歎異抄 第十四章
第四回講義  平成元年十月二十五日


一、摂取不捨の願  二、いかなる不思議ありて罪業ををかし  三、たのみたてまつる
四、念仏もうさずしておわるとも  五、念仏して終わる  六、信心への道

 第十章までは親鸞聖人のお言葉で、第十一章からは唯円が書いた内容になっている。その相違と言いますか、十章までがやはりまぎれもない聖人の仰せという感じがいたしておりまして、読んでも少し調子が違います。が、十一章からはまた違った唯円の言葉で、初めはなんとなく慣れないから読みづらい感じがしますが、この十四章まで来るとだんだん唯円の文章に慣れて来て、慣れてみますと中々説得力のある、筋道の通った内容になっている。そういう事が分かりますね。
 全て書物というのは初めの十ページが難しいといいます。初めの十ページが、その人の文体というものに慣れるのに時間がかかる。それを越せば大体よく分かる。それでここは非常によく言ってありますね。「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし、といふこと」これが繰り返し言うように異義であって、念仏を道具に使って、いわば一声の念仏で八十億劫の重罪を滅すという。そこで罪を犯すたびに、或いは罪の思いがあるならば、それを念仏申して一つ一つ滅ぼしていくという、そういうことを言う、それは間違っている。そういう事を言おうとしている。
 プリントをしていただきましたが、この前は「『この悲願ましまさずばかかる浅ましき罪人いかでか生死を解脱すべき』と思ひて一生の間申すところの念仏は皆悉く『如来大悲の恩を報じ徳を謝す』と思ふべきなり」。ここが大体言いたいところで「この悲願ましまさずばかかる浅ましき罪人いかでか生死を解脱すべき」これが信心ですね。「この悲願」というのが法、法を尊ぶ、法の深信。「かかる浅ましき罪人」というのが機の深信とでも言いますか、そういう信心の内容が出ている。従って信心決定して一生の間申す念仏は罪を滅ぼすのではなしに、皆悉く恩徳報謝の念仏である。そういうことが十四章の言いたいところです。
 続いて「念仏申さん毎に」。念仏を申す度に罪を滅ぼそうとするのは、既にわが罪を「われと」自分で罪を消して往生しようと励むのであります。もしそうならば「一生の間おもひとおもふこと」、即ち人間の私達の思いは全て煩悩の思いであって、貪欲・瞋恚・愚痴、皆生死の絆、私をこの生死流転の世界に縛りつける綱でないものはひとつもないから、命尽きるまで念仏を続けてはじめて往生する、そういうことになりましょう。けれども「ただし業報かぎりあることなれば」その我々の宿業、業報に色々限りがあることでありますから、「いかなる不思議の事にもあひ」思いもかけないような不思議な事にも出会って、又、その他にも「病悩苦痛せめて」病気に罹ってその苦しみ悩み痛みが私の心を攻めて、私は「正念」正しい思い、念仏申そうというような正しい思いに住しない内に、とうとう死んでしまうということになりますと念仏は申すことができない。そうすると、その間の罪はどうして滅すことができましょうぞ。罪が消えないならば往生できないのであるかどうか。こういうふうな中々筋を立てて説得力のある文章になっている。文章そのものはちょっと我々に馴染まないかもしれんが、内容は実によく出来ている。
 今日はその次「摂取不捨の願をたのみたてまつらば」。今さっき申したのは言わば本願をたのむということでなしに、自分で罪を消して往生を励もうという、念仏で罪を消そうというふうな事でありましたが、「摂取不捨の願をたのみたてまつる」ならば、二つ書いてある。「いかなる不思議ありて罪業ををかし念仏まをさずしてをはるとも」・・・「速に往生を遂ぐべし」。念仏申さずして終わるとも間違いなく往生浄土していく。「また念仏の申されんも」これは次の文章がありますが、「ただいま覚を開かんずる期の近くにしたがひていよいよ弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ」。こういうふうな文章になっている。
 途中のいらん所を省略しますと、摂取不捨の願をたのみたてまつらば、念仏申さずして終わるとも往生は必ず遂げられん、摂取不捨の願をたのんで念仏が申されるのは御恩報謝の念仏であります。そういうことを言おうとしております。そういう文章になっている。
 親鸞聖人のはすっきりしているが、この人の文章は少しごたごたした所があります。少し分かり難いが、だいたい筋の通った内容になっている。そこで、この内容はだいたい文章で分かりますが、こういうところを利用して、いわば基礎的な知識、即ち親鸞聖人の言われる教えの基礎的な所を固めていく。
一、摂取不捨の願
 我々は『歎異抄』そのものも理解したい。それが『歎異抄』を読むという意味ですね。けれどもそれを利用してと言ったらおかしいが、それと共に仏教の基礎的な考え方、あるいは基礎的な知識、そういうものを勉強していくことになりますと「摂取不捨の願」、これはひとつどういうものかみてみよう。これは前の方を見ると、その同じページの四行目。「弥陀の光明に照されまゐらする故に一念発起するとき」云々と、こういうふうにあって、そこに関係がある。「摂取不捨の願」とはこの通りの言葉がないんですけれども、大体『観無量寿経』に摂取不捨というのが出て来るのである。それは第九真身観と申して二−十五、終わりから八行目。
 一一の光明あまねく十方世界を照らし念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず
上の方は漢文で終わりから六行目ですね。
 一一光明 遍照十方世界 念仏衆生 摂取不捨
 そこが摂取不捨というのが出て来る所であります。「光明遍照十方世界」。『観経』ですね。『観無量寿経』という。光明遍照。ヘンはこのヘンもありますし、このヘンを書くこともある。光明あまねく十方世界を照らし、念仏衆生摂取不捨ですね。これを摂取不捨の願という。先の十四章では申すように「弥陀の光明に照らされまいらする故に一念発起する」。その事を言っている。「光明遍照  十方世界  念仏衆生  摂取不捨」である。光明の照らし、働き。それが弥陀の本願。
 弥陀の本願は第十二の願に光明無量の願というですね。光明は照らす。光明の働きは照らすということにある。照らし、そして何かがそこにあるとそれを照らして、照育、照破、照護。それは照らし育て、照らし破り、照らし護るという。今、卵があって親鳥がいると、この親鳥の熱はまず卵を育てる。目玉ができ嘴が生え脚が生えて卵からひよこに成長する。けれどもまだ殻の中に入っている。殻の中に入っている時が照らし育てる。照ですね。色々な人種があるわけですが、ベトナムの方のものを読んでみると、大体この卵は二十日余りでひよこになるね。それで卵を鶏に抱かせて大体二十日ばかり経つと、ひよこになって出て来る寸前になったそれを茹でて食べるという、そういうのもある。日本人じゃあ全然そういうふうに育てないですね。
 それを破ってやる。それが照破。それで子供がつつく。ここをつつく所を親鳥がここをつついて、そしてそこで破る。照らし破る。こちらがつつく方を啄という。親鳥がつつく方を碎(さい)という。反対だったかもしれんが、碎啄同時という言葉がある。どっちがどっちだったか、こっちの方だったかと思いますが、それを照破という。そして、ひよこになって段々と雛に育っていく。それを照護という。これは光の方で言いますけれども、今は光ではない。親鳥のだけれども、親鳥と卵という、それを光で例えればそういうふうに育てる方を照育という。そしてそれを破って外に出す。それを照破という。そして、生まれたものを育てていく。それを光明の働きという。その光明の働きによって十方世界をあまねく照らす。
 その光明、それを光明名号といって、この二つは離れない。光明無量。それは、これが働きですね。そこに寿命無量。アミタユース、アミターバ。これを阿弥陀というのである。阿弥陀仏の働きを言っている。阿弥陀仏というのは働きであって、そういうのを仏法では法というのである。法という時にはダールマという。いわゆる色もなく形もない。その大きなものの働きをダールマという。それを法という。卵を本当に卵たらしめる、即ちひよこにし、雛にする。そういう働きをいっている。それを光明無量というのですね。そこに寿命無量が離れない。即ち阿弥陀の働きなのである。その阿弥陀の働きが十方世界の全ての人を照らし育てていくのであるが、その光によって、即ち阿弥陀によって摂取不捨される者は念仏衆生である。念仏の衆生だけが、摂め取られていくのである。
 ならば、念仏衆生とは何か。念仏申す人ですね。念仏申す人とは何か。それは、この光明を受け止めて、その働きをわが身に受けて、そして照育、照破、照護されている人。それを念仏衆生と申します。今、ひよこで書いたけれども、我々で言うと、私の上に大きな光を蒙る。光というのは、それはすぐに通っていくのではない。我々の方はやはりここに大きな殻があるわけである。この人間の殻。どういう殻かというと、自己中心という殻。自己中心とは何かというと、それをここでは我執という。我という。「おれが、おれが」と思う心ですね。仏の光、そういうふうなものをはねのけるような、そういうものは何も必要でないといってはねのけるような自己中心の思い。自己主張の思い。
 仏の光明というのは具体的には教えをいっている。よき人の教えですね。よき人の声を通して、いわゆるよき師よき友の教えを光明というのである。それを喩えてある。その教えの中に呼びかけが籠もっているのである。その教えをはねのける我執。それがあって届かない。例えて言えば光がその人に届くといっても、その人が目をしっかりつぶって目を開けないんじゃな。一生懸命目を閉じているわけですね。雨がザーザー降っている。これはいつも例えるがバケツは下を向いている。その雨を受け付けない。雨なんか関係ないといってはねのけている。そういうものが人間の意識にあって、それを自己中心といい、我執といい、自力の心というのである。そういうふうなのを仏智を疑う、仏智疑惑ともいう。
 そういう人間の心があって、それが段々と育てられて、育てられてというのは、よき師よき友よき教えを頂いて段々段々育てられていく。育てられていくには二つのものがいる。一つには宿善。ひとつには善知識、よき人、善知識が必要である。善知識とはよき師よき友。それが必要。そこで蓮如上人は五重の義というのを出されて、一つには宿善と言われた。『御文章』二帖目十一通に出ている。「一には宿善・二には善知識」であると言われたのはこれである。そして「三には光明」と言われた。宿善と善知識の、これは一番下の基礎。そして上に善知識の教えがあって、そしてはじめて光明。「三には光明」とあるわけです。光明が届くのである。宿善開発して善知識に遇うて、そこに照育。それが届いてくるのである。そして時満ちて、時機純熟して照らし破る。それが照らし破った。そこは大事なところ。そして「四には信心」なんです。照らし破ったところに生まれるものが信心。それを「四には信心」という。
