歎異抄 第十五章
第二回講義  平成元年十二月十日

一、即身成仏  二、和讃

一、即身成仏
(1)真言密教(三密の行)
 第十五章は即身成仏の異義ということで、前回あらかたの事は申し上げましてプリントにしていただいております。「即身成仏は真言秘教の本意・三密行業の証果なり、六根清浄はまた法華一乗の所説・四安楽の行の感徳なり」という。普通我々があまり聞き慣れない名前が言ってあって、「真言秘教」といえば真言秘密の教え。いわゆる密教という。真言密教。「即身成仏は真言秘教」というのは密教をいっている。その本意、そこで教えられているその本心、本当の心は、それは「三密行業の証果」。即身成仏が真言秘密の、密教の宗旨。中心点であり、その行は三密行業。それを行じた結果である。
 三密といい、真言密教というのは、密というのは秘密ではなくて、一つは如来の覚りをいう。それを密という。それは人間では分からない。凡夫に分からないので密という。秘密ではない。その如来の覚りが衆生の仏性として衆生に内在する。それから、煩悩に覆われて分からない。それを密という。
 そこで、三密ですね。三密は身仏、口仏、意仏。これが三業。身に大日如来の印(いん)を結ぶ。口に大日如来の真言、陀羅尼という、真言を唱える。心に大日如来を念じる。これを三密という。その三密の行を行じていくと大日如来の仏力が加わって、密かに加わって、行者の三業が大日如来の三業となる。これを即身成仏という。このように仏の、大日如来の三密の働きによって、大日如来の三密が衆生の三密となり、即身成仏する。こういうふうに教えられているわけである。
 人間の中にある仏性といいますか、それが煩悩に覆われている。それが何の働きも持たないわけですけれども、このような大日如来の印を結び、大日如来の真言、陀羅尼を唱え、心に大日如来を念じていると、大日如来の三密の行が密かにそれに加わって、そして、この衆生の中に埋もれている三密が現れ出て来て、そこに如来の三密が生きてきて即身成仏すると、こういうふうに説くわけであります。しかし、最初そういうふうに説かれているけれども、本当に仏となるのかどうか。それはそういうだけで、実際に仏となった者はいないと、こういうふうに思われます。
 どっかで穴の中に入って、即身成仏の行というのをやっているというのが新聞に載ってますが、何日間でしたかな、かなり長い間入っておったようだが、そうやって出て来て仏になったかというと、そうはいかんね。まず第一に、人が「あなた今、何がしたいですか」とたずねたら「髭が剃りたい」と言ったですね。「髭が剃りたいか・・・本当に仏かな」と思って。これはひやかしですけども。しかし、仏ならば「衆生を助けたい」というんじゃないかと思う、「髭が剃りたい」というのは凡夫ですね。
 真言密教は弘法大師、高野山。初めは京都にあったんです。東寺といいます。東の寺と書いてある。そこにあったんですけれども、後に高野山に移りましたね。又、比叡山にも密教が伝わっておりまして、だいたい天台宗といっても純粋な天台宗ではない。日本の天台宗は中国の天台宗と違って、最澄、伝教法師が中国から帰ってきた時、密教と禅と、そして念仏と天台と、四つを持って帰って来た。一応説明としてはこういうところです。
 即身成仏の道を説く真言の教えはどこに中心があるか。それはこの三密の行にある。印を結び、真言を唱え、心に念ずる。これが一番中心である。口に唱えるのはいいですね。印を結ぶのもこれは簡単ですが、これも口に唱えているが、これが大事ですね。それを観念といいますね。観念。観じ念ずる。観は心に思い浮かべみる。そして念ずる。心に思う、念ずるも大体同じような事ですけれども。観念によって煩悩を貫いて、観は観穿という。煩悩を貫いて一心に思う事をいっている。又そういう観の前には必ず戒を保つということがある。衣食住、人里を離れて静かな所で簡素な生活をして、煩悩を整え、修めていく。そして定、心の安定。そういうものを保って、そして印を結び、真言を唱え、こういうふうになっている。
 従ってこれが前段階にあるわけですね。これをじっくりやらんといかん。それに従って山に籠もるとか、滝に打たれるとか、そういう修行をいたしまして、そしていよいよこういうふうになっていく。これもその心が徹ったならば大日如来の三仏力が密かに加わって来ると。加わって来るか来んか分からん。そこで中々にこれはやるのはやったけれども効果がなかったという事がある。そういうのを自力の行という。自力の行というのはこういう厳しい前段階に、こういうものを積み重ねていって、そして一生懸命これを、観念というところが大事なところである。これは観念、それはみな難行上根のつとめ。そういうふうになっている。難行上根のつとめ。そういうふうなのを真言密教という。
