十、聖人の信心

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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(1)聖人の姿勢
 聖人の姿勢はどうか、これがわれわれのとるべき姿。それはどういうのかというと、それと違うのである。「わが大師聖人の御意は」即ち「彼」そのような後世者ぶりをする者と「うしろ合わせ」全く反対である。「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」定なりはその通りであるということ。賀古は賀古川、今の兵庫県、そこに教信沙弥、その下に小さな字でこの沙弥の様は禅林の永観の十因、『往生十因』という書物にのっていると書いてある。教信は天皇の皇子であったと言われていますが、奈良の興福寺の学僧で侍僧を持っていて、恵まれた環境にあったが、遁世して、ひそかに姿をかくして西の方、西方浄土に近い方向にのがれてゆく、そしてたった一人、賀古川のほとりに来た。ここは西はずっとひらけていて、雄大な太陽の落日が沈んでゆく、そこに居をかまえて、妻を娶って掘立て小屋を建てて、旅人の荷物を運んだり、畑の仕事を手伝ったりして南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏ばかり申して念仏丸と言われていた。子供も出来た。けれども、仏壇もまつらず、髪も切らず、爪をはやして、こじき同様の姿で蓄えもなかった。そしてとうとう亡くなるのであるが、それを埋めようとしても人に頼む事も出来ないで野犬が食べるにまかせていたという。古い友達の夢枕にこの人が出てきて、自分が死んだことを告げたからその友が弟子をつかわして調べた所、そのようになっていた。皆で集まって其のまわりで南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を申す人が沢山群れを成していたという。そういう事が書いてある。
 御持言というのはいつも言っておられた言葉、常の仰せというのである。聖人の常の仰せは二つある。もう一つは『歎異抄』の後序である。「聖人の常の仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」。今ここには御持言とある。「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」。まことに私が、死んだならば犬に食われて死体は放置されている、この賀古の教信沙弥と同じで、自分の死骸は加茂川に流して魚のえさにせよとおっしゃった。それが聖人の常の仰せである。愚禿という。外を飾らず、僧に非ず、俗にあらず、これを非僧非俗と言う。出家はしておるけれども戒を持たず無戒である。戒というのは戒を持ちますという誓いを仏前に於て指導者、律師と言いますがその人に誓う。そこに持戒というものがある。しかし戒はやめますと申し出ると破戒にはならない。それは無戒と言う。無戒、即ち肉食妻帯。聖人は教信と同じく肉食妻帯された。この妻帯は非常に大きな親鸞の痛みというか、内面的な心の棘であったに違いない。それを非僧、僧に非ずという。ならば俗かというと俗に非ず、仏法を頂載し如来大悲の中にある。如来本願に生かされている。俗と言えば職業に打ち込み、この世の事に一生懸命になっている世間道の者を俗という。俗に非ず、まことに仏法を頂載してそれを喜んで、私の命としているものである。これを非僧非俗という。
 そこに深い聖人の痛みがあり自己自身の分際を知る姿があった。「たとえ牛盗人といわるとも」。牛盗人は離越尊者の話である。彼はすぐれた行者であったけれども、川で洗濯をしていた時に川の水が真っ赤になつて、洗濯物は牛の骨の様になった、そして牛盗人として囚えられた。全然そのような事実がないのに、この様な状況が起こってとうとう牢の中に入れられた、けれども一言も弁解しなかった。弟子達は何年もかかって尊者を捜しておったがとうとう牢の中に入っている事がわかった。そこで訴え出て赦免(しゃめん)になるのであるが、弟子達に向かって尊者は言った。前の生に私は牛を殺した事がある。そういう業がいま出てきたのであるから自分はそれを受けとるしかなかったと。たとえ何と言われようとも後世者、仏法者と言われるような外の形をとってはならない。それが聖人の心であって、「たとえ牛盗人といわるとも若しは善人若しは後世者若しは仏法者と見ゆる様に振る舞うべからず」と仰せがあったというのがさっきの文である。

