一、はじめに

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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1 章の名称

 『歎異抄』の第一章は、非常に重要な章です。

 『歎異抄』全体の中心がこの第一章にあるのであります。この一章を敷衍したものが十章までのいわゆる顕正篇、この十章を中心にしまして、これに対して間違っている事を批判したのが十一章以下の破邪篇となっておるのであります。というわけで『歎異抄』の中心は第一章にあるのですが、またその中での中心というと、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば逐ぐるなり」という所になると思います。ここが一番中心で大切な所なのです。しかしまたここは一番わかりにくい所でもあります。そこで、理解する手段としてこの第一章に何という名を付けるかを考えてみます。これは名前が無いわけですが古い書物、了祥という人の『歎異抄聞記』を裁くと、「弘願信心章」という名を付けておられる。大体名前の無い文章に題名を付けるのは大変な事で、その人の領解というのが非常に問題となるわけです。今、了祥という方は「弘願信心」という事を言われた。それは「弥陀の誓願」とありますが、弥陀の誓願を弘願、第一章は本願信心、ここに中心があると言っておるのです。次にあるお方は「二種深信」ということを言っておられる。二種深信というのは信心の内容を表わすものです。信心というのはよく申しますように、信じこむということでなく明らかにわかるという事、言いかえますと認識という事です。何を認識するかというと二面があって、一つは自分自身というものがわかるという事、二つにはいわゆる大きな世界、み仏の世界というのがわかるという事です。二種深信というのは認識の内容を表わしているのです。つまり第一章は信心の章であるというのがその先生のお考えです。それから私の先生、住岡夜晃という先生は第一章を「本願の宗教」と言われた。本願という事を表わし、第一章の中心が「弥陀の誓願」という事を言われたのであります。これら三つは、本願に中心があるという所で皆共通している。即ち本願に中心があって、その本願が届いて本当の認識というものが我々に生まれる所にいわゆる二種深信というものがある。本を正せば本願であり、合わせれば弘願信心である。つまりこれらを通じて述べられているのは、弥陀の本願という所に中心があるということ、これが第一章であります。

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2 弥陀の誓願

 さて始め申しましたように、親鸞という人の書の大変難しいのは、その最初に阿弥陀仏というものを出されるためです。私達は仏教でありますから先ず始めに釈尊という人が出て来るのを当然と思います。また釈迦という人が何を言われたかという事を聞くなら我々もわかりやすいのでございます。けれども今出てきますのは弥陀である。そこに親鸞という人の仏道のとらえ方の特徴がある。我々は仏教というと釈迦と思う。しかし聖人は「釈迦という人は弥陀によって生まれた。弥陀の誓願が仏教の根本である」と言われるのです。そこに我々の常識を大きく破っておる所がある。それで難しく思うわけです。この『歎異抄』は「弥陀の誓願不思議に……」という文章で始まっております。また『教行信証』は「ひそかに以みれば難思の弘誓は……」で始まっている。誓願、弘誓という事が一番始めに出てくる。我々にとうてい思いもかけないものが最初に出てくるわけです。従って第一章は非常にわかりにくい。そこで、『歎異抄』を解釈しますには一番むずかしい一章を後廻しにして、わかり易い所から始めてゆく。たとえば第二章は物語になっておってやさしい。そこで第二章を先にやって、次に第一章をやるという行き方があるわけです。しかし今は一番中心であるここから始めているわけです。

