歎異抄 第十四章
第一回講義  平成元年七月

一、異義  二、異義篇とわれらの関わり  三、第十四章  四、罪を滅ぼす

一、異義
 第十一章から第十三章、今は十四章、更に十八章までの八章は異義という。その中で念仏滅罪の異義という、異義というのは異なったわけがらということですが、いわゆる親鸞聖人の仰る本当の真実信心のわけがらと異なった信心。その異義というのは大体二種類になりますが、十一章から十八章まで八章ある。おおよそ二つありまして、一つは信心派という。一つは念仏派という。
 信心派というのは正しい生き方は誓願、いわゆる本願を信ずる「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という。信ずるということが大事。それはもうひとつ反対に言うと、念仏申すだけでは不十分。何のわけがらも知らず、ただ念仏しているというだけでは十分でなくて、本願を聞き分けて、その本願の内容をよく知って、理解して、それを本当に信ずるということが大事という。
 念仏派は念仏が中心。念仏申すことが中心。ただ「信じた、信じた」というだけでは不十分、駄目で、実際に実行ということが大事である、こういうことをいう。こっちは実践派。先の信心派というのはどちらかというとインテリ的なものですね。これを誓願派という。
 第十一章では、あなたは誓願不思議を信じて念仏申しているのか。それとも名号不思議、念仏で助かると思って念仏を申しているのかと、二つの子細をも説明もせず、そう言い驚かす。又、十二章には不学難生。勉強をしない、即ち念仏の謂われを聞き開かない、誓願というふうなものを勉強しないでいる者は到底往生し難い。それが信心派の言うことです。念仏派という方は第十三章。本願を信じたというだけで、悪を怖れず。本願を信じているのに悪を怖れず、何でも悪いことをするというのは「本願ぼこり」といって「往生かなうべからず」といって十三章に出ている。今、十四章では、罪をおかした場合は、南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏といって罪を滅ぼしていくことが大事。そういうふうなのを実行派。念仏申すことに中心がある。それが十四章。
 そういう異義は七百年の昔のその段階で起こったことで、現代の我々とどういう関わり合いがあるか。 
二、異義篇とわれらとの関わり
 昔々そういうことがあって、異義というのは二つに分かれている、そういうふうな昔話でよいのか。それとも現在の我々と何か関係があるのか。まあそういうことですが、それについて言うと、大いに関係がある。
・われらの陥りやすい欠点
 われらとは何か。一方においては永く聞いた人、また一方においては新しく聞き始めた人。両方とも、信・不信ともに陥りやすいところである。どういうふう陥りやすいかと言うと、やはりそのように、何か勉強しなければいけないんだとか、念仏申さねばならないんだというふうに、我々は何か何々しなければならないと、そういうふうな考え方を持つ。それが陥りやすいところである。
 今は第十四章でいうと、念仏というものを道具に使って、何か悪い事をした時、それを打ち消し、それを滅ぼすために「南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏」と言って、罪を滅ぼす道具にする。何か困ったことがあると「南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏」と、南無阿弥陀仏を利用して仏様に何か頼もうとするというように、いわゆる念仏を道具にして何かに使う。それが十四章。そういうことが信・不信ともに非常に陥りやすい欠点であって、それを異義というのである。
 そこが十四章でいえば念仏の道具化という。十一章、十二章で言えば、やっぱりなんといっても勉強しとかなければ駄目だ。道理が分からなければ駄目だということになりやすい。それは何かというと、如来を無視し、私中心、人間中心。如来の本願ということ、如来のお心というようなことは抜きになって、こうしなきゃならないんだ、ああしなきゃならないんだというような私の考え中心になりやすい。それが異義である。従って異義というのを頂いていくと他人事ではなしに、我らがもし自己中心に陥って、こうだああだという人間の考え方を中心において来ると「誓願を信じなきゃならないんだ、誓願を聞き開かなきゃならないんだ」というふうな人間中心となる。そしてそれが異義となっていく。念仏申さなきゃいけないんだといって、私の行、考え中心になって如来の心、そういうものが見失われて来る。そこで異義というものが七百年の昔の出来事ではなしに、今日の我々に深い関わり合いがある。私の陥っていく、陥りやすい欠点を指摘されているんだということを考える。もうひとつ。如来無視に陥っていくところに、こういうことが起こって来るんだということを反省させられる非常に大事な教えである。
