六、廻心とは何か

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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 廻心とは何かもう一つ言っておきたい、それは光と水を吸収することからおこる、自力の心のひるがえしである。これはどういうことか。自力の心というのは人間の長い長い業の集積。業の集積とは、業は長い歴史を生きぬいて来たその経歴で、因、縁、業、果、報の積み重ねである。因は人間の持つ考え、無明煩悩、自己中心の考え、その無明煩悩が色々な縁を持って、働きをおこす。それが業。
 色々な条件、色々な事件にあい、色々な人と遭遇し、色々な場所に出かけていって、色々な事を吸収して、働きを巻き起こして来た。その結果があらわれて、それの影響が残って、遺伝子の中に組み込まれて来た。何兆とか何千億とかいわれるものが人間の中にきざみ込まれて来た。それが果、報。人間には爬虫類時代や、色々な時代をへて、自分で自信を持ってしっかりやらねばいかんということを刻み込まれて来た。長い長い過去の集積である。因縁業果報の集積が自力の心、人を頼ってはいかん、自分でやらねばいかんということを刻み込んだ。
 微塵の故業と随智。さきのように過去の集積によって人間は智慧を得たわけでそれを随智という。随智は色々な事に従って起こってくる智慧。自らが身をよしと思い、身をたのみ人を善し悪しと思う。それらを故業という。随智は、はからいである。故業と随智は善導の言葉にあって、聖人は『教行信証』にひいてある。(一二−二五)「又云わく、門門不同にして八万四なり、無明と果と業因とを滅せんためなり、利剣は即ちこれ弥陀の号(みな)なり、一声称念するに罪皆除こる。微塵の故業、智に随(したが)ひて滅す、覚へざるに真如の門に転入す、娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり、種々の思量巧方便をもて選んで弥陀弘誓の門を得しめたまへり。」と。
 「微塵の故業」というのはそこにある。『般舟讃』という善導の詩の三カ所から三つの文を引いて一つの文にされている。『島地聖典』の「智に随て滅す」は、聖人の坂東本では随智と読んでいる。「微塵の故業と随智と滅す」と聖人は読まれた。自力の心は人間の長い長い業なのだ、過去何万年以上の中で累積された考え方なのである。それは因縁業果報によって出来ているのであって、内容としては微塵の故業、数知れない古い業と随智、はからいとで成り立っている。これをなくすとか、破るとか打ち砕くとかいうのは到底不可能である。しかしたった一つ、それができるのは弥陀名号である。それは無明と果と業因とを滅せんが為に八万四千の教えとなっている。その中で故業と随智を打ち砕く利剣は即ちこれ弥陀の号なり、南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏が届いて、一声の念仏が出る所にこれが打ち砕かれる。何故か、弥陀の名号が高次元のものであるからである。超次元というか、一如、真如の全く人間の無明煩悩の次元と異なった高い世界からの働きかけが、低い低い次元のものを打ち砕くのである。それが唯一つの可能性である。
 微塵の故業と随智を滅する、そこで教えざるに真如の門に転入して、十八願の世界に出ていく時、殻が破れて、自力の心が翻され、廻心という事実が起こって来る。
 断ち切るものは南無阿弥陀仏、弥陀の名号である。これが善導の詩である。聖人はそれを行の巻にひかれた。教えざれども自然に真如の門に転入する、具体的には娑婆永劫の苦を免るるは善知識、よき師、釈尊のお陰であって、釈尊の教えを頂く所に、釈尊の教えは種々の善巧方便をもって、選んで、われらを弥陀の本願の門に入らせて下さる。この教を聞きぬく所に「教えざるに、自然に真如の門に転入する」のである。
 廻心は南無阿弥陀仏による。人間の力では廻心は到底出来ない。何故かと言うと、繰り返すように、我々は古い古い業のかたまりであって、内容として微塵の故業と随智の塊りである。それを破るには高次元と言うか、高い真如一如の世界からの働きかけ、南無阿弥陀仏を頂くしかない。それが本願の宗教の根源である。そこに廻心が起る。廻心は本願名号によってのみ可能である。

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