十二、善き事も悪しき事も業報にさしまかせて

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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 「善き事も悪しき事も」ここの所は『口伝鈔』を見ると、(二五−五)「されば『宿善厚き人は今生に善をこのみ悪をおそる、宿悪重き者は今生に悪をこのみ善にうとし、ただ善悪の二つをば過去の因にまかせ往生の大益をば如来の他力にまかせて、嘗て機の善き悪しきに目をかけて往生の得否を定むべからず。』となり」。ここがよく似ていますね。宿善、宿悪それが過去の因である。善悪ともに過去の宿善宿悪のあらわれである。それを業報という。宿悪のあらわれ。これが業報。この『口伝鈔』の表現がわかり易い。
 「往生の大益をば如来の他力にまかせて」南無阿弥陀仏と念仏申してゆく。善悪は私の上に現れてくる過去の業報。この現実を私の背負うべき現実と担いきって、念仏してゆく。「業報にさしまかせて偏に本願をたのむ」。さしまかせてというのは、さしは接頭語で意味はない。まかせて顧みず、はからわず、一任してと言うこと。これではいけない、何とかしなければ、ではなしに、これが背負うべき現実とめざめて念仏申してゆくことがさしまかせてゆくと言うこと。「さしまかせてゆく」の反対はさしまかせない。それは、はからう、自己主張、こんなはずではなかった。私には責任はない。その他自己弁解、又自己中心、責任転嫁、被害者意識。
 私は被害者だ、相手が加害者だといって、向こうの方に責任を押しつけてゆく、それが自分が背負わないで、いろいろのものに振り回されている姿であり、はからっている相である。韋提希がわが子阿闍世(あじゃせ)によって自分の夫頻婆裟羅(びんばしゃら)王を幽閉されついに自分も捕らえられるという事件に遇うて、自分の嘆きを訴えた。「私は何も悪い事をしていないのに、どうしてあんな悪い子が生まれたのでしょう。あの子もあんな悪い子ではなかったのに、提婆達多がいたばっかりにあんな子になってしまった。あの子が悪いのは提婆がいたからだ」。このように主張した。これが『観無量寿経』のはじめに出ている。「われ昔何の罪ありてかこの悪子を生ぜる。」といって釈尊に向かって泣いた。これが人間の本当の姿である。ただ如来本願によってだけ、人はすべての矛盾を背負ってゆけるのである。
 善悪共に私の背負うべきものといわれているが、実際は善の方は如来のお陰、私の力でなしに、賜わった宿善のお陰という。善は如来にお返しして、悪は私の不徳として背負ってゆく。それが本当の念仏者の姿であろう。

