歎異抄 第十四章
第三回講義  平成元年九月二十七日

一、この悲願  二、かかる浅ましき罪人  三、生死を解脱  四、報恩謝徳の念仏

「この悲願ましまさずば  かかる浅ましき罪人いかでか生死を解脱すべき」と思いて一生の間申すところの念仏は皆悉く「如来大悲の恩を報じ徳を謝す」と思うべきなり。
一、この悲願
「この悲願ましまさずば」、「この悲願」というのはその前の文章に続いていて「その故は弥陀の光明に照らされまゐらする故に一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば」、弥陀の光明に照らされる、これを第十二願、十七願という。「この悲願」というのは前の方を受けておって、弥陀の光明に照らされるというか、弥陀の本願がある。弥陀といえば如来の心を表す。悲しみの心、痛みの心、そういうものが悲願。いつくしみというものを如来の心という。
 慈、悲、喜、捨、これを四無量心。無量の御心というのは、大慈、大悲、大喜、大捨とこういうふうになる。これが如来の心で、慈はいつくしむという。いつくしむというのを抜苦ということがある。苦を抜くということ。悲は悲しみ、痛みの心。それを与楽という。抜苦、与楽を慈悲。喜は随喜。衆生我々が良いことをしたら一緒になって喜んでくださる。捨は捨てる。私心を捨てる。そして離れる。こういうふうなですね。今、如来の本願というものをいう時には慈悲ともいえる。大慈、大悲、大喜、大捨、その中で悲というのが一番適切である。衆生我々の現実を痛み悲しむ。それを抜苦与楽しようという。これを悲願という。
 第十二願というのは四十八願の中の第十二番目で誓っている。どこどこまでも照らし抜きたいという、それを光明無量の願という。光明に照らされるとはどういうことかと言うと、十七願というのは、それは具体的には教えによって我々が育てられていくということをいっている。これを諸仏称名といって、沢山の仏が弥陀の名前、名号を讃えて、それを届けてくれるんですね。それを十七願という。諸仏、沢山の仏が色々と教えを説いて、そして弥陀の光明に照らされていく。光明に照らされるとは教えによって育てられるということです。照育という。育てられるということをいっている。今、ドングリがある。そのドングリが大地の上にある。そこに胚芽がある。それに光がある。水がある。そういうふうなものによってこれが育てられると、だんだんだんだんとしみ込んで、この胚芽が大きくなっていく。これを照育という。水がしみ込んでいき、だんだんと育っていく。そこで弥陀の光明に照らされるというのは、第十二願と十三願、十七願をいっている。
「弥陀の光明に照らされまゐらする故に一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば」。これを十八願という。第十八願というのはドングリが照らされて育てられ、それがとうとう殻を破ってこの胚芽が双葉をきって出てくる。こういうふうに双葉をきって出るところを一念発起という。今までなかったものが出てくることを発という。開発という。カイハツというのをカイホツという。起というのは今まであったものが出てくる。それを一念発起という。一念というのは信心をいっている。しかし、その信心はなかったのではない。この中に見えなかったけれども、ずっと育てられておったのである。それが出てきた。あったものが出てきた。今まで全然なかったものが育てられて段々と出来てきて、それが出てきた。それを一念発起という。「金剛の信心」金剛は既に申したと思うが、金剛不壊、金剛堅固、清浄。そういう真実。
「已に定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば、諸の煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたもう」。それを第十一願という。そういうことが誓ってある。今は十二願、十七願、十八願、十一願。この四つの願が少なくても出ている。そういうことをもうひとつ詳しく言うと、十六−一という所がある。初めの方を一寸読んでみましょうか。
「「大経往生」といふは  如来選択の本願、不可思議の願海、これを「他力」と申すなり。これ即ち念仏往生の願因によりて必死滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、必ず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相廻向の真因なるが故に、無上涅槃の悟を開く。これを『大経』の宗致とす。