(2)信心とはどんなものか
 これらを考えると聖人は全く自己顕示の心を持たれなかった。仏法者らしく振る舞って外側を飾るという事がなかった。ここに聖人の姿勢が表されている。信心とはどんなものか、『教行信証』の信の巻をみる。そこに聖人は、曇鸞、善導、源信の三人の教をあげて信の内容を示している。はじめは曇鸞である。「一には信心淳からず、存せるが若く亡せるが若きが故に、二には信心一ならず、決定無きが故に、三には信心相続せず、余念(へだ)つるが故に」(一二−五八)。信心淳からずと否定の形で出しているが肯定の形でいうと、信心とは淳心を言っている。信心とは純粋な心である。淳と言うのは、ジュンと発音する。又その意味は厚朴なり、淳心とは純粋な心、あつい心、朴、飾らない心と言われている。信心は人間の上に成り立つ、まじりけのない心、煩悩のはいらない心を言っている。それは人間心ではない。如来の純粋な心がとどいてはじめて成り立つ。それは厚く、深い心である。そして大事なのは朴、飾らない心である。信心は何も飾らず剛毅(ごうき)朴訥(ぼくとつ)のこころである。
 如来の前に立って何も飾らない。素裸な自己自身をひっさげていつも如来の前に立っている。そういう心を信心と言う。朴なのである。これは非常に大事な事です。飾るとは、これではいけない、もう少し立派にならなければと言う人間の心で、これを理想主義と言う。大事ではあるがそういうのは信心ではない。まだ信心の手前側におり、人間の理性的な考え方に立っている。悪い事をやめなければ、悪い所がなくならなければ、もう少し善くならなければと我々は飾る心をもつ。これが私でございますと自分を投げ出せない。如来の前に投げ出せないでもう少し立派になって、もう少しここの所を改めて、もう少し善い行いが出来るようになってと思う、それは朴でない。それを飾ると言う。(ほお)と言うのはそもそも木の名前である。それは削っただけで塗る物を塗らず、磨きもせず、そのまま使う木である。下駄に使う。私の家にも朴がある、何という特長はないが大きくなる木である。その木が塗ったり、磨いたりしないでそのまま使う木なので、飾らないと言うことを朴という。
 信心とは飾らないでそして一なのである。「このこと一つ」というものを持っている。それを信心と言う。それを決定心と言う。この信心は勿論如来より賜りたる信心である。このこと一つと言うものを心に持っている。そして相続心。一生継続である。やめない、それが信心であると言ったのは曇鸞である。親鸞聖人は信の巻を書く時にそれを一番先にあげた。信心とはどんなものかそれは飾らないのだ、私はこれに非常に打たれた。朴と言うのに打たれた。こういうていたらくの愚か者とこれを飾らず、ごまかさず、南無阿弥陀仏と如来の前にただ念仏なのである。念仏は懴悔である。懴悔とは如来におわびすることである。申し訳ない私とおわびする。
 そしてこのこと一つと言うものを与えられて、一生継続して変わることがない。まことに信心はこういうものである。
 その次に聖人があげたのが善導である。善導は信心について二つ言っている。一つは二種深信である。二種深信とは(一二−五九)に出ている、「深信というは、即ち是れ深信之心なり、亦二種有り、一には決定して深く「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来、常に没し常に流転して、出離之縁有ること無し」と信ず、二には、決定して深く「彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまふ、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生することを得と信ず」。一つには自己自身を信知す、自己自身が明らかになる。何かを信ずるのではない。自分自身が何者であるかを本当に知ること、それが信心。もう一つは仰ぎ見る世界、大いなる世界、かの阿弥陀仏の四十八願を仰ぐ。そのように仰ぎ見る世界を持っている。それを信心と言う。もう一つあります。それは二河白道。信心と言うのは願心なんだということを言っている。これに就いては省略します。三番目にもう一人あげてある。それは(一二−六六)に『往生要集』をあげてある。作者は源信和尚である。
 『往生要集』に言わく「入法界品」に言わく「(たと)へば人ありて不可壊(ふかえ)の薬を得れば、一切の怨敵其の便を得ざる如し、菩薩摩訶薩も亦是の如し、菩提心の不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩、諸魔、怨敵の壊する能はざる所なり、譬えば人有りて住水宝珠を得て其の身に瓔珞(ようらく)とすれば、深き水中に入りて没溺(もつにゃく)せざるが如し、菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。譬へば金剛は百千劫に於て水中に処して、爛壊(らんえ)せず、亦異変無きが如し。菩提之心も亦復是の如し、無量劫に於て生死の中に処するに 諸の煩悩の業断滅する事能はず、亦損減無し」と。
 源信は言った。信心は大菩提心である。大菩提心とは如来より賜わる求道心である。菩提心とは道心である。それは水の中に入れても腐らない、不壊である。菩提心は不可壊の法薬で何ものにも壊れる事のない道心なのだ。そういう三つを聖人はあげている。
 今必要なのは朴である。これを言いたかった。
 信心と言うのは飾らないんだ。飾らないのは何故かというと、深く自己自身が明らかになるからである。自分自身というものを本当に知るからである。そしてそれは一生続く、壊れない目覚めである。それを他力の信心というのである。聖人は遂に愚禿に徹して、一生飾ることがなかった。真信心の定義というか信心の内容というものを理解しておくことは非常に大事なことである。

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