 弥陀、これは正確には阿弥陀仏でありますが梵語で申しますとアミタユース、アミターバー、無量寿といい無量光という。このアミタユース、アミターバーを阿弥陀仏といいます。そこで無量寿とは何かというとこれは時間です。即ち時間的に永遠という事を表わしています。無量光というのは空間を表わすのです。時間、空間の上に阿弥陀となりたもう。私共は生きている。しかし人生を生きるというためには二つの世界がいるのです。たとえば一本の木が生きてゆくには二つの世界がいる一つは地下でそこに根をはる。もう一つは地上である。この地上で葉を繁らせ、花を咲かせ、実を結んでゆく。しかし、地上だけで生きるという事はありえない。それでは香港フラワーのようなもので、物質として生きるしかない。つまり生命を持たない。本当に生命があるという事は、大地を持っているという事です。このように二つの世界が必要なわけで、我々の人生は人生という場と、それを支える大地にかかわりあっている。この二つの世界にかかわりあうことが人間としての生き方である。その大地を如という。あるいは一如、あるいは真如という。また法性とか寂滅とかいう。色々な名前で人生を支えている大きな世界を言おうとしている。これを涅槃、あるいは滅度ともいわれている。これらをまとめて法性法身という。人間の認識ではわからない、人間の次元をこえた、しかも人生を包んでいるような絶対というものを表わしている。それは人間の認識の外にある。その大きな世界から人生に働きかけてくる。人生とかかわりあいを持ってくる。それが人生の次元即ち人間の次元に表われてくる。我々の次元というのはどういう次元かというと、時間、空間というものの上になければならない。我々が考えてわかる場に如が顕現する。人間の認識し得る時間、空間にあらわれたものを阿弥陀仏というのである。それを無量寿、無量光といい、これを方便法身という。

 方便法身というのは、法性法身から人間の世界に関係をもってあらわれてくるものである。方便とはウパーヤといい、これはサンスクリットで到達あるいは到りとどくという意味である。そういうふうなものを如来というのである。如来は人間の認識界にあらわれるが、認識といっても目に見えるのではない。深い転回によって感得できる実在である。如来というところにすでに願というものがあるのである。願とは大きなものが小さなものを抱きとる、そこにあらわれてくるものを願という。それを本願といい、あるいは法性法身より方便法身をいだすという。向こうから到達する。例えて申すならば母親が子供を生んだ時、そこに母親の持つすべての栄養が乳となって子供にとどけられる。大きなもののすべてが具体的な形をとって母乳となる。それを方便という。方便というと(うそ)も方便という言葉があって人間でこしらえたものだとか、あるいはいい加減なものと思うのであるがそうではない。具体化である。それをウパーヤという。向こうからこちらの認識の上にあらわれてくる、それを願という。その願を本願という。法性法身即ち如あるいは一如あるいは法性。そういわれてみても何のことやらわからない。そういう世界から具体化した姿、それを方便法身という。方便法身といって具体化した姿をとってあらわれてくる。それを阿弥陀仏いう。

 阿弥陀仏という如来となってあらわれるその願を寿命無量の願という。大変難しいようですがどこかで弥陀の誓願ということを言っておかないといけないので申す次第です。この本願を説くものが大無量寿経で、これには四十八願というものがあって、大いなるものが我等の世界に働きかけてくる、その働きかけを四十八願として表わす。願とは何かというとそれは願いを持って喚びかけるものである。どういう願いかというと、人生つまり相対界に生きている生命短きわれらに対して、絶対界からそれを自己として抱いていく心つまり大いなる世界が小さな世界を抱いて、その小さな世界を自己の世界とする時に表われてくるもの、それを願という私共はそんな世界などいらない、人生は人生だけでいいではないか「人生は人生だけで成り立つではないかと思うけれども、如来の本願というものが無かったならば人生は成り立たない。もし本願がなかったら人間存在は単なる物質的な存在で終わってしまう。いのちの通わない血の通わない、勝った、負けた、損した、というような物と欲に追いまわされた人生しかない。それをブーバーはいみじくも『我と汝』の中で言っている。人間が物質関係のみに生きているときは私−それの関係しかない。何もかも物質や道具として取り扱われて、これだけ働いたからこれだけもらう。それだけのことをしてくれたからこれだけの物をあげようということになって、親子といいながらもやはりくれた、くれなんだというような物質関係としてしか存在しない。それを物在という。そういう人生が本当に血が通ったものになるためにはもう一つの世界がいる。地上だけの世界ではなしに地下の世界がいるわけである。そこを生きることによって生命の通ったものになる。そこにあるものを本願という。本願というものは私に、私−汝という関係を成り立たせる。如来の本願がかけられていて、私を汝と喚ぶ。その時はじめて私がこの人生の色々な存在に対して「汝」と喚びかけて深い連帯感を人生にもち、物として存在しているのではなしに、人間存在として存在し得る。はじめて血の通った人間になる。人間が人間同志に連帯感をもつ存在となる。単に人生だけでは真の連帯感を持ち得ない。いや同じ主義、イズムに生きていれば連帯感をもつではないかという反論もあろう。しかし主義をもっている人、イズムをもつ人たちははげしく互いに殺し合っている状態です。新左翼というような人々は新しい社会の改革というのを考えているのでしょうが、そういう人達がごくわずかなイズムの違いでもってお互いに殺し合っている。互いに激しい敵対心をもっている。イズムとイズムの関係には連帯感というものがない。連帯感はイズムからは生まれない。イズムとイズムとでは激しい敵対心を持つのである。従ってイズムにはあらゆるものによびかけるものは生まれてこない。イズムは必ず自分に従え、そうしないものは殺すと言います。それは「私−それ」です。イズムはちょうど香港フラワーのようなものであって、生命とのつながりを持たない。生命を持つ、即ち血の通った人生が生まれるためには、もう一つ大いなる世界からの喚びかけがあってこそ、そこにはじめて人間としての存在が生まれてくるのである。如来の本願なしに人間が存在し得ると思うところに大きな間違いがある。