(次の次の行)
 称名の悲願
(終わりから四行目。)
 また真実信心あり 即ち念仏往生の悲願に顕れたり 信楽の悲願は『大経』に言はく」
以下ありまして、それを第十八願という。どうしても信心を得させたい。信心を届けたいという、それを信楽の悲願という。信楽というのは信心。「信楽の悲願」とこういっている。第十七願の方は「称名の悲願」。諸仏が弥陀を称名する。それを願っている。
 第十一願というのは次のページ、二行目です。 
「また真実証果あり。即ち必死滅度の悲願に顕れたり。証果の悲願『大経』に言はく
 設我得仏 国中人天 不住定聚必死滅度者 不取正覚。
定聚に住す、これは「証果の悲願」。その『三経往生』という親鸞聖人が書かれたものを見ると、これは今はありませんが、悲願というのは、この一番根本は「超世無上に摂取し  選択五劫思惟して、光明・寿命の誓願を、大悲の本としたまへり」という和讃がある。これは今は触れませんが。
 「この悲願」というのは前の文章から繋がっているが、いわゆる如来の本願文ですね。如なるものがこの我らの流転の生活というものを悲しんで願をおこす、如が如来となって、如より来たってこの私に至り届こうとする。それを他力廻向という。如来となる。それを光明無量、寿命無量という。 何故その光明無量、寿命無量になるのかというと、その全体を届けようがためである。それを十二願十三願という。
 届けるためにはどうしたらいいかというと、そこに諸仏が阿弥陀を讃え、そしてそれを勧めてくれる。そういうことがないと我々に届かない。諸仏に是非とも届けてもらいたい、それを十七願という。そして、それが私に本当に届くところを十八願という。届いたところに我々を必ず如来の世界に連れ還る、それを十一願という。
 それを悲願というのである。真実五願という。今、その中でこの文章の「悲願」というところに大体十七願と十八願と十一願が出ている。仏教というのは非常に緻密な構成の上に出来てますね。その一つ一つに意味があって、自分も救われていく、そういうメカニズムというか設備ができている。それを四十八願という。
 そんな中の特に我々に直接関係のある願を真実五願といって、『三経往生文類』を見ると、聖人はそこに悲願として出ている。「この悲願」である。「この」は今は、前の文章に関係がある。
 「この悲願ましまさずばかかる浅ましき罪人」。「かかる」というのは前の方に何かあって、このようなということになるはずであるが、この所の文章を見ると、かかるというのはあまりないようなのだが、初めの方を見ると「この條は十悪五逆の罪人」とあり、又、「八十億劫の罪」とあり、更にまた「十悪五逆の軽重を知らせんがため」とかそういうふうなのがあって、「かかる」というのは大体そういうふうな事をいっているわけですね。又、直前の文章には「諸の煩悩悪障を転ずる」というようなこともありますね。
二、かかる浅ましき罪人 
 罪人といえばつみびとである。法律を犯し、或いは世間の常識を脱した、こういったような罪悪という、そういうものを犯した人ということですけれども、大体そういう法律の問題ではなしに、如来の前に罪深い私というもの、そういうふうなものをいっている。氷山の一角ということがある。氷山はその大部分が水の下に沈んでいて見えない。上の方だけ見える。その見える所を十悪といいます。十悪というのは道徳的であって、そういうものは一応見える所が多い。殺生というのは生き物の命をやたらと奪うことをいっている。又、大乗仏教では叩くとか蹴るとかしばくとかいうような暴力も殺生という。殺すだけではない。偸盗、これはぬすむ。盗むというけれども元の正確な意味は不与取という。不与取というのは与えられざるを取るという。やると言わないのに持っていく。そういうのを不与取という。子供が来てですね、「こういうのはお父さんいらんやろ」と言うて持っていくとかですね。「俺はやると言ってないのに」というけれども持っていったとすれば、これを不与取という。大体泥棒、そういうものよりもう一寸広い。邪淫。正当な男女関係、夫婦という以外のものを邪淫という。妄語。これは嘘をいう。綺語。きらびやかな飾り言葉、内容のない飾り言葉。悪口。わるくち。両舌。二枚舌。こちらではこう言い、あちらでは違ったことを言う。それで離間語という。二人の間を割く。それを両舌という。これは言葉である。こういうのは大体氷山の一角で気をつけてみると大体分かるとこう申します。
