十七、本願を誇ることの意味

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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 だから、自己卑下したり劣等感に陥る必要はない。むしろ、煩悩があればこそ、本願があるし、本願ぼこりもある。このことを第十三章には、「(おおよ)そ悪業煩悩を断じ尽して後本願を信ぜんのみぞ願に誇る思もなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏なり仏のためには五劫思惟の願その詮なくやましまさん」(二三−八)と説いている。数多くの仏教の教えも「無明と果と業因とを滅する」という目的のためにこそある。それを果たすのが、南無阿弥陀仏の名号である。それが私にとどき、南無阿弥陀仏という称名念仏が生まれると、無明と果と業因が滅せられ罪が除かれ仏となる。このことを示すために、親鸞聖人は『般舟讃』を行巻に引かれている。(一二−二五)すでに申したように、利剣たる弥陀の名号により滅せられるのは、微塵の故業と随智である。
 自力は故業(古い悪業)の結果である。つまり、自力は、過去の悪業が因→縁→業→果→報→因→…と繰り返し蓄積し人間の心根となり、厚い殻となったものである。だから、なくならないし、改めようとしても、改まらない。随智も同様の人間の心に応じた知恵である。これも人間の心から離れない。ところが、微塵の故業と随智を断ち切ってくれるものがひとつだけある。それが南無阿弥陀仏である。如来のはたらきかけがなければ、故業も随智も消えない。
 だが、「(おし)へざるに真如の門に転入す」と説かれているように、そのはたらきかけはおのずから与えられる。それならば、わたしは何もしなくてよいのかというと、そうではない。釈尊(善知識)の方便(はたらきかけ)により、わたしは本願をほこり、ついに本願のはたらきに出あうことができる。その根本は如来にある。如来のはたらきかけが善知識により伝えられ、それがわたしには道として与えられる。そして、その道を歩むには、本願を高く評価することが出発点となる。著者はそのことを説いて、本願ぼこりの異義を批判している。又、この章によって、宿業とは人間のもつ微塵の古い悪業の集積が、本願名号におあいして滅せられたところに感得された感銘をいうことがわかる。

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