 『歎異抄』は一章から十章までが師訓篇といって、親鸞聖人の教えを直に書いてある。その文は非常に有り難い。有り難いというか直截簡明。誠に親鸞という人を本当によく偲ぶことができ、教えられるところが多い。けれども異義篇というのは親鸞聖人のおっしゃったことは少ししか載っていない。大部分は著者の唯円が書いたことで、文章も少し質が落ちるし、言うていることも中々はっきりしないところがあって、あんまりおもしろい章ではない。けれどもこれは意味があった。意味があるということを知らなきゃならない。関わり合いがある。この二つである。
 私は長く『歎異抄』を頂いて、一章から十章までは何遍も何遍も頂いたことでありますが、異義篇というのはあんまり通して頂いたことはないのであります。それは何故かというと、あんまり面白くないんです。私との関わり合いがよく分からなかった。過去にこういう異義があったという段階で理解しておりましたから、あまり面白くなかった。けれども途中からようやくその意味がわかってきて、それから何回か繰り返し頂いた。
 異義篇についての参考書というのは割りと少ないですね。やはり内容的にあまり人の心を引かないからであろうと思いますが、こういうことだとすると意味があるんですね。我々はどっちかに属する。どっちかにころぶ。ある時はこっちになる事もあるし、ある時はこっちになる事もある。しかしどっちか一方の場合もあります。大体、勉強しなきゃならんということと、念仏申さなきゃいかんということを大体力説する方がこうなりやすい。念仏を道具にしやすい。そして念仏申すということが私中心の行になっている。如来の本願というようなことは考えない。そのことに陥りやすい。繰り返して異義というものを復習したことなりました。
三、第十四章
・一念 
「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」ということ
 この「ということ」というのは異義なのである。間違いなのである。「一念」には二つ意味がある。信の一念といいます。行の一念という。信の一念は、念は心。そこで一心。憶念とか心念とかそういうふうに使う言葉です。信の一念とは一心ですね。いわゆる一心というのを信の一念というのである。一念の信というと他力の一心を言っている。それを信の一念という。行の一念という時には称念というですね。称念というのを称名念仏ということをいっている。そこで称念という。行の一念というのは一声の念仏、称名念仏を行の一念というのである。
 今は「一念に八十億劫の重罪を滅す」という。今は一声の念仏のことをいっている。それが第十四章である。一声の念仏で八十億劫、長い長い間に積み重ねてきた重い罪を滅ぼすと信ずべし。そこで一声一声、南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏と我々が自分の罪を滅ぼす、そういう気持ちで、そういうことを信じて念仏申していく。即ち念仏申して罪を滅ぼしていくという異義。それを「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」。これを分かりやすくいうと、念仏申して罪を滅ぼしていくという、そういうことを信ずる。これはどこに根拠があるかというとやはり根拠があるわけですね。それは二−二十八という所にある。『観無量寿経』下下品という所に出ている。「仏、阿難及び韋提希に告げたまはく」という所があります。その下に下品下生とあります。
「下品下生とは  或いは衆生有りて不善業を作り、五逆・十悪、諸の不善を具せん。此の如くの愚人、悪業を以ての故に應に悪道に堕し、多劫を経歴して受苦無窮なるべし。此の如きの愚人、命終の時に臨み、善知識の種種安慰して為に妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人苦に逼められて念仏するに遑あらず  善友告げて言はく、「汝若し念ずること能はずば應に無量寿仏を称すべし」と  是の如く至心に聲をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せん。仏名を称するが故に念念の中に於て八十億劫の生死の罪を除き 命終の時、金蓮華の猶し日輪の如くにして 其の人の前に住するを見ん。一念の頃の如くに即ち極楽世界に往生することを得  蓮華の中に於十二大劫を満ち蓮華方に開く」