 今、分かりにくいのは心の中で貪欲、瞋恚、愚痴、或いは邪見ともいいます。そういうふうな殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、愚痴。これは心。これは見えないのもあるが大体見える、分かる。そういうのを、この罪人は「かかる浅ましき罪人」とも言えるし、もう一寸深い、五逆といいますね。これは見えない。これはその水面下にある。それを五逆という。この五逆については『教行信証』の中に聖人が引用されておって、「一つには小乗の五逆、二には大乗の五逆」と二つ出ているですね。十二−一一六、終わりから五行目。
 「五逆と言ふは、若し 洲に依らば 五逆に二有り。一には三乗の五逆なり。謂く、一には故に思うて父を殺す、二には故に思うて母を殺す、三には故に思うて羅漢を殺す、四には倒見して和合僧を破す、五には悪心をもて仏身より血を出す。恩田に背き福田に違するを以ての故に、之を名けて逆と為す」
 御恩のある父と母を恩田といいます。その人がなければ大きくなれなかった。養育という。福田というのは、福は善という。何が善で何が悪かを教えてくれる人を福田という。それは三番目の羅漢。これは先生ですね。或いは求道者。和合僧、これを僧伽という、友をいっている。仏身、仏。その三つを福田という。そういうものに反逆することをいっている。反逆の心。反も逆も背く、逆らう。そういう心を反抗心という。そういう心だけでなしに行いになって出てきて目で睨みつける、口で「死ね」という、行いで蹴飛ばすと、色々な事をやる事を五逆罪という。それが小乗。大乗の五逆はその次の方にありまして、一一七ページの二行目の下ですね。
「二には大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くが如し「一には、塔寺を破壊し、経蔵を焚焼し、及以三宝の財物を盗用す。二には三乗の法を謗りて「聖教に非ず」と言ひて、障破_難し、隠蔽覆蔵す。三には、一切の出家の人、若は有戒・無戒・持戒・破戒に於て、打罵し呵責し、過を説きて禁閉し、還俗せしめて駆使し、債調絶命せしむ 四には、父を殺し、母を害し、仏身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。五には、謗して因果を無みし、長夜に常に十不善業を行ず」と」
 大乗の五逆は非常に広くて、お寺を壊したり、お経蔵を焼いたり、三宝、仏法僧の財物を盗用する。織田信長とか色々寺を焼いた。そういうのを五逆ですね。必ず悲惨な最期を遂げるようになっとる。「三乗の法」。小乗、菩薩、声聞、縁覚、そういうのを三乗という。そういう法を謗ってそれを色々と障害する。三には出家した人、それは戒律を保っている人も保っていない人も、破戒の者も、そういう者を叩いたりそれを責めたり過を説いて監禁したり、還俗させてそれを走り遣いにする。そして、それを責めて絶命せしむ。これも大きな反逆である。四つ。それに小乗の五逆が入っている。ここに謗して因果を無みする。これは誹謗正法。誹謗正法と常に不善業。十不善業即ち十悪。ここに十悪が入っている。だから五逆の中で大乗の五逆というと、十悪。これは小乗の五逆。まあ五逆ですね。これは誹謗正法。こういうふうに全体が入っている。非常に広くなっている。五逆と言えば大体全部入るわけです。
 更に言うときにはもうひとつ下に誹謗正法というのを入れる。それを謗法という。仏法を謗る。仏法を無視する。仏法を無視とは何か。それは自己中心である。自分が出来上がっていると思っている。大きな者、如来、そういう大いなるものに対する尊敬の心を持たない。それを謗法という。それは自分が小さな殻に閉じこもっているわけである。上の方は分かる。殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両口、こういうものが悪いということは分かる。従ってそういうことを犯したら罪造りだということは分かる。が、五逆とか謗法というのは分からない。何故分からないかというと、向こうの人を見て分からないのでなしに、自分自身で罪と分からない。そういう罪が一番大きな罪なのであります。
