十一、仏法者の陥り易いあやまち

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

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 世の中では浅いことしかいわれない。信心とは信ずることであるというくらいの事しか言わない。しかし本当の信はそんな浅はかな常識的なことではない。親鸞が命かけて書いた『教行信証』に彼はどう言っているのかをしっかり知っておかなければならない。彼は自分では言わなかった。皆曇鸞、善導、源信などの優れた人達が言ったことを引用している。これらを通して自分の思いを言っている。信は決して後世者ぶりしてというものにならない。自己顕示しない。現在では仏法者めいた姿の一つに、ロンドンとかパリに行くと、頭をくりくり坊主に剃っている男、女にあいます。黄色い僧服を着て街中を歩いてますね。日本人かと思ったら外国人であった。全く異形というか異なった形です。黒い衣を着ているのもいる。これらは本当の仏法者ではない。いや親鸞の言う信心のある者ではない。信の人は平々凡々とした形をしている。信心の人というのは如来の前に、そして他の人の前に何も飾らない人である。「賀古の教信沙弥の定」。愚禿の二文字を聖人は一生忘れなかった。愚禿親鸞それがこの人の教えの大事な括りとなる点である。仏法者の陥りやすいあやまち。それは外を飾って賢善精進の振舞をするということ。手にいつも数珠を離さないとか、人の見えるような所に数珠をはめているとか。それを見て、ああこの人は仏法者かと尊敬する人もあるかも知れんが、賢善精進の振舞いに近い。また大きな声で念仏する。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と高声念仏の人がある。今頃は余りいませんが以前は何人かおりました。
 要するに賢善精進の振舞これが結局名聞利養につながるのである。陥りやすいあやまりである。もう一つは造悪無碍、本願があるから何でも許されると言う。これは大きなあやまり、邪見という間違った考えである。本願で許されるというのは、悪をしても許されるのではない。信心があるから許されるのである。「他力の悲願はかくのごときのわれらが為なりけり」と懴悔し、念仏申してさらに本願を頂いて行くから許されるのである。悪で許されるのではない。悪をしたものが許されないわけではないが、本願があるから悪をしてもかまわないというのは全く間違った考えである。この二つが陥りやすいあやまちである。
 「当時は後世者ぶりして」。当時の後世者ぶりというのを、十三章にかえってみると、「あるいは道場にはりぶみをして、『何々のことしたらん者をば道場に入るべからず』」 こういうことをかいてある所がある。これが当時の後世者ぶりの内容として出ている。どういうことがあったのか、了祥の異義集(『続真宗大系』第十九巻)を読んでみると「善性という人が言っている。二十一ケ条掟というのを立てている人達があって、善性がその指導者であった。そこに二十一条「べからずべからず」がある。初めの方はよいのがある。「諸法を誹謗すべからず」他の仏法の悪口を言ってはならない。また「師長を驕慢すべからず」。先生等に驕慢心を持ってはならないということ。色々あります。念仏勤行の日、よくわからんが一晩中念仏を申す日だと思います。「男女同座すべからず」。同座と言う意味が分からんが、昔は座布団が有ってそれに一緒に座る事を同座と言った様です。要するに男女別々に念仏申すということでしょうか。念仏勤行の日、魚やとりを食うべからず、こういうのがあってなかなか厳しいことが言ってあります。念仏門に於ては、五逆十悪の凡夫と信知して、しかも小罪をもおかすべからず。どんな罪も犯さないようにしなければいけないという。「男女同座すべからず」「魚、鳥食うべからず」
 もっとも念仏修行の日だけに言っている。今『歎異抄』ではぼかしてある。「何々の事したらんものをば道場に入るべからず」と言っている。
