『歎異抄』 第十四章 
第二回講義  平成元年八月二十三日

一、弥陀の光明(如来本願の働き)  二、一念発起は信の成立
三、定聚の位  四、無生忍をさとらしめる  五、どうしたらそうなるのか

 十四章は、念仏滅罪という異義、間違った考え方。常に申すように異義は特別な人がそういう事を考えているのでなしに、いわゆる真の仏道の途中、あるいはその過程で陥りやすい欠点をいっている。そこが陥りやすい、間違いやすいところである。それを「人生成就のための仏法か、仏法成就のための人生か」こういう表現で私の先生は言っておられました。
 人生成就というのは、私の人生で幸せを成就したい、そのために仏法を聞いて、そこで私の心の支えとする、色々失敗した時の立ち上がり、そういうふうなものとする。要するに仏法を聞いて私の人生のために役立てよう、そういうのが仏法の手段化。仏法を役立てる。何のために役立てるのかというと、私のためですね。これは仏法を利用する。念仏を役立てる。私の生活の中に生きてきて、私の支えとなる。仏法を、念仏を利用して罪を犯した時には南無阿弥陀仏で罪を滅ぼしていく。私の心を立て直す。それを利用化、道具化、手段化という。それを「人生成就のための仏法」という。第十四章は大きく言えば念仏滅罪、その第一の所に我々は陥って、仏法或いは念仏を何かに役立てようとする。そういう生き方がある。それは異義、間違っている。 
 仏法成就のための人生。我が人生は如来と出遇い、大きな世界を生きる。そして、小さな私心を捨てて、世の中、人々のために少しでも役立つように働く。そういうための人生。そういうのを仏法成就のための人生という。仏法成就というのは、仏というのは仏の法、仏の教え、それを本当に聞き抜いていく。そして、ついに我らも仏陀となる。即ち大きな世界を本当に体験して生き抜いていく、それが往相、そして、還相、即ち世の中の人々のために少しでも尽くす。その一番大きな仕事は人々のために念仏をお勧めする。そういうふうなことを少しでもお手伝いしたい。こういうふうなことのための人生、と腹が決まった。そういうのが大事。
 あなたの、いや私の聞法はこちらか、それともこちらか。それを私の先生は非常に厳しく教えられました。私はまだ学生でしたが非常に厳しく鍛えられました。が、考えてみると本当は我々はこっちの方にいる。これが出発点であり、どうしてもこちらの方に落ち込んでいきやすい。それは皆々そういうところを持っているわけである。特に初心者はこちらの方のために仏法を聞いているわけで、言わばそれが出発点である。従ってその出発点から抜け出して、そして、ひとつ殻を抜けて大きな世界に出るということが大事である。出た後もこういう思いが絶対になくなるとは必ずしも言えない。時々こういうところに陥りやすいところがあって、知らず知らずの内になにやら自己保身的になり、こういうことを忘れてしまって、やっぱり仏法のぬるま湯の中に入っているということが多いが、そこが問題点である。一応ここの所が大事なところである。
 初めの出発。初めの出発点というのはおかしいが、要するに仏法を聞き始め、そういう段階を自力の段階という。自力というのは自己中心の段階で、そこで、自分の人生が一番大事であり、自分自身の存在が一番心地よいわけであって、これをなんとか立派にしたいということで、仏法でもあれ、キリスト教でもあれ、その他なんでもあれ、なんとかして掴んで自分が浮かび上がりたい。そのための道具になるわけである。それが第一段階です。
 本当の仏法はどういうことか。それは、この十四章では「我らが信ずるところに及ばず」、我々の教えていただいている信心の世界はそういうことではない。
「その故は弥陀の光明に照らされまゐらする故に一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば已に定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば諸の煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふ」
 その世界。そこから開けるものが第二の人生である。信心成就。信心が生まれる時、自利利他、仏法成就のための人生、となってくるのである。その世界を「定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば諸の煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり  『この悲願ましまさずばかかる浅ましき罪人いかでか生死を解脱すべき』と思ひて一生の間申すところの念仏は皆悉く『如来大悲の恩を報じ徳を謝す』」ですね。即ちそこに報謝の人、御恩に報いたいという人が生まれるのである。そういうことを書いてある。