 今、小さな五逆を考えると、小乗。父と母、これに対する反逆というようなものは分からない。何故か。それは自分の方が正しいとき思う。即ち深い自分の考えがある。自我意識というものがある。私は私の考えがある。そういう自我意識に立って考えると、父母というものの言い分というのはあまり正当なもの、妥当なもの、合理的なものと思えない場合が多くて、ついにそれを軽蔑し、それを下に見て自分の方を主張する。そういうふうになるから、私の事をあまりかまってくれるなという事になる。私は私の考えがあるんだということになると「自分は本当の事をいってるだけで悪い事はしていない」と、こういう意識がありますね。
 しかしながら、そういうことを言われた親は傷つくわけですね。深いショックを受ける。ですから、時々申すように第一反抗期なんていうのは二歳半から三歳の頃にかけて。あの二歳、三歳というのは本当にこれは大変なんです。今まではおんぶにだっこであって、スプーンで食べさす。おしっこの時には抱いていって草にかけさせる。そういうふうにしてやった。それで自分で歩けるようになった。自分で掴めるようになった。自分で食べられるようになった。「自分で食べる」とこういうわけですね。だから「ゆっくり食べなさい」というと、「いや」とこう言って、どうも憎たらしいというたらないですね。子供の方は悪いと思っていないですよ。ひとつも悪いと思ってない。当たり前のことだと思っている。親の方はこれを食べなさい、人参、ピーマン何でも食べんといかんと思うて将来のために食べさせんとと思うんだけども。私には私の考えがあるとなるから、親はショックを受ける。これをひとつ叩いてでも食べさすかというと、そうはいかん。とても大きな声で泣きますからね。泣く力も強い。とてもじゃないが言うことを聞かないからまあ放っとく。そういうことになる。
 小さい時に何でも食べておかないと大きくなって間に合わない。私の所の保育園は何でも食べさすというのが一つの方針です。だから大体昼ご飯で一時間位かけて何でも全部食べさす。それはそれとして、要するに親にとっては非常に痛いことなんです。胸を刺すような事を子供の方は平気で言うわけなんです。だから子供には分からないです。自分は悪い事をしたとは思わん。「かかる浅ましき罪人」なんてひとつも思わない。しかし、これは非常に大きい。師、羅漢、友、如来。そういうものに対しても私には私の考えがある、となるわけである。そこですね。非常に深い。この罪は深い所。分かりにくいんですね。
 謗法。如来の教え、或いは悟り。そういうふうなものを無視し、問題にしない。そして、自己中心の考えの中に閉じこもっている。これは如来にとって非常に深い深い悲しみであり、本当にこれは無視できないような思い。それを大悲という。けれども、人間の方はひとつも構わないですね。ひとつも構わないでこれは当然のことと思っている。人間には人間の考えがあって、理性というものを中心にして考えられるんだと思うていますからね。仏法というものを問題にしない。それが「かかる浅ましき罪人」ということ。罪人ということが分かるには、それは深い深い目覚めというものがなければならない。浅ましい、慚しい、非常にひどい、もう言葉にもかからんようなお粗末なつみびとであります。それは深い目覚め。如来の眼に映る私の姿が、これが私と分かる。それには如来の眼が私に与えられなければ分からない。それを目覚めといいます。
 如来の眼に映るその十悪・五逆・謗法という浅ましい姿(相)が、これが本当の私と分かるということは仏眼が廻向される、与えられる。仏眼の廻向、それを仏智、仏の智慧。その仏智が届いてはじめて分かる。その仏智を信心というのである。仏眼を信心というのである。そこでこの悲願、即ち如来の本願によって、如来の光明無量、寿命無量が私に届いて、それが私の眼となり心となって私の自身の上に見い出されるものを「かかる浅ましきつみびと」と言うのである。
 そこに信心というものがなければ出て来ない。そういう天地が、そういう姿(相)で言ってある。「かかる浅ましきつみびと」というのである。それをかねて申すように根源的懺悔というのである。根源的というのは一番深い、一番根本の自分に目が覚める。それを根源的という。根源的の反対はどうかいうと言うと、枝葉、末節。枝、葉の問題。私というものに目が覚めてくるというのは、枝葉の方がひとつあります。今日はバスに乗ってお年寄りの人が乗ってきたけれども、席を譲ってあげれば良かったが、とうとう譲らずきた。お年寄りは脚元が弱って立ってるのが悪いのに、なんと私は冷たい人間だろうとかですね。小さな事で夫婦で言い合いをして、どうして私はあんな小さな事にこだわるんだろうというような。本当にお粗末な罪人じゃ、とこういうような。席を譲らなかった。つまらん事で言い合いをした。すぐ腹を立てた。こういうのは枝葉なんです。枝葉。
