五、救済の因は信心にある

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

 「そのかみ邪見におちたる人あって「悪をつくりたる者を助けんという願にてましませば」とてわざと好みて悪を造りて「往生の業とすべき」よしを言いて、ようように悪様(あしざま)なることの聞こえ候いしとき
 邪見は道理に背いた間違った考え、どこが道理に背いているかというと、悪を造りたる者を助けんという本願。ここが間違っている。この人は救済の因は悪業と考えている。それが邪見である。そうではない。救済の因は信心。
 本願を信じ、念仏申すという所に人が助けられる根本の因、本因があるのに、この人は悪を造った、悪業が往生の因であると間違えている。だから好んで悪を造って、往生の業因を造ろうというような邪見になってしまう。どこが違っているかというとその根本の考え方が違っている。道理に背いた考えである。往生の因が悪業にあるという所が違っている。本願の名号南無阿弥陀仏が因、南無阿弥陀仏が根本。その本願名号を信じ、念仏する所に救われていく因が与えられる。それを悪業が因であるというのは全く自分勝手な邪見である。本願を利用して、いよいよ悪い事をやって、自分の煩悩の満足を得ようとする、それを邪見の人と言う。
 その邪見を正す為に、お手紙をくださって、「薬あればとて毒をこのむべからず」とこそ遊ばされて候う。聖人がそういうお手紙を出されましたのは、邪見をやめさせようが為である。「薬あればとて毒をこのむべからず」このお手紙によく似たのが(二一−一八)にある。
 『末燈抄』である。「もとは無明の酒に酔ひて貪欲、瞋恚、愚痴、の三毒をのみ(この)み召しあうて候ひつるに、仏の誓を聞きはじめしより無明の酔いもやうやう少しづつさめ、三毒をも少しつつ好まずして、阿弥陀仏の薬を常にこのみ召す身となりて在しましあうて候ふぞかし、しかるになほ酔もさめやらぬに重ねて酔を勧め、毒も消えやらぬになほ毒を勧められ候ふらんこそあさましく候へ、煩悩具足の身なればとて心にまかせて身にも為まじきことをも許し、口にも言ふまじきことをも許し、意にも思ふまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しあうて候ふらんこそ返す返す不便に覚え候へ、酔もさめぬさきになほ酒を勧め毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし、「薬あり毒を好め」と候ふらんことはあるべくも候はずとこそおぼえ候、仏の御名をもきき念仏を申して久しくなりて在しまさん人々は後世の悪しきことを厭ふしるしこの身の悪しきことをば厭い捨てんと思召すしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ」。
 ここの所がよく似ている。「薬あればとて毒を好むべからず」とおっしゃった。それはこういう邪見を打ち破る為である。しかるにこの事が十三章の異義の根本になっている。十三章のはじめをみると、「弥陀の本願不思議に在しませばとて悪をおそれざるは往生かなうべからず」これが異義の基礎になっている。「薬あればとて、(薬が弥陀の本願)毒を好むべからず」「悪をおそれざるは…往生かなうべからず」悪をおそるべし、悪を好んでいけない。これが異義の根本になっている。それは聖人の仰せを盾にしている。しかし聖人の仰せは悪業というものを救済の因として考えている自己解釈の邪見の間違いを、諌めようとしていわれたものである。これをとりちがえて聖人のお言葉の本質を誤っている。
 十三章のこの続きは「またく悪は往生の障たるべしとにはあらず持戒持律にてのみ本願を信ずべくば我等いかでか生死を離るべきや、かかる浅ましき身も」悪というものをさけ難い我々であろうとも、「本願に値いたてまつりてこそげに誇られ候え。」とある。
 「悪は往生の障りたるべし」とには非ず。ここが一つ押えておかなければならない所である。善で助かるのではない。悪で助からないのではない。善も悪も往生の障りとならないのである。このように言われているのは意図があって、毒を好むべからず、そういう事ではいけないというのではない。毒も障りにならないという一面がある。その事を言おうとしている。その所をはっきり知るのには、もう一つ適切な教えがある。唯信鈔文意(二〇−四)である。これは唯心抄の中に出てくる漢文、解釈し難い漢文について、その意を聖人が書かれたものである。その漢文の方を読んでみよう。
彼仏因中立弘誓、聞名念我総迎来、不簡貧窮将富貴、不簡下智與高才、不簡多聞持浄戒、不簡破戒罪根深、但使廻心多念仏、能令瓦礫変成金、
 次の六頁の「十悪五逆の悪人、謗法、闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、彼様のあさましきさまざまの罪ふかき人を「深」といふ、ふかしという語なり。すべてよき人、あしき人、たふとき人、いやしき人を無碍光仏の御誓にはえらばず、これをみちびきたまふをさきとしむねとするなり、「真実信心をうれば実報土に生る」とをしへたまへるを浄土真宗の正意とすと知るべし「総迎来」といふはすべてみな真実信楽あるものを浄土へむかへゐてかへらしむとなり「但使廻心多念仏」というは「但使廻心」はひとへに廻心せしめよという意なり「廻心」といふは自力の心をひるがへしすつるをいふなり」。