 下品下生という、衆生有りて不善業を作る、五逆・十悪、一生造悪。悪い事ばかりして何も良い事をしない。一生悪を造って、その悪も悪質なですね。五逆・十悪という大罪を犯した。五逆は父を殺し母を殺すという。これは親の恩。父を殺す。殊更に思うて父を殺し、母を殺し、よき師を殺し、よき友を殺し、仏身より血を出すという。こういう五つですね。
 父と母。これを恩田という。いわゆるこの世に生まれてきて、そしてそこに今日まで成長してきた、その恩は父と母にある。その恩田に背き、それを殺し、福田に違すという。福は善。何が善か何が悪ということを教えてくれたその福田に違す。それを五逆という。五逆という非常に重い罪という。人間は潜在的にみんな五逆という罪を持っている。反逆というですね。反逆というのは何かというと、いわゆる背く、逆らうこと。何故背き逆らうとかというと、人間はだんだんと自我意識、私が私の意識というものを持つようになる。力が付き、説教をしていくと自分というものができてきて、そして自分を育ててきた者に背くようになる。独立するようになる。それを第一反抗期という。
 二才半から三才位になると子供は自分で歩ける。食べられる。自分で喋れる。色んな事ができるようになる。そこでなんと言うかというと、親に対してまず「いや!」という。「なぜ?」「なして?」という。「なしてそういうことをしなきゃならんのか」という。もう本当に憎たらしいことというたらない。我々のいう通りだったのが「これを食べなさい」「いや!」「便所に行ってきなさい」「いや!」、「風呂に入ろう」「いや!」という具合にね。これが第一反抗期ですね。彼が成長してきた、そういう力が付いたから、親の言う通りにならなる。私には私の考えがあると、こういうことになる。
 中学生・高校生になると体も一人前になり、考え方も親に言わなくなって、親と合わなくなっていよいよ反逆するようになる。「私には私の考えがある」、「私の引き出しを勝手に開けないでくれ」こういうふうになって「私には私の考えがある」というて誰かと結婚してですね、とてもじゃないがどうしようもない。そういうのを「殺す」という。殺すというのは眼で殺し、睨みつける。口で殺す。「死んでしまえ」という。心の中では「もう親なんかいらない」という。こういうのを殺すという。親に背き、師・友にも逆らう。それが五逆。
 親からいえば逆らいであるけれども、子供から言えば自我の発達に伴う独立である。そういうものが人間の持つ必然的なものである。どうしようもないようなものである。しかし、それは必ず無間地獄に堕ちていく、即ち一生救われない無間地獄への因というのである。そういうものは、底知れない一番深い所にある地獄に堕ちていく悪業なのでありまして、助からない。無間地獄というのは低い低い一番底にある。そこまで堕ちていくのに千年かかるという。真っ暗の中を一人でダーッと堕ちこんでいく。その途中何もない、真っ暗であって一人の友達もおらなければ相手もおらない。その中をまっ逆さまに堕ちこんでいく、その底の方にチラチラチラチラ赤い火が見えている。そこが無間地獄で、そこまで堕ちていくのに千年かかる。そして、堕ちたらもう出てこれない。それを無間地獄への、我々はそういう罪を背負っていると申します。
 「一念に八十億劫の重罪を滅して」そこに助かっていく。それは『観無量寿経』に出ている。「此の如きの愚人、悪業を以ての故に應に悪道に堕し、多劫を経歴して受苦無窮なるべし」。「此の如きの愚人」、今は愚人、前には悪人。「愚人」とは愚者悪人ということですね。「命終の時に」命終わるその時に「善知識」よき師よき友が、「種種安慰して為に妙法を説き、教えて念仏せしむる」。初めの念仏は仏を念ずる、観念、憶念。心に念仏せしむるに遇う。「此の人苦に逼められて念仏するに遑あらず」。もはや断末魔の苦しみの中で、そういう仏を憶うというようなことはできない。そこで「善友(即ち善知識)告げて言はく『汝若し念ずること能はずば應に無量寿仏を称すべし」。「称す」は称名念仏。無量寿仏は南無阿弥陀仏。訳して無量寿仏という。「南無阿弥陀仏」と称名念仏しなさいと、勧めました。こうして「至心に」、心を注いで「声をして絶えざらしめ。」南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏と声を絶えず、「十念を具足して」、十声の念仏。それを具えて、それを満足して、「南無阿弥陀仏と称せん、仏名を称するが故に念念の中に於いて。」一声一声の念仏で「八十億劫の生死の罪を除い」た。
