歎異抄 第十五章

第一回講義  平成元年十一月

一、異義の背景  二、真実宗教の骨格  三、証果  四、正定聚とは  五、どうしたらこうなれるのか(方法論)

「煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくといふこと」
一、異義の背景                                  
 第十五章も異義篇の続きで初めの「煩悩具足の身をもて已に覚を開くといふこと」これが異義の内容です。「この條もてのほかの事に候」そういうふうにいわれておりまして、もってのほかのことである、まことに論外。一応即身成仏といいますね。即身成仏というのは、この世において覚りを開くとともに仏となるという事です。「故聖人の仰せには候ひしか」というのは、「浄土真宗には彼の土にして覚をば開く」という。この、言わば背景といいますか、どうしてこういう事をいうようになったのか。だいたい浄土真宗ではこの世で覚りを開くということは言わないわけであるのに何故こういうようなことが起こるのか、そういうものを背景といいう。
 ひとつは了祥、この人は『歎異抄聞記』という書物を書いて、その中で、何故このような異義がおこるのか言っている。これはやはり聖道門との対立、論議。聖道門の人が浄土宗を、いわゆる浄土門をけなして「この宗浅し、いやし」という。これは第十三章にありますね。「論議問答してこの宗浅し、いやし」という。その聖道門に対する対抗意識。やはり色々と言い合いをしているうちに「我々の方も煩悩具足の身であるけれども、やはり他力の信心を頂いて覚りを開いているんだ」と、まあこういうふうな表現ですね。
 これに対して広瀬杲という人の『歎異抄における諸問題』という書物がありまして、それには前の十四章の念仏滅罪の人に対する言い分。十四章の「一声念仏申して、そのまま続けて罪を念仏によって滅していく、念仏申す事が大事なんだ」そういうことをしきりという。そういうものに対して「いや、念仏を申して罪を滅するのではない。信心のその時に既に覚りを開いて、浄土の往生というものは間違いない。本願によって往生は保証されている。救済は保証されているのである」そういうことを言うために「煩悩具足の身をもって已に覚を開く」といったのだと言われている。
 曽我量深師は著書の『歎異抄聴記』中で(これは非常に優れた書物ですが)「それは観念的な、いわゆる知性派の観念論である」と言われております。
 聖道門の人と対立して、いつも「ただ念仏して救われていくというのは、そういうのは非常に浅い宗教だ、卑しい宗教だ、低い宗教だ」と言われているからね、「絶対違う、いやそうではないんだ」と、そういうふうな対抗意識。又、念仏滅罪「一一念仏して罪を滅ぼす必要はないんだ、既に本願によって救われているんだ」ということを力説する。「一応信心を得た者は覚りと同じではないか」こういうことを観念的にいう。『正信偈』には「不断煩悩得涅槃」というのがあって、既に信心のその時に、煩悩を断ぜずして涅槃を得た、即ち覚りを開いた、そういうふうに聖人はおっしゃっておられるのではないか。そういうふうな事をよく学問し、よく勉強をしている人達が、ここにはこう書いてある、そこにはそう言ってあると聖人の論を出して論じている。聖人は「信心の人は如来と等し」というふうな事を言ってある所がありますから、そういうものをもって来ると観念論というのが出来て来る。
 大体あげるとしたらこういうものがあるのではないかと思います。そこで一応この内のどれが良いのか。が、こういう色々の事があったのであろう。そして、そういう事をいうようになったのであろう。
二、真実宗教の骨格
 宗教、その宗教の骨格、中心になるものは、教・行・信・証である。これは宗教といっても真実宗教。即ち浄土真宗の骨格ですね。これを四法といいますが、四つのものがある。教えがあって、その教えの中身が行。即ち如来の働き、南無阿弥陀仏である。その南無阿弥陀仏が届いて信心が生まれ、そしてその信と離れない証がある。こういうふうなものを「教行至り届いて信証を生ずる」という。普通の宗教は教・信・行・証である。それに対して教・行・信・証という、そこに真実他力の宗教がある。これは度々申しております。これをもう少し簡略に言ったらどういうのかというと、教・行・証というのである。「真宗の教・行・証を敬信して 特に如来の恩徳の深きことを知んぬ」というのは、総序という所にある。
 それで、これを簡略にすればこうなる。どうなったのか。それは信を証の中に入れると申します。信を証の中に入れる。どうして。それは南無阿弥陀仏になる。南無阿弥陀仏が届いて、そして信心が生まれるわけだから、届く前は南無阿弥陀仏の中に我々の信心というのは入っているわけである。それからそれが届くから信になるので、他力の信というのである。そこで元に戻すと教・行・証と三つになる。更にこれを絞ったらどうなるか。これは教・証になる。「真宗教証興片洲」(『正信偈』)というのは、いわゆる源空、法然上人のところにある。「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州」ですね。この時は行がこの中に入っている。どうして。それは教えの中身が南無阿弥陀仏ですから、その中身が教えであれば教・証になる。これはもうこれ以上絞られない。