  この「陥りやすい」というのはどういうことか。それはこの段階が長いのである。それがひとつ。もうひとつ、こちらになってもやはり時々は雲、霧がかかるように、如来の御恩を忘れ、お徳に報いようという心が薄れていくところがあって、知らず知らずの内に自分の幸せを求めるということが出て来るところがあります。そこでここの段階でも陥りやすいということがある。そういうふうなものを習気(じゅっけ)といいます。長い長い習わしが空気として残っているという、そういうのを習気という。
 今、生の魚を籠の中に入れておくと、魚を取り出して後をよく洗っておったんだけれども、匂ってみるとプンと魚の匂いがする。魚という実体はもうないわけなんだけれども、その匂いが残っている。そういうのを習気という。もうこの段階は遠く終わってこちらの段階に入っているんだけれども、時々匂いがする。こちらの方の匂いがする。残っている。そういうのを習気という。それを、ここの段階の人が時にこちらに落ちることは、要するに、これを二つ合わせて、長い間こちらに留まっているのである。
 それが陥りやすいところです。そういう念仏滅罪というところがやはりあるわけです。何か不安な気持ちが起こった時に「ナマンダブツ  ナマンダブツ ナマンダブツ」と念仏申して心を落ちつけようとしたり、或いは失敗をした時「ナマンダブツ  ナマンダブツ」と心を慰め、おさえようとする。そういうふうなことが念仏滅罪という中に入って、何かそこにやはり利用しようしているということがある。そういうふうなところが第十四章にこういう形で出ている。他人事ではない、そういうものである。
 本当の世界はどうか。それは「弥陀の光明に照らされまゐらする故に一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば已に定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば」、ここで切らにゃいかんですね。「命終すれば」は後ではなく、ここの所で切る。「命終すれば」というのは前に付いている。これは近角常観という先生の『歎異抄愚註』という書物を読むと、そこを非常に強調して言ってある。なるほどその通りで、そこの所で切るというのは分かりやすいですね。「已に定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば」そこで切る。「諸の煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり」ですね。そういうふうになっている。
 一寸あそこは後で書くとしよう。非常に大事な文字が次々出ておって説明を要するだろう。やはり仏法というのは、ある面から言うと大綱、大きく聞いて大きな筋道を知るということがひとつ大事なところがあります。もうひとつは小さく、一字一字をおさえて、その意味が明らかになっていくということが大事なところがある。今までどちらかというと、浄土真宗の話は大雑把な話が多い。けれども本当はもうひとつ、一つ一つ、例えば『正信偈』なら『正信偈』、『和讃』なら『和讃』。今は『歎異抄』ですが、一字一句を押さえてみて、これがはっきり分かってくると非常に精密に分かるようになる。
一、弥陀の光明(如来本願の働き)
 それで考えると「弥陀の光明に照らされまゐらする故に」。「弥陀の光明」とは何か。ある人は、阿弥陀様というのはピカッと光って、光を出しなさるんじゃという、一応そういうふうな表現で書いてあるが、具体的にはどういうことか。そうするとだんだん分からなくなる。「弥陀の光明」というのは何なのか。弥陀の光明。弥陀は南無阿弥陀仏。智慧の光明とか、そういうふうに答える。
 大きくいうと、光明というのを働きからいえば大体三つある。これはいつも申す通りである。一つは照育、照らして育てる、照らし破る、照らし護る。こういうふうに私を照らしてくださって、育て、破り、育てるは小さなものを大きく育てていく。破るは殻を破る、闇を破る。そして、護る。それが必ず成長していくように護る。そういうのを光明という。
 弥陀の光明というのは何か。弥陀は南無阿弥陀仏。本願の働きを弥陀という。如来本願の働きが私を照らし育ててくださる。それをまず照育という。それは大体どういうことかというと、五重の義でいえば、これはいつも申しているが、蓮如上人の『御文章』二帖目十一通にある。「一つには宿善、二つには善知識、(これが一つには、二つにはで、初重、二重でその上が光明)三つには光明、四つには信心、五つには名号といへり」。こういうふうにあります。