 不簡(ふけん)(えらばず)が四つ続いている。不簡貧窮と富貴、貧乏でまったく身も窮まり、徳も窮まる。その反対に、富んで身分も高い、昔はそういう人がいた。それを(えら)ばない。不簡下智と高才、智慧のないおろかな人と高い才能を持ってすぐれた人、それを隔てをしない。不簡多聞と持浄戒、如来は、長く聞きぬいたのと持戒を持っている者とをえらびたまわず。不簡破戒罪根深、戒を破って無慚無愧の存在と十悪五逆誹謗正法、罪根深とをえらびたまわず。即ち往生浄土の如来の救済の障りになるものは何一つない。ただ廻心、念仏、廻心は信心のはじめ、「但使廻心多念仏」そこに「能令瓦礫変成金」瓦や石ころのようなまったく価値のないものが、こがねとかえなされて救われていく。「聞名念我総迎来」弥陀の名号を聞きひらいて、念仏申す者を全て迎えとる。それが如来の心なのである。そういうことを唯信文意にひかれている。慈愍三蔵という人の文章である。ここが大事な所ですね。
 われらは決してそうは思わない。われらは善い事をやった者が救われてゆき、悪い者が助からないというのがあたり前であると考える。しかし如来は違う。如来は簡びたまわず。だから「薬あればとて毒を好むべからず」というのは毒を好んではならない、そういう者は助からないということではない。
 悪はひとえに往生の障げであるとはあらず、そういうところが出ているのである。
 廻心とは何か。廻心とは自力の心をひるがえしすてる。そこが大事な所である。それがたった一つの中心点で、そこに信心が生まれる。信心の一番はじめを廻心という。廻心が人間の上に成立すること、如来の本願にふれて、自力の心をひるがえされていくということによって、信心ははじめて成り立つ。信心のところに往生がある。そこがしっかりわかる事が大事であろう。「かかるあさましき身も本願に値(あ)いたてまつりてこそげに」救われてゆく。
 「すべてよき人、あしき人、たふとき人、いやしき人をえらばず」四つに分けてあるが、よき人は高才、多聞、持戒を保つ人。あしき人は、破戒と罪根深、そういう人を簡びたまわず。たふとき人とは富貴、いやしき人は貧窮と下智。よき人も、あしき人も、たふとき人も、いやしき人も、簡びたまわず。ただこれらを導きたもう、すなわちどんな人もその人の善し悪しとか、人格とかが問題になるのではない。廻心が問題なのである。それを始めに「聞名念我総迎来」といって名号を聞き貫いて念仏申す人になるということが中心になっていると言われている。廻心とは自力の心をひるがえしすてる。これが要求されている。その自力の心は、(二〇−六)に出ている。
 「自力の心をすつといふは、ようようさまざまの大小の聖人善悪の凡夫の、みづからが身をよしと思ふ心をすて、身をたのまず、あしき心をさがしくかへりみず、また人をよしあしと思ふ心をすてて、一向に具縛の凡夫屠沽の下類、無礙光仏の不可思議の誓願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり」。(『唯信鈔文意』)
 自力の心をすて、はなれる、あるいはひるがえす。「ようようさまざまの大小の聖人」大乗の聖人、小乗の聖人。大乗の聖人と言えば十地の菩薩をいう、小乗の聖人と言えば須陀
 その殻が破れるということは、中にあるものが成長しなければいけない。人間の心の中に何があるか、それを仏性という。一切衆生悉有仏性というのがそれであって、それが成長するということが大事である。仏性が信心となるたねである。
 「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ」という。椰子のかたい殻の中に胚芽があって、海の上をプカプカ浮んで、風に流され、潮に押し戻されている間は発芽しない。殻は破れない。殻を破ったら死ぬ。しかしこの椰子の実が大地を与えられて、光を吸収し、水を吸収して胚芽が成長してゆくと発芽してはじめて殻が破られる。
 その為には、大地を依り所に持って、光と水を吸収しない限り、殻が破られるということはあり得ない。光が教えであり、水がよき師よき友である。よき師よき友を得て、よき教えを吸収して行く。それが殻を破られる道である。殻の破れた所を廻心という。廻心とは、自らが身をよしと思う心が破れて、われは悪し、罪人われと目がさめる。身をたのまず、たのむべきは如来とわかる。悪しき心をさがしくかえりみて、「これではいけない、これを改めて」とはからうことをやめて、「これが本当の私」とわかって念仏する。
 そして人の善し悪くを思わなくなる。教えを聞かない人は正しい道理がわからないのが当然だとわかるようになる。これを廻心という。これは大変な事である。この廻心が求められている。
 「悪は往生のさわりたるべし」とにはあらず。
 悪を改める事が必要ではなくて、殻が破れることが求められている。あなたが大きな世界に出ることが求められている。それを仏法という。そこに親鸞の宗教というか、本願の宗教というか、この宗教の中心点がある。
 えらばず、えらばず、えらばず。よき人をえらびたまわず、悪しき人をえらびたまわず、とうとき人をえらびたまわず、いやしき人をえらびたまわず、如来はただ廻心、但使廻心総迎来(ただ廻心すればすべて迎え来らしめたもう)が大事である。


ページ頭へ |六、廻心とは何かに進む目次に戻る