四、晩年の親鸞聖人

『歎異抄講読 異義編(第十三章について)』細川巌師述 より

 この十三章は『歎異抄』の中で一番長い章で十二章がこれに次いでいます。著者がこの十二章と十三章に力を入れていることがわかります。

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 人は晩年には若い時と違った趣があって、円熟と言うか、進展と言うか、そのような熟成が非常に目立ってくる人がかなりある。その一人が親鸞である。あまり変わらないで一貫する人もある。法然上人はその一人ではなかろうか。その主著は『選択集』であるが、これは大体六十五才位あるいは七十才頃の著作であると言われている。その後のものとしては『法然上人全集』で見ると、晩年の色々なことばや教えが出ている。しかし大体『選択集』と同じ趣旨である。八十才で亡くなられたけれども、晩年に円熟されたというべき所もあるが、おっしゃっていることは大体同じように思う。非常に違っているのは親鸞、もう一人は蓮如上人ですね。蓮如上人は若い時のものは『御文章』というのに多い。この人は八十五才まで生きられたが、『御文章』は大体六十代のが多い。それに対して、晩年のものは七十五才から十ヶ年間、亡くなられるまでの事が『御一代記聞書』に出ている。『御一代記聞書』と『御文章』をくらべてみると、大きな差がある。どういう所に差があるかというと、一つは念仏申すということをよくすすめられている。これは晩年である。若い時、六十代までは信をとれとれと信心という所に中心がおかれておりますが、御晩年は念仏申せということに力を入れてある。そのように違っている。
 親鸞聖人は若い時の著作はない。一応、『教行信証』がそれである。大体完成が七十六才頃である。しかし九十才まで生きられた。その晩年に著作がいっぱいある。和讃で言えば正像末(しょうぞうまつ)和讃は八十四才から八十六才である。『一念多念証文』、『尊号真像銘文(めいもん)』なども八十代である。それらと『教行信証』とくらべてみると、大体その差というものがわかる。
 聖人の御晩年の特色の一つは、念仏申せの教えの強調である。蓮如上人も若い時は信心が主であったがそれは親鸞聖人によっている。親鸞は信心正因と言われ、信心が大事という事を『教行信証』では特に力説してあって、信の巻にわざわざ別序というのがついている位である。しかし晩年は念仏申すことに力を入れて申されている。「弥陀大悲の誓願を深く信ぜん人はみなねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし」。これは正像末和讃にある。
 この和讃は、聖人が信心正因で、信心がこの人の説の中心をなしているとだけ知っている者にとっては驚かざるを得ないものである。ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし、というのは法然上人ならおっしゃるであろう。一遍上人ならばさもあらんと思うが、実に親鸞聖人が八十五才の時に歌われているのである。非常に変わられたのです。
 変わられたということが大事で、そこにその人の教えを頂く上で年代別と言ってはおかしいが、段々とこの人が年を共に変っていきなさったということはよく知っておかないといけない。そしてわれらも又、そうした自分自身の進展を考えなければならない。なぜ変わるのか、それを信力増上というのである。信心の働きが増してきて、すぐれてくるのである。それが変ってくる原因です。
 何故(なぜ)、信力が増上するか。
 信力の根本は南無阿弥陀仏を領解することにある。弥陀の本願を本当に理解したところに信心の働きが生まれてくる、その南無阿弥陀仏がいよいよ深く私に浸透し、私に生きてくる。それを信力増上という。信力増上して「念仏申せ」との教えが頂かれるようになる。従って他力信心においては、ついに南無阿弥陀仏と念仏申すことが非常に大事なことであることがわかる。
 私の好きな言葉に、「山上山また山」がある。どんな小さな山にもせよ、山の上に到達したらもう一つ山が見える。もう一つ高い山が見える。山又山であることが拝まれる。山の途中にいる間は、それが見えない。一つの山を極めると、そこに高い高い山が見える。その山の背後にも又山が見えて、山上山また山と頭が下がる。これはおそらく禅宗の言葉だと思うが出典は存じません。しかし真実の言葉である。
 聖人は七十六才、いわゆる『教行信証』を終った段階で、非常に高い山の頂きに立たれたと思います。山頂に立つとずっと先が見えて、延々、山また山なのである。その頂に立った時に、もう一つ次なる山がある。聖人は御晩年に法然上人の教えに帰られた。これが御晩年の特色の第二です。御晩年の書物、お手紙等に繰り返されておりますのは、「故聖人の仰せにて候」聖人は法然上人ですね。これは親鸞聖人八十才以後である。聖人が最後に法然上人とお別れしたのは三十五才である。従って約五十年前である。二十九から三十五才まで上人と御一緒でした。六年間というわずかな期間である。その間に承った上人の仰せが五十年たって後に頂きかえされ、思い返されて、「…と聖人の仰せ事にて候いし」とある。『歎異抄』の中にもそれが繰り返されていまして、第二章には「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」とある。後序では法然上人の「源空が信心も如来よりたまわりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり、されば一つなり」。
 そういう仰せを出しておられる。その他、自然法爾章に、「他力には義なきを義とす。」とある。聖人は御晩年に法然上人の教を大きな山の頂きとして再発見されたのではなかろうか。