(2)法華一乗(四安楽の行)
 法華一乗。これは天台である。法華一乗の六根清浄ですね。六根清浄というところに仏ということがある。清浄は清浄真実。煩悩を離れたその姿を清浄という。六根は眼・耳・鼻・舌・身・意という。これに根を付けます。眼根・耳根・・。そういう煩悩を離れて清らかな状態を六根清浄という。六根清浄は「四安楽の行の感徳なり」。これが即身成仏である。
 その行は四安楽の行。こちらの方は三密の行。行であるけれど、四安楽の行。そこに法華一乗の六根清浄、即身成仏ということがある。尚この法華一乗というのは何かというと、一乗はただ一つの仏になる教え。それを一乗といいます。たった一つ、このこと一つというのを一乗という。一乗といわない時は仏乗といいます。一乗または仏乗という。法華経だけがただ一つ仏になる教えであるというのを法華一乗という。色々の宗派が一乗というのであります。涅槃品の方は涅槃一乗とこういう。華厳宗の方は華厳一乗という。そういうふうに一乗というのてありますが、それは一つの教えというのを強調している。その教えの中の四安楽の行というのを説いてある。それによって六根清浄というそういうふうなものである。まずこの法華経の第六、清浄功徳品。
 そこに「若し善男子善女人ありて、この法華経を受持し、若しは読誦し、若しは解説し、若しは書写せば、この人まさに八百の眼功徳、千二百の耳功徳、八百の鼻功徳、千二百の舌功徳、八百の身功徳、千二百の意功徳を得べし、この功徳を以て六根を荘厳し、皆清浄ならしめん」。こうあって、これは普通庶民がいわゆるお題目を唱える元になる経文である。「法華経を受持し」。受持というのは受持ち、離さないでそれを保っている。昔はお経というものは非常に大事なもので、それを写したものだ。それを持つためにはそれを写したものを手に入れるか、或いは戴くか、或いは自分で写すかしなければならない。それを肌身離さず持っており、それを受持する。読誦する。又は解説する。書写する。そういう人は眼・耳・鼻・舌・身・八百の身功徳。そこで身、意。眼・耳・鼻・舌・身・意。その六根の功徳ですね。この数は八百と千二百とあるが、一応眼・耳・鼻・舌・身・意の六根がこういう功徳によって荘厳、飾られて立派になり、今清浄ならしめん。そこで法華経を受持していくことが六根清浄というものに繋がるんだ。六根清浄ということが仏となるということなんだ。
 そこで法華経を受持する、読誦する、解説する、書写する。こういうことをいうんですね。しかし、法華経というのは相当長いお経で、それを読む、解説する、書写するというのは大変な話である。中々出来ることではありませんが、そこで日蓮上人は法華経の南無妙法蓮華経というその題目を唱えるだけで、法華経を受持し、読誦し、解説し、書写する功徳がある。こういうことで、題目を唱えることによって六根清浄となって仏となる。そういう教えを広めたわけで、これを日蓮宗と申します。
 それではその題目を唱えただけで本当に法華経を受持し、読誦する、そういう力があるのかとなると、どうですかね。そこはまあいいや。日蓮さんはそういう。一応それを日蓮宗というが、我々はどうしてそういう力があるのかというのは甚だもって理解できないということがある。この南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏を唱えるのとは同じか、というふうになりますと、違うですね。南無妙法蓮華経を唱えるのは日蓮さんの教えですね。日蓮さんがここのところを主張してそういうふうにした。念仏を唱える、南無阿弥陀仏というのは如来の本願なんです。如来の本願であって人間が解釈して作ったのでは毛頭ない。そこが非常に違いますね。しかし、そういうのは力説する必要はない。ただそういうふうなことで、それで六根清浄になるのかというと四安楽の行というのが必要なんだ。そこがあるわけなんですね。
 それは『法華経』の別な所に説いてある。『法華経』の安楽行品の中で、その『法華経』を受持し、若しは読誦する、そういうふうな行を行ずる方法、それを四安楽の行というのである。それはただこういうふうなのをやるというのではなしに四つあるわけです。
 身安楽行。これによって行ずるわけである。それはわが身を、次の十事を遠離するという。十の事を遠ざかる。それは色々あると思うけれども一応、欲の思い、貪欲の行。欲を出して思う心。行ずる事。又、勢いを示す、名利の行。そういうふうなものが挙げてありますが、要するに、間違った事を行じないということがひとつ。口安楽行。四種の語を遠離する。遠離、それを遠ざかる。人の過ちを咎めず、他の人を軽蔑せず。怨みや悲しみの言葉を言わず。そういうふうな事を四つ言っている。意安楽行というのは、心に四種の過を遠離する。心に思わない。一つは嫉妬、一つはへつらい、一つは軽蔑、一つは競争心。そういうふうなものを離れる、とこういう。これを自利という。利他、それが一つで誓願安楽行。法華経を知らない人達に慈悲の心を発して、「我菩提を得てこれを法に入らしめんと願ず」。衆生への働きかけ。そういうものを、その自利利他を四安楽というのである。