 何故信心か。光明、如来の教え、それが届いて照らすとそこに何が見えるか。そこに照らされて分かるものがある。それが大きな大きな心の闇である。闇が照らし破られて、そして、そこに深い深い闇が見い出されるのである。闇が破られて闇が見い出される。それはおかしな話で、闇というものはなくなりそうなものだが、闇があり、その中に光が届くとずーっと深い闇が見えて来る。闇が見えて来るとは何か。それが我々の心の実体ですね。それを五逆謗法というのである。「唯除五逆誹謗正法」という。第十八願にはそういってある。五逆と謗法の我というものが、その闇が見い出されて来る。その時こそ自己を知らされ、自己を照らされる。それが信心。自己を照らされて大きな世界にでる。それを機の深信という。
 そこに「一には宿善・二には善知識・三には光明」のお照らしによって信心念仏、念仏は南無阿弥陀仏。それを名号。それを念仏の衆生というのである。光明遍照十方世界、そこに念仏の衆生が誕生する。一には宿善、二には善知識で照育ですね。照らし育てられて、そしていよいよ破られて、それを照破という。そして、それを念仏で護られていく。そこに生まれるものを念仏衆生という。念仏申す人が生まれるのである。信心念仏申すのである。
 もうひとつ下から言えば、宿善開発して善知識に遇い、光明のお照らしを蒙ってその人が摂取されていくのである。「光明遍照十方世界  念仏衆生  摂取不捨」という。摂取不捨の願というのは第十八願をいっている。今、何故念仏衆生が生まれるのか。念仏衆生とは何かということを話している。念仏衆生というのはこうやって生まれてくる。
 何故念仏するのか。まず私という者が照らされる。それを光明無量の働きというのである。これをですね。私自身が、私自身の本性、私の本体を知るのである。私は何かということが分かる。それが大事なところです。私自身の本体は何か。それを五逆という。五逆というのは父を殺し、母を殺し、よき師を殺し、よき友を殺す。仏身より血を出す。それを一言で言うと、深い深い自己中心。深い深い恩知らずである。謗法、仏法を頂いておりながら法を謗る。いわゆる如来無視である。如来とそういうものを本当は無視して生きている。この如来無視というのが非常に分かり難いんですね。こちらの方は割りと分かりやすい。
 そこでまず恩知らずという方が非常に分かりやすい。質問をする。「あなたは親孝行でしたか。親孝行、親不孝どっちだと思いますか」たいていの人は「まあ私は親孝行というほどには思わないけども、大体親にあんまり不孝したとは思わない。大体中位ではないでしょうか。半々位のところがですね」。「ああそうですか。あなたご主人はおられますか」「いやぁ亡くなりました」「あなたはご主人にとって良い妻であったと思いますか」「さぁ、良い妻といわれると、そういうふうなことは考えたことはないけれどもあんまり悪い妻だとは思ってません」という。「ああそうですか。どれ位のところですか」。「丁度真ん中位じゃないかなぁ」とですね。「あなた奥様はおられますか」。「はい、おります」「あなたは夫として奥さんに対して良い夫であると思いますか」「やぁ良い夫なんて思わないですな」。「じゃあ、悪い夫ですか」「いやぁ悪い夫じゃあなかった」「大体中位じゃないかな」と言います。中々我々はそう思わないですよ。親に対して恩知らずとか、いやぁそれは忘れとることはないけれども、そういうことは分かってます、ちゃんと分かってますというふうなところで大体終わるんです。
 そこで自分自身というのは誰も分からないですね。信心の人がもしあるとすると、その信心の人はどう言うだろう。「あなたは自分はどういう妻だったと思いますか」「本当にお恥ずかしいことでした。外側だけは人並みになっとったけども、中ではいつも夫を軽蔑し、夫を尊敬せず、本当は夫に対して憎しみを持っていましたてな」ことに大体なるんじゃないかな。「自分は親に対して親不孝で、申し訳ないことでありました」というのが光明のお照らしに遇うということですね。私の本体を知るということです。そういうのを逆法というですね。逆法という。とてもそうは思えない。そう思えない人は摂め取られない。摂め取られないんですね。念仏衆生  摂取不捨にならない。光明あまねく照らしてない。光明によって、光明無量に照らし切られてないから、摂め取られない。善知識にまでは遇うたんだろうと思いますが、光明に本当に照らされないから信心念仏にならない。そこで、十八願を申したら摂取不捨の願ですね。
 念仏というのは信心念仏であって、自分自身が本当に分かった人。そこで、本当に分かったか分からんかというのはここにある。光明に照らされて本当に自己を知る。その自己を知ったならば同時に寿命無量、それをアミタユースという。その寿命無量の働きが届いて、この全体を御いのちの中に摂め取って南無阿弥陀仏となるのである。何故。それが光明無量、寿命無量という意味ですね。アミタユース・アミターバが至り届いて私自身の本体を知るのがアミターバ。それが御いのちの中に摂め取られるのがアミタユース。それが阿弥陀の働き。それが南無阿弥陀仏。従って念仏申すという人が生まれる。寿命無量・ 光明無量のその働きが一緒になって念仏の人が生まれるのである。こちら(光明無量)は私に申し訳ないことであると懺悔を教え、こちら(寿命無量)は感謝を教えるのである。懺悔と感謝。それを念仏という。南無阿弥陀仏というのである。