 そこで十声では十八十億劫。即ち八十億劫の十倍。罪を除く。除滅。悪業罪業がとり除かれた。いわゆる浄土に生まれた。地獄行きの罪が、即ち五逆・十悪。その無間地獄への種となる罪を犯しておったのに、一声一声念仏してとうとう十声を申して、十八十億劫、八十億劫の十倍の重い、そういう罪が免れたと『観無量寿経』に書いてある。これに根拠をもって、そこで一声の念仏で八十億劫の重罪を滅す。そういうことを信じなさいと。「南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏」と申す念仏の一声一声が八十億劫の生死の罪が除かれるということを信ずる、それが念仏を信ずるということである。こういうふうに言いました根拠がここにある。
 さて、もう一辺前の所へいってみよう。即ち十四条(章)である。初めの所だけ言ってもう一辺やりましょう。 
「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」といふこと、この條は十悪・五逆の罪人 日ごろ念仏を申さずして、命終のときはじめて善知識の教にて一念まをせば八十億劫の罪を滅し、十念まをせば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重を知らせんがために一念・十念といへるが滅罪の利益なり、未だ我らが信ずるところに及ばず」
 ここの文章は一寸ややこしい。このはじめの「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと」、第十四章の一番初めにいってあるこの文章は「十悪・五逆の軽重を知らせんがために」、この文章の続きは、その間が一寸ごたごたしてますが、真ん中を一寸省略しまして「滅罪の利益なり。」つまり「一念に八十億劫の罪を滅すといふこと この條は十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき・・・・すといへり。」これは「一念に・・す」ということ、それでも良いし、この「條は」でも良いかな。「この條は、滅罪の利益なり。」まあだいたい本文はそういうことを言っている。
 その途中は何か。「十悪・五逆の軽重を知らせんがために一念・十念といへるが」それが中に入っている。本文は「これは、滅罪の利益なり。」又は「この條は、滅罪の利益なり。」それが本文。挿入してこれの中に「十悪・五逆の軽重を知らせんがために」、十悪は八十億劫。一念にですね。五逆は十八十億劫。「十念といへるか。」そういうふうな文章。「が」とありますが「か」であろうと藤秀翠という人が言っている。
 そこで「滅罪の利益なり、未だ我らが信ずるところに及ばず。」これが本文。それは間違っている、異義である。何が異義か。念仏を罪を滅ぼす道具と考えている。それは、如来を無視し、自己中心、自己のエゴに他ならない。南無阿弥陀仏の中にこもる如来のお慈悲というようなものはとんと憶わずに、それを道具にして、自分で罪を滅ぼそうということだけに利用しようとしている。それは「未だ我らが信ずるところに及ばず。」利益ばかりを問題にしている、それは間違っている。ごたごたしているけれども、そういう文章です。これは挿入してある。
 まず、今は初めから四行目の上までの文章の意味を申しました。異義は何か。「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」ということですね。この根拠は『観無量寿経』の下下品にある。そこにいわれているところは滅罪の利益と言われている。そこを根拠として、念仏で罪を滅ぼそうという、念仏にはそういう利益があるということを主張している。念仏申そうということを勧めている。「未だ我らが信ずるところに及ばず。」そういうことは信じない。我々はそういうことは間違っていると考える。如来、聖人、法然上人の教えに背いているのである、という。以上が大体文章の説明です。
・念仏
 そこで今日はまず、その十四章に入るに当たって、念仏ということをもう一度考えてみよう。念仏は先にもありました。「汝もし念仏すること能はずば」というのがあってですね。「念」は心に念ずる。これが本質、それが本当の意味です。本当の意味というのは、だいたい仏教では「念」というのは心にとっていうのが本当です。だいたい「念」はそういう意味であります。ですから『観無量寿経』の初めの方はいわゆる念仏という。しかるに称名念仏。それは「汝若し念ずること能はずば仏名を称すべし。」その時そこで称名念仏というものが生まれたわけで「汝若し念ずること能はずば」ですね。それが『観経』に出ている。善知識の勧めとして下下品に出ている。が、これが実は本当の如来の願いなんだ。これが『観経』の本旨。これを本当の旨と頂いた人、それを善導大師という。それは『観無量寿経』に載っているわけで、『観無量寿経』の一番最後、二−三十という所です。初めから三行目の下。  
