で表わすと、弥陀の誓願に出遇って本願を本当に頂いて、「誠なる(かな)」という感銘をもつ、そういう深い感動、それを「誓願不思議」という。「誓願不思議」でございます。それは先に申しましたような不思議と違ったものである。「衆生多少不思議」、そういうものは驚きである。けれども「誓願不思議」はそういう驚きと違う。深い深い人間の心奥の所で感ずる感動であります。それは必ず「(よろこ)ばしき哉」という喜び。誠なる哉。慶ばしき哉。『教行信証』の中に「誠なる哉や摂取不捨の真言……。慶ばしき哉、心を弘誓の仏地に樹て」という言葉があります。それが不思議ということであります。

 私共が人間というものを考えるときは、人の或る部分について考える。従って或る部分について解決することができます。人間の体について考えるのは医学ですね。また人間の経済的なことについて考える経済学というものがある。政治というものについては政治学がある。人間の色々な悩み、それを解決してゆくには心理学、あるいは精神分析というものがある。このように色々の部門について解決してゆこうとしている。しかしそれぞれの部分でもまだわからない所がたくさんある。けれども心臓なら心臓、耳ならば耳という部分については大分わかってきた。このような部門をとりあつかう学問と仏法はどこが違うかというと、仏法は仏そのもの全体、私の或る部分ではなく仏そのものを追求し、それを問題にしている。それが仏教ですね。私全体です。仏そのものが問題となる。卵を例にあげると卵全体の問題である。色艶(いろつや)の問題ではない。殻の問題ではない。色艶(いろつや)の問題ならば色をぬり変えればいいということがある。環境を良い所に移すということがある。そういうことではなく卵全体の問題である。仏法の問題は、卵がヒヨコになるという問題です。

 仏法にはまず思議の教法から入らなくてはならない。また入るしかないんであります。即ち人はまず教えを聞いて正しい道とはどういうことかを知り、そして実行する。それを資糧位、加行位という。これはかねて申しますことですが、思議の教法が出発点であります。始めから本願の宗教というものはわからない。初めは聞いて考える。悪い事とは何か、良い事とはどういこことか考えて、そして良い事を実行する、悪い事はやめようとなるのであります。しかしそれでは足りない。なぜか?やってみると予定通りいかないのである。ずるずると後もどりする。思議の教法というものは、人間の上になるほどと理解され、承認されるが実際にやってみるとできない。しかし、やりもしないでできないと言ってはいかん、やってみなさいというしかないのである。親鸞は二十九才まで二十年間、法然は十二才から約三十年間、曇鸞は五十五才まで、道綽は四十八才までやられたができなかった。ゆきづまった。曇鸞大師は「足は六道につながり、身は三途に滞る」。こういう表現をしてある。足は六道輪廻の迷いの世界に、身体は三悪道の中にしばりつけられている。思議の教を行じたその自覚から深い深い次元に対する不思議の教というものが出てくる。これを通達位、修習位、究竟位と申します。究竟位というのは正覚の位といいますが、その高い高い世界と自分の現実との差、それを自覚したものが、高い高い所からの喚びかけを聞く。「大いなる世界に出でよ」という喚びかけ、それを南無阿弥陀仏という。それを誓願、本願という。その本願を聞くというところに、そこにはじめて高い世界に出されるのであります。それを不可思議、誓願不思議という。ここが中心である。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」そのことを是非知っていただきたい、わかっていただきたいというのが私の願いであります。不思議というのは、不思議で不思議で仕方がないという神秘的なものではないということを申しておきます。


2 たすけられる

 今、不思議ということを申したのであります。次に誓願ということを申さねばなりませんが、この問題は後に回しまして、たすけられるということを申します。「たすけられまいらせて」とある。たすけられるということは色々な面から申さねばなりませんが、今、小乗仏教においては阿羅漢果を得るということであります。小乗仏教というのは、今でいう原始仏教のことです。原始仏教では釈尊が中心でありまして、釈尊の教を聞いてその教の如くに実行していく。人生において色々な問題を持ち色々な考え方を持っていた者が、教に遇ってそれを実行していざ、遂に阿羅漢果というさとりを得る身になる。それをたすけられるという。実際はどういうことかというと大体三つありまして、一つは煩悩を破るということです。我々を苦しめるもとは我々自身の深い迷い、即ち煩悩である。そういうものが打ち砕かれる。それがいわば阿羅漢果の第一の内容で、第二は他の人の尊敬を得る。他の人々の尊敬を得ることによって色々の人の供養を得るのであります。第三にもはや再び迷いの世界にかえらぬ、これを涅槃に住すという。こういう世界に出ることが小乗仏教というもののたすけられるという内容で、阿羅漢果というものです。再び迷うことなく、再び人に軽蔑され悪く思われるということがなく、尊敬というものをかち得ていわば人間的に完成していくと申しますか、人間形成を遂げていく。それが救いであり、自己確立である。