 この本願に『歎異抄』の中心がある。『歎異抄』の色々な解釈書を読みますと、この弥陀の誓願という事は当らずさわらずと言いますか、これに触れて解き明かしてゆくという事が非常に少ないようであります。これは大変な力量のいることで、非常に難しい事でございますけれども、やはりこの所を何とか少しでも明らかにしたい。弥陀の誓願と聞くだけで、実際には何の事かわからんということではいけない。そこで先ず非力を顧みず弥陀という所から言っております。

 阿弥陀仏は本願によって現われた仏である。それを「法性法身から方便法身を出す」といいます。我等の認識の世界に現われる仏である。この仏を弥陀仏というのである。光明無量というのは何かというと、無限の空間をあまねく照らすという仏です。アミタユース、アミターバーという、それを阿弥陀仏というのである。光明無量というその働きは何かと言いますと、照育照破という。照育とは照らし育てると申します。照らし育てるとはどういう事かというと、出発点を資糧位という。もとでになる、糧になる、そういうものを集めてゆく段階です。仏法の一番良い所大事な所はどういう所かというと、仏法は単なる哲学、単なる論理でなしに、仏法を生きてきた人が実在するという事です。仏法を実際に生きてきた歴史があるという事であります。仏法を本当に生きてきた聖徳太子という人があり、最澄という人があり、あるいは鎌倉時代になりますと道元あり、法然上人あり親鸞というような人々が本当に仏法を生活してきた。仏法というものを哲学や教養としたのでなしに、仏法を生活してきた人がいるということが大事な点であろう。その人達の勧めを聞き、そして考える。仏法が単に三千年前のインド哲学であるならば、今日我々に関係ないかも知れません。

しかしながら多くの人達が受け継ぎ伝え、体験して、それがずっと今日まで三千年の長い間続いて生きておる。本当に仏法によって広い世界に出た人があるのである。それが、仏法が生きておるという事でありまして、そういう人達の教を聞き、考えて、だんだんと取り入れてゆく。そこに育てられるということがあるわけである。如来の光というものは太陽のようなもので、多くの人達の体験、多くの人達の教になって具体化し、育ててくるのです。お育て頂く位を資糧位と申します。聞思の位と申します。次に加行位、通達位となります、通達位というのはどういうことかというと、いわば発芽みたいなもので、この種が本当に発芽するにはこの種を大地に播いて、そして光と水が働きかけてくるということが大事である。それがだんだんとこの胚芽をふくらませる。その光明、教であり、水というのはそれを伝える人、よき師、よき友であり、破れてくるということを自覚という。これを禅宗では悟るという。それを照破という。更に修習位、それがだんだんとのびていって大きな木になるのであるが、それを生活者という。本当の意味で仏法を生きるのである。そしてついに究竟位に至り、涅槃に至る。大事な問題は先ず資糧位、加行位で、これは多少時間がかかると思う。そしてこの殻を破って出てくるということが大事である。