 従って、真実宗教というもので大事なものは「教え」とその結果、いわゆる「証果」、救い。それが大事なものである。「教え」というものを考えてみると、宗教、真実宗教、浄土真宗というものを考えてみると、一番つづめてみれば、『教行信証』を約めてみれば、教え、本願の教え、その本願の教えの中に南無阿弥陀仏がある。南無阿弥陀仏が届いて信心が生まれる。そこで、この「教え」というものを聞いていけば、教・行・信というものになる。「証」これが大事。その教えを聞いていったならば、結局、最後どのような覚り、どのような救い、どのような目覚め、そういうものが生まれるのか。このことをひとつしっかり知っておかなければならない。そういうわけで、最後はこの二つになる。
三、証果 
 そこで、証というのが非常に大事なのである。どういうふうになっていくのか、その事が曖昧ではいかん。それよりも「後はもう全部仏様にまかして、何が起ころうともう全部構わん」というのもひとつの生き方ですけれども、しかし、ついに浄土真宗によって何がどうなっていくのか、そういう事ははっきりしておかなくてはならん事であり、はっきりしなきゃならん事なのです。そこで、最後は教・証というのである。「真宗教証興片州」である。その証というものが大事である。
 その証について今問題が起こっている。どういう問題かというと「煩悩具足の身をもって、已に覚りを」ですね。已にというのがよく分からんが。信心を得た時に已に覚りを開く、そういうふうに覚りを開く。それが証果なのかどうか。
 しかし、それについて親鸞聖人は「それは異義である。間違っている」「即身成仏、即ちここに覚りを開くという事は間違っている」という。そういうことは「もてのほかの事に候」とありまして、これは厳しく言ってある。ならば、どういう事が本当の証果なのかしっかり知っておく必要があろう。証果、それを一番最後にまとめてあるわけで「『浄土真宗には今生に本願を信じて彼土にして覚をば開くとならひ候ふぞ』と」。そういうふうに言われているが、これはやや分かりにくいですね。本願を信じて、それからどうなるのかというのがはっきり出てませんから、一寸分かりにくいので、聖人が『教行信証』言われているところを見てみます。
 一二−一一八という所にある。そこは『顕浄土真実証文類』といって、証の巻という。初めの方を一寸読んでみましょう。
 謹んで真実証を顕さば、則ち是れ利他円満之妙位、無上涅槃之極果なり。即ち是れ必至滅度之願於り出でたり。亦「証大涅槃之願」と名くるなり。然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。必ず滅度に至れば即ち是れ常楽なり。常楽は即ち是れ畢竟寂滅なり。寂滅は即ち是れ無上涅槃なり。無上涅槃は即ち是れ無為法身なり。無為法身は即ち是れ実相なり。実相は即ち是れ法性なり。法性は即ち是れ真如なり。真如は即ち是れ一如なり。然れば、弥陀如来は如從り来生して報・応・化種々の身を示現したまふ。
「煩悩成就の凡夫 生死罪濁の群萌」即ち我らが、「往相廻向の心行」即ち他力廻向の南無阿弥陀仏を頂くと、信と行が得られる。信は信心、行は南無阿弥陀仏の念仏ですね。他力廻向の信心、他力廻向の念仏を得ると「即の時に」、即ち信心定まるその時に、「大乗正定聚之数に入る」。これは十八願成就の時に大乗正定聚の数に入る。正定聚に住するから必ず滅度に至る。これが「必至滅度の願」ですね。後書いてあるのは滅度が常楽、常楽が寂滅。そういうのが続いて、それが一如。寂滅を、滅度に至るそれが真如・一如。それが弥陀の世界。そこから「弥陀如来は  如從り来生して」というのは、我らもまた弥陀同体の覚りを開いて「如從り来生して  報・応・化種々の身を」この世において示すようになるのであります。そういうふうに還ってくることは還って来る。還って来る方を還相という。如来と等しくこの世に還って来るっていうのがいわれている。それもまた本願なのである。そういうふうに書いてあるんですけれども、一寸、その次のページを見ると、願の内容が書いてある。
 必至滅度の願文 『大経』に言はく 設し我仏を得んに、国の中の人・天、定聚に住し必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ、と。
 それは第十一願の本願成就によるのである。二つある。一つは現生に、現生にとは書いてないが信心定まるその時ですね、現生に正定聚。で、当生、当生は当然、即ち命終わるその時に、煩悩が断ち切られてしまうその時に、必ず滅度に至る。当生滅度という。これを二益法門というのである。二益法門というのは二つある。現実の人生、即ちこの世において得られる証と、命終わって直ちに得られる証と二つある。そこが浄土真宗の特色で、他の宗教は全て一益法門である。例えば、浄土門は死後の往生浄土のみをいう。従って生きている現在にどんな内容があるのか、いわゆる証があるのかということは説かない。我らはいつまでたっても結局凡夫。この世は凡夫。あの世で往生浄土して仏になる、という。