 四安楽の行を根本に持って、そして法華経を受持し、読誦し、そして解説する。そういうことになる。このところは題目を唱えるということになっているのは日蓮宗である。元の通りのものを、『法華経』を受持し読誦し解説し書写するという方が法華宗ですね。法華の本当のところですね。その根底にこういう行がある。そこで「法華一乗は四安楽の行を行じて六根清浄の果を得る」。
 「六根清浄はまた法華一乗の所説・四安楽の行の感徳なり これみな難行上根のつとめ」。こういう行をしたとする。ここももうひとつありますが、ここは南無妙法蓮華経と唱えるだけなら割と簡単ですが、ここは中々大変です。そういうふうな難行上根のつとめ。やはりこれらの仏教はその根本には戒・行というものがあるわけである。戒・行というものを保って、そこでこういうものをやっていくということが、それが根本にあるわけで、そこに「難行上根のつとめ・観念成就の覚なり」ですね。こういうふうになっている。一応、我々中々聞き慣れないところですけれども、そういう言葉が出ているので一応説明しておきました。
 これらを聖道門というのである。即身成仏という。ならばこれらは本当に出来るのかというと、その二十三−十ページの二行目ですね。
 「おほよそ今生に於は煩悩悪障を断ぜん事極めてあり難きあひだ」。あり難きというのは有ること難し。出来にくい。極めて出来にくい。殆ど不可能だ。「今生に於ては煩悩悪障を断ぜん事、きはめてあり難きあひだ、真言・法華を行ずる浄侶なほもて順次生の覚をいのる」。順次生というのはこの次の生。即ち死んでから後。この世の覚りは諦めて、即身成仏というわけにはいかない。そこで次の生の覚りを祈って、そこで南無阿弥陀仏を唱えるのである。真言密教におきましても南無阿弥陀仏を唱える。『法華経』においても、南無阿弥陀仏を唱えるのである。そこで『法華経』の中心である天台宗。その天台の僧侶でありました源信和尚。その人は『法華経』を引いて、そして『往生要集』に述べた。それが出ているのは行の巻である。十二−三十六。三行目。
 此の六種の功徳に依りて、信和尚の云く。一つには念ず應し、一たび南無仏を称すれば皆已に仏道を成ず、故に我無上功徳田を帰命し礼したてまつる
『法華経』方便品。「一称南無仏  皆已成仏道」。源信和尚はこれを『往生要集』に引いて、一称の南無仏。南無仏は南無阿弥陀仏。一声の南無阿弥陀仏が皆すでに仏道を成就する。それは本願に依るが故に、というお心で『往生要集』の中に引かれて、正宗念仏品という所にある。そこに『法華経』の「一称南無仏」は南無阿弥陀仏を唱えることだというのが天台の非常に優れた僧侶でありました源信和尚の教え。一称南無阿仏。従って『法華経』或いは『法華経』の誦する天台の人達も念仏を申した。真言密教においても念仏を申した。そういう事実があるわけで、即身成仏という教えはある。それを行ずる人もあるかもしれんが、実際には「真言・法華を行ずる浄侶なほもて順次生の覚をいのる」と、こういうふうにこの『歎異抄』の著者は書いている。
 親鸞聖人はどう言っているかというと。親鸞聖人は、
 聖道権化の方便に 衆生ひさしくとどまりて
   諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ
という。それが『大経』和讃の帰結に述べられている。十一−十九である。そこは浄土和讃の中、『大経』和讃。『大経』の意のその一番最後の締めくくりである。もうひとつその前から読んでみますかな。三首目。
 念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
   権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ
 聖道権化の方便に 衆生ひさしくとどまりて
   諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ
真言の密教も法華の一乗も聖道の教えですね。それは権化、仮に立てた方便の教えであって、人々を仏教に近づけるためにまずそういう教えを説いているのであるが、実際は不可能なのである。それであるのにそういう中に久しくとどまって諸有、即ち迷いの世界を流転しまわっている。どうか大悲の本願、一乗、それだけがたった一つ仏になる道である。これに帰命してくれよということを言われている。これは『大経』和讃。「念仏成仏これ真宗」ですね。そこにそういう教えがはっきりしている。又、化土巻。