それではこの殼を破って出てくるにはどういうことが必要かと申しますと大事なものは、いわゆるポイントは、先ず因力である。因力というのはどういうことかというと、一番もとになる力といい、たとえば宿善という。宿善というのはいわゆる祖先の長い長い血というもの、また土徳というものであろう。宿善というものがなければ何も育たない。土徳というものがなければ仏法も育たない。花の種を播いて苗を作ろうとすれば、先ず土を作らねばならない。これはあたりまえの話である。

私の所は花をたくさん作りますが、三色すみれ、きんせん花、石竹というようなものを何百本と作ります。これを作るには先ず土を作ります。堆肥を入れてやるとよく出来ます。砂や赤土だけだと出来にくい。土ができて始めて花ができる。人が資糧位、加行位、通達位になるには、必ず土徳がいる。これは我々の育った大地の徳であって、我々の祖先の徳である。そういうふうなものが一番もとになる。一番根本の力になる。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)という人がいましたが、その人が言うには、その国の女性というものはその国の文化と歴史が生みだす産物だという。長い歴史、長い土徳があって、始めてすぐれた女性ができるんだと言っている。日本の女性を見て日本の国の文化と歴史というものがわかると言うてたたえているのですね。私もそう思います。全く日本の女性はすぐれているんだと思いますが、最近はどうでしょうか。それはとにかく、長い長い歴史が基礎になるものであります。育てられてみると自分の過去に対して感謝せざるを得ない。仏教で育てられた者は、日本の祖先が作った土徳に尊敬をするということが本当の姿です。

次の条件は資糧で、これは我々の努力で聞いて集めた資糧が大事である。この資糧がものをいうのである。

第三は善友力、即ち善い友を持つという事である。私を勧めはげます、私を更に進展させ、私が間違った方向に進んでいる時はそれを戒めてくれるようなよき友、よき友の最大のものはよき師である。友というのは師であり、師というものはまた友である。これなくしては進展ができない。

第四、そして最後に決意。これらを『成唯識論』に説くのであります。決意とは何かというと、やろうという決心であります。決心とは元の言葉でいうと、作意、決断です。大事な問題はあなたの決心である。いわゆる浄土門では自力とか他力とか申しまして、自分で決心するなどというのは自力ではないかという。自力かも知れん、いや最後の自力でしょう。自分で決心するのだからですね。「よしやるぞ」と決心する。それがいわば最後の自力である。その最後の自力が同時に最初の他力である。そういうことであって決心のない所に道というのは開けない。そういう事をよく表わしてありますのが善導大師という人の二河の譬である。