 これはそうでない事もある。機嫌がよければ小さな事で文句を言うことはないかもしれんが、これは根本の私の姿勢、根本の私の状態。私の存在自体がそれをおいてはない。それを根源的という。従ってこういうのはいつでも、どこでも私が本当にお粗末な私、と言わざるをえない、そういうのを根源的というのである。根源的懺悔ですね。従って、今日は何にもまだ腹を立ってない、まだ悪い事もしていない、だから今日は良いというわけにはいかない。何もないけれどもこういうものを持っているわけだ。今も持ってるわけだ。こういうものの上に乗っかっているわけである。それを根源的という。いつでもどこでも私はその上に乗っかっているような根源的なものを、そこで根源的ですね。私の本当の罪、深い姿に目覚めて、それを根源的という。
 そして、如来の前にお詫びをする。懺悔というのは如来にお詫びをする。それを「申し訳ありません。こういうていたらくであります」とお詫びをする。それを南無阿弥陀仏というのである。それを念仏というのであります。だから懺悔は必ず南無阿弥陀仏になる。こういうていたらくの愚か者、南無阿弥陀仏。それを根源的懺悔という。それを「かかる浅ましき罪人」南無阿弥陀仏、というのである。
 親鸞聖人という人の宗教、その一番大きな特徴は根源的懺悔の深さである。それが親鸞という人の大特徴である。これをキリスト、道元、日蓮、全ての人と較べてみた時に、親鸞という人の信心の大特徴は懺悔である。「かかる浅ましき罪人、我」という、そういう根源的懺悔にこの人の特色がある。それを『歎異抄』では「地獄は一定すみかぞかし」というふうに言ってある。和讃には「無慚無愧のこの身にて  まことの心はなけれども」とありますね。「浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし」というような色々な和讃がありますのは、全部ここをいっている。ここが親鸞の一番大きな特色。それが信心である。「浅ましき罪人いかでか(どうして、どういう方法で)生死を解脱すべし」。
三、生死を解脱
 生死は生老病死。これを略して生死という。人生の苦しい現実、それを生死という。又、生死煩悩といって、そういう時の生死は煩悩という、そういう因によって起こる、煩悩が因、そして、その結果として起こる苦しみ、それを果。苦果とこういう。そこでこの場合は大体こちらの方が多いようですね。生死の解脱ということは生死煩悩を解脱する。解き放たれる。解は解放、脱は脱け出す。解放ですね。生死を解脱するとどうなるのかというと、煩悩を断じて、煩悩を打ち止めにして、そして、因がなくなって果がなくなる。それを解脱という。それから出ることを言っている。
 小さな卵、殻の中に入っている、この殻は煩悩といいます。自己中心のその殻は煩悩。それが自己中心の煩悩。その中にいるからそれを出る事ができなくて小さな世界の中に閉じ込められているわけである。それが事実。それを解脱するとは、そこに親鳥によって適当な熱を与えられて、卵がだんだんと温められて、目玉ができ嘴がはえ脚がはえてひよこになって、そして、この殻を脱して大きな世界に出たならば、そこに解脱ということがある。即ちその殻から解き放たれるわけである。
 この殻がいけないんだ、だからこの殻を壊せ、殻を打ち砕けといて殻を壊したら中身がどろんとして出て来るだけで、それは本当に解脱したことにならない。自己中心の殻を無くしたら良いというもんじゃない。そうではない。中が育たなきゃいけない。即ち煩悩の因を滅するということは、それを叩き壊すことではない。そうではなしに、もうひとつ大きなものに成長しなければ出て行けない。そうすると、大きな成長、卵からひよこへという成長がなければ、そこに本当の解脱というものにならない。
 今、牛小屋に牛がいるとする。最近は方々の牛の数が減りまして、遠くの方の牧場におりますが、そこまで遠い。私の所も幼育園でできるだけ牛やなんか見せようと思って努力してみても中々おりませんね。まあ幸い近所に一軒牛を飼うている所ができまして、そこに連れていきますが、あの牛はどんな所にいるかというと、ものすごくお粗末な所にいる。下はベタベタしてあまり衛生的でない所にいる。あの牛をこういう環境の悪い所ではいかんというて、人間の住むいわゆる三DKなら三DKに連れてきて環境を良くしてやろうとするとどうか。牛が場所が変わっただけで、そこはまた牛小屋になるわけである。