 竊に 以れば 聖道の諸教は行証久しく廃れ 浄土の真宗は証道今盛なり
これは化土巻の流通分の一番はじめに出ている。これも非常に大事な言葉ですね。今のは十二−二二二という所にあります。その一番最後の行。
 竊に以れば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず。洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を辨ふること無し。
「行証久しく廃れ」というのは何かというと、先にも述べたように、宗教で大事なのは教行信証ですが、或いは教信行証のところもある。二つに、又は三つにして教行証というのが大事である。教えに説かれているところ。そして実行、そして証果。これが覚りである。救いである。「竊に以れば」ですね。私事でありますが、自己を謙虚にして、へりくだっていう。私、思いまするに「聖道の諸教は行証久しく廃れ」、今や教えだけが残っておって、真言密教・三密の行、法華一乗・四安楽の行を実際はやる人がいなくなっている。況んや覚りを得る者は一人もいないという現状である。即ち仏になる者が一人もいない。ただ教えだけが残っている。そういうていたらくであり、行証久しく廃れている。何故か。それは聖道権化の方便の教えであって、それができないのは当然なのである。仏はまずこれを教えて、そしてその行き詰まりにぶち当たらせて、そして悲願の一乗を勧めようがための教えであったのに、そこに止まってしまって、行証久しく廃れている。
 今、可能な道は浄土の真宗。それは宗派ではない。浄土真宗という宗教法人でなしに、念仏成仏これ真宗。本願の念仏を本当に戴いて、そこに仏となっていく。この世においては正定聚、彼の土において仏となる。選択本願が浄土の真宗。選択本願ですね。これが浄土真宗なりです。これが浄土真宗ですね。宗派でなく、宗教法人でない。それだけは証道今盛んなり。教は残り、行もあり、証もあるという。教行証というものが本当に今盛んに、残っており行われておって、そこに助かっていく者があるわけである。現実に真に仏となっていく。即ちこの世において正定聚、彼の土において仏となっていくという、そういうものがあるのである。そういってこの所に聖人は「聖道の諸教は行証久しく廃れ」といわれ、『大経』和讃には「権化の方便」といわれている。『歎異抄』の方では唯円はまろやかに言っている。
 「おほよそ今生に於ては煩悩悪障を断ぜん事極めてあり難きあひだ、真言・法華を行ずる浄侶なほもて順次生の覚をいのる」ということは、この世では真言・法華では実際には即身成仏ということはできないわけであるから、次の生に仏となる事を祈って念仏の行を取り入れているわけである、とこういうふうな表現でいっている。
 この所で一つ問いを出している。聖道の諸教、今もなお残っており、行ずる者があるのはなぜか。そのように今から七百年も前に「行証久しく廃れ」と言い、覚りを得る者はいないというふうに聖人が言っており、それからまだ前に、千年程前に道綽は既に、今の世の中は聖道門はだめなんだという事を色々言って「道綽決聖道難証」と『正信偈』にある。道綽は聖道の証し難きを決し、決定的にそれを言っている。それなのに今でも禅宗が残っており、法華経も残っており、天台宗も残っておって、その中に入っている人が多いのはなぜなのか。もう止めたらいいじゃないか。止めるべきじゃないのか。こういうふうになりますが、これは永久になくならない。なくならない。何故。
 それは二つの理由がある。一つは釈迦の存在ですね。釈迦、釈尊。答えと言っていいかどうか分からんが、なくならないですね。これは永久になくならない。これは釈尊。釈尊の存在。釈迦というお方がおられて仏教を開かれたわけである。その釈尊の修行、悟りはどういう悟りかというと、一般に信ぜられているところでは釈迦は無師独悟。一人悟った。即ち苦行林の中に初め六年間おって、とうとうその中では悟りは開かれなかった。けれどもそこから出て、みんなと分かれてただ一人、菩提樹の下で、そこでついに悟りを開いたのである。それが仏教である。こういうふうに言われておりますから、釈迦に出来たということはやはり一生懸命にやれば出来るという可能性があるわけである。だから釈迦の如くにしっかりやれば出来るんだという、そういうふうな考え方が仏教全般にあるわけである。即ち釈迦は本当に煩悩を断じて仏になった。あれはガンダーラでしたか、あの座禅堂の姿はもう骨と皮になって一生懸命求めたという姿が、絵ですか、あれに残ってますね。釈迦がそういうふうに信じられている限り、やはり聖道門をやる人は絶えないだろう。