 光明の働きという、その初めが私に宿善が与えられた。宿善というのは長い長い昔からの先天的な私の善根。私は何もいいことはしていないのだけれども、善根をひとつ与えられた。それを宿善という。宿善というのは先祖の血、聞法の血、そういう血筋。又、自分が育ってきた環境の土徳という。そういうふうなものがその人に現れるとどうなるか。
 宿善の人というのは特色がある。一つは考える力を持っている。これも時々申している。浄土真宗、或いは本願の宗教、それは宿善開発して善知識に遇い、光明の照らしに遇うて信心念仏になっていく。それは根本は宿善です。宿善というのは何か。それは蓮如上人が非常に強調されますけれども、あまり詳しくは言ってない。けれども考える力があるということです。これは非常に先天的なもので、その人の血筋で、両親、祖父さん祖母さん、そういうところに非常に影響があるんです。何を考えるのかというと、それは色々ある。それは「私はこれでよいのだろうか」と自分を顧みる力がある。又、教えを聞いて考える力を持っている。
 では反対に考える力がないとどうなるかというと、大体二つの悪い傾向がある。一つは、人がいうことをパクッと信じてくわえこんでしまう。それを丸飲みしてしまうのが、考える力がない状態。もう一つは教えというものに対する感受性がない。
 まずはじめのパクッと食う方からいうと、今頃はどうですかねぇ、私は福岡の生まれであそこに那珂川という川がある。住吉神社の所で生まれました。小さい時はあそこへいつも魚を釣りに行ったんです。大体ハゼを釣りに行くのですけれども、竿を出すとパクッと食いつく真っ黒いやつがおります。これはドンポといいますが、ドンポはどうにもならないわけで、すぐ食いつく。すぐ食いつくやつはろくなやつがおらないんで、頭が足らん。新興宗教とかいろんな宗教があるが、あれにパクッと食いつくちゅう人は、これは情けないですね。何とかの壺、その壺が何十万円もする。それを買うと運勢が開けてくるとかですね。そんなことがあるはずがないじゃないですか。「そりゃ、あなたが儲けたら買うてもいいけどもな」というてひやかしておく方がいい位ですけども、パクッと食いつくですね。ドンポと同じですね。
 本当にもう情けない。本当のいい教えを聞いても考える力がない。考える力があるということも宿善。そういうのを「弥陀の光明に照らされても」というんです。照らされておればこそそういうもの、考える力を持っている。そして、迷う力を持っている。本当にそうだろうか、こういう考え方はないだろうか、こういうことはどうなるんだろう、といって迷う力、疑う力を持っている。これは大事なことでありまして、大体、浄土真宗というのは一遍には分からない。何遍も何遍も考えて、聞いて、尋ねて、そして、それでもという、そういう疑う力を持っているということが、その人の非常に大事な宿善なのです。
 そして「かくあれかしと願う一念」を持っている。「本当に親鸞聖人の教えてくださる他力の信を得たい」と願う、その一念、一心。そういう念力を持っている。そういうところがこの人の宿善。従って、浄土真宗の人、本当に聞法を続けていく人は皆こういう念力、こういう宿善を持っているんです。これはその人のものではありませんです。その人が生まれつき持っているということは、長い間の宿善、善根がそこに凝縮して、いわば父母、そして先祖、祖父さん祖母さん、その上からずっと伝えられて来たものです。それに感謝しなければいかん。本当に自分の力ではないんである。その元は如来の光明にあって、それが色々な縁を作って照らしてくださったのである。育ててくださったのであって、そういうものがあって初めて善知識に遇うのである。それを光明の照育というのである。その人に宿善があり、又、その人が本当に善知識に遇う。そういう善知識を私のために用意し、私のために育てておってくださった。そういう所に弥陀の光明の働きがあって、宿善開発して善知識に遇うというところに、宿善も善知識も光明、如来のお働きというのである。
 その教え、即ち弥陀の光明というのは智慧の光明。智慧の光明というのは何かというと具体的には教えをいっている。その本願の教えに照らされて、それを光明といいます、私が私自身に目が覚めてくる。私の自身の本体、本性を照らし破る。照らし知らせるのである。照らし出す。それを光明の照破といいます。そこで照育、照破という。照育、照破。そこに私が本当に照らし破られたというか、本当に私が照らし出されて自己の本体を知った時を照破というのである。「弥陀の光明に照らされまいらす」というのは、従って照育、照破を、ここまでをいっている。                                      