 そこで、人間も子供の状態で弥陀の浄土に送りこまれると、そこが生死の苦海になって中身はひとつも変わらない。貪欲と小さな殻の中に入ったやつがのこのこと連れていかれて、たちまちの内に弥陀の浄土は生死の苦海というような所になって、だから牛小屋同然になる。それは解脱してないからですね。解脱してないから。そうじゃない。牛小屋から一歩出た時に、いわゆる立ち上がって、二本脚で立ち上がって角が抜け、尻尾がなくなってもう一歩踏みだす時には人間になっとかなきゃあ。そういうふうになっとかなきゃあ大きな世界に出たと言えない。大きな世界に出るということは彼自身が変わることなんだ。どういうふうに変わるのかというと、煩悩が転回されてくるわけである。要するに解脱というのは解放である。煩悩からの解放をいっているけれども、こういうふうに生まれ変わり、彼が生まれ変わるわけである。卵からひよこに生まれ変わるわけである。凡夫から菩薩に変わるわけです。凡夫からいわゆる大乗菩薩道を歩く存在と
四、報恩謝徳の念仏
「『この悲願ましまさずばかかる浅ましき罪人いかでか生死を解脱すべき』と思ひて一生の間申すところの念仏は皆悉く『如来大悲の恩を報じ徳を謝す』と思ふべきなり」。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と報恩謝徳の念仏を続けさせていただく。それは本当の信心、我らが信ずるところと言ったのはそれである。「未だ我らが信ずるところに及ばず」とある。その我々の信ずるところ、即ち聖人によって教えられた念仏は報恩謝徳の念仏である。第十四章は念仏滅罪、「念仏を申して私の罪を一つ一つ滅ぼしていこう。悪い事をした、そうだ、南無阿弥陀仏で、その罪を消していこう、南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏」と。その念仏で滅罪、そういう異義を第十四章にいっているわけである。そうではない。下手に信心の世界に立ったならば「この悲願ましまさずばかかる浅ましき罪人いかでか生死を解脱すべき」と本当に懺悔して、そして、一生の間申す念仏は報恩謝徳の念仏で、決して念仏滅罪の念仏ではありません、そういうことを言おうとしている。ならば報恩謝徳の念仏とは何か。どうしてそれが報恩謝徳になるのか。そういうことを一つ見ておこう。三十−二十五という所がある。一七八条ですね。                
「一。信の上は仏恩の称名退転あるまじき事なり。或は心よりたふとく有難く存ずるをば仏恩と思ひ、ただ念仏の申され候をばそれ程に思はざること大いなる誤なり。自ら念仏の申され候ふこそ仏智の御催・仏恩の称名なれ」と仰事に候」
その次を読んでみましょう。一七九条。
 「一。蓮如上人仰せられ候  「信の上はたふとく思ひて申す念仏も、又ふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のためまた何のため、なんどとて念仏をつかふなり。 聖人の御一流には弥陀をたのむが念仏なり  其の上の称名は何ともあれ、仏恩になるものなり」と仰せられ候 云々」
報謝の念仏とは、あるいは仏恩報謝の念仏、それは一七八条を観ると「自ずから念仏の申され候」。
・自ずからなる念仏
 自ずからなる念仏とは、自然に出て来る念仏。自分で「御恩報謝の念仏を申さなゃいかん」と思うて申すのでもなければ、有り難い気持ちで申す念仏、それが仏恩報謝の念仏でもなしに、何もはからわないのに南無阿弥陀仏と出てくださる事が常に起こるような。「ただ念仏の申され候ふをばそれ程に思はざること大いなる」。その次の一七九条を見ると、「又ふと申す念仏も仏恩報謝」。
・信の上の称名念仏
 信の上の称名、それを仏恩報謝の念仏というのである。それについて慧空という人の『叢林集』、その書物に「されば報謝の念仏とは、念仏をもっておのれが善とせず。又、廻向せざるをいう。あながちに仏にまいらせて報酬するにあらず」とある。