 浄土門では釈迦をどう思うのか。釈迦はああいう苦行して悟ったのではない。釈迦はやはり前の仏、それを古仏といいます。古い仏。古い仏にお遇いして南無阿弥陀仏の本願を戴いて、そして本当に悟りを結ばれた。それが浄土門の解釈ですね。龍樹菩薩は『十住論』にそういうふうに書いてある。釈迦は初め発心を発して、そして一生懸命努力したけれども悟りを得られなかった。そこである仏に遇うて、ついに救われていったのであるというのが『十住毘婆娑論』には出ている。浄土門はそういうふうに理解している。人間は誰一人として自分で悟りを開ける者はいないんだ。この世において煩悩を断ち切って仏となる事は不可能だというのが浄土門の立場ですね。だから聖道門の人達は、釈尊がいるじゃないかと、これが最後の問いなのである。だからそういうふうに理解する限り聖道門は残るですね。
 もうひとつ。人間の至誠。人間の至誠というのは迷いなんですけれども、人間は最後の最後までやはりやれば出来るんだ、頑張っていけば困難であろうけれども煩悩を滅ぼして悟りを開くことが出来るはずだという、そういう理性的なものを持っている。そういう迷い、人間の、我々からいえば自力なんですが、そういう至誠を持っているからどうしてもこの道が残る。
 従ってこの聖道門というのは浄土門の前の段階。そこで決して、それがあったから悪いというのでは毛頭ない。段階的に言えば、資糧位ですね。資糧位・加行位。これは第一段階。かねて申している。元手になる、糧になるものを集めてわが身の修行を始める。それを聞く、読むと申しますね。そして実行する。それが出発点である。そして本当に分かる。それを通達位という。これは分かる、通じ達する。そしてそこから本当の修行、学習が始まる。そして究竟位に至る。これを仏果という。
 しかし、ここに大きな壁がある。読む。聞いて、考える。実行する。そうしてここまで達するかというとそうはいかん。ここまで行くと壁がある。お経の中に説かれている世界と自己の現実との間に大きな落差があって、そしてとうとうそれを超えれない。超えていけない。超えた所が通達位。これを登ろう登ろうとするが、ここの所で行き詰まる。どんなに禅を修めてみても、どんなにお題目を唱えてみても自己の現実、自己の現実は煩悩の現実。それと教えの、煩悩を断ち切っていくという、そういう教えに大きな隔たりがあるな。この落差。
  ここまでは同じ。この下、ここまで来る。ここで聞いて読んで実行してすぐ分かるのではない。浄土門はどうか。ここで私という者の現実を知るのである。現実を知るとは、もう一遍やり直そう、もう一遍やり直そうでなしに「それが私の現実でした」と自己の現実に目が覚めて、そこにはじめて究竟位の彼方の世界からの本願を聞く。
 その本願を聞く時に大事な事は、一つには宿善。何辺も何辺もやりかえやりかえて、まだやってみる、まだやってみる。それも結構。釈尊に出来たんだから自分も出来ないはずはない、といってやっていくのも結構。宿善厚い人はそこに善知識にめぐり会って、それを二つには善知識。親鸞、このお方も九歳から二十九歳まで二十年間やったわけですね。それで、やってやってやり抜いたわけである。常行三昧道という、一晩中寝もしないで念仏申していくというような、そういう行もやったわけである。しかし、この人は二十九歳でよき人に遇う事ができた。二十年の努力の後に法然上人に遇うた。宿善開発して善知識に遇い、その善知識を通して如来の光明に照らされて、本当の自己を知って、信心念仏の道に入った。それを五重の義といいます。その意味で善知識というその出遇いが一番大きいですね。そこにはじめて本願が届いて、その世界に上げられるのである。その世界に立たされるのである。
 それを信心という。信の成立という。そしてそこから生活実践。生活の上にその念仏が実践されていく。それを四重義という。ここまではこの世である。この世はここまでである。この世を正定聚という。そして命終わって仏となる。それを金剛堅固の信心念仏の世界に出て、本当に道を歩んで行く人になる。そういう人、それが浄土門。この人達はとうとう行きつ戻りつで終わって、そしてこれでは仕方ないから念仏申して、「順次生の覚をいのる」と、こういうふうに言われているわけであります。
 物事というのは自分の分斉。自分という者の分限斉量を知ることが大事。それを宿善ですね。自己を知ることが大事。何をするにも自己を知るということが大事。自己といっても色々あるが、自己の分限斉量。それを分斉といいます。自分の力の限界。お経にはこう分斉というのが色々出ていますね。