 聖道門はそれに対すると、あの世ということはいわない。この世で仏となるという。そういうことは実際には不可能である。肉体を抱えている我々にとっては、この世で煩悩を断じて仏になるということは不可能であるのに、そういうことを掲げている。そういうのが一益法門である。その他全ての宗教も大体一益法門といえる。
 その現生正定聚というのはどういう意味なのか。それを明らかにするために他の経典を引いてある。先の十二−百十九。その三行目に『無量寿如来会』というのがある。これは唐の時代に改訳された異訳の経典で略して『如来会』という。唐訳ともいう。そこを読んでみましょう。
 『無量寿如来会』に言はく 若し我成仏せんに、国の中の有情、若し決定して等正覚を成じ、大涅槃を證せずば、菩提を取らじ、と。
 それは同じ経典ですから比較してみると、ここは唐訳では「等正覚を成ずる」。等正覚といえば、五十一段。即ち如来のすぐ下の大菩薩をいっている。これを弥勒菩薩というのである。これをまた弥勒仏ともいう時もある。この世で等正覚、五十一段の大菩薩と相当。弥勒仏といわれるような、そこが正定聚であって、これが現生なのである。こういう事を言っている。大変な大変な高い所に上げられるという。又、滅度は大涅槃を証すといわれている。これは大体分かるが、そこは現生正定聚。これは非常に大事なんだ。それでは現生正定聚、それが等正覚。そういうのは大体何なのか。どういう存在なのか。
 一一九ページの終わりから三行目。『浄土論』というのを引いて、そこから正定聚というのはどういう人なのか、これは等正覚ですね、それを挙げてある。   
四、正定聚とは                                  
(1)妙声功徳をもつ
『浄土論』に曰く  「荘厳妙声功徳定聚」とは、「偈」に「梵声悟深遠・微妙聞十方」と言へるが故に、此れ如何ぞ不思議なるや。『経』に言はく「若し人但彼の国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して、生まれんと願ぜんものと、亦往生を得るものとは、即ち正定聚に入る」と。此れは是れ国土の名字仏事を為す、安ぞ思議す可けんや。 
 「即ち正定聚に入る」そこに正定聚というのが出ておって、それは「梵聲の悟らしむること深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ」とですね。正定聚とは、まず第一に『浄土論』に曰く。『浄土論』というのは天親菩薩、そして曇鸞大師がそれを解釈した。妙声功徳をもつ。優れた教えを聞く。「梵声の悟らしむること深遠なり」。梵声は清らかな教え、声、如来の本願の教え。その如来の本願を聞く耳が与えられた。優れた教えを聞くことができる。それを正定聚というのである。
 教えというものは大体二つの意味を持っている。かねて申しましたが「教は鏡なり」という。これは善導が言われた。鏡である。鏡というものがなければ、我々は自分の顔が分からない。人がどんなに教えてくれても、どんな顔をしとるかが分からん。そこで鏡を見るということが大事であって、鏡に自分の顔を写してみると、汚れている所が分かり、何か付いていることが分かり、非常に機嫌の悪い顔をしているのが分かる。そのような場合、反省すべきものは鏡を持つということですね。その教えは聞くわけですね。その教えを聞く耳が与えられる。優れた教えをいつも聞いている。「梵声の悟らしむること深遠なり」ですね。それは正定聚といって教えを聞く人。教えが耳に入る人。教えというのは鏡ですね。自分自身というものをいつも知らされている人。或いは、教を持っている人というのは鏡を持っている人である。
 又、経は縦糸。仏の教えを経という。経は縦糸を表す。縦糸は横糸を支えるもの。如来の方から私に強い縦糸を頂いているわけである。織物を織る場合は機械織りであれ手織りであれ、シャッと縦糸が向こうからこっちに引っ張ってあって、それがゆがまない、それがもつれない、それが切れない。そういう縦糸が与えられていると、そこに如来からの縦糸、それが南無阿弥陀仏。そこに横糸。横糸を緯という。これが私の生活。如来からの縦糸が経。経の中心は南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏の縦糸を戴いて、私の生活がそれに織り込まれてゆく。織り込まれていくということは、その縦糸に支えられていくことである。そこで生活というものができる。私のやった事が失敗であろうと成功であろうと南無阿弥陀仏になっていく。そこに優れた教えを聞いており、優れた教えを持っている。そういう方がある。それを正定聚というのである。