二、一念発起は信の成立
・一念発起
「弥陀の光明に照らされまいらする故に、一念発起するとき」。一念発起するとき、信心の生まれるところを一念発起という。信の成立。「一念」は一心。他力の信をいう。「発起」は開発起立といいます。開発というのは開かれる。私の疑いの心、自己中心の心がそこで破られる。如来を疑う心の殻。これは自力が破られることをいっている。心の殻が開かれる。そこに信が生まれることをいっている。
 今、卵がある。その卵の殻は固い殻があってその中に黄身と白身と胚があった。それがこの卵が生まれた時の姿であった。それを親鳥が抱いてやって、そこに「弥陀の光明に照らされまいらせて」。光明の照育、照破。照育ですね。宿善開発して善知識に遇う、そういうことがありますと、だんだんと育てられて目玉ができ、嘴がはえ、脚がはえ、中で育ってくるわけです。卵からひよこに育ってきた。けれどもまだ厚い厚い疑いの殻がある。その殻が破れた。破れたというところに開発、開くということがある。そして、中からひよこが出てきた。それを起立という。開発、起立という。それを一緒にして発起といいます。一念発起という。それは育てられたものが出てきたのである。
・金剛の信心
「金剛の信心を賜りぬれば」。これが一念発起して信心といわれた、その信心は金剛の信心。金剛とは何か。金剛は譬え、ダイヤモンドをいっている。ダイヤモンドというのに三つの意味がある。一つは金剛堅固といいます。堅くて、どんなものをも貫く、そういう力をもっている。もうひとつは金剛不壊といって、決して壊れない。何があっても壊れることがない。もうひとつは無漏といいます。無漏清浄という。こういう三つの意味を持っている。信心は堅い堅い信心ですね。何物をも、ダイヤモンドのように何物をも突き動かしていく力がある。そして、自分は何物によっても壊れない。その体質、本体はひとつも混じり気のない清浄である。それを金剛という。無漏清浄というのは、仏心、仏の心から与えられた、即ち金剛は如来の心。その如来の心が私に届いて、私の上に成り立つもの。それで堅固で不壊なのである。
 ならば、信心とはどういうことか。信心は如来の心が私に成立した、届いたところである。二つのものから成り立つ。一つは「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫」。自身に目覚める。これを機の深信という。自分自身が何であるかということを、お粗末な人間であるということが本当に分かったこと、それを信心という。それは如来の心が私に届いて目が覚めてくるのである。そして、仰ぎみる世界。仰ぎみる世界を持って感謝し、それを喜ぶ。これを法の深信という。これを機の深信という。金剛の信心というのはそういう二つから成っている。
 その自らに目覚めて、自己のお粗末さというものが本当にわかった。それは堅くて、どんなことがあっても壊れない。人から誉められようと、人から悪く言われようと、何が起ころうと、私が何であるかということはもはや一歩もゆるがせにならない。動かない。そして、何物にも壊れないと共に、何物をも壊していく力がある。それが清浄の心である。仰ぎみる世界を持っている。それは何事が起ころうとも壊れることがない。それを金剛という。
三、定聚の位
 そういう金剛心を賜ったのを定聚の位、正定聚不退の位という。まず単語の説明。正定聚というのは、いわゆる仏となるにまさしく定まったその菩薩をいう。もはや後すざりをすることはない。今、卵があって、卵からひよこが生まれたならば、そのひよこが殻を出たら、もはや卵の中に入っていくということは毛頭ない。ひよこから必ずひな鳥になり、そして、必ず親鳥になる。そういうふうな進展をとげていくべく定まった。卵だとまだ怪しい、けれどもひよこになったらもう大体後すざりすることはない。その段階を定聚の位という。これを現生正定聚といいます。現生において卵からひよこになっところを現生正定聚というのである。これが親鸞聖人の教えの大きな特色です。親鸞聖人はこれを非常に力説しなさる。
 正定聚の位に、「已に」というのは直ちに、「命終すれば」命終というのは普通は命終わって、死ぬことをいっているがそうではない。命終は「前念命終、後念即生」という。前念命終  後念即生というのは死ぬのではない。生きている時に命終するという。聖人は『愚禿鈔』にそういうのを言っておられます。それからとってある。念のために見ておこう。十四−八ですね。
                                         
