十五、信心決定の過程−二河譬−

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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 信心決定に至る過程をみごとに譬えたのが、善導大師(六一三〜六八一)の「二河譬(にがひ)」(一二−六二以下)である。すなわち、あるひとが西に向かって百千里を行くと、忽然として眼前に二河が現れる。火の河が南に、水の河が北にあり、それぞれ広さ百歩で底なしで南北に無限に続く。それらの中間に広さ四、五寸の白道が東西に延び、その長さは百歩で、火と水が絶えず行く手を阻んでいる。寂蓼とした曠野に頼るべきひとはなく、群賊と悪獣がこのひとを殺そうとする。このひとは恐怖にかられ西へ走るが、二河に直面し、引き返しても、とどまっても、前進しても死を免れない三定死の絶望の極みに陥る。それにもかかわらず、西へ進む決意をするや否や、たちまち東の岸に「仁者(きみ)(ただ)決定(けつじょう)して此の道を尋ねて行け、必ず死の難無けん。()(とどま)らば即ち死せん」と、勧める声を聞き、西の岸から喚ぶ「汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、(すべ)て水火之難に堕することを畏れざれ」という声を聞く。一方、東岸の群賊たちは、その道は危険で、そのまま進むと死ぬにちがいないから、自分たちのところへ戻れと誘う。だが、このひとは、あえて西へ進み、ついに安楽の世界に至り、善友と楽しく語りあえたという。この場合、東岸は人生、二河は貪欲瞋恚の煩悩、白道は往生浄土の道、東西両岸の声は釈尊の教法と弥陀の本願をそれぞれいう。
 A図は、「二河譬」を図式化したものである。ここには、次のようなプロセスがある。

(1)自問自答(行き詰まり)
 行くも帰るもとどまるも死という窮地に陥り、自問自答する。窮地だが、二河の間に小さな白道が見える。かねてより教えられていたこの道を歩もうという自己決断がなされる。

(2)自己決断(自分で決心)
 他力とは、自分は何もしないでいいということではない。最初は、自分が決断し実行しなければ、宗教にならない。現代の浄土真宗が力をもつためには、はじめの段階で自力の強調が必要。だからこそ、親鸞聖人は信巻に「二河譬」の全文を引かれたのである。自己決断したとき、誰もいないと思っていた曠野にわたしを励ます声が聞こえてくる。
☆ここまでは自力。他力は、自力の果てに開かれる。

(3)東岸発遣(よきひとの勧め・励まし)(釈迦)
 東岸からの勧め・励ましが聞こえる。「きみただ決定してこの道を尋ねてゆけ」

(4)西岸召喚(弥陀)
 如来は、西岸から「汝一心正念にして(ただち)に来れ」とよびかけてくださる。このよびかけをわが身にいただくことを他力という。他力は自力からはじまる。本願ぼこりが、他力の出発点。
 ところで、往生浄土とは何か。一般には死ぬことのようにいわれているが、そうではない。「二河譬」がそのことをよく表している。「A図」を九〇度回転させると、「B図」になる。二河に挟まれた白道は清浄真実の道であり、そこに立つことを往生浄土という。したがって、それは現世のことである。往生浄土は、私が、わたしの心根を問題にして尋ねてゆくことである。自己を問うことなしに右往左往(幸福追求)することではない。往生浄土とは、よきひとの発遣をとおして如来のよびかけ(南無阿弥陀仏)を聞いて、一歩一歩わが心を掘り下げ、それを知らされていく道行きである。本願にお遇いし本願のよびかけによって歩む道が往生浄土であり、それが信心である。したがって、信心は何かを信じることではないし、往生浄土も死ぬことではない。


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