 これは非常に限られた話で申し訳ないが、かねて申すように昔、御木本幸吉という人造真珠、パールを初めて開発した人が、七十六歳だったかな、その時に自分の主治医である東大の先生に「もう十年自分は生きたい、どうぞひとつその道を教えてくれ」と頼んだという。教授は四つ言った。一つは生きようとする努力、生きようとする願いを持つこと。それは是非とも元気に生きていこうという願いを持つこと。第二は仕事を減すこと。仕事を減すことというのは、自分はある年ですから段々と仕事を減していきなさいということを言っている。しかし我々は元気な人、元気な時代、自分に自信を持っている時は「まだまだ大丈夫」と思っていますね。まだまだ大丈夫が危ない。三つは何だったかな。海草と小魚を食べることでしたね。四つは夜は便所に行かないで尿瓶でとることというのは非常に分かりやすいかもしれません。この人長生きしたんですよ。九十六まで長生きしたんです。それから二十年間それを守りましてね。
 僕もつくづく考えた。まず生きようと思うこと。よっしゃ!これは大体、大丈夫やね。仕事を減すこと。これはなかなか難しいですね。しかしまぁ人のをよく聞いて僕も考えて、今頃十五カ所程回っているですね。大体日帰りが多いですが、遠い所は泊まらせてもらいますが、そこで何年か前から夜帰ってくるのが十一時を過ぎる所はまず止めることにしました。けども中々一辺には止めれんから二カ月に一辺休むことにして、そういうのを三カ所ほどして、一カ所はもう止めました。全然止めまして、次の代わりの人に行ってもらいました。段々減しました。こっちが泊まりがけで行かなきゃならん所は減そうと思うております。泊まりがけで行くとどうしても泊まった日が遅くなって。
 しかし、また考えました。そういうふうに自分はそれでいいかもしれんが、やはり私が話をするのを心待ちに待ってくれる人もあるかもしれんし、そういう人は一回飛び飛びになると一年間に六回になるから、能率があまり上がらないですね。そこで来年から、ひとつ考え直して、何ヵ月に一辺かお話を聞いとればそれていいという人じゃなくて、緊急に問題を解決したい、信心の問題、色々な問題があろうから、そういう人のためには月に何回か、あるいは毎週一回位、日にちを開放して、私はうちにドンといるけれども来てさえいただければ面談いたす、そういう日を設けたいと思っております。そういうふうにしてなんとか欠を補わなきゃいかんかなぁと思っております。何故かというと、今までとにかく聞いてきた人が、聞けば必ず分かるということで、そういうことで申して来たのに、私の方が一カ月休むようになるとこれはどうも勝手をしてきたなあと思うて考えています。
 色々な話になりましたが、こういう所に久しく止まっているのは、これはやはり自分が分からないというのが、それが一番大事なところ。自分の分斉が分からない。やれば出来るんだと思っている。それが一番いかん。やれば出来るというものではない。やって出来ないことがあるわけである。
二、和讃
 さてそこで「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ  弥陀の心光摂護して  ながく生死をへだてける」。これは善導大師の和讃ですね。この和讃で間違ったのではないか。この和讃を取り違えて「信心さだまるそのとき」ですね。いわゆる仏となるというように考え違いをしたのではないかという、そういう意味の事が書いてある。「『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の・さだまるときをまちえてぞ・弥陀の心光摂護して・ながく生死をへだてける」と候ふは、信心の定まる時にひとたび摂取して捨てたまはざれば六道に輪廻すべからず、然ればながく生死をば隔て候ぞかし  此の如く知るを「覚る」とは言ひ紛かすべきや」。そういうふうに、それを紛らかしてはならんということを言っている。この和讃の説明を申しておかなければならない。
 金剛堅固。金剛はダイヤモンド。三つの意味がある。一つは清浄。如来の心をたとえたもの。堅固。何ものをも破る。不壊。何ものにも破れない。そういうのを三つあげる。今は堅固はこちらの方をいっている。金剛はダイヤモンドで清浄・真実・無漏。混じり気がないということを表すもので、如来の心に喩える。如来の心が至り届いて生まれた信心。それは堅いです。堅い。信心は何か。信心は二種深信といって「自身は是れ現に罪悪生死の凡夫  曠劫より已来常に沈し常に流転して  出離之縁有る事無し」。これを無有出離之縁という。私のお粗末な姿。それに目が覚めることを信心というのである。そして「他力の悲願は此の如きのわれらがためなりけり」と分かること。それを信心という。片方の方を機の深信といい、片方の方を法の深信という。
