あとがき

『歎異抄講読 異義編(第十章と中序〜十三章について)』細川巌師述 より

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 異義とは一つは信心の異なりである。つまり先師口伝の真信に異なっていること。如来よりたまわりたる信ではないこと。二つ目は聖人の仰せは「はからいを超える」ということである。これが異義篇の原点である。
 第十一章 一文不通のともがらの念仏申すにあうて・汝は誓願不思議を信じて念仏を申すか。・名号不思議を信ずるか。
 二つに分けることの出来ない誓願と名号を二つに分ける異義である。
 了祥師『歎異鈔聞記』によれば「誓名別計の異義」とよばれている。学問をする人の傾向として本願を信ずれば必ずしも念仏を申さずともよいではないかという傾向があるが、これは、不学難生の異義と同じ根を持つものである。
 学問をするとは仏教を学ぶことである。仏教とは仏の説き給う教であり、仏