「若し善男子・善女人、但仏名・二菩薩名を聞くすら無量劫生死の罪を除かん、何に況んや憶念せんをや 若し念仏する者は當に知るべし、此の人は是れ人中の分陀利華なり 観世音菩薩・大勢至菩薩、其の勝友と為りたまふ 當に道場に坐し諸仏の家に生ずべし」 仏、阿難に告げたまはく「汝好く是の語を持て、是の語を持てとは即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり」
 そこが最後ですね。『観経』の最後は「汝好く此の語を持て、是の語を持てとは即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。」それが善導が「念仏申せの本願である」ということを言いなさる根拠になったものです。
 まず初めに『観経』の帰結。それを流通分という。それを少し前の方から読むと「善男子・善女人、但仏名・二菩薩名を聞くすら無量劫生死の罪を除かん。」「仏名を聞く」又「憶念する。」何を憶念するか。仏を憶念する。仏の名、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏を憶念する。それを「憶念弥陀仏本願」という。「憶念するものをや、若し念仏する者は。」この念仏は何だろう。それがはっきりするのは、すぐ出ておりそうに思えますが、後に「汝好く是の語を持て、是の語を持てとは。」で、「念仏する者は当に知るべし、此の人は是れ人中の分陀利華なり。」仏名を聞き、憶念し、念仏をする。この念仏は後に「無量寿仏の名を持てとなり」とある。無量寿仏の名を持つ念仏。即ち称名念仏。その者はただ単なる称名念仏ではない。御名を聞いて、憶念して、称名念仏。こちらは聞名。「聞其名号  信心歓喜。」信心決定。称名念仏、念仏申す。それが『観経』の帰結で、そこに人の中の白蓮華、「観世音菩薩、其の勝友と為りたまふ。」観音・勢至来り迎う、来迎して友となる。「当に道場に坐し諸仏の家に生ずるべし。」仏となる、仏陀の覚りを開く。こういうふうに書いてある。その『観経』の帰結に立って念仏というのが出ているわけである。
 そこで第十八願という。如来の本願というのを第十八願といいます。それを『大経』では「至心信楽  欲生我国  乃至十念  若不生者  不取正覚」という。現在はこのような十八願文とかいうものを、いちいち書いて教えてくれる人がいなくなりました。十八願というだけで何のことか分からない。それで終わって、通り一辺の話になっているが、私はやはり十八願という所を丁寧に押さえて教えてくれる人がいなくてはいかんと思う。難しい事は全部省略してしもうた、それではいかん。難しい事でも教えなきゃいけない。私の先生は本当にその点は熱心に教えていただいたから基本が頂けたように思います。
 十八願というのはどこにあるかというと一−十六にある。
 設我得仏 十方衆生  設ひ我仏を得んに 十方の衆生                          
 至心信楽 欲生我国  至心に信楽して我が国に生まれんと欲し 
 乃至十念       乃至十念せん 
 若不生者 不取正覚  若し生まれずば 正覚を取らじ
 唯除五逆 誹謗正法  唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん
 「至心信楽  欲生我国」ですね。至心、如来のまごころ、信楽せよ、欲生我国、我が国に生まれんと欲(おも)え。これを分かりやすく言うと「信心決定念仏申せ」の本願。十八願は「信心決定念仏申せ」の本願。信心決定とは何か。至心、まごころ。信楽、信心。欲生、願生。それが信心。それは如来の心であった。如来の心を頂いて、下は十声の念仏まで、念仏申そう。そういうんですね。如来の心を頂いて念仏申そうという本願である。つづめて言えばそういうことになる。
 如来の本願、如来のまごころを頂くというのはどういうことかというと、我々が本当に自分が何であるかに目が覚めて、バケツが上を向いて、如来のお心を本当に頂いていく。それを言っている。
 善導大師は『往生礼讃』にその本願文を変えられた。「念仏申せの本願」と変えられた。「設我得仏」を「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と頂かれた。それを善導大師の本願加減文という。本願に加減して、加えたり引いたり。これを『教行信証』行巻に引用されている。そこで一辺見ておこう。何でもどこにあるかということを知っておくと、ただ単に聞くのと少し違う。十二−二十四という所にある。『観念法門』。今は十二−二十三の方から読んでみましょう。そこは善導の『往生礼讃』。
 「若し我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せんに下十声に至るまで、若し生まれずば、正覚を取らじ」と 