   真実浄信心は 内因なり 摂取不捨は外縁なり。
   本願を信受するは、前念命終なり 即ち正定聚之数に入る。
   即得往生は、後念即生なり 即時必定に入る。又必定の菩薩と名くる也。
                                         
ややこしいが「前念命終 後念即生」というのは善導大師の言葉で「本願を信受するは前念命終なり」。本願を信受して殻が破れてひよこが出た時、これが前念命終。それを命終というのである。これは本願信受の時をいう。娑婆の命はその念、一心、一念を境にして、その時に、本願信受する時、卵としての命は終わる。我々の凡夫としての命は終わって如来の世界に出て菩薩としての生が始まる。それを後念即生という。前念、卵の命は終わり、後念、そこに必定の菩薩の命が始まる。それを後念即生という。そこで、ここの所に気がつかなきゃいかん。「定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば」。そういうふうに変わっている。大体それがいままでの所ですね。もう少し残りましたね。先の第十四章の後もう二行残ったなあ。そこを一つを終わっておこう。
                                        
四、無生忍をさとらしめる 
「已に定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば諸の煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしむる」。無生忍というのは無生は無生無滅。無生無滅は如来の世界。忍は認識する。無生無滅の世界、それを本当に知る。それは信心をいっている。無生忍というんですね。無生忍というのは大体善導によると、喜・悟・信という。喜忍・悟忍・信忍という。喜はよろこび、歓喜。大きな世界を知るということは、如来の世界を本当に知るということは本当に喜びである。それを信心歓喜という。喜びがある。そして、如来のお心が本当に分かる。「助けんとおぼしめしたちける本願」である。それを悟忍という。そして、信忍ですね。二種深信ですね。深い目覚めと仰ぎみる世界、それの感謝。そういうのを無生忍という。
 そこで「諸の煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしむる」。そこで、自分の罪を消そうと思わないのである。それは「諸の煩悩悪障」それを転じる。転ずるというのは、煩悩、これが悪障ですね。これを罪障という。煩悩を惑・業・苦という。これを因といいます。これが一番の種。これが果。無明煩悩が因で悪障が果。それを転ずるというのは、如来の光明に照らされて、信心を頂いて、そこに本願、信心、即ち前念命終、そういうところになりますと、悪業煩悩、あるいは煩悩悪障、こちらの方は悪業、悪障、こちらは煩悩、迷い、無明煩悩。それが転ぜられる。
 転ぜられるというのは何か。無くなるのではない。そういうものが無くなるはずがない。しかし、それが受け止められる、それを本当に受け止める力がある。それが念仏の縁となる。それを転ぜられるという。それを無生忍。大きな世界を知ると、大きな世界の修多羅、働きによって、無明煩悩、これが本当の私、南無阿弥陀仏と念仏の縁となる。それを転ぜられると言います。それが人間において成り立つ救いである。無くなることが救いではない。今までは私を苦しめておったそれが、南無阿弥陀仏と念仏になることを言っている。
 そして「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」と、如来の心をいよいよ知ることになる。「他力の悲願はかくの如ききわれらがためなりけり、南無阿弥陀仏」と南無阿弥陀仏の縁となる。何が。私の煩悩悪障が。それを「転ぜられる」というのである。それを「無生忍を得た」というのである。信心の相をいっている。それを転悪成徳というのである。
 今、何が主題かというと、色々異義の人達は、初めの段階、あるいは時々我々も陥っていく段階からいうと「罪を犯し、失敗をした時に南無阿弥陀仏 無阿弥陀仏と念仏を申してその罪を滅ぼしていこう」こういうことを言っている。そうしなきゃならんことを言っている。そうではない。罪、その元は無明煩悩、それを無くすのではなくて「これが本当の私」と自己を知らしめる、「南無阿弥陀仏」と念仏させる縁になっていく。そうすると私を苦しめる悪が転ぜられて徳となる。これが信心である。そして「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」となっていくところに、罪はそのまま残り、煩悩もそのまま残っておりながら、滅ぼす必要がない。転ぜられていくのである。だから、念仏滅罪と違った、そういうものと違った世界、それが我らの教えられている世界である。こういうことを言ってあるわけであります。