 正定聚というのはまさしく往生浄土が定まっている、そういう事をいってるわけですが、それだけでは具体性がない。それについて聖人はきちんと、以下、合計四つの事を言ってある。それが現実の証果である。現生正定聚という。
 第一は鏡を持ち、縦糸を持っているもし、この縦糸がなかったら、我々の生活は繰り返し繰り返し、繰り返されていくけれどもそれを支える何物もない。従って一日一日が虚しく過ぎていくというか、とうとう三百六十五日経って一年が終わる。「あーあ」ということになって「今年もとうとう終わったぁー」ということになる。全く虚しいということになる。十一月も大体終わりですね。今日、明日で終わって十二月になって「ありゃもう年賀状を書かなきゃいかん」ということになって「どうもなんちゅうこっちゃ今年はもうこりゃ・・」。
 信国淳という先生の講演集があって『命尊ばれるべし』でしたかな。その初めに(この人、フランス語の先生なんですね。)「トゥエ    トン」とでね。こういうフランス語があるんですね。これは「時を殺す」という。「ル  トン」というのは時を殺すというフランス語だそうである。この信国先生という人は有名な人ですけれども、宇佐の奥の方のお寺のご出身で、お東の方ですね。東大の仏文科を出て、大谷大学でフランス語の教授をしておられた。そこで、優れた先生にお会いして、育っていきなさるわけですね。その一番初めにこういう言葉がある。自分はこの言葉で心の中に非常に大きな驚きを感じた、ということを言っておられる。「トゥエ    トン」という。時を殺す。私は時を殺しておった。時を殺すの反対はというと、時を生かす。時が生きているというですね。それが今日も虚しく過ぎていった。今年一年もとうとうこれで終わった。全く時が生きていない。私は時を殺しておった。つまらん事ばっかり考えたり、つまらん事ばかりして時を殺しておったという。
 仏教ではこれを空過というのである。人生空過、何十何年生きておったけれども、とうとう何にもなかったというのは、時を殺しておった。そうではなしに「本当に良かった、今年も有り難かった、本当に感謝の一年であった」となると時が生きている。そういう時を生きている。そういう時を持つ。それには縦糸がなければならない。縦糸があってはじめて時というのが生きている。生活が生きて来る。毎日毎日の横糸が生きて来る。
 この信国先生はもう一つ言ってあるですね。大谷派の専修学院の院長を長く勤めて、沢山の人を育てられた人である。「トゥエ    トン」ですね。で、「デラシネ」という言葉に出会ったと。これもフランス語。これは根こそぎされたるもの。草や木を根こそぎ引き抜いてそこにほっぽり出しておくと、やがて枯れて死んでしまう。それを水に投げ込むと、根こそぎされたものがプカプカとどこまでも流れていってとうとう見えなくなる。本当にそれが拠るべき大地に立たないで、その大地からもぎ離された形で生きている所に「トゥエ    トン」があるんだと。自分は本当に拠るべき大地を持たないで、根こそぎされたものとして生きておったということを感じなさるという。フランス語の先生であればフランス語でも考えなさった。まあいらん話になりましたが、「トゥエ    トン」であり、「デラシネ」である。それを縦糸を持たないものという。縦糸を持たない者。そして、鏡を持たないのである。「妙声功徳」。如来の妙なる声が私に教えとして聞こえて来て、それによって生かされている。それを正定聚というだというのがそこに出されている。
(2)主をもつ(主功徳)
 「荘厳主功徳成就」とは、「偈」に「正覚阿弥陀・法王善住持」と言へるが故に 此れ云何ぞ不思議なるや 正覚の阿弥陀、不可思議にまします 彼の安楽浄土は、正覚の阿弥陀の善力の為に住持せられたり、云何が思議することを得べき耶 「住」は不異・不滅に名く、「持」は不散・不失に名く 不朽薬を以て種子に塗るに、水に在くに爛れず、火に在くに_れず、因縁を得て即ち生ずるが如し 何を以ての故に、不朽薬の力なるが故なり 若し人一たび安楽浄土に生じ、後の時に意に「三界に生じて衆生を教化せん」と願ずれば、浄土の命を捨てて願に随ひて生を得 三界雑生の水火の中に生ずと雖も、無上菩提の種子、畢竟じて朽ちず 何を以ての故に、正覚の阿弥陀の善住持を経るを以ての故なり。(十二−一二十)
 正定聚というのは主功徳ですね。主を持つのである。主はあるじ。あるじは法の王。法王ですね。主(あるじ)といえば昔は主君といって自分の殿様を主と申していた。単なる主人ではない。それは力を持ち、私を守り、育てて下さる。それを主と言い、それを不散・不失という。不異・不滅といい、私を保って下さるということをいっている。私を護り、私を保つ主をもつ。法の王を持つ。その主を持って私はその王の臣となる。それを正定聚という。そこに私が金を惜しまず、時を惜しまず、命を惜しまず、尽くし、相手を持つ。それを正定聚というのである。「如来大悲の恩徳は  身を粉にしても報ずべし  師主知識の恩徳も  骨を砕きても謝すべし」というような相手を持っていることを主を持つというのである。