それが善導大師の本願加減の文で『大無量寿経』には「至心信楽 欲生我国 乃至十念」と書いてあったのに、その「至心信楽  欲生我国」を取った。それが減。そして、加えた。何を加えたか。「称我名号」を加えた。「下至十声」は「乃至十念」これと同じ。信心決定というところを削りなすった。そして「名号を称えよ」即ち「念仏申せ」というところを加えなすった。それを本願加減という。いわゆる弥陀の本願を勝手に加えたり足したり引いたりしてよいのかどうか分かりませんが、この人は随分思い切った事をする人や。大変な人ですね。しかし親鸞聖人がそれを『教行信証』に引かれているということは、親鸞聖人もこれを納得なされ、これを頂かれたわけである。何故そういう仕事をしなさったか。それは『観無量寿経』に拠っている。『観無量寿経』では仏名を聞き、憶念し、念仏するということがあって、これは前に書いてありますけれども、最後は「無量寿仏の御名を持て、念仏申せ」で締めくくられた。念仏申す中にそれが入っている。即ち念仏申せの本願というのは至心信楽が入っている。
 如来の御名を聞く。かねて申すように、風が吹く。大空に鯉のぼりが大きく泳いでいる。それは風が吹き通って、それで大空に大きな鯉のぼりが躍動しているわけである。風の力で泳いでいる。出てくるのは何か。それは風が入って風が出ていく。南無阿弥陀仏が本当にその人に届いて南無阿弥陀仏が出ていく。そこで南無阿弥陀仏が出ていくというところが念仏申す。念仏申す中に仏名を聞いて、それを本当に憶うて、そして、称える。そういう三段階になっている。それをひとつにした。ここで止めた。そうすると念仏申せの本願になる。南無阿弥陀仏を聞きなさいよ。聞いてくれよ。それが仏名を聞くです。そして、それを本当に考える。憶う。それを本当に頂く。そして、南無阿弥陀仏になる。
 この一連の内容はこちらを減じた。ここだけにした。そうすると念仏申せの本願になる。本当かというと、南無阿弥陀仏を聞き開いて、それを本当に領解して念仏申せというのが一番近い。それを分かりやすく念仏申せの本願にされた。それは『観無量寿経』にあるのですね。どうしてそうされたのか。念仏する、こういうところに遑あらず。遑あらずというたら悪いが、本当にいよいよ切羽詰まった最後の段階。いわゆる下下品の人間を対象とし、下下品の我らというものを問題とした時に、念仏申せの本願というのは一番簡明直截。簡単明瞭。しかも分かりやすい。それは『観無量寿経』の下下品に立ったから。従って、念仏申せの本願は自分が下下品でないと分からないですよ。ここを言っているのです。その意味が分からないといけない。第十八願が何故「念仏申せの本願」と言われるのか。大体信心念仏じゃないか。信心を省略するのはいかんじゃないか。何故か。だけれどもこの中に全部入るわけですね。どうして?そこが大事。
 我々は聞法求道して、本当に段々と深い高い世界に出たい。それは出発するといつも思う。まず初めに立て札が立っている。これをよく読んで、これを実行しなければ先へ進めない。それは何と書いてあるかというと「継続一貫」と書いてある。継続一貫、最後まで続けなさいということを書いてある。これは大変ですね。最後まで続けるというのが大変じゃ。大抵の人はここまで行って「うーん、どうかいなあ」といって帰っていく。「それならもう一辺やってみよう」と思うが、この継続一貫が中々続かない。通らない。だから浄土真宗、親鸞聖人の教えというのを本当に聞き開くという人は、相当に根性の悪い人ですよ。根性の優しい人はだいたい途中で続かない。殺されても生きてる、死なないという人でないと中々、とてもじゃないが継続一貫しないです。
 この関所を越えて進んでいくと、もうひとつそこに大きな立て札が立っている。それはいつも言うように「積極的聞法。」積極的に聞法しなきゃいけない。積極的とは「三千大千世界に満てらん火をも過ぎゆきてその御名を聞く」という。『大無量寿経』にはそれを二遍も繰り返して言われている。「火の海を越えてでも聞け」ということを言われているんですね。その積極的聞法というのは具体的にはどういうことか。金を惜しまず、時を惜しまず続けていくこと。これが大事。中々これが大変なんである。
 それを続けてそのまま進んでいくとどうなるのか。そこに最後の立て札がある。これを『大無量寿経』でいうと「唯除五逆誹謗正法。」これは十八願にだけある。「唯除く」、この人間だけは仏法に値しない。救われていく資格がない。この者だけは帰りなさい「お前だけはだめだ」と言われる。それが『大経』です。『観経』ではどうか。『観経』では少し表現が違う。『観経』の表現は三心といって「きみにまごころはあるか」「まごころでやってきたか」という。「まごころはあるか」これを三心の教えという。「『観経』ここにあり」といわれているところです。