「その故は弥陀の光明に照らされまいらする故に一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば已に定聚の位に摂めしめたまひて命終すれば諸の煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり」
 そういうふうに続いている。そこに正しい信心の人のあり方というものを言われて、前の異義を正して、批判しているわけです。
 ここでもうひとつ続けて、「『この悲願ましまさずばかかる浅ましき罪人いかでか生死を解脱すべき』」と思ひて一生の間申すところの念仏は」、罪を消すためにあるのでなしに「皆悉く『如来大悲の恩を報じ徳を謝す』」という、報恩謝徳の念仏、南無阿弥陀仏と、そういうことになる。その南無阿弥陀仏の内容を言えば、色々と無明煩悩や悪障に会うたびに「これが本当の私、南無阿弥陀仏」である。これは私のこういう罪を消そうというのではない。「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり南無阿弥陀仏」であって、友にお礼を申し、その御恩に感謝している。そういう姿。そういう念仏である。報謝の念仏、感謝の念仏というのは、報謝しようと思うて、感謝しなきゃならんと思うて、申すものでは毛頭ない。結果としてそういうものになっている。

五、どうしたらそうなるか
 どうしたらそうなるか、というのはどういうことか。我々は先にも言うように、人生成就のための仏法、即ちやはり念仏、仏法、本願、そういうものを聞いて、私の人生に役立てて、そしてそこで大いに働いていく、そのために念仏を聞いているという段階。即ち異義の段階が出発点である。それから長い間そういうところを右往左往しているわけである。が、今聞いてみるとそうでなしに、信心を得たならば、転悪成徳というか、そういうものを転ぜられて、罪があろうと、その罪も念仏の縁となり、いよいよ自己を知らされ、いよいよ如来の本願を知らされる縁となっていって、いよいよ深まっていくわけである。こっちの方はそうではない。こういう段階からこういう段階にどうしたらそうなるのか。そこが大事です。
 悪い所、間違っている所を「そこが間違っています、本当の生き方はこういう生き方であります」と指摘すること、それはその通りで非常に大事なことです。そういう指摘がなければいかん。が、この段階はこう、この段階はこう、これはいかにしてこうなるのか、ここの所が分からんと折角聞いてもあまり役に立たないかもしれない。そういう所が大事です。そういうのを方法論という。
 現在の浄土真宗の説教は大体方法論というものがはっきりしない場合が多い。第十八願の世界に、他力の世界に、ということを一生懸命説きなさるが、どうしたらそうなるんだろうということがどうもよう分からん。そういうのが多いですね。それではいかん。それでは高い高い世界のことを言われるばかりで、低い所にいる我々はどうしようもない。口に指をくわえて途方に暮れるだけである。どうしたらそうなるのか、そこが大事。
 が、この方法論に答える得る人は一人もいない。どうして。それはこの問いが、どうしたらそうなるか、という問いは、どうかしたらそうなるはずだという、そういう気持ちで問うているんですね。それがどうしてもそうならないわけだ。即ち、この問いが間違っている。この問いを整理しなきゃいかん。どうしてか。
 それは、この問いは我々がなんとか努力したらならばそうなるんではないだろうか。そのなんとか、それをどうしたらいいのかをたずねている。例えば、子供が電車に乗ろうという時には、切符を買わにゃいかん。切符を買うには金が要る。金を持っておって切符を買うと乗れる。それが方法論である。それで我々は金を出して切符を買う。どういうふうにしてその切符を買えるのかと問うとるが、そういう切符がないわけです。だから答えようがない。どうしてか。如来の働きであるからです。こういう世界からこういう世界に変わっていくことは如来の働きなんです。だからこの問いには答えられないんです。如来の働きでありますから、人間の力でどうこうしたからこうなるんだというようにいかないのです。