 慧空という人は確かお東の方の、お西でいえば勧学にあたる講師という一番位の高い人だったと思いますが、その人の『叢林集』ですね。「報謝の念仏とは、念仏をもっておのれが善とせず。又、廻向せざるをいう」。こういうふうに自分が念仏を申していって、自分が念仏を申すというような、そういう意識でなしに、いわゆる南無阿弥陀仏という自然の念仏、他力廻向の念仏ということ。それを差し向けて如来の方へ届けようというのでなしに、あながちに、決して「仏にまいらせて」、私の方から差し向けてそこで御恩に報いよう報いようというような、そういう気持ちで申すではない。己れが善とせずですね、廻向せずですね、そこに自ずから申されるところを報謝の念仏という。こういうことを言ってある。この蓮如上人も非常によく言ってある。即ち何か意図的なものではないですね。そういうことを報謝の念仏というのである。   
 ならばどうしてそういうものが仏恩報謝の念仏になるのか。
・仏恩報謝とは何か
 恩というものは大体返せないものでありますね。恩というものを返そうと思うけれども、恩というものに返すということが、恩というものはできないですね。我々は親の恩というけれども親の恩というものは返したくても返しようがないですね。「子、孝ならんと欲すれども親いまさず」である。水の恩ですね。水の恩なんていうのは、水がなければ人間は生きていけないわけでありますが、空気と同じで、その恩を返そうたって我々はそれはもうどうしようもない。返せない。本当の恩というのは返せない。ただ出来るのは感謝。「有り難うございます」と感謝し、生かされているということを感謝し、お蔭であったということを感謝するしか人間は他に手がないです。それがやはりひとつ分かることが人間の非常に大事な目覚めであり、動物と違うところですね。「有り難うございました、お蔭でした」と言えるところが大事なところがある。
 仏に対して我々が感謝する。どうやって感謝したらいいか。どうも感謝の仕様がまたないのでありますけれども、雀はチュンチュン、烏はカアカア。雀は悲しくてもチュンチュン、嬉しくてもチュンチュン。烏はカアカア。人間は南無阿弥陀仏。人間はそこに本当に大きな世界を生きる、大きな世界とひとつになった。それが、人間の本当の声というかな。
 今、風が吹いて来て鯉のぼりの中を吹き抜けていくならば、その風がここへ入るところを聞という。これは聞くという。風が南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏というところに如来の最大の働きかけがある。それが風である。それが私に入ってくる。それが聞き届けられてくるところが聞です。そして、私の中に本当に届いたところを信。それが吹き抜けて出ていく。それを称。聞・信・称という。聞いて、信心、念仏となる。そこに念仏というものがある。
 そこに届いて出ていく。聞、信、称の本体。聞、信、称の本体いうのはおかしいが、聞、信、称を生み出すその本体。それは南無阿弥陀仏ですね。南無阿弥陀仏。私にあらず。その私にあらざるもの。それが南無阿弥陀仏と出ていくところを、それを自ずからなる念仏。信の上の称名念仏。我がはからいにあらず。ことさらに繕うて、恩に報いなきゃあならん、徳を感謝しなきゃあならんというものにあらず。それは風の働きというのである。風の働きでそれは大きく躍動しているわけである。それは報謝である。聞き開くということが一番大事。それを仏恩報謝の念仏というのである。仏恩報謝のためにやるのではない。そういう何々のためのものでなしに、そうなるのである。それを名付けて仏恩報謝の念仏というのである。
 ならば何故この念仏を仏恩報謝の念仏と名付けるのか。恩に報い、感謝になるのかどうか。そうですね。それは、南無阿弥陀仏だな。如来の心に立って考えると、如来の心はいわゆる本願。この如来の本願は「どうか聞いてくれよ。分かってくれよ。念仏の人になってくれよ」である。その本願が届いてそういう存在になることが如来の本願に報いる。そういう道であり、又、如来にとってそれが最大の喜びである。こういう存在が生まれて来るということが、聞、信、称の人が生まれて来るということが、それが如来の最大の喜びであり、そういう人になることが如来に報いるたったひとつの道である。それが最大の報いであり、最大の御恩返しである。
