十四、信心のはじめ

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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 信心のはじめが何であるかを教えてくださるのは、蓮如上人(一四一五〜一四九九)の『御文章』二帖目第十一通である。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号、この五重の義成就せずば往生は叶ふべからずと見えたり。されば、善知識といふは「阿弥陀仏に帰命せよ」と言へる使いなり、宿善開発(かいほつ)して善知識にあはずば往生は叶ふべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀を棄てて善知識ばかりを本とすべきこと、大きなる(あやまり)なりと心得べきものなり(二九−二五)

(1)宿善開発して善知識にあう(五重の義)

 宿善は長い過去の善根と、風土(気風土徳)を意味する。善財童子の話(『華厳経』入法界品)は、宿善の重要性を教えてくれる。そもそも道魂は、童魂に通じ、ひたむきさや純粋性をもつ。善財童子は、釈尊が悟りを開かれた覚城(ガーヤ)の生まれである。そこは、多くの菩薩が来訪し修行した場所である。土地のひとびとは、菩薩の教えを守り生活していた。そのような風土に善財童子は生まれたのであった。現代の日本にも、安芸、越後、八女など気風土徳の厚い場所が少なくない。わたしも、昭和十三年に広島へ来て十数年住んだが、そこでほんとうにたくさんの求道のひとにお遇いできたと感銘することである。
 ところで、宿善が与えられると、次のような徳が具わる。
1.
考える力をもつ わたしはこれでよいのか、と考える力を人並み以上にもつ。仏教には、不殺生が戒としてある。これは、キリスト教やイスラム教との相違点である。不殺生という戒めは、これでよいのかと深く考える力がなければ出てこない。
2.
疑う力をもつ 疑う力がなくなると、安易に何かを信じ、それに引きづりこまれやすい。
3.
かくあれかしと願う一念をもつ
4.
出遇いがある 一つのことばと出遇う。よき師、よき友とであう。

 本願に関心をもたせ、求めるべきものがあるのではないかと教えてくれるのが善知識である。親鸞聖人は、『涅槃経』を化土巻に引き、善知識を次のように定義している。
 第一真実の善知識は、所謂(いわゆる)菩薩と諸仏世尊なり
何を以ての故に、常に三種を以て善く調御するが故なり 何等をか三と為す 一には畢竟(ひっきょう)軟語、二には畢竟呵責(かしゃく)、三には軟語呵責なり。是の義を以ての故に、菩薩と諸仏は即ち是れ真実の善知識なり(一二−一八五)
 畢竟軟語最後までやさしくわかりやすく話してくれること。
 畢竟呵責やさしさはひとを育てるが、それだけでは善知識とはいわない。善知識はさらに厳しさをもつ。木材を育てるためには暖かさが必要だが、それだけでは年輪ができない。寒さが加わってこそ、丈夫な木材ができる。
 軟語呵責やさしいことばできびしく叱る。

 善知識により本願を知り、その教えを聞くことができる。それが信心のはじめ。わたしの知らない高い世界からわたしにかけられている深い願いを本願という。深い願いは、本来の願いである。たとえば、親が子を思う気持ちは、作ってできたものではない。自然に備わっている。如なるものの本来の願いを如来本願という。また、本願は根本の願いである。わたしに、小さな世界を出て大きな世界へ出でよ、仏となれよ、と願われている。本願がこのようなものであることを教えられてはじめて本願をほこることができる。つまり、教えられてはじめて、本願に関心をもち、やがてわが意を得るようになる。善知識にお遇いし、教えを聞くことにより、本願をほこれるようになる。本願ぼこりを信心といえるかというと、いえないことはない。就人立信(じゅにんりっしん)(一二−六一)という。だが、これは十九願、二十願の自力の段階である。五重の義でいえば、「宿善開発して善知識にあふ」段階がそれである。

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