 そうですか、じゃあ何もしなくていいんですね。いや、何もしなくていいとは言ってない。じゃあ何かやっぱりせんといかんでしょう。そこが難しいなあ。だから親鸞聖人はどうおっしゃったか。そこの所だけはしっかり押さえなきゃいかん。親鸞聖人はどうおっしゃったか。それは『教行信証』の信の巻の終わりに近い所。十二−七十九である。終わりから六行目。前の方を略しまして、
「忻求浄刹の道俗、深く信不具足之金言を了知して、永く聞不具足之邪心を離る應きなり」
 これまた簡単過ぎてよく分からんが、要するに前の方は「願作仏心 度衆生心」、本当の信心の世界をいってあるんですね。それに至る根本は「信不具足之金言を了知して 永く聞不具足之邪心を離る應きなり」。今、前半の方は略しまして、後半の方ですね。「聞不具足の邪心を離る」。それは聖人が注意されている所である。「聞不具足の邪心」、それが注目されている。これについては度々申したことがあるが、もう一遍申しておくと、十二−八十二、そこに聞不具足というのがある。終わりから三行目。
「『涅槃経』に言はく。云何が名けて「聞不具足」と為る。如来の所説は十二部経なり、唯六部を信じて未だ六部を信ぜず、是の故に名けて「聞不具足」と為す。複是の六部の経を受持すと雖も、読誦する能はずして他の為に解説するは、利益する所無し、是の故に名けて「聞不具足」と為す。又復是の六部の経を受け已りて論義の為の故に、勝他の為の故に、利養の為の故に、諸有の為の故に、持読誦説せん、是の故に名けて「聞不具足」と為す、と」
 三つ聞不具足がいってある。聞不具足に三つある。一つは「如来の諸説は十二部経あり」。いわゆる仏法、お経の内容は十二通りあって、その内の六部を信じて(六部を信じてというのは六部を聞いて、聞くというのは信じるということと同じこと)、六部を聞かず。これが聞不具足の第一。半分聞いて半分聞いてないということはどういうことか。仏法というものは大体半分は宿善に恵まれ、因縁に恵まれて聞けるのであります。
 丁度、雪山童子が(これはやはり同じ『涅槃経』に説いてあるんですが)ヒマラヤ山の麓で座禅をして道を求めているわけですね。一人の羅刹が現れて、これは鬼ですね「諸行無常  是生滅 法」と半偈を言う。これは非常に有り難い思いをして聞いたのですが、残りの半分が聞きたい。どうも残りが残っている。前の半偈は因縁に恵まれ聞いた。残りの半分を聞こうと思ったら羅刹が言う「わしはもう腹が減って何も言う元気がない」「それではあなたの食べ物をあげましょう」「いや、おれの食べ物は人間の生きた肉と血だけだ」という。そこでこの童子は私の体をあなたに差し上げます、といって残りの半偈を聞き終わって、それを木や岩に彫りつけて、そして、わが身をこの羅刹の上に投げ出した。この残り半偈は命を捧げて聞く。そういうものである。そういう譬えが『涅槃経』に出ている。
 命を捧げて聞くというのはどういうことか。それは命を賭して聞くとか、そういうこともあろうが、積極的聞法です。命を捧げてというのは、我々は何を命として生きているか。あなたはどうですか。それは、一つは金である。一つは時である。時間である。金のかからないような、暇な時に、時間の少ない時に聞く。そういうふうなのはあまり積極的とはいえない。この二つを命としている我らは、積極的というのは、命を賭けてというのは、聞法のために金を惜しまず、時間を割いて聞いていくということです。それがなければ残りの半偈は聞けない。
 従って、聞不具足の邪心というのは、それは金を惜しみ、時を惜しんで積極的な聞法が展開されない、そういう世間心。金や時間に捕らわれる心。それが聞不具足の邪心。それを離れて初めて積極的聞法、そういうことになろう。それが我々の側においてなさるべきことである。そういうことを言っておられる。
 第二は「復是の六部の経を受持す」、即ち六部は得て後の六部は聞かなかった。いや、その六部は聞いたけども、受持しているけれども「読誦する能わずして他の為に解説」。読誦、自分が本当に読めない。充分読めないのに人のために解説する。そういうことが第二に述べられている。これは仏法を専門としておられる人、そういう人と較べて我々にはあまり関係ないんじゃないかと思うかもしれんが、そうではないんです。邪心という点からいえば、自分が充分に分からない、中途半端な段階で人を勧め、人に言い聞かせる、そういう指導者意識。こういうものを言っとんなさるんじゃないかなと思います。 