 我々はやることだけはやってきた。ここまでやってきたが、この教えに遇うて、自分の拠り所を失って真っ逆様に落ちていく。そこに自己に目覚めるということがある。愚者悪人の私というものに目が覚めた。そこに、今まで私が到達しなければならないその世界から、私の所に至り届いて下さるものが、ただ念仏、ただ南無阿弥陀仏であった。それを「念仏申せの本願」というのである。念仏申せの本願は下品下生と目覚めて初めて聞くのである。その下品下生と目が覚めたところに信心がある。従って、念仏申せという中に信心決定、即ち下品下生と目が覚めて念仏申すということがある。従って、この信心のところは略されているのです。要らないのではない。自分がこれに遇うてひっくりかえったところですね。翻されたところに信心、機の深信があるのである。信心は言わなくてもよろしい。愚者悪人と目が覚めて念仏申すところに信心念仏がある。念仏の中に信心を入れた。で、南無阿弥陀仏と念仏申せの本願というのである。
 これは中々難しい。「念仏申せの本願」と聞けば、「ああそうですか、南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏と念仏申せばいいのですか」という。そういうことでどうしてそれが本願になろう。口先だけで「南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏」と申して、どうしてそれが十八願と言えよう。これは必ず『観経』に立っている。『観経』の下品下生の帰結に立って、下品下生と目覚めて「念仏申せの本願」である。その「念仏申せ」の中にそれが入っていますね。善導は念仏申せの本願という。そこに誠に万人に分かりやすい、信心決定して念仏申せと言われたが、信心決定ということが分からない。分かり難い。非常に分かり難いです。念仏申せ、自己に目覚めて念仏申せの本願です。そこに『観経』の愚者悪人の世界に生まれるのである。
 念仏ということが非常に大事なのである。念仏申せの本願のというのが浄土宗の本当に大事な柱である。それを親鸞聖人も行巻に引かれているわけである。
 そこで、親鸞聖人はここをどうおっしゃっているか。一寸後の方『唯信鈔文意』にある。二十−十二。終わりから四行目。
「しかれば選択本願には「若我成仏・十方衆生・称我名号・下至十声・若不生者・不取正覚」と申すは、弥陀の本願には「下至」といへるは、下は上に対してとこゑまでの衆生必ず往生すべしと知らせたまへるなり。念と声とは一つ意なり、念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしと知るべし」
 後の方を見ると「愚禿親鸞八十五歳之を書く」とあって、聖人のご晩年である。念と声。称我名号の「称。」乃至十念の「念。」そして「声。」念はいわゆる乃至十念ですね。「念」は乃至十念の念ですけれども、いわゆる信心を表す。「声」は念仏を表す。念をはなれたる声はない。信心を離れた念仏はない。念仏は必ず信心がこもっている。どこに、この信ですね。こういうふうに下品下生と目覚めた人の念仏には、必ず自己に目覚めたという信心が籠もっている。信心のない念仏はないのだ。それは下品下生の念仏をいっている。そこでそういうところが聖人のいわゆる「念」と「声」とはひとつである。念を離れた声なし。信心を離れた声。いわゆる称名念仏はない。称名念仏を離れた信心はないのだ。先のこういうところが違う、一番いい例です。
 風が通って吹き抜けていくんだ。そして出ていく所は念仏じゃ。その念仏は南無阿弥陀仏が至り届いて、南無阿弥陀仏と出ていく。至り届いたところを信心という。信心念仏なのである。その念仏を今いってあるのである。信を離れた念仏もない。念仏には必ず信心が通っている。それは南無阿弥陀仏が至り届いているからである。南無阿弥陀仏が至り届いて、念仏になり、目覚めになっている。大変面倒な話だけれども、これは何遍でも何遍でも頂いておくべき所であります。 
 浄土真宗の勉強を行信半学というのだそうであります。念仏が行、信心が信。念仏と信心というもののつながりが分かったら半分分かった。後もうごく僅か。これが殆ど全体。そういうように、信心と念仏の問題は大変難しい。で、今、そこの所をくり返しくり返しやっている。これからも何遍でも言わんと分からんし、何遍聞いても中々分かりにくい。
 本当の念仏は信心が入った念仏である。信心は必ず念仏と離れないんだ、という話をしました。次に罪を滅ぼすという、そういう問題があります。
四、罪を滅ぼす
・罪は滅ぼせるか