 大乗仏教ではどういうか。大乗仏教と小乗仏教との違いは、小乗仏教は釈尊のいわれたことを聞いて実行するという立場である。大乗仏教はその釈尊を釈尊たらしめた背景にあるもの、これを法といい如といい一如といい真如という、その世界に出される。その世界に入る。一如の世界に立ったために釈尊は仏陀となった。釈尊を釈尊たらしめた世界は、それを本願の世界という。如来の本願によって釈尊が生まれた。そこに大乗仏教というものがある。そこに菩薩が誕生する。菩薩とは本願の世界に生きるものをいう。菩薩の働きを上求菩提、下化衆生という。即ち自利々他の道を進むものをいう。自利とは自己の人間形成である。利他とは他への働きかけである。即ち釈尊が人々に教えたように利他し、釈尊が深い世界に立ったように自利してゆく。即ち自利利他の道に立つ。釈尊が釈尊たらしめられたその教、即ち本願の教にふれて遂に釈尊と同じように自利々他の道に立つ。小乗仏教は自利だけである。自己の悩みは打ち砕かれ他から尊敬され再び迷いにかえらない、それは自己完成である。けれども他への働きかけ、人生に対する具体的な働きかけに欠けている。また釈尊を超えたもの、その背景、それに生きるという点に欠けている。小乗でない世界を大乗と申すのであります。或る偉大な指導者を持ってその教の通りに実行していく。これが第一段階であるが、この段階を小乗という。そして遂にその人を超え、その人の背景の中に自分もその人と同じように入ってゆく。そういうことを大乗という。その大乗の世界のことを、自利々他というのであります。

 そのことを序論としまして今、「弥陀の誓願不思議にたすけられる」というのは何かと申しますと、本願が届く、本願成就の身となることをいうのであります。これを「弥陀の誓願不思議にたすけられる」という。弥陀の本願というものを本当にいただく身になるのである。本願は、私にかけられている本来の願いをいう。ここに椰子の実があるとする。この椰子の実が波の間をプカプカ浮んでいる。椰子の実は中に胚芽を持っています。椰子の実にとって大事な問題は大地が与えられるということである。陸地や島にたどりついて大地を得たならそこで太陽の光や水の力によって発芽する。そして椰子の木になる。これが椰子の本願である。椰子にとっての本来の願いである。大自然の力即ち光はさんさんと照り、椰子が発芽するのを見守っており願っている。そこに大きなものの願いがある。子供が生まれると生み出された子供には子供の(子供にはわからないけれども)願いがある。それは隠れた願いであって、成長したいという願いである。親には同時にこの子が本当にしっかり大きく育ってくれという願いがある。願いというのは両面にあるのである。椰子の方の側は衆生の願であり、大きなものを仏の願いという。しかし我々衆生はこの仏の願いがわからない。大きなもの、それを絶対といい、小さなものを相対という。大きな絶対というものは小さなものの中に内在する。大きなものの願いが、小さなものの願いとして内在する。

 一切衆生、悉有仏性という。仏性とは仏となる種である。それを具体的には宿善というのであろう。宿善とは長い長い過去の間に、その中にこめられている善根である。安楽集の中に長い長い過去の間に仏に遇うた宿善を説いてある。今ここで仏のみ教を聞くことができるのは、過去において半恒河沙、ガンジス河の砂の半分程の数の沢山々々の仏に遇うた宿善によるのだという。仏に遇うた。その善根が、人を仏法の席に出さしめるのであると言っている。たまたま仏法に遇うということは、宿善があるということである。仏性とは例えば磁石があると、磁石には磁性というものがある。磁性というものは初めから持っているのである。ただ分子の配列がでたらめにあちこちに向いている。そこで全体としては磁性が出てこない。大きな磁石でこすってやるとそれがきちんと並んでくる。それが磁石になるということである。椰子の実の胚芽が仏性である。しかしそれは凍結状態で動く力がない。それに対して深い願いを持ったもの、即ち仏それ自体が本願となって働きかけるところに、内在している仏性が動いてくるのである。そして遂に殻を破って発芽してくるのである。これを本願成就の身となるという。それをたすけられるというのである。