 こういう人達がいる。それらは誠に賢善精進の振舞。かくあるべし、かくあるべからず、そういう律法的な行き方をしておるところに問題がある。それは自己顕示的な後世者気色、いわゆる仏法者とみせかける、外向きの姿勢が問題である。ここが親鸞聖人の生き方と違う。聖人は自己を誇らず、自己自身に徹し、一生継続して愚者悪人としての一道をゆかれた。そこには謙虚さがあり目覚めた者の粛々とした歩みがある。それであるのに、「何々の事すべからず」という事になる人があるのは、内面に問題があるといわねばならない。
 『口伝鈔』には(二五−一九)「一、凡夫として毎事勇猛の振舞みな虚仮たる事、愛別離苦にあうて父母、妻子の別離を悲しむとき『仏法を持ち念仏する機いふ甲斐なく嘆き悲しむこと然るべからず』とて彼を恥ずかしめ(いさ)むること多分先達めきたるともがら皆此の如し この條、聖道の諸宗を行学する機のおもひならはしにて、浄土真宗の機、教を知らざるものなり、まづ凡夫は事において拙く愚なり、その奸詐なる性の実なるをうづみて賢善なる由をもてなすはみな不実虚仮なり たとひ未来の生処を弥陀の報土と思い定め、ともに浄土の再会を疑なしと期すとも、後れ先だつ一旦の悲、惑へる凡夫として何ぞこれなからん。なかんづく昿劫(こうごう)流転の世々生々の芳契、今生をもて輪転の結句とし、愛執愛着の仮の宿、この人界の火宅、出離の旧里たるべきあひだ、依正二報ともいかでか名残惜しからざらん、これを思はずんば凡衆の摂にあらざるべし けなげならんこそ『あやまて自力聖道の機たる()、いまの浄土他力の機にあらざる歟』とも疑ひつべけれ、愚に(つたな)げにして嘆き悲しまんこと他力往生の機に相応たるべし、うちまかせて凡夫の有様にかわりめあるべからず、往生の一大事をば如来にまかせたてまつり、今生の身のふるまひ、心のむけよう、口に言ふこと、貪瞋()の三毒を根として殺生等の十悪、穢身のあらんほどは断ち難く伏しがたきによりて、是を離るることあるべからざれば、なかなか愚に拙げなる煩悩成就の凡夫にてただ仮に飾る所なき姿にてはんべらんこそ浄土真宗の本願の正機たるべけれと正しく仰せありき」 まさしく聖人の仰せとして言われておる。
 われらは他力によって助けられて、往生の一大事を如来にまかせ、まことの信心の身にさせて頂いても、「身の振舞、心のむけよう、口に言うこと、貪瞋癡の三毒を根として殺生等の十悪、穢身のあらん程は断ち難く伏し難き」そういう凡夫の身である。「なかなか愚に拙げなる煩悩成就の凡夫」である。
 そこで親しい人が死ぬ、死んではならない人に別れなければならない。そういう時には嘆き悲しむがよい。別にこらえなくてもよい。
 泣いている人を見たら、生死無常だ、泣かなくてもよいなどということを言いなさるなと言われている。
 「彼を恥じしめる」愛別離苦に合い、父や母や妻や子に死に別れ、生き別れた時に涙を流して悲しむ、その人を「仏法を持ち念仏する機いう甲斐なく」仏法、念仏を頂いた甲斐もなく、嘆き悲しむようなことがあってはならんと彼をいさめることは多分先輩めいた仏法者が皆そういう風に言うのである。それは間違っている。われらはいかに救われようと、ついに一生凡夫であって、泣くべき時には泣きなさい。悲しむ時には悲しむがよいと聖人がおっしゃったと書いてある。「賢善精進の振舞あるべからず」。そう言われている。これには抵抗のある人もあるかもしれんが、紹介しておく。この章には、後世者ぶりして道場にこうこうの者入るべからずと書いてあるのは、外は賢善精進の姿をして、内に虚仮を抱いたあやまちをおかしている者ではなかろうかという。本当の信心は決してそうはならない。そこには名聞利養に振りまわされた姿がある。虚仮を内には懐いて外ばかりを整えようとしているのではないか。「願に誇りて造らん罪も」本願をたのんで、造悪無碍というような形で造る罪もよく考えてみると、宿業のもよおす故である。宿業がなければ造悪無碍も出てこない。「されば善き事も悪しき事も業報にさしまかせて偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候え」。ここが大事な所ですね。

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