 「善悪の二つをば過去の因にまかせ」「かつて機の善き悪しきに目をかけて往生の得否を定むべからず」。自分はだんだんよくなってきた。だから往生間違いない。だんだんよい事が出来るようになった。だから進歩してきたろうという考えは間違い。信心は、常に自己否定で自己肯定にならない。信心の人は自己を肯定するようにはならない。自己肯定とは、私は信心を得た。これが一つの自己肯定。私はわかるようになった。それも自己肯定という。そういうふうにならない。それは常に如来の光りに照らされるからである。摂取心光常照護、摂取の心光、如来の光は常に私を照らし守って下さる。その光に照らされて、常に私は自己を見失わないで、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫」という場に立つ。「松影の黒きは月の光かな」、月が煌々として照っているということは、松においては自分の影が黒々と道路に横たわって見えるということである。それによって自己を見失わない、自己肯定にならない。いつも照らされて、自己自身が見えると言うことがある。自己自身が見えるということは如来の眼にうつる私の姿が「これが本当の私」とわかることであって、仏眼をわが身に得た働きにほかならない。私が自分自身を見失わないと言うことは、とても不可能なことである。如来が私に来たって、如来のまなこにうつる私の姿をこれが私と教えてくださる。それを信心の智慧という。人間が如来の智慧を賜った姿である。そうなると人は必ず自己否定される。自己肯定にならない。それではいつも消極的な、自分自身の悪い所ばかりが見え、闇ばかり見えて、明るさを持たない人になるのか。そういうことではない。「松影の黒きは月の光かな」と、自分の姿が黒々と見えるということは同時に煌々たる月の光を仰ぎみるという事と同じなのである。
 磁石があって、一方の針が北を向いているということは、同時に他方は南を向いているということである。松影の黒き姿、黒々と自分の姿が見えると言うことは、同時に必ず仰ぎ見る世界を持って月に照らされているということである。自分の姿が見えるところには懴悔がある。申し分けないことでありますと懴悔がある。けれども同時に仰ぎみる世界を持って、そこに深い感謝がある。有り難うございます。南無阿弥陀仏である。懴悔は自己否定、しかしそれは同時に感謝、それは明るさ。知恩報徳、如来の御恩を知って、その徳に報いなければならないという積極的な強い明朗さを持っているのである。これを道光明朗超絶せりという。
 ふかいもの、すぐれた物事は全てそういうものである。唯単にうれしいというだけの喜びはその場かぎりで浅くやがて空虚である。本当の喜びは同時に本当の悲しみを抱いている。本当の悲しみは、本当の喜びに裏づけられている。この両面があって始めて本当のものである。「大いなる悲しみは、大いなる喜びと共にある。大いなる喜びは大いなる悲しみと共にある」と先師は申された。本当に自己否定的なものは自己肯定的なものと表裏一体である。そこにこの人の幅の広さ、深さというものがある。信心は常に悲しみと喜び、感謝と懴梅である。
 本文に帰ってみると「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせてひとえに本願をたのみまいらす」。まいらすは敬語、本願に対する敬語である。本願をたのむとは弥陀をたのむこと。蓮如上人がよく使われた言葉です。親鸞聖人のところにもある。『歎異抄』にも出ている。たのむは本願を信ずることを言う。「たのむ」とは帰命、帰依これを憑依(ひょうえ)という。依りたのむ。その善をたのむと言う。
 十八願の表現を『無量寿如来会』でみる。はじめ魏訳をみておく。(一二−五六)「至心信楽の本願の文『大経』にいわく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生 心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて 乃至十念せん 若し生まれずば 正覚を取らじ 唯五逆と正法を誹謗するとをば除く、と」 『無量寿如来会』の方が面白いですね、「所有の善根心心に回向せしめわが国に生まれんと願て乃至十念せん。もし生まれずは菩提をとらじ」所有の善根は如来が持っている善根、いわゆる無貪無瞋無痴、その如来の心を一人一人の心に回向しよう、与えよう、という本願になっている。その成就文はその終わりにある。読んでみましょう。「『無量寿如来会』に云はく、他方の仏国の所有の衆生 無量寿如来の名号を聞いて、能く一念の浄信を発して歓喜し 所有の善根廻向したまへるを愛楽して無量寿国に生ぜんと願ぜば 願に随て皆生まれ 不退転乃至無上正等菩提を得ん」。
 『如来会』の文章を頂くと「所有の善根心心に回向」これが本願文であって、成就文の方は「所有の善根回向したまえるを愛楽して」。如来の持つ善根それを与えよう、与えたい。それが如来会で我々の持っている魏訳の経典の十八願と違ったところである。この善根が届いて「たのむ」となる。それを「たのむ」という。それを信ずるという。たのむと言うと我々は何か依頼する。お願いする。どうぞ助けて下さい。私の願を聞いて下さい。と依頼することと考える。そうではない。たのむとは帰命とか憑依とか帰依とかを言う。これを「信ずるという」。本当の意味での信心ですね。その本は「如来所有の善根心心に回向せん」という。それが届いた所に生まれるものを言っている。如来の善根が私に届くとはどういうことか。それを南無阿弥陀仏というのである。それは聞き開くことを言っている。届くとは聞き開くこと。聞いて聞いて聞きぬいて本当に私にわかること。それを本願をひとえにたのむというのである。今は如来の善根、所有の善根、心心に回向という所にたのむが生まれるのだと言いたい。

 「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候え」「偏に本願をたのみまいらす」これがよくわかるのは二河白道の譬喩である。合法の文というのがある。(一二−六五)、「仰いで釈迦発遣して指へて西方に向かわしめたまふことを蒙り、又弥陀の悲心招喚したまふに()りて、今二尊之意に信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るること無く、彼の願力之道に乗じて、捨命已後彼の国に生ずるを得て、仏と相見て慶喜すること何ぞ(きわま)らんというに喩ふるなり」火の河は瞋恚、水の河は貪欲。そのまっただなかに道が与えられた。その上を進んで行くところを二河白道の譬と言う。それを進んで行く、それを「所有の善根回向したまう」という。ひとえに本願をたのむという。一つは水火二河を顧みず。これが大事である。心の中に何が起ころうとそれを顧みず、顧みずとは見て見ないふりをするのか、そうではない。はからわないことを言っている。貪欲瞋恚が私の現実、これが私の本当の姿、そのままが南無阿弥陀仏となる。それを顧みずと言います。
 「水火二河を顧みず、念念に遣るることなく彼の願力の道に乗ず」。「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり」南無阿弥陀仏と念仏申す。これを「願力の道に乗託す」と言う。それをひとえに本願を「たのむ」と言うのである。それを所有の善根回向したまえるものを私がいただくという。この道に立って水火二河を顧みず。「これが私の本当の姿」というのが『歎異抄』の十三章なのです。
 「わが心のよくて殺さぬにはあらず」「さるべき業縁の催せばいかなる振舞もすべし」これが本当の私、南無阿弥陀仏。自己に徹した所。「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり南無阿弥陀仏」それをひとえに本願をたのんで自己をはからわない、自己を飾らない。自己に振りまわされない、「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて」貪欲も瞋恚も全部悪い、お粗末なことである。それをはからわない、「水火二河を顧みず」である。これを「業報にさしまかせて」という。偏に他力をたのむとは、「水火二河を顧みず」「願力の道に乗ず」これに収まっている。それが他力をたのむ、本願をたのむ姿である。これは何べんも言っているが、何べん聞いても大事な所で、何べん聞いても感銘を覚える所である。このように南無阿弥陀仏と言えるようになって頂きたいと願われている。

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