 私の先生は住岡夜晃という先生で、全集が二十巻残っていて、私はそれに最近親しみをおぼえるようになった。私の晩年の仕事としては、もう一度『住岡夜晃全集』を読み返したいと心ひそかに考えています。ふかく教えられる所がありますね。先生はこういうことを教えられていたのかと感銘するが、もうとうに忘れてしまっていたのである。
 親鸞聖人は非常にこまかくメモを取っておられた。その一つを愚禿抄と言われている。これは『観無量寿経』について特にくわしいメモ的なもの。もう一つは『西方指南抄』と言って、法然上人の説法とか、お手紙とかを写しておられる。『選択集』と共にこれらもまた御晩年にくり返しくり返し頂かれ、著述された。
 『愚禿抄』は八十三才これを書くとなっている。この年におそらく書写されたのであろう。
 聖人の御晩年には宿業の身ということを申されるようになった。これが第三の特色である。「さればそくばくの業を持ちける身」と『歎異抄』後序に出ている。「そくばく」の業は「底莫」そこ知れない宿業を抱えているわが身と言われたのである。
 「宿業」は『教行信証』には出てこない。『歎異抄』にだけしか出てこない言葉である。『歎異抄』は大体聖人が八十才位以後のものと思われる。宿業とは何か、それは十三章に出てくるもので、「兎の毛羊の毛の端にいる塵ばかりも造る罪の宿業にあらずということなし」とまで言われた。「宿業」は十三章と後序にしかないから、著者である唯円について、本当のことを書いているのだろうかどうかと疑いを持たれる人もある。けれども、私はこれが聖人の非常に大きな御晩年の特色ではないかと思う。
 我々自身は理想主義ですね。理想主義とは何かと言うと、みんなみんな可能性を持っている。善い事をやる可能性を持っている。考えればわかる。やれば出来ると言う可能性を持っている。わからないというのは考えないからである。出来ないというのはやらないからである。しっかりやれば出来るはずだ、という考え方を自分自身に対して持ち、人に対しても持っている。そこから厳しい自他への批判が起る。どうしてあんな事をやるのか、けしからんやつだ。考えればわかるはずじゃないかという事にもなる。私もやれるはずなのに出来なかった。実につまらないといって自己を卑下することも起る。
 理想主義を仏教では自力の考えという。自己中心の考えですね。自分が考えている事は正しいと思い、何でもできる可能性を持っていると思い、出来ない人を見てはどうしてああなんだと冷たい批判をする。人間存在そのものの立場は理想主義である。
 その理想主義が崩壊した所に宿業の身というめざめがある。人は一人一人が各々、業を抱えているのだ。業とは深い過去である。人は皆、過去を背負っているのだ。自身の無明煩悩が色々な事件をへ、色々な経歴をへて、私の今の現実存在となっている。宿業がわかるには本願がわからないとわからない。「さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」とわかるには、「本願のかたじけなさよ」と、それに救われてゆくということがないと、観念的なもので終る。「かたじけなさよ」になるには、宿業がわかる必要がある。これはおそらく御晩年の八十四才になって、わが子善鸞にそむかれて親子の縁を絶ち、親でもない、子でもないといって義絶をされた。そういう現実が下敷きになって、理想主義的な考え方が見かえされて、お互いに業の深い存在であるとおっしゃるようになったのではないか。宿業は本願のかたじけなさよと裏表である。そこに自分の身に振りかかってくる色々な現実の問題。それを宿業と受けとめて「菩薩みな摂取せん」。善いも悪いも全て私が受け取ってゆこうと『教行信証』の終りに出ている、この経文が生きてきて宿業を受け止めることができるのである。「本願の忝けなさよ」となるのである。
 親鸞というお方は、後序のはじめの承元の法難に、「主上臣下、法に背き義に違す」と記して、三十五才の時に蒙った法難をきびしく批判された。
 天皇、上皇そういう人やその臣下がまことに権力を乱用して、本当のあり方に背いて、正しい道理に反した間違った裁判をして、何の間違いもない者を追放し、道理に背いている者を助けた。まことに許し難い事であると、そういう心が出ている。親鸞はこのこと一つは何といっても許せない事として書いておられるのだなあと長く思っておりました。しかしそうでないと今は判った。私は間違っていたと言わねばならぬ。そういう不条理な事も「菩薩皆摂取せん」と念仏して、それが各々の深い業縁によるものであって、「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり」と念仏してゆかれた。現実を受け止める事を宿業とめざめると言うのである。聖人はこの法難を深く宿業と受けとめた上で、「背法違義(はいほういぎ)」と申していられるのだと頂けるようになった。
 大体この三つが御晩年の親鸞の特色であって、山上山また山、信力増上した聖人の円熟された到達点と思うのであります。そういう所が『歎異抄』によく出ている。その意味で『歎異抄』は『教行信証』と対比して頂くべき書物というよりも、『教行信証』の果てにもう一つ、親鸞はどのように成長されたか、成熟なさったか、そういう意味で頂くべき書物だと思うのです。
 そこでこの十三章も聖人の信力増上、山上山また山の天地が述べられている、他に類を見ない箇所であって、かなり力を入れて頂いてゆくべき大事な章であろうと思う。年代的に言って聖人の御晩年である。御晩年であると言うにはその証拠をあげなければならないが、他の所ですでに申したので今は省略する。

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