 金剛堅固の信心というのは、そういう信心。それを目覚めという。目覚めは如来の心が至り届いたものである。そして、何物にも破られない。何物をもそれを破っていく力がある。私が何者であるかということは例え天が破れ地が裂けようとも動かない、破れない、壊れない。何かを頑に信じているのでなしに、私が何であるかが本当に分かったのであって、その分かった私自身に対する目覚めはどんなものでも壊れず、それはどんなものをも打ち破っていくようなものなのである。こっちの方が金剛不壊という方。そして「他力の悲願は此の如きのわれらがためなりけり」ということ。それは何が起こっても壊れない。そういうふうなもの。それが金剛堅固の信心という。
 「弥陀の心光摂護」ということについては、聖人は『唯信鈔文意』で非常にすばらしいというか、そういう喩えを挙げておられる。二十−二という所です。弥陀の光明がいつも照らして下さるということを。はじめから七行目。「観音勢至自来迎」。そういう言葉で表している所がある
 「観音勢至自来迎」といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なればこの不可思議の智慧光仏のみなを信受して憶念すれば観音・勢至は必ず影の形にそへるが如くなり。この無碍光仏は観音とあらはれ勢至と示す。ある経には観音を宝応声菩薩と名けて日天子と示す。これはよろづの衆生の無明黒闇をはらはしむ。勢至を宝吉祥菩薩と名けて月天子とあらはれ、生死の長夜を照して智慧をひらかしむるなり。
そこで「摂取心光常摂護」は、観音勢至と譬えられる。一つは太陽、日天子。片方は月天子。月に譬えるですね。「よろづの衆生の無明黒闇をはらはしむ」。無明黒闇とは何か。無明煩悩である。その煩悩の暗い闇。我執。おれがおれが、という自己に執われ、自己の利益に執われる。我所執。私の物、自分の物という、そういう執われ。我執、我所執。我、我所といいますね。我執、我所執。これは所有を払う。私の自己中心という思いというもの。そして自分さえ良ければ良いという、そういう無明の黒闇を照らして払って下さる。そして、片方は無明「生死の長夜を照して智慧をひらかしむる」。生老病死、無明。生死の闇を照らして、長夜をですね。智慧を生ぜしむる。私の生きる道を、無明の生死の長夜という。私の生死流転のこの現実。その世界を照らして下さって、私の進べき道、とるべき態度。そういうものを、智慧を与えて下さる。それが摂取心光の摂護としていただく。私の闇が除かれる。私の生きる道が与えられる。示される。そういうところをいっている。
 私たちの生きる道というのは色々ある。右か左か真ん中か。西か東か。色々あるわけでありますが、こちらは月の光という。これは太陽、これは月。太陽が出ると闇がなくなる。月が出ると今まで暗かった所が明るくなって、そしてそこに月は我々に清涼、清らかな、そして静けさ、そういうものを与えて、本当にものを深く考える力をもたらして下さる。我々の生き方は右か左か色々あるわけでありますが、本当の智慧というのは念仏の申される道、仏教が本当によく聞かれる道、その方をできるだけ選んでいく。それが一番、我々を本当に満足させる、満たすものであります。我々は大体考える場合はどちらが損かどちらが得か。どちらが便利かどちらが不便か。どちらの方が人がよく言うか。そういうふうな名聞、利養、勝他。競争心。勝ち負け。そういうふうなもので考えるわけですが、本当の道というのは段々と仏法を本当に聞ける所、聞けるような道、念仏を申していく道を選ぶということが一番大事なことです。そういうふうなのを「弥陀の心光摂護して」教えて下さるというのである。私を照らして下さる。闇を照らし、静かな夜を照らして、そして道を、智慧を与えて下さる。これは非常に大事なところ。
・生死をへだてける
 色々具体的なところがありますが。「長く生死をへだてける」。生死を隔てる。生死は生・老・病・死。これを四苦という。生苦・老苦・病苦・死苦という。苦悩の世界ですね。もう一つは生死流転。苦の人生をいう。生死を隔てける。それが生死を隔てる。「ながく生死をへだてける」。「金剛堅固の信心の  さだまるときをまちえてぞ  弥陀の心光摂護して  ながく生死をへだてける」。弥陀の弘誓に乗ず。