 そういう主なんか持たなくて、自分の自由に、自分の思う通りにやりたいとも思うが、それもひとつの生き方ですね。けれども宗教というのはそこに自分のたった一人の相手を持つようになるんですね。その人のために尽くすというものを持つようになる。それが南無阿弥陀仏である。それに尽くすようになる。金を惜しまず、時を惜しまず、命を惜しまずという。これを積極的と言います。
 この間新聞を見ていると、田川郡の炭鉱の方に、上野なんとかという人がおられて亡くなられたわけだが、その奥さんがその三回忌だったか思い出を書いて朝日新聞かなんかに載っていました。自分の主人は炭鉱の記録を残そうとして「金を惜しまず、時を惜しまず、命を惜しまずやる」そういうのが座右の銘だった、と書いてあった。それを読んでやはり一つの事をやろうという人はそういう事を考えなさるかなあ、これは確か仏教の言葉だがなぁと思うておりましたが。
 いらん話なんですけれども、回り回ってその人の息子さんが子供を二人、私の園に預けておられるが、毎日送って来なさる。この間「あなたのお母さんが書いてなさるのを読みましたが、お父さんは金を惜しまず、時を惜しまず、とても偉い人ですねえ」と言うと、息子は「まぁ、あんまり惜しまなさ過ぎて、息子にとってはもう一寸金を惜しんでくれたらよかった」とそう言っておりましたが、まぁ冗談でしょう。ああいうところがある。それを主をもつというのである。正定聚とはそういうものなのであると、聖人はこれには書かれた。
(3)たくさんたくさんのよき師よき友をもつ(眷属功徳)
 「荘厳眷属功徳成就」とは、「偈」に「如来浄華衆・正覚華化生」と言へるが故に 此れ云何ぞ不思議なるや 凡そ是の雑生の世界には、若は胎・若は卵、若は湿・若は化、眷属若干なり、苦楽万品なり、雑業を以ての故なり 彼の安楽国土は、是れ阿弥陀如来正覚浄華之化生する所に非ざるは莫し 同一に念仏して別の道無きが故に、遠く通ずるに夫れ四海之内皆兄弟と為すなり 眷属無量なり、焉ぞ思議す可きや、と。(十二−百二十)
 沢山沢山のよき師よき友を持つ。これを衆功徳という。主を持つということである。これを眷属功徳というのである。眷属とは、眷は愛する。愛情ですね。それは愛情を表す。属は繋がりを表す。連体ですね。強く繋がっている。それを属という。愛情をもって強く繋がっている。そういう相手を眷属という。普通は親子・兄弟、そういうのを眷属というけれども、今は浄土の眷属。沢山沢山のよき師よき友を持つ。それを眷属無量といいます。全て如来浄華。如来の正覚華、如来の蓮華の中から生まれ出た人。それを同一念仏。それを本当の眷属といいます。同一念仏して別の道無き。
 よき師よき友を持つ方法。よき師よき友といいますけれども、本当はよき友というのが大事なんです。よき師も本当はよき友なんです。よき師とよき友があるとも言えますけれども、本当にあるのはよき友なんです。よき友が与えられる。よき友というのは私を勧め励まし、私を護り、私に忠告し、私の手本になる。そういうものを持っている人ですね。それをよき友という。そういう友達を持ちたい。子供にもそういう友達ができてくれるといいが、と親は思う。そういう友達ができる方法。友達というものは与えられるものである。賜うものである。それは如来によって賜うものです。友は賜うもの。賜うものです。与えられるもの。何によって。如来によって。如来によって与えられるとはどういう事か。そうですねぇ。あなたが求道することによってあなたに必ずできてくるものがある。それがよき師よき友なんです。求道によって与えられるもの。求道によって如来から与えられるものである。それを沢山沢山のよき師き友を持つというのであります。
 そもそも人というのは自分が進展しなければ良い友というのはできない。花には蝶々が飛んで来て止まる。けれども蝶々がごみ箱の上に止まっているのはあまり聞かん。それはそういうものなんですね。そのものが香を発し、そのものが蜜を持っているから鳥がその華に集まって来るんである。汚い匂いを出しているから蝶々は来ないんです。代わりに蠅が飛んで来るわけです。だから何が飛んで来るかというのを見ていると何があるか分かる。そこで、その人を知らんと思わばその友を見よといえり、というのはそういうふうになっているわけですね。うちの子供はどうも友達が悪い、友達運に恵まれていない、それは嘘です。それは匂いが悪いんですよ。だから悪い匂いのやつが来るわけですね。そもそもあなたが求道によって前進していったら、必ずそれに相応しい人が出て来るんですね。それはどうしようもないわけなんです。尊いものは尊いものから与えられるんである。
 これが出て来ると、そこに人は多くの人を、他の人を「友よ」と呼ぶ力が与えられるんです。友を持つ者は他の人を「友よ」と呼ぶ力が与えられる。そこに「四海の内皆兄弟」というものが出て来る。日本人の我々は島国根性と申して、あまり考え方が良くないですね。なんていうか、団結とか、人の中に集まるとかいう、そういう癖になっている。恥ずかしがりやでもありますし、知らん人にはあまり近づいていけないというところがあるね。
 私はオビタカ丸という東京水産大学の船に乗って一ヵ月だったかな。まず調査があるですね。シンガポールとかパキスタンとかカラチとかクェートとかですね。大体二十日間位の調査に出掛けて、一ヵ月乗りました。大事な所ではパーティーをやるんです。領事館でやったり、或いは船でやったりする。それで外国の人を呼ぶわけなんです。親善もありますし、色々、外務省から頼まれてやることもある。やっぱり外国人が来るんですけれども、日本人はその中に入っていて色々言うのが下手。大体言葉もあまり上手じゃないですけれども、やっぱり日本人同志がかたまって外国人は外国人でかたまって、何のためにパーティーをしとるのか分からんことが多いですね。そういうような事が多いですね。一つは恥ずかしがりや、一つは言葉の不自由さもありますが、一つは「友よ」といって、髪の毛も違うし肌も違う、そういう人と心が開けない。そこがひとつ。
 しかし心が開けないというのは何か。一つは世間心ですね。皆と言うてうまく通じなかったらどうしようか、とかですね。或いは出しゃばってるように見えたらいかんとかですね。何か色々の名利心、そういうものが働く。信心というのは名利心が打ち砕かれる。だからまず心が広くなる。そして、やはり色々の縁をもって仏法を広めていきたいという気持ちがある。だからとにかく近づきになっときたいという気持ちがある。又、タイとか中国とか、そういう所へ行ったら、やっぱり向こうからこっちは学んだわけである。仏教を教えてもらったからね。なんとかひとつお返しせにゃいかんという、そういうこともあろう。そういうふうなものがあると「友よ」になる。
 言葉というのはやっぱり大きな障害で、言うことは通じない。通じないけれども、目と目、顔と顔を突き合わせて話をすると、なんとなく通じるものですね。やっぱり向こうは日本人というのには何かの期待を持っていますね。非常に懐かしげに見るですね。特にモンゴリアン系とか中国とか、タイとかですね。ああいうところが、いいところがあるですね。日本人を「友よ」という。何か見る目が違うような感じかしますね。
 自分の内に「友よ」と呼べる広いもの、願い、そして心の名利心が打ち砕かれた、そういうものを持って、沢山沢山の人を友とする。それが正定聚というのです。小さな殻に閉じこもらない。
 又言はく  往生を願ふ者、本は則ち三三之品なれど、今は一二之殊無し、亦シジョウの一味なるが如し、焉ぞ思議す可きや、と (十二−百二十)
 シジョウの、これは中国の山東省の河の名前だそうですが、シという河、ジョウという河、その河は、河の時は水の色も違い、味わいも違っているが、海に入ってしまうと、この水がシの河の水、この方がジョウの河の水ということはない。みんなみな海の味にひとつになっている。みんな皆、往生、正定聚の者というのはみんな同じような味わいを持っている。如来の子なのである。
(4)清浄功徳をもつ
  又、『論』に曰く  「荘厳清浄功徳成就」とは、「偈」に「観彼世界相・勝過三界道」と言へるが故に 此れ云何ぞ不思議なるや 凡夫人の煩悩成就せる有りて、亦彼の浄土に生ずることを得れば、三界の繋業畢竟じて牽かず 則ち是れ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、焉ぞ思議す可きや、と。(一二−一二〇)
「荘厳清浄功徳成就」ですね。いわゆる「煩悩を断ぜずして涅槃分を得」。清浄功徳。悪を転じて徳と成す。どんな悪い事お粗末な事があっても、そういう事をしでかしても、それを転ぜられて徳となる。徳となるというのは念仏となる。どんな悪い事も念仏の種になる。そういう徳を持っている。清浄功徳をもつ。清浄功徳というのは強い徳を持っているというよりも、ものを浄化する、汚いものをきれいなものに変える。そういう浄化する働きを持っている。そういうものを与えられた。聖人はこの四つを証の巻にあげられて、古来これを正定聚の徳という。それを現生正定聚ですね。
 考えてみると、現在の浄土真宗というのは、何のために浄土真宗にお参りしているのかと、それを質問したら「死んで浄土に往生して仏となって、心配のないように、そういうふうに私はお寺参りをしているのである」という人が大部分であろう。
 聖人はここを二つ、これを非常に力説されたのであります。こっちが死んで浄土に往くという方。どこが力説されているのが分かるか。それは十八−三という所がある。。この十八は『往相廻向還相廻向文類』。略して『往還廻向文類』。短い書物ですが、その十八−三を見ると、それが一番最後の文章で「康元元丙辰  十一月二十九日  愚禿親鸞八十四歳」。九十歳で亡くなられる、その六年前。丁度十一月二十八日に亡くなられるですね。その六年前。この聖人八十四歳の五月に善鸞を義絶して親子の縁を絶ちなすった。それが『往相廻向還相廻向文類』です。その半年前に出来ている。前の十八−一に帰って、そこを見ますと、終わりから四行目。
 真実証果といふは 必至滅度の悲願に顕れたり 証果の悲願 『大経』に言はく「設我得仏 国中人天 不住定聚必至滅度者 不取正覚」。これらの本誓悲願を「選択本願」と申すなり これを「往相廻向」と申すなり この必至滅度の大願を発し給ひて「この真実信楽を得たらん人は即ち正定聚の位に住せしめん」と誓ひたまへり。
 大体、真実証果の願は既に書いたように「定聚に住す」というのが一つと、それから「滅度に至る」というのが一つで、二つなきゃいかん。二つ言われているわけで『教行信証』にはすでにそう出ている。しかるに、このご晩年には一つしかし出ていない。即ち「正定聚の位に住せしめん」ということ一つしか出ていない。これは何か書き違いかというとそうではない。次の文章を見ると、
 同本異訳の『無量寿如来会』に言はく
 「若我成仏 国中有情 若不決定成等正覚 証大涅槃者 不取正覚」
 この悲願は、即ち「決定して等正覚にならしめん」と誓ひたまへりとなり「等正覚」といふは、即ち正定聚の位なり
 それを見ると、ここも続けて、いわゆる大涅槃を証するとはというのが省略されている。等正覚にならんというのだけが誓われているといわれている。即ち現生正定聚の往相廻向。『往還廻向文類』では現生定聚のみがあげられている。それは偶然ではなしにやはり必然なのである。何故か。それは現生と当生が合うのではない。これは二つ張り合わせてあるのでなしに一つなのである。その一つのもののはじめが現生で、その次が当生。即ち南無阿弥陀仏が届く。私に南無阿弥陀仏が至り届く。そのことが一番はじめには現生正定聚。そしてとうとうそれを、先が当生滅度なのである。これがあれば必ずこれがあるわけであって、従ってここだけ言ってもこれが付いている。だからここだけを言わん。後がないのではない。この中に入っている。
 今、ピストルの弾がズダンと鳴ってぱったりそこに倒れた。まだ生きている。まだ心臓が動いている。痛い痛いと言うている。痛い痛いということはピストルの弾が当たったということによって起こってきた現象である。生きとる間はそうである。これはもうどうしても助からない。その内命終わる。今はまだ生きているけれどもその内こうだ。ここだけいうと、あーぁやられましたなぁというと、大体もうこれは終わりかもしれんということになる。それが付いてるわけです。あまりいい例えではないがそういうことになる。
 そうすると「お寺へ参るのは死んでから先の事」というのは親鸞聖人の教えに非常に遠いものではないか。浄土真宗というのは生きた人間がこういう徳を持つ人になる、ということが中心なんだ、というべきであろう。そうしないと、本当に聖人のお心を伝えてないんじゃあないか。信心を戴いた者は人間が変わったようになるんだ。どういうふうに。繰り返しますように教えを聞く耳が与えられて、鏡を持っており、縦糸を持っておった、そして主を持った、そういう生活が始まった。そして「友よ」とまず人にも呼びかける力が与えられた。そして沢山沢山の友を持っておって、そしてこういう徳が与えられている。残念ながらこういう人はあまり出て来ないわけです。
 大体。そこがみんな知りませんとこです。「聖人はそうかもしれないが他の者はならんのじゃないか。やっぱり聖人は偉いから我々と違って、聖人がおっしゃるようには我々いかんのや」。そうじゃない。偉い人と偉くない人がおって、その人の素質によってなるかならんかが決まるんならば、確かにそういうことが言えるだろう。けれども先程も行ったように「シジョウの一味なるが如し」。川は沢山ある。その川は色々な川がある。けれども信心決定して大きな世界に出て、如来の本願の信心に入ったら同じなんだ。みんな同じなんだ。そこに浄土真宗は目を開かなきゃいけない。
 「どれだけ教えを聞いてみても結局この世は凡夫です。どうにもならんのです。死んで助かるのです」どうかなあ・・・あなたのは浄土真宗じゃないよ。それは浄土宗だ。一益法門の浄土宗。浄土宗はそういう。しかし、あなたが本当に浄土真宗になろうとしたら、それは違いますよ。それは二つあるんだ。そこのところをはっきりしないと、みすみす浄土真宗の話を、親鸞聖人の話を聞いておりながら間違ったものになってしまうということがある。証果ということが大事なんですよ。これが大事なんです。
五、どうしたらこうなれるのか(方法論)
(1)他力のはじめは自力である
 ならば、それほど大事な証果というのなら、それはどうしたら得られるのか。実際に得られていない人が沢山いるじゃないか。それはどうするか。そこが大事なところですね。どうしたらこうなれるか。これが方法論ですね。それを繰り返し申した。
 他力真実 如来廻向。他力のはじめは自力。自力を恐れてはならない。自力が出発点ですね。内容ははじめは五種正行に尽きる。読誦ですね。これは何遍も申している。読誦正行、即ち弥陀の本願を述べ、弥陀の浄土を論じ、七高僧の教えを述べられた、そういうお経や書物を読むこと、聞くこと。これが第一。読誦正行。そこで蓮如上人の『御一代記聞書』を頂きますと「『聖教は読みやぶれ、本尊は掛けやぶれ』と対句に仰せ」られた。対にして言われた。