 罪は滅ぼせるか、無くなるか。「叩いてさすれば元のもの」というのがあって、一遍頭を叩いて後でさすってやると大体元通りだという。こういう勝手なことをあげて、一度相手の心を傷つけるようなことを言っておいて、その後でおべんちゃらを散々言えば大体元通りになるかといえば、そうはいかん。ある人は気が短くて、他人の悪口を言うたり腹を立てたりすることがあるから、自分でなんとか改めたいと思うて、そういうことをした時には床の間の柱に釘を一本ずつ打ち込むことにした。そうしたら、たちまちのうちに柱が釘だらけになった。それで、もう少しゆっくり考え、腹をたてないように、そして、他人を許すようにして、その時その時に一本ずつ釘を抜くことにした。そうしたら一生懸命になって、とうとう全部抜けた。ああ良かった、あれだけ釘があったのに一本もないようになったと喜んだけれども、何と後に沢山の穴が残って、その穴だけはどうすることもできなかった。無くならないんですよ。罪は無くならない。
 大体罪というのは何か。罪というのは、因、縁、業、果、報という。因は種。罪は悪因、悪縁、悪業。これが罪。罪業という。そうすると、何が種か。種があるわけで、色々あるわけですけれども、根本的にいえば、我らの無明煩悩。その無明煩悩に縁、縁は風が吹く、火が燃えつく。それが揺り動かされる。そういう縁があってそこで、罪業、悪業が起こってくる。これは縁がないと出て来ないです。
 私に色々言うて告げ口してくれる人がある。丁度その時、私は一杯やっておってカッカなっておった。ワッとすぐ頭にきて相手をやっつけた、ということになると、酒を飲まなきゃあの時ああいうことにならなかった、ということになるかもしれない。そして、それが果を生む。それは苦しみ。後で「しまった、あんなことをするんじゃなかった」と。他人からも悪く言われるし、自分も苦果を得る。これが私を苦しめる。罪を犯した苦しみが起こってくた。そして、その影響が後にずーっと尾を引くわけである。それが次に子供の方にまで、向こうの親が文句をいうてくるようになって、だんだんと深まってきたとなると、自分のやったことが波紋を描いていくわけです。
 なくせるか、なくせないですね。一度犯した罪はなくせない。なくならない。我々はこの罪をどうしようもないのか。そこで後悔することがある。後悔は後で悔やむ。昔は「なせしを憎む」と言うた。どうしてああいう事をしたのだろうか、ああしなければ良かったのに、あの時誰か止めてくれれば良かったのに、と後悔する。後悔しても追っつかない。因縁業果報、因縁業果報と進んでいくだけである。
・仏法は浄除業障  生諸仏前
 しかし、除滅ということがある。なくならないけれども浄除業障  生諸仏前という。仏法を浄除業障  生諸仏前という。業障を浄除し、諸仏の前に生まれるというのである。業障というのは何かというと、こういう因縁業果報  因縁業果報と私の犯した罪が波紋を広げて、深い深い苦しみと影響を持つようになる。その障りを業障という。それを浄化して無くす、それを仏法というのである。浄除業障。それを懺悔というのである。何を。「浄除業障  生諸仏前」を懺悔というのである。懺悔とは如来の前に私が生まれて、諸仏は如来ですね。如来の前に出て、如来の前に立って、懺悔するというところに、三世の業障一時に罪が消えるのでございます。それを南無阿弥陀仏というのである。仏法とは南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏を本当に聞き開いたならば浄除業障  生諸仏前となって懺悔するのである。
 懺悔ということについてはかねて申しました。まあ一応言います。諸仏の前、諸仏とは如来ですね。如来の前にお詫びする。「私の責任であります、私が全ての責めを背負ってゆきたい、再びなさじ」それを懺悔という。その時に罪は私を苦しめるものとならないで南無阿弥陀仏という念仏の種になる。それを浄除業障というのである。それを南無阿弥陀仏との出遇いといって、南無阿弥陀仏の働きというのであります。南無阿弥陀仏は光明無量。この光明無量に照らされて、そして、私の無明に目覚めていくのである。この無明が根本であった。そして、南無阿弥陀仏の寿命無量に摂め取られて、南無阿弥陀仏となるのである。それを摂取不捨という。そこに、罪というものが念仏になる。
 罪は滅ぼせるか、無くなるか? 罪は念仏になる。罪が往生浄土の縁となる。それを罪を滅すというのである。罪を滅するのは如来である。如来はそれを転じてくださるのである。それを転悪成善という。いわゆる往生浄土の縁としてくださるのである。そこに人は罪を背負って生きていくことができるのである。罪を浄土の縁として生きることができるようになる。
 今日は第十四章の一番初めに、本文に入る前に、その内容の意味と、従って念仏ということと、罪を滅すということを申したことになりました。第十四章の入口でした。

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