善導大師の二河白道という譬がある。それに非常によく出ている。いわゆる決心というものが大事なのだということが出ている。二河白道といいますとこれはかねて申したかと思いますが、求道に出発する旅人がある。とうとう彼はたった一人になる。そして大きな河に出逢う。火の河と水の河という二つの河が現われて、彼の行く手を阻むという譬です。そこに求道という現実をあらわしている。この二河の真中に小さな道がある。それを白道と申します。彼は前進を続けておったのですが、突然こういう河が出てきて彼の道を阻む。そこに後から追っかける者がある。また彼を横から挟み撃ちをしようとする者が出てきて進退きわまる。その所で彼がたった一つたすかっていった道は何かというと彼の決心であった。それは行くにも「これはとても行けそうもない」。帰るも駄目、避けても駄目で「よし、此の道を渡ろう」と決心した「すでに此の道あり、必ず渡るべし。」とどうしてもこれを進んでみようと決心した。それが二河白道にでてくる決意ですね。始め彼は「この河は渡れそうもない」と思った。しかし「この河を渡るしかない」と決心した時、そこに「東岸に、忽ち人の勧むる声を聞く。又西岸の上に人有り」。いわゆる二尊の思いもかけない喚びかけに遇った。これは、かいつまんで申したからわかりにくいと思いますが、要するに決意ということの例をあげようと思ったわけです、何をすべきか、それには資糧を集め、よき友を得なければならない。そして最後に必要なのはあなたの決心なのです。それが資糧位からあなたが深い世界に殻を破って出るためのポイントである。どんな決意をしなければならないか、それは簡単です。それはわかるまで、はっきりわかるまで必ず続けようという決心です。どんな心が自分の心の中に起こってきても、たとい「もうやめよう、つまらんぞ」というような心が起こってこようとも「俺は決してやめない」という決心、それが大事なことなのです。それがあなたを広く大きな、そういう世界に出す道なのです。それは自力じゃないかというかも知れぬ。それが最後の自力じゃ。しかしこの最後のものがなければ他力は開けないのです。決意ということを『成唯識論』に、求道者の転回を説くのにあたって述べてある。

 少し横道の話になりましたが、今は光明無量その光明は何かというと、我等をついに照らし破るものである。照らし破ってどうなるのかといいますと、それを触光柔軟という。それを光明の働きと申します。光明の働きというのは、もし我々が本当に阿弥陀仏というものを聞きぬいていくならば、そこに如来の光、仏の光というものが我身に触れる、そうすると剛直な自力の心がその時に柔軟になるのだという事です。「我が光明を蒙りて共の身に触れん者、身心柔軟にして人天に超過せん」と申すのであります。「若し爾らずば正覚を取らじ」という。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏に、真に強い力、働きがあるのである。これは架空の事ではなく、またたとえごとでもない。必ずそうなっておるのでありまして、(親鸞聖人はこれを『教行信証』の「真の仏弟子」という所に引いてある。光を蒙る、これが第一です。その時に照育というものがあるのである。光を受けて育てられる、そしてその身に触れる、そこに第二に照破ということがある。光を蒙るということは、光は見えなくてもかまわない。殻のままで光を受けることが出来るのである。しかしその身に触れるというのは見えてきたのです。光に照らされて自分自身が見えてきたのである。それを照破という。そうすると身心柔軟となる。寿命無量という事によって我等は、無量寿の命を賜うのである。永遠なるものの命にあずかるのである。

今度は具体的に身心柔軟と、身も心も柔らかになる。柔らかになるとはどういうことかというと、柔軟の反対に剛強麁悪という言葉がある。強というのはたけだけしいということ。我々の身、心、口が強情である。言いだしたらきかぬ。また強引である、一方的で強引である。粗末で人の気持ちというものを汲み取る力がない。人の心臓をたわしでこするようなことを言う。強情さというもの、道理が道理であるとわかっているのに自我でつっぱる。そういうふうなものが変ってくる。柔軟に変ってくる。かつて申しましたかと思いますが、私共の存じている求道上の先輩で斉藤先生という人がありまして、これは山口県の田舎の方でお医者さんでありました。この人は坊ちゃん育ちで大切に育てられなすったせいか、ものすごく強情な人でした。で、自分の気に入らぬ患者があると、靴のままで上って行って診察されたというからこれはまあ大変な人だった。お膳で食事をなさるとき、気に入らぬおかずだと「こんなものが食えるか」と言ってお膳をはねとばしてどなりなさったそうである。剛強麁悪です。この人に息子さんがありました。それが二人とも戦死しまして、それを機会に仏教に入られた。我々はそれから後を知っているわけですけれども、それから全く変りなすった。全くですね。本当に変った人になんなすった。私共の知っているのはだから非常にもの静かな柔らかな人でした。その家に養子にいった先生が私に話をしてくれたことがある。斉藤先生はどういうふうかというと、「食事の後など、皆が人の評判をして悪口など言いはじめると、だんだん後へ下がりなさる。そして柱にもたれてナマンダブ、ナマンダブと言いなさる。一つも相槌を打ちなさらない。」という話を聞かせてもらったことがある。