 先程、我々は親の恩というものは返せないと言ったが、返しようがないわけですね。だからお彼岸、命日、三回忌、十三回忌、そういう時には親類が集まって法事をすると、お坊さんに来てもろうて仏事、法要をするというのはひとつの御恩返しと思うが、けれども本当の御恩返しというのは親の心を頂いて、親の心に沿うて仏法を本当に聞き抜き、そして、真面目にこの人生を生き、少しでも人のため世の中のために役に立つ、そういうことをやっていくことが、実は親(の恩)に報いる道であろう。本当は私がこういう如来の本願の如き人となって、一人でもいいから、できればこの次なる鯉のぼりに、仏法の世界に案内していく、仏法の世界に近づけていくことができたら、それはもう最大の御恩返しということになる。
・仏への報謝
 だから仏恩報謝というものは二つある。一つは、仏への報謝。それは私自身が聞・信・称の人になること。それがまず第一です。第二は一人でもよいから、他の人をこの道にお誘いする。それが仏恩報謝の道である。そういう二つがある。
 そこで聖人の和讃を見ると「他力の信をえん人は    仏恩報ぜんためにとて如来二種の廻向を  十方にひとしくひろむべし」という和讃がある。(これは聖徳太子和讃ですね)これは聖人のごくご晩年で八十六歳位やな。後四年経ったら亡くなんなさる。そういう時の和讃ですね。こういうことを言われとるのは後にも先にもありません。けれども「他力の信をえんひとは  仏恩報ぜんためにとて  如来二種の廻向を 十方にひとしくひろむべし」。即ち往相の廻向・還相の廻向。合わせるならば教行信証。如来の教えを言っている。如来の教えを十方の人達に本当に広めたいものである。そういう和讃。だから二つあるな。
 そこで現在は浄土真宗というのは本当に上っ面な話になってしまって「念仏申せばいい、念仏申せば仏恩報謝」、まあそれはそうや。それであんた終わりかな。もう一つ言ってあるんじゃないかな、ということになるともうあんまり言わん。こっちは言わん。やっぱりこう上っ面になるんですね。親鸞聖人の教えというものを本当に頂いていこうという所が非常に欠けている。いわゆる宗教が職業化して、何か本当の御恩報謝の宗教にならん。
 他への働きかけ。「一人でもよいから如来のこの本願の教えを分かってもらいたい、そういうことを十方に広めたい、広めなさい」という和讃なんですけれども、実際、中々できない。しかしながら、まず第一、ここが大事ですね。
 そこで、恩というものは、他への働きかけ。他への働きかけというのはかつて申しました。これは復習ですが、四摂事ですね。他への働きかけです。人を仏法に誘う方法。これは四つある。一つは「布施」。与えることですね。差し上げる。何を、まあ、金でも物でも。「愛語」言葉をかける。「利行」その人の役に立つことをしてあげる。「同事」一緒に事を、仕事でもいい、行う。この四つを一般に四摂事といって、これを他への働きかけという。
 他に働きかけるといって何をするのか。これはこういう事で近づいて行って、仏法を勧めるのである。だらか、嫁と姑、親と子、孫。その孫、子供を仏法にもし連れていこうとしたらこれしかないですよ。それにはず自分が聞・信・称の人にならなきゃいかん。なってこれが大事。これをいうと、結局惜しまないことです。自分の持っているもの、自分の考えていることを、それを惜しまずに人に言う、人に与える。物に執着したら仏法は大体広まらんと思わにゃいかん。物、金、それにこうなったら、あなたから仏法は広まらんな。そこの所は、それが仏恩報謝や。如来の御恩に報いるには私のものを手放さなきゃならんものがある。パーッと撒くわけにはいかんですけれども、風の中で灰を撒くようなことじゃいかんですけれども、こういうような使い方をして、そして、こういうものの考えでなければできないですよ。
 新興宗教の人。その人達が一人の信者を得ようとして努力している姿というものは、それは大変なものですよ。これは皆さんもご承知のように、こういう団地だともう大勢来ますからね。もう実に一生懸命やりますよ。浄土真宗はあんなに一生懸命やっているかな。そうですね、実に恥ずかしい。本当に恥ずかしいですよ。これが大事なんです。彼らは一生懸命これをやっている。一生懸命パンフレットを配って、そして語りかけて、本当にしつこい位にやるわけですが、そういうのを我々は学ばなきゃあならんものがある。我々は本当に忘れているものがあるですね。ここにはそういうのは出てないが、一応仏恩報謝の念仏というところをひとつ、まずそれが第一である。しかし、第二があるんだ。そういうことをひとつ申してみました。

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