 大地を与えられる。大地とは何か、それは自分の立つべき立場、これを親鸞聖人は仏地と言われた。これを具体的には浄土という。そこに根をおろしてそこから一本の木として伸びてゆくことが出来る。その大地から養分をとり、それによって支えられ立ってゆくことができ、そして一本の木になるのである。小さな殻の中に入っている存在ではなく殻を破った存在になる。そしてそれが方向を持って伸びてゆくのである。太陽に向かって幹は伸び、大地に向かって根が伸びてゆく、そういう方向を持っている。それを本願成就と申すのであります。それをたすけられるというのです。

『大無量寿経』の中に本願成就文というのがある。そこに本願成就の姿というものが述べられてある。その中心は至心廻向である。至心というのは如来のまごころ、その如来のまごころによって与えられるものを至心廻向という。本願成就をまた廻向成就という。至心廻向の内容は何かというと「諸有衆生、聞其名号」という。むずかしげなことであるが、「諸有の衆生」というのは迷い深い自己ということで、即ち自己への自覚あるいはめざめをいう。殻を破って出てきたその時に、深い自覚の天地に立って、愚かなる自己、罪深き自己、あるいは諸有の衆生という自覚が与えられるのである。それがたすけられるということである。それを聞其名号という。其の名号を聞くと申します。其のというのは、十方におわします諸仏の名告りであります。「信心歓喜」これは信の確立で深い喜びを与えられること。信とは信じこむということではなく、本当に大きな世界を知るということである。そこに深い喜びが与えられる。「乃至一念」これは念仏を申す身となる。南無阿弥陀仏と念仏を申すことである。「願生彼国」とは真実の世界(仏の世界)に生まれようとする願いを持つこと。「即得往生、住不退転」とは即ち大地を与えられることをいう。「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、願主彼国、即得往生、住不退転」を至心廻向の内容という。一つ一つ申すならば時間を要することでございますが、その中の一つを申して終りにします。

至心に如来によって廻向されているものは、具体的にはよき師よき友を与えられていることであります。よき友と申しますと我々は幼な友達、学校友達、釣友達、飲み友達というような、何か趣味を同じくするという境遇、環境が同じであるとか、あるいは同年輩であるとかそういうふうに友達を考える。けれども本当の友達というのは必ずしもそういうものではない。友達というものは年令、距離、時代が変わったってかまわない。私を勧め励まし(勧)、私に本当の手本を示し(証)、私のことを考えて私というものを護ってくれる(護)。私について深い理解を持ち、少しでもよい事があれば正しく評価してほめてくれる(讃)。これを勧証護讃といいこれをよき友という。こういう友があれば誠にたのみ甲斐があり、本当に相談相手になり、私を慰めてくれ、私の話し相手になり私を助けてくれる。こういう友達ができるということは大変なことである。我々は友達はつくらなければならんと思う。で、何とかしてつくりたいと思います。しかしながら友達というものは、つくるものではないのです。友というものは与えられるものです。友というのは賜うものである。私に恵まれるものである。それは如来の至心廻向によって与えられるものであります。これがなかなかわからない。

私の先生は「如来の最大のたまものは同朋である」といわれました。教えを本当に頂いていくと、自分の周囲に沢山々々の友が生まれてくるのであります。友達というのは誕生してくる。それを如来の廻向というのであります。そこに人は孤独から遠く離れ本当の幸せを得る。たすけられるとは何かという事が本当にわかってくるのである。具体的にはよき友は同時によき師であり善知識であります。年令のいかんを問わず、職業のいかんを問わず、よき師よき友が与えられるというところに具体的にたすけられるということがあるのです。親鸞は法然という方を師と頂かれた。それはよき師であると共に生涯の友であった。このようなよき師よき友を頂かれたのは、ある意味からいって偶然であった。しかしそれは彼の求道をとおして、本願の廻向によって与えられたものであります。親鸞御自身はたくさんの弟子をもったが、彼はその人達を弟子と言わなかった。「親鸞は弟子一人ももたず候」である。如来より賜りたる御同朋・御同行としてかしずかれた。そこに友と共なる広い大きな一人ぼっちでない世界、たすけられるという具体的事実が生まれるのである。

 本願の働きとは、私によき師よき友を賜うて、私が求道のみちに立たされることであります。

ページ頭へ | 「三、すくい」に進む | 目次に戻る