十三、本願を誇る心

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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本願に誇る心のあらんにつけてこそ他力をたのむ信心も決定(けつじょう)しぬべきことにて候へ

(1)ほこる(従来説の訂正)
 十三章冒頭の「『弥陀の本願不思議に在しませばとて悪をおそれざる』は『また本願ぼこりとて往生かなうべからざる』ということ」が異義である。これまでは、二種の古語辞典(岩波書店、旺文社)に従って、「ほこる」が「分を越えて過大評価する、拡大解釈する」という意味であることとしてきた。だが、それだと、いま掲げた文の解釈が苦しくなる。そこで、『大言海』を引いてみると、「ほこる」の意味として次の三つが挙げられていた。
 1.大ごる(驕る)
 2.秀起(ほおこ)る(自慢する、得意になる)
 3.広げる
  (大槻文彦『新訂、大言海』冨山房、一九六七年(二九版)一八三八頁)

 さきの解釈は、この辞典の3.の意である。しかし、十三章全体に当てはまるのは2.の「得意になる」が適当であると思う。従って、本願ぼこりについては、「本願にわが意を得て、自慢し得意になる」という解釈に改めたい。本願ぼこりがあるからこそ、それが信心の出発点に相当する。従来の過大評価や拡大解釈という解釈では、それらの文意をあらわすことができにくい。
 この解釈の妥当性は、次の『唯信鈔』の文で確かめられる。
 「よの人つねにいわく、仏の願を信ぜざるにはあらざれども、わがみのほどをはからふに、罪障のつもれることはおおく、善心のおこることはすくなし。こころつねに散乱して一心をうることかたし。身とこしなえに懈怠にして精進なることなし。仏の願ふかしといふとも、いかでかこのみをむかへたまはむと」(真宗聖教全書編纂所編『真宗聖教全書(二)』大八木興文堂、一九八七年、七四八頁以下)。
 仏の願を信じてはいるが、それにふさわしい心にはなれない、こういうていたらくのわたしではだめだ、というのがこの引用文の大意である。ここには、本願に失意して自己卑下している人の姿が現れている。この本願をほこらない姿と対照をなすのが本願ぼこりである。
 この本願に失意した姿を『唯信鈔』の著者である聖覚法印(一一六七〜一二三五)は次のように評されている。
 「このおもひまことにかしこきにたり、憍慢をおこさず高貢(こうこ)のこころなし。しかはあれども、仏の不思議力をうたがふとがあり」。(同前書、七四九頁)
 本願に失意している姿は賢そうではあるが、このひとは、その身の不精進・善心のなさ・罪障の深さを自己卑下している。より正確にいえば、このひとは、わたしは何と不精進だろうか、わたしは何と善心がないのか、わたしは何と罪障が深いのだろうか、と嘆く。したがって、このひとにあるのは、わたし中心であり、如来本願はまったく無視されている。如来が出てこないところに、このひとの問題がある。これが本願をほこらない姿である。
 結局、仏教の中心は、如来まします、み仏がおいでになるということが明らかになることにある。それが明らかにならないのは、わたし中心、自己中心のゆえである。如来ましますことがわかるには、如来にお遇いすることがなければならない。お遇いするとは、実体的な仏との遭遇ではない。如来の働きとのであいである。それこそが、人生最上の幸福である。もちろん、人間にとっての幸福はさまざまである。けれども、若さ、健康、金銭、子どもなど、ひとが思う幸福は皆なくなってしまうものばかりである。決してなくなることがなく、心の底からの幸福といえるのが、如来ましますということがわかることであり、それこそが仏道である。仏道を歩むということは、南無阿弥陀仏にお遇いすることであり、それは、南無阿弥陀仏のはたらきに出遇うことである。
 
 光明無量 南無阿弥陀仏…照らされて自己を知らされる→自己へのめざめ(機の深信)
 寿命無量…照らされて摂め取られる→摂め取られて南無阿弥陀仏(法の深信)念仏になる。
 
 南無阿弥陀仏のはたらきに出遇えれば、自己卑下にはならない。自己卑下は賢げではあるが、如来がわかっていない。罪悪感、劣等感に陥っているにすぎない。したがって、本願にわが意を失っている。本願をほこれないのは、本願を求め、如来とのであいを求めていないことにほかならない。「本願に誇る心のあらんにつけてこそ他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ」と説かれる。このように、如来ましますということがわかり信心に至るには、本願ぼこりが出発点として大事である。

(2)劣等感・罪悪感
 宗教のはたらきの一つは劣等感や罪悪感の克服にある。それらは、誰でももっている意識であり、その裏返しが優越感である。劣等感、優越感は、人間の根本的な障害(根本煩悩)であり、同じ煩悩の表裏であってその核心の煩悩を慢(まん)という。

 慢…自他を比較して自分がすぐれていることをたのみとする心(煩悩)

 これが人間をいじけさせる。たとえば、イギリスには、コンチネンタル(大陸の)と銘打った広告が氾濫している。コンチネンタル洋服、コンチネンタル料理など。そこに島国イギリスの、大陸に対する劣等感が現れている。イギリス人は、自国をグレートブリテンと、グレート(大)を付けてよぶ。小さいからこそ大と自称しなければならない。そこに劣等感が現れている。大日本帝国と称した心根にも同様のものがある。
 仏教は劣等感・優越感の原因を慢と教える。そして、それを打ち砕く力を与える。それ故信心の世界では、自他を比較しない。サクラはサクラ、もみじはもみじである。具体的に「邪見憍慢悪衆生信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(十−三)という自己の姿が照らし出され、それが南無阿弥陀仏と念仏になる。それにより、慢を徐々に離れ、自他を比較しなくなる。人間としての独立が与えられる。それを与えるのが浄土の真宗である。
 ここでの主題は、本願をほこるということであった。従来は、ほこるを拡大解釈と捉えてきたが、改めた。本願に関心を持ち意欲をもつこと、これを本願ぼこりという。本願ぼこりは信心のはじめである。

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