我々は人間の性格なんていうものは変らないものと思っている。個性なんていうのは一生変らないと言われている。確かにそういう一面がありますね。けれども本当は変わるんです。仏の光に遇うたら変わるんです。けれどもそういう人が少ないからまあ一般的には変らないというのです。しかし本当は変わる。

ここに牛の皮があるとする。その牛の皮はこれを乾かしました時は非常に固いカチカチのものである。けれどもこれになめし薬をつけてなめしますと非常に柔らかいものになる。非常に強くてしかも柔らかいものになる。強じんさを持ってくる。そういうふうに変ってくる。かたいものが柔らかくなる。しかしながらグニャグニャになるのではなくて、非常に強いものがありながらしかも柔らかい姿をとってくるのである。なぜそうなるかというとなめし薬のためである。

また他の例で言えば水車のようなものである。水車というものは始め水が流れてきても回らないのであります。なぜ回らないか。それはさびがついているからである。少々水が流れてきても回わらない。今、水というのは道理である。一般的に申せば法である。道理あるいは、教あるいは教法。それを聞いても回らない。そのさびを人間の自己中心の思いという。俺が俺がという思い。俺が思っていることは間違いないという思い。それを自己肯定といい、自己主張という。これを自力という。そういうものはまた一面からいうと貪欲と言える。その他色々な言葉でいうことが出来る。それがこの光に遇うとどうなるか。その時そのさびは落ちるのである。これを三垢消滅と申すのであります。本当に仏の光に遇うといわゆる照育照破です。私自身というものが照らし出される。自分自身が照らし出されて自身に目が覚める時に、このさびは落ちるのである。そうすると回りはじめる。

道理が道理とわかれば俺が悪かった、間違っておったとなる。そこに柔らかな姿勢、いわば暖かな柔らかな姿勢が生まれる。柔軟という姿勢、信仰のある人に共通な姿勢は柔らかさである。しかし柔らかいだけでこんにゃくをわらでしばったように、ぶるぶる震えているのではない。何がきてもシャンとしています。骨が無いのと違う。バックボーンはしゃんとしているのだけれども柔らかな姿勢になる。なぜそうなるかというと、さびを落とされたからである。従ってそこに道理が道理とわかれば、いわゆる「理を見て情を折る」ことが出来る。即ち、道理を見て自分の我情をおしのけ、その道理に従っていくことが出来る。どのような目下の者であろうとその人が言うたことに道理があれば、「そうか、私が間違っておったな」と言ってその道理に従ってゆけるような、そういう柔らかな強い弾力性のある人間が生まれてくる。そのような弾力性を持った人を「若い」というのである。光明無量なるものがついに働きをもってそういう人を生み出すのである。

 色々な話を申しあげたが、大体二つ申しあげた。一つは阿弥陀仏とは何か。それは我々の時間、空間の上に、本願によっておりたった仏である。この人生の次元までおりたってきた仏をいう。その内容は寿命無量、光明無量で、それは単に次元におりたったというものではなしに、更に我等を寿命無量たらしめたい、我等を光明無量の徳によって柔軟の徳を得さしめたいということであります。

 人生を生きぬく力とは何か。先ず、人生を本当に生きぬくとは何か。それは現実に取り組む事であろう。現実とは我々の内と外の事実である。内と外に沢山々々の問題が起こってくる。そういうものにどう取り組んでいったらいいか、それには弾力性をもって取り組むしかない。それを柔軟という言葉で表わす。それこそ現実に対して生きてゆけるたった一つの姿勢である。その弾力性を与えるものが光明である。触光柔軟の願という。従って阿弥陀仏は我々を永遠の命に預からしめると共に、現実に対処し得る人間を生産する所に阿弥陀仏という意味がある。南無阿弥陀仏という意味がそこにある。そこで今は二点、阿弥陀仏という意味とその働きを申しました。これが大体本願の意味である。

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