 これは喩えていえば、これを大きな船、弘誓の船という。これを八道の船という。これを弘誓の船といいますね。これを南無阿弥陀仏の大ふねという。その船を八道の船というのは、八道は八正道。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。これを八正道という。「弥陀の心光摂護して」とあるが、我々はこの生死の海を一人で漂っておった、その上を一人で泳いでおったようなものである。「生死を隔てける」というのは生死の海から弥陀の弘誓の船に乗せられた。そういうふうにいう。その弥陀の船を八道の船といって、正しい考え方、智慧、正しい思い。そういうものを持って、正しい言葉、正しい仕事、正しい生活。それを生活という。日常生活という。日常生活の中で嘘を言わず、正しい職業、正しい生活。これが正しい行動ですね。行い。これが正しい職業ということ。これが求道生活。精進と。そして正しい念願と。正しい心の安定。そういうものを与えて下さる船に乗せられて、その船に乗ったままが正しい考え方、そういうものを段々と持つようになり、嘘を言わず正しい言葉と働きと、そして職業生活。精進、念願、心の安定、そういうものの船に乗せられた。
 船は半分は水の中につかっている。水の中につかっている部分と水から出ている部分がある。水の中につかっている部分はこの生死の苦海の中に入っておって色々の苦労を受けている。その苦労を避けることはできない。が、それが船の中で正しい智慧と正しい考えでこの世界が受け取られていく。受け取られていくということはどういうことかというと、この現実の世界がこれが私の担うべき現実、これが私の宿業と、これを本当に受け止めていことができる。これを超えていくことができる。これを超越という。これを随順という。生死の苦海の中でこれが私の受けるべき現実とそれを担っていくとともに、それを超え、離れて、南無阿弥陀仏というものを持っている。南無阿弥陀仏と念仏する世界を戴いている。南無阿弥陀仏こそが超越と随順。
 そういうものが与えられ、そういうものを生きていく。それを「生死をへだてける」という。「生死をへだてける」というのは生死がなくなったのではない。苦悩がなくなったのではない。苦悩の人生がなくなったのとも違う。その中にどっぷりとつかっている一面があるが、それを我が業として受け取っていくという一面を持っている。それを超え離れて、南無阿弥陀仏と念仏していく。そういう喜びを持っている。そういうのを「へだてける」。「へだてける」はなくなったのではない。それを超える道と、それを担っていく道。そういう船に乗る。それは決して仏になったのではない。けれどもそれを菩薩というのである。不退の菩薩としての道を与えられたのである。
 宗教はそういう面、この世では生老病死の苦悩、生死の流転の苦の人生を担っていくという面と、それを超えていくというふたつを与えられる。それを「へだてける」というのである。それが金剛堅固の信心によって与えられた南無阿弥陀仏の働きであって、それが親鸞のおっしゃる、この浄土真宗の教えである。これは大きな安らぎと大きな元気とファイトを持って人生を超えて、この船の中にできるだけ沢山の人を誘っていきたいと、そういうことをまた念ずるようになるのであります。
 即身成仏はその点からいえば甚だもって「聖道権化の方便に 衆生ひさしくとどまりて諸有に流転の身とぞなる」。本当に気の毒なことである。何とかしてここから「悲願の一乗帰命せよ」とお勧めしたいことであって、それが序論ですね。大体そういうことをひとつ言って、最後に結びに「浄土真宗には今生に本願を信じて、彼土にして覚をば開くとならひ候ぞ、とこそ故聖人の仰せには候ひしか」そういう結びにしてありますが、ここは一寸何か足らんなぁという感じですね。浄土真宗におきましては、今生に本願を信じて、そして弥陀の本願によって救われ、現実に随順して現実を超越して、生き抜く道を与えられて、そこに正定聚不退ということを入れなきゃいかんですね。
〔浄土真宗には今生に本願を信じて、正定聚不退の道を生き抜き、彼土にして覚をば開いて仏となる、と候ぞとこそ仰せには候ひしか。〕
そういうことでないと、どうもこの結論は弱いですね。この結論は唯円の、著者の弱さが出ているですね。もう一寸しっかり書かなきゃならん。それを僕は忠告しておきたいと思います。どうもこういうのは、これはやっぱり『歎異抄』も少し欠点がありましてね。親鸞さんが書いておりなさるのなら何も文句は言わんけども、唯円さんが書くもんやから、唯円のものには欠点がありますね。どうもこれは死んでから浄土へ行くという感じをどうしても与えるようになっておりますね。それはそれとして、そういうのを補ってから読めば、浄土門の生き方というものがはっきりするわけで、そこの所をはっきりしないと聖道門との差が出て来ない。今生において本願を信じて、正定聚不退の位において、本当にこの世を生き抜くのである。そして彼土において仏となって覚りを開くのである。共にこれ本願の働きである。こういうことになるのが本当やね。

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