 私が初めて仏法を聞いたのは大学二年生の時です。それから卒業して師範学校という所に勤めた。それは戦時中でしたからね。そういう学校に奉職したらすぐに召集が来ました。あまり兵隊は好きでなかったし、学校の先生を作る学校の先生になろうと思って行ったところが召集が来て、しかし召集されて直ぐ帰されほっとしましたが、そういう中でとうとう終戦になって、これはいよいよ仏法が大事だと思って、私の先生の所にかなり沢山の学生や同僚の先生を連れて行きました。五年間そこに勤めていましたから、全部で数えたら二・三百人連れて行ったんじゃないかと思います。非常に熱心に勧めたんです。結果はどうなったか。それから既に四十年ばかり経ちましたが、残っているのは一人だけです。たった一人だけ残りました。後は全部止めました。
 どうして。僕はまだ自分でよく分かっていないのに人のために説いたわけですね。そこのところに深い何かがあった。やっぱり人を引っ張っていくとか、そういう意識があったんだと思います。やはり聞不具足の邪心だったんだなぁと思います。本当に清浄真実のものじゃなかった。だから無駄骨を折ったというか、全然効果がなかったというか、本当にお粗末な結果に終わった。私はそうでした。皆さんも自分が中途半端な状態で人に勧めたら、中々人がついて来ないです。もしついて来ても最後まで続くという人は少ないということがありますね。何故か。こういうふうなんじゃあないかなあ。中途半端な段階であるのに、人に勧め、人に説き聞かせようとする指導者意識がものをいうて、それが退転、空転していく。邪心といえばこれになるんじゃないかと思いますね。そういうものではなかろうか。
 最後に「又復是の六部の経を受け已りて」、即ちその六部と六部、十二部を受け取ったんだけれども「論議の為の故に、勝他の為の故に」。「論議」、議論をして相手に打ち勝つ、これが勝他。「利養」、利養は名聞・利養と続く言葉で、結局自分のポケットを膨らませて、私の収入を増すために説いていく。「諸有」、諸有というのも色々解釈があるようですけれども、欲界、迷いの世界に執着していく。そういう執着心のために「持読誦説」。そういうために説く。即ち、お経は自分が頂いたんだけれども、そういう世間心。如来の御恩に報いようというふうなことでなしに、自己中心の世間心が主になって法を説く。そういうのが聞不具足の邪心として三つ目にあげられている。
 そういうふうに三つ見ますと、この後の方はどちらかというと、仏法を専門とする、あるいは説教をするお寺の人、宗教界の人、そういうふうな人の事が大体出ている。そういうふうな人達の指導者意識、大体そういう世間心、それが邪心であるということになろう。少し我々の世界から遠いような気もする。一番大事なのはこれですね。我々にとって大事なのはこれ。これである。即ち、どうしたらそうなるか。どうしたら。我々は大きく進展して、小さな世界から大きな世界に出ることができる。何事が起こっても、悪を転じて徳とし、念仏の縁となっていく。そして、罪を滅ぼすという、そういうことでなしに、罪というものによって自己を知る、そういう世界。未信から信へ、そういう転回が聞不具足の邪心を離るということ。
 積極的な聞法、そこに自分が打ち込んでいくということが一番要である。我々にとってここが一番問題。そういうふうになるなあと思います。そこが自分自身に振り返ってみて大事な所であると思います。
 ならば、その積極的な人というのは自分で「積極的にやった、邪心をおれは離れた、しっかりやっている」という自覚、あるいは思いがあるか。「もうこれ位で大分やってきた、金も注ぎ込んだし、時間も大分注ぎ込んだ。あの人と較べたら私の方が大分上で、いい線いってます」ということになるのかというと、ならないのです。これは深い自己肯定ですね。本当の世界というのは弥陀の光明に照らされて、自己肯定というものを遠く離れて、自己の粗末な姿がいよいよ分かってくる。「不充分な私である、粗末なことである」と南無阿弥陀仏になる。まだまだ足りない、そういうことを思うのであります。
 これは仏教徒ではないが、ニュートンというノーベル賞クラス以上の人でありましょうが、彼は物理学のいろんな優れた法則を発見したが、晩年に言った「私は大きな海を前にして、砂浜できれいな貝殻のいくつかを拾った小さな子供に過ぎない」と。そういうものですね。そういうものが本当のことですね。本当の勉強家というのは勉強が足りないということが分かっている。本当に親孝行の人は、自分は親孝行がとてもとても充分にできなかった、と言って反省している。本当の美人というのは、美人とかなんとかひとつも考えないんじゃあないか。そういうものを考えているという所があるのは、いわゆるエリート意識とかなんかがあるんであって「お粗末なことである、不充分な私である、南無阿弥陀仏」でなきゃいかん。これが最後に付け加えたことでありました。

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