 観察。考える。考えるですよ。読んで読みっぱなし、聞いて聞きっぱなし。それは一番能率の上がらないやり方である。今、着物を縫う、ものを縫う時、針に糸は通した。その糸の先をつづめていなければ、いくら縫うてみてもサッと糸を引っ張った時に全部抜けてしもうてなんにもならん。考えなければ聞いた事も読んだ事も何にもならん。皆さんノートをとっておられる人があるが、ノートというのはとっただけではつまらんですよ。後で読まなきゃ何にもならん。先程のつづめてない糸と同じです。そういうふうなのは書かん方がましです。しかし、考えるなら、読むのならばそういうことですね。非常に役に立つ。
 これは考えるということですね。どういうふうに考えるのか。まずは読んで、思慮して「私にとって、私においてこれは具体的にはどうする事なのか、どういう意味があるのか」と考える。そして、分からない所はこの次に質問する。大体質問しない人は考えない人ですよ。考えない人というのは分かった所と分からん所が分からんのですね。どこもかしこも分からん。どこもかしこも分かった人もいなさるが、その差別が分からん。だから質問しない。だから僕は大体質問の具合で熱心な人やなぁというのが分かる。その人は非常に進展しなさる。
 礼拝。如来に礼拝する。お勤めをする。称名・念仏。讃嘆供養。讃嘆は感謝。有り難うございます。お礼。そしてお華を上げ、お香を焚く。それを供養。大体後の方になるほど難しい。こちらが難しい。読む・聞くはなんとか出来る。が、考えるは難しい。考えるところまでは考えたが朝晩のお礼というのが中々難しい。本当に難しいのは南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏が難しいですよ。これはやさしそうに見えるが難しいです。まぁやってみなさい。分かるから。五分間念仏しようとしたら大変ですよ。南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏・・・こうやって時計を見てみなさい。まだ五秒しか経ってないから。何故かと言うと、南無阿弥陀仏というのが一秒間です。南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏・・・とするでしょ。一分間で六十回です。六十回やってみなさい。もうそりゃ一時間位やったような気になりますから。とてもじゃないが長い。従って、一時間やったら三千六百回ですね。大変なものですね。法然上人は毎日五万遍なさったというからな。そりゃまだ、一時間で三千六百回ならば、十時間で三万六千。だから十二時間以上。十数時間やっておられます。それだけでもう出来てないなあと思いますね。
 こっちが難しい。その上難しいのは「有り難うございました」とお礼をする事ですね。これが難しい。お華を上げ、お水を上げ、お香を焚く、中々やらないですね。私の所の会館はいつもお華をかえていただいておりますからお華がきれいです。もう一つうちの方に仏壇がありまして、そこはいつも閉まっております。僕らが夜はそこで勤行をしている。お華は時々です。枯れ草同然になっている。枯れとるです。「おいおい」と言うて家内が急いで代えるが時々ですね。実際これは難しい。中々難しいなあと思う。こっちが難しい。それをやるのは全部自力です。初めはな。有り難うと思うてやっとるのではない。信心が出来てやっとるのでは毛頭ない。信心のない者がやっとるんだからね。これは自力じゃ。それに恐れずこれをやり抜いていくこと。これが大事。
(2)継続一貫・積極的聞法
 継続一貫。最後まで続ける事。積極的聞法。この積極的聞法というのが、先程の金を惜しまず、時を惜しまずですね。命を惜しまずというのもありましょうが、まずは金を惜しまず時を惜しまずやっていく事。そうしたらどうなるのですか。他力になるのですか。うーん、まぁそこはそうです、そうなるまでやる事。そうしたら必ずなれますか。まぁ、やってみる事やなぁ。やってみにゃ分からん。が、本当に信心の世界に立った人は必ずやった人です。これを一生懸命やった人ですよ。それを「必ず出来る」と何故言わないかというと、それは如来の働きですね。そしてこれを続けていけば、とうとう信心を得たの得ないの、そういうようなことは問題にならないわけである。そこに自力の果てを究めて、如来の到達がある。
 そこで、そこら辺は後に回して、まずこうです。これが方法論ですよ。そこが出たならば必ずこういう現生正定聚というのが出る。それは既に覚りを開いた、仏の覚りを開いたとは到底思えないもの。そういう表現では表せないもの。愛情をもって、友をもって、そして教えを聞いて、一生を被教育者として、一生を一人の聞法者として、一人の求道者としてこの一生を過ごしたいということが、正定聚の姿勢であって「既に終わった、得た、済んだ」というようなことにならない。これは異義なのである。そういう異義は色々背景があって出て来た。まぁ正しい内容はどうかということを述べたことになりました。

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