 これが大事。人間は自分が分かるということが大事であると共に、それが摂め取られるということが大事である。何辺も同じような話をしておりますが、加賀乙彦という人が色々優れた小説を書いておりますが、その人の物語がある。カトリックの修道女が神様にお願いして、私の心を見せて下さいと言いました。この修道女は非常に優しく、色々な事を尽くして人から慕われておったから神様も願い事を果たしてやろうと思ったがそれだけは困ると言われた。けれどもどうしても私の心を見せて下さいというから、仕方なしにその修道女の心を見せてやりました。そうすると彼女は卒倒しました。そして、発狂しました。自分の心を見て、私はこれだけのいい事をしたから大分いい心になっとるに違いないと思うたところが、とんでもない心だった。だからびっくり仰天した。卒倒した。とうとう発狂した。
 我らも教えを聞いて「本当にお粗末な私で、親の恩を知らず、親を殺し、よき師よき友を殺すような心の持ち主である。仏法を聞いておりながら仏法などは屁とも思わんような心を持っている」こういって聞かされ、もし知ったら卒倒するですよ。そんな事あるものかと思うて、我々はびっくり仰天するだろう。それが本当なんだ。
 我々は発狂しない。何故か。それは知らされると共に南無阿弥陀仏と摂め取られるからである。だから知らされたことは深い懺悔となり、摂め取られたことは感謝となって、そして南無阿弥陀仏となる。「こういうていたらくの愚か者、南無阿弥陀仏」になるのである。光明遍照十方世界 念仏衆生  摂取不捨、それぞれがそのまま摂め取られてゆくのである。それを摂取不捨という。摂取不捨とは私が何やら網の中に入れられた、大きな風呂敷の中に包まれて如来のお慈悲の真っ只中、そういうものではないんですね。そんな事は夢物語である。言葉の綾である。何も風呂敷の中に包まれてない。そうでなしに何事も全て念仏になって、念仏の中に摂め取られていく。これを摂取不捨というのである。                                        
二、いかなる不思議ありて罪業ををかし                                       
 その次「いかなる不思議のありて罪業ををかし」不思議というのは思いもかけない、そういうことになって罪を犯した。交通事故、そういうふうなものを犯そうなんて思うてもおらんわけで、できるだけそれを避けようと努力しているんでありますけれども、思いもかけない事が起こって、そして罪を犯すということがあるわけである。いわゆる罪をつくる。どうしようもない事がある。「さるべき業縁の催せば如何なる振舞もすべし」とあるが、やはり縁ひとつではどういうことでも起こる可能性がある。そういうものを内に持っている。今の世の中というのはそういうものがある。そういう時に念仏を申さずして終わる。そこで念仏申すこともない。そういうこともある。
 今ちょっとこの文章から離れますが、どんな罪を犯しても、その罪が念仏になる。それを摂取不捨という。思わん罪を犯した。それが「申し訳ないことである、南無阿弥陀仏」になる。それが念仏になる。そういうのを摂取不捨というのである。これは文章の筋からは一寸はずれているんですが。文章の筋は、こうもやって念仏申さずとも、こういうことが起こって念仏ができない、そういうふうな羽目になっても何も心配がない、既に摂め取られているのでから。それが筋。文章の方はそうなっている。
 今はちょっと例がよくなかったが、何が起ころうともですね、現実が念仏になる。何かが起こる、そういうふうなのを現実といいます。現実というのは現前の事実という。現実というのは常に内と外にある。内の現実といえば私の心。外といえば人、或いは事件。そういうふうな事。現実という私の内なる心は何か。その内なる心を現実という。『歎異抄』の第九章を見ると「念仏まをし候へどもも踊躍歓喜の心おろそか」。念仏は申しておりますが喜びがありません。「又いそぎ浄土へ参りたき心の候はぬ」。そういう現実。いわゆる信心歓喜、踊躍歓喜がありません。又、願生浄土という心がない。それが私の現実。そうすると第九章は「これではいけない、如何には候ふべきことにて候やらん」。一体どうしたらよいのでありましょうか。それをはからいというのです。
 私は現実に振り回されてどうしていいか分からなくなる。念仏者がそういうことでいいのかどうか。それが現前の事実。それが「これが本当の私  南無阿弥陀仏」となることを摂取不捨というのである。摂取不捨とはいわゆる大きな風呂敷の中に包まれるのではなしに、起こってくる現実が南無阿弥陀仏になっていく。その心はどういうことかというと、この現実が本当の私「他力の悲願は此の如きのわれらがためなりけり南無阿弥陀仏」。それが念仏になるという。それが念仏に摂め取られるという。
 人がいる。嫁と姑、私の本当に憎い相手が多い。困った事件。病気をした、火事があった、いろんな悲劇があった、そういう事、これが私の現実。「他力の悲願は此の如きのわれらがためなりけり」。そのように念仏衆生が生まれて、そして摂め取られていくのである。それは現実の成果ですよ。現生において摂め取られていくのである。それを摂取不捨の願という。必ず念仏衆生である。光明遍照十方世界である。それを忘れてはならん。                                      
三、たのみたてまつる
 そこで「摂取不捨の願をたのみたてまつらば」たのむですね。実は「たのみたてまつる」というのはいくつも前にあったですね。これはくり返しになりますが、昔の「たのむ」という意味は現在と少し違っている。現在「たのむ」といえば「依頼する、お願いする、お頼みする」こういうふうな事でありまして、頭を下げて頼むことをいう。そうではない。「たのむ」というのを『大言海』という辞書で引いてみますと、「たのみ」というところに元がある。「田の実」は即ち米である。米が命をいっている。命とするということは、それをたのみとするという。そこら辺が語源だと『大言海』という辞書に出ている。信心、帰命ということを言っている。一心帰命という。それを他力の信という。
 「たのみ」は如来、如来の本願名号。如来の本願が南無阿弥陀仏である。その南無を、これは「かえれ」梵語ですね。梵語で南無という。梵語でナモといいます。それを訳しますと「かえれ」これは命令形になっている。「阿弥陀仏に南無せよ」ですね。「帰れ、来たれ、我とともにあれ」こういうふうな意味ですね。阿弥陀仏、それが光明無量・寿命無量ですね。「我に帰れ、来たれ、共にあれ」という。その本願が届いたところに生まれるその心を南無帰命の一心という。南無帰命の一心が生まれる。それをたのむというのである。
 この南無阿弥陀仏の心が、即ち本願名号。南無阿弥陀仏の心が聞き開かれる時、それを一心帰命というのである。それを「たのむ」というのである。その心が開かれる。それをたのむというのである。阿弥陀仏をたのみたてまつる。即ち我々がたのむのではない。如来の「たのみ」が届いて「たのみ」となるのである。前があるわけですね。それを「摂取不捨の願をたのむ」というのである。そこのところを間違えてはいかん。我々がたのむのではない。
 そうすると、その時に諸有衆生、それを本願成就文という。「諸有衆生  聞其名号  信心歓喜」。どんなお粗末な我々も全てその名号を聞き開いて、南無阿弥陀仏のいわれを聞き開いて、信心歓喜を起こす。その時に「即得往生  住不退転」。もはや後すざりをすることのない、正定聚の位に定まって、往生を得べき身と定まるのであって、もはや念仏申そうと申すまいと、助かる助からんということにも関係ないのである。「摂取不捨の願をたのみたてまつらば−  念仏申さずしておわるとも速に往生を遂ぐべし」。そうことになっている。そこに往生すでに定まるのである。それを「速得往生  住不退転」という。速はつく。位につく。往生を得る。間違いない、得、往生の位につくのである。それが住不退転  現生正定聚ということである。
 南無阿弥陀仏が届いて、ここを吹き抜けることを信心というのである。そこが届くところを聞という。聞其名号という。そしてそこが信心歓喜である。これには書いてないけれども、それが必ず南無阿弥陀仏となるのである。何故。南無阿弥陀仏が届いて、南無阿弥陀仏が吹き抜けて、南無阿弥陀仏が出ていくからである。従って、ここで言うと念仏衆生である。念仏衆生摂取不捨である。ここで言えば信心正因。信心の人である。ここで言えば聞き開いた人である。どこで言っても構わん。今は『観無量寿経』ではここで言ってあるんですね。「光明遍照  十方世界  念仏衆生  摂取不捨」。信心正因。いわゆる往生心ですね。唯信心。往生の業はただ信心をもって因とする。聞其名号である。南無阿弥陀仏である
 決してたのむのではない。たのむというのは信心である。それはたのめの教えが届いて、そこにたのむ、南無阿弥陀仏を我がいのちとしてという、そういうたのみとするわけである。
 その全体が「速得往生  住不退転」。もはや念仏申そうが申すまいが、それは必ずつくわけですね。信心についている。信心に念仏がついているから「真実信心  必具名号」というのである。それは『教行信証』の教の巻に出ている。「真実信心  必具名号」。必ず名号を具す。信心は必ず念仏が備わっている。それを、そこで信心の人といってもよいし、念仏の人ともいってもよいし、聞きなさる人といってもよい。聞・信・称、全部通ずる。
 現在何が衰えているか。浄土真宗全体が衰えているというべきでありましょうが、特に念仏ということが衰えてますね。念仏が衰えている。私が学生時代といいますか、その昔でありますから五十年くらい昔にはお寺にお参りすると、どこのお寺でも南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏と念仏申す人が沢山あった。本当の念仏かどうか分からんが、とにかく念仏をしとった。今はありませんね。耳を傾けてよーく聞いておっても聞こえないです。だからある天理教の人が書いた書物に「私が京都の本願寺の前を通る時はいつも本願寺の中から電車口の外まで南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏の声が聞こえた。最近になって、まあ十年も前くらいの話。何にも聞こえなくなった。これはもしかしたら浄土真宗は衰えたのではありますまいか」と書いてあったが、何、ひょっとして、もしかしたらではない。本当の話だ。
 ここが出てこんのだ。ここが出てこんということはこれがないということだ。これがないというたら、これの方がペチャンコになってこうして垂れている。風に乗ってないんだ。風に乗ったら風が出るはずや。それは理屈ですが、要するに風の働きで出るわけです。南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏と浄土真宗の景気がいいところを見せるために、うちのお寺は繁盛しとるというのを見せるために、みんなでひとつ心がけてみんな一生懸命念仏念仏申して、外まで聞こえるまで念仏申してやらないかんというのでは続かんですよ。あほらしくて続かないですよ。風が通るということが大事。風が吹き通りさえしたならば自然に出て来る。自然に出て来る念仏を報謝の念仏というのだ。これは前申しましたな。報謝の念仏。我々は御恩報謝の念仏を申そうとして申すのではない。そんなのは作為だ。そういうのは作り事です。そうではない。自然(じねん)に出なきゃいかん。自然の念仏を申すのである。だから蓮如上人の言葉もそのプリントに書いてありました。
四、念仏申さずしておわるとも
 そこで「たとえ念仏申さずしてをはるとも」。それはそこに「不思議の事にもあひ」。即ち思わぬ出来事に会うて罪業をおかす。交通事故で相手も死んだというのは、相手が死んだというのもあまりに大きな事件であるが、それを「平生業成」という。信心、聞・信・称ですね。聞・信・称の時、即ち「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜」と信心定まる時、念仏が出て来る時、その時、これを平生。往生の業、成就する。それを業成という。
 往生の業成就とは何か。それはもはや阿弥陀如来、私において摂め取って下さった。摂取不捨されたのである。念仏衆生 摂取不捨なのである。その時に念仏衆生として摂め取られて、もはやこの風によって私が如来の世界に往生浄土していくことが間違いない。間違いないといって私が力むのでなしに、力を入れるのでなしに、如来の働きなのである。後は如来にお任せしたといったところがある。それを平生の時、聞・信・称の一念に往生の業定まるという。こうすると何も心配はない。「念仏申さずしてをわるとも速に往生を遂ぐべし」である。
 これは少し話は違いますが、今日医者の、何といったらいいか、心得というのか、サービスというべきか、死んでいく人に対して医者としてどういうふうな注意が要るかというとというのがかなり論じられるようになりました。又、どういうふうに尽くしていくべきかということが。大体今頃は癌も病気で、大体後二・三カ月しかもてないんじゃないかなという人は、よく家に帰すでんすね、何日間か、外泊を許可されますね。これは調子が大分よくなったから帰されたと思うのは早計ですね。もうあまり長くないから暫く、一週間でも四・五日でも帰して、そしてまた帰って来る。あれは医者のひとつの心掛けでしょうね。非常にいいことやなと思いますが、まあ医者でなくても我々は知る人に、死んでいく人というのは本人は知らないんだけれども何とか言うてあげたいという時がありますね。
 私も二遍頼まれたんです。とうとうよう言わなかったですね。奥さんが「主人がもう三日もてるかもてないか」「なんとか死ぬ覚悟をつけて念仏申すようになってくれるといいが」「お願いします」と言われたから、大阪でした。私の大学の先輩でした。行きましたら元気がいいのです。もう一・二カ月したら退院されるだろうという調子です。退院したらこういう仕事を残したからあれをひとつやらにゃ、本をひとつまとめにゃいかんちゅうて、そういう話ばっかりして・・・・・僕はよう言い出せなかった。「しかしあなた、やはり人間はいつか死にますぞ」と言うてはみた。けれども「この次にこういう事をしようと思うとる」という人にそういう話ばかりはできないから「この次、また参ります」というて、従ってとうとう期待に添えなかった。案の定、間もなく亡くなられました。残念。中々言えないもんじゃなあと思ったね。
 しかし、もし言えるような時があったら、是非言ったがいいし、言ってあげなきゃならんと私は思う事が二つある。一つは「あなたがもし死ぬ事で何か不安を感じ、死んだ後どうなるんだろうかというような、そういうことを心配されるなら何も心配は要りませんよ、仏様がおいでになってあなたについておられるから何も心配は要りませんよ」ということ。これは仏様の事が分かっとんなさろうが分かっとんなさるまいが言うてあげるといいことですね。これは人間はやはり死に不安があると思うんです。不安がある人が多いと思うな。何にも要らない。如来がおいでになる。
 後、あの子供がまだ小さいとか、ここん所にまだ解決しとらん問題が残ってるとか、そういう後に心が引かれる事があると思いますね。死んでから先の事が一つ問題というのと、後の方があってまだ死なれんという事があるがね。これは捨てなさい。捨てなさい。皆が必ず良いようにしてくれます。騙されるんじゃあないですよ。それしかないわけです。我々は全部仕事を片づけていくというわけにいかん。これはもう任した。後はどうなるか。それはもう私の業次第だというということになる。
 色々な話で申し訳ないが、要するに、平生の時、往生の業定まるですね。そういう人になるというのが一番。そうしたならば、死んでから先の事も死ぬ手前の事も、この世のこともあの世のことも全部如来に任した。南無阿弥陀仏ということができるだろう。そうすると感謝と懺悔、それでこの一生を終わることができるのを平生業成というのである。終わるとも何も心配は要らん。                                      
五、念仏して終わる
 「念仏申して終わる」そこの所は終わりから五行目の下。前は「念仏を申さず」ですね。終わりから五行目「念仏申さずしてをはるとも速に往生」。「また念仏の申されんも」というのは、これは念仏が最後まで続いた。それは「ただいま覚を開かんずる期の近くにしたがひて」。即ちいよいよこの世の終わり。しかし、仏となるはじめ。覚りを開く、浄土に往生して覚りを開く、そういう時機が近づいて、その時にいよいよ「弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ」。念仏が申される。死ぬ時に念仏申して終わるのは、いよいよ仏恩報謝の念仏。そういう事がここに書いてある。
 これはやはり親鸞聖人の智慧があったわけでありまして、二十五−十七、『口伝鈔』。そこの十七。終わりから四行目。
 信の上の称名の事。聖人の御弟子に高田の覚信房といふ人ありき。重病を受けて御坊中にして獲麟に臨む時、聖人入御ありて危急の体を御覧ぜらるる所に、呼吸の息あらくして已に絶えなんとするに称名怠らず隙なし。そのとき聖人たづね仰せられて言はく「その苦しげさに念仏強盛の條まづ神妙たり、但し所存不審いかん」と覚信房答へ白されて曰く「よろこび已に近けり、存ぜんこと一瞬に迫る、刹那の間たりといふとも息の通はんほどは往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくのごとく報謝のために称名つかまつるものなり」と云々。このとき聖人「年来常随給仕のあひだの提撕そのしるしありけり」と御感のあまり随喜の御落涙千行万行なり。
 高田という関東の地方ですが、そこに覚信房と人がおられた。この人はだいぶ歳の人で、ある年京都まで訪ねて行かれた。その時に病気になられた。そして皆がこの病気ではまず国に帰った方がよかろうというけども、この覚信房は、いやどうせ帰るも死、留まるも死、こうなればとにかく聖人の所に行って死にたいといって、その病気のまま上洛して来るわけですね。「重病を受けて」、重い病気をもって「御坊中」、即ち親鸞聖人のおんなさるお寺。弟さんのお寺だったと思うが、そこにおいて臨終に臨んだという。死ぬ間際に聖人がお入りになって、その危篤の状態をお見舞いされた。その時に覚信房は「息あらく」、すでにもう終わり、絶命しようとするのに「称名念仏怠らず隙なし。そのとき聖人たづね仰せられて言はく」。この苦しさの中で念仏を続けていくということは大変神妙な、立派なことであるが、何か「所存不審いかん」。存ずる所不審があるかどうか。何か心に残る事があるかどうか。そう尋ねられた。これはひとつ聞いてあげなきゃいかん。昔のお坊さんはこういうて聞いてあげた。「何か不審はないか。」と聞きなさる。「覚信房答へ白され曰く『よろこび已に近けり』」。私は命終わってついに往生浄土していく。本当に有り難い。その「『喜びすでに近けり、存ぜんこと一瞬に迫る』」。この世に生きながらえる事はもうひとまたたきの間の事になっております。けれども一刹那といえども息の通わん間は「往生の大益を得た仏恩を報謝せずんばあるべからず」。その御恩報謝を申さずにおれません。そこで報謝のための念仏を申しているのでありますと云々。
 その時聖人「年来常随給仕のあいだ」。長い間私に随って私の身の回りの事をしながら聞法してくれたその間の提撕、提撕というのは純粋な使い方ですが、要するに教えを受ける、教えを授けることをいっている。その間の教化「そのしるしありけり」と。まことにそれは良かったと感銘されまして、「随喜の涙千行万行」流されました。この時聖人は八十五・六歳の頃のようですね。だからもうご晩年の頃です。涙をこぼして喜ばれた。親鸞聖人にしては中々感激、この人はあまりそういう事はないように見えるが、非常に感激しなすった。そういうのは、その後にあることがこの十四条のこととよく似ているが、その次を一寸読んでみましょう。
 然れば私にこれをもてこれを案ずるに真宗の肝要安心の要須これにあるもの歟。自力の称名を励んで臨終の時はじめて蓮臺にあなうらを結ばんと期する輩、前世の業因知りがたければ、いかなる死の縁かあらん。火にやけ水におぼれ刀剣にあたり乃至寝死までも皆これ過去の宿因にあらずといふことなし。もし此の如くの死の縁身に具へたらば更に逃るることあるべからず。もし怨敵のために害せらればその一刹那に凡夫として思ふところ怨結のほか何ぞ他念あらん。また寝死においては本心息の絶ゆる際を知らざる上は臨終を期する先途すでに虚しくなりぬべし、いかんしてか念仏せん またさきの殺害の機、怨念のほか他あるべからざる上は念仏するにいとまあるべからず、終焉を期する前途またこれもむなし。仮令かくの如きらの死の縁にあはん機、日頃の所存に違せば往生すべからずと皆おもへり。
 要するに死ぬ時に称念念仏、称念往生、そういう事をしたいと考えておっても、我々はどういうふうな死にざまをするか、それは誰一人として分からないことである。もういわば宿因というしかない。殺されて死ぬということもあろう。そういう時は怨みをもって死ぬわけで、念仏申そうなどといういとまがあるはずがない。溺死の場合は思わず死んでしまうわけで、どこが自分の臨終か分かることもなかろう。従って、日頃そういうふうに死ぬ時は念仏して死のうと思うても、とてもそういうのは期待することができないわけである。そういうふうに、死ぬ時に念仏して死ぬというようなことができなければ往生は不可能だというふうに皆が思うている。結局それは自力の称名なのである。
 後の方は他力の摂取不捨の願をたのみたてまつる、その時に、念仏せずしておわるとも往生は疑いなし。念仏して終わるのはいよいよ仏恩報謝であって、それはそれで念仏一生などと申すのでは毛頭ない。こういうことをこの後の方に書いてありますね。そこら辺からとられている。従って、やはりこの高田の覚信房の死を前後して聖人が何かおっしゃった事を、片方は『口伝鈔』に、私の了見として書き、片方は『歎異抄』に唯円が書いた。こちらの『口伝鈔』の方にいったのは如信上人であろう。こういうことを聞いて、見て、そうしてこういうのが出たようであります。
 中心点はどこかと言うと、十四条に帰ってみると、二十三−九の終わりから三行目。「罪を滅せんと思はんは自力の心にして臨終正念といのるひとの本意なれば他力の信心なきにて候ふなり」。私の罪を念仏で滅して、臨終正念、命終わるその時に、正しい思い、正しい心で死にたいと祈っている人の本心が、念仏を利用して臨終に念仏申していこうというのである。それは他力の信心ではありません。日頃、摂取不捨、光明遍照 十方世界 念仏衆生  摂取不捨。日頃の求道が大事であります。そういう事をいっている。
六、信心への道
 それでは信心の道、信心への道ですね。これはどういうことか。これも何遍も申しました。けれども何遍でも申さにゃならんことである。こういうのを方法論といいます。方法論というのはそこに到達する方法。浄土真宗の信心に到達する方法。それはないんです。本当はないんですね。何故。それは如来の本願で、如来のお働きでありますから、その如来のお働きだから、我々がこうして頑張っていったらそこに到達するというものではない。そういう方法論ではありません。
 けれども何もしなくて良いのか。そうではない。何かせにゃいかんでしょ。何かしたからこういっとんじゃないけれども、何かせんと如来の本願の届く場所までいかんわけや。如来の本願の届く場所というのは大絶壁がある。この大絶壁があって、ここまで来んとこれが届かない。ここまで来ると如来の本願が届いて下さるんです。ここまで来ん。ここら辺におって「他力の信心、他力の信心、如来の働き、如来の働き」というても、届かない。来ないんです。来ない。ここまでは来ないかん。そういう道ですよ。如来の本願の届いて下さる所まで行かなきゃいかん。そうすると、それが方法論という。
 十九願、二十願をいっているんですね。十九願、二十願を果たさなきゃいかん。そうしないと十八願にならない。どこのお寺に参っても信心を勧めないお寺はひとつもない。信心、信心、どこでも信心が第一。ならば、その信心はどうしたら頂けますか、となると誰一人として説く人がいない。そういうことを説く人がいない。これは説けないんですよ。説けない。これは如来だからな。けれどもここまで来なきゃならんということは言わなければいけないです。それは言わなけりゃいかん。
 信心を得た人の話を聞くととても話が神秘的である。裏の畑で「信心は信心は」と考えながら鍬を使っていた。その時、鍬が石に当たってカチッと音がした。その時にスーッ、パッと、その時にハッと分かって目が覚めた。それが信心だと。はぁ、わしも鍬を持って裏の畑に行って何か作らんといかんなぁっていうのがある。そんなもんじゃないですよ。それは違う。それは体験という。体験は大道にならない。道にならない。大道というのは誰がやっても必ずできる道なんですよ。裏の畑でカチンと音がする。それで信心を得たという。それはあり得ないですよ。誰がやっても信心に至ることができる、如来の本願が届いて下さる所まで行き着く事ができる道。
 第一、これは五種正行。これが十九願、二十願の道なんです。五種正行は善導が説いた自力の教えである。「読誦」正行。正行は弥陀の本願を中心としてそういう書物をよく読む。読む、聞く。これが大事。聞法し、そして読む。読んだだけではいかん。「観察」聞いただけではあてにならない。考える。考えるとは何か。その教え、そこに書いてあることを考える。と共に「具体的に私においてはどうすることか」と考える。「礼拝」如来にお礼をする。少なくとも、朝晩、朝夕のお勤めを欠かさない。こういうのを実行する人は必ずここまで来るですよ。ここまで来る。「称名」南無阿弥陀仏と念仏申す。朝夕のお勤め。念仏申す。できるだけ念仏申す。朝起きて念仏申し、夜寝る時に念仏申す。その間に度々念仏申す。そして「讃嘆、供養」讃嘆は感謝。有り難うございますと感謝し、そして供養。仏様にご供養する。ご供養するんですよ。それがひとつ大事なこと。
 仏様のご供養とは何か。ひとつはお花をあげる。お花というのは中々高いですね。本当に勿体ないような気がするかもしれんがお花をあげる。お香を焚く。できるだけ安いのを買うように心がけないで、できるだけ値段の高いのをたく。仏様に上げたらそれをご供養という。仏様に色々な物を供える。果物を供える、お菓子を供えるけれどもみんな後の事を考えて供える。後で自分が食べるわけですから、自分の好きなのをあげるんですね。だから結局これは返ってくるんです。返らないのがひとつある。これはお香です。これは仏様のもの。それにしっかり奮発せにゃいかん。まぁこれはいらん話になりましたが、例えばそういう事。それを続ける事ですよ。これを行という。
 第二。一応同じ事です。継続一貫。始めたら最後まで続けること。そして、積極的聞法。一席でも多く、一時間でも長く、聞き抜くこと。この二つをもしあなたが続けていきなすったら、必ず信心の開けるところまで来ることができよう。ここまで来ることができる。ここまで来る事ができたら、時機熟して必ず届いて下さるのが本願である。そうすると本願に生きて、いつ死んでも構わんというか、念仏が絶えないというか、念仏申さずして終わるとも、念仏申していよいよ生き抜くも、どちらにしてもその人その人の生き方。その人その人の業といいますか、そういうことで、決して念仏を利用して罪を滅ぼそうとしたり、何か願い事をしたりしようとする心はなくなるだろう。それが十四章ですね。誠に感銘しています。
 以上をもって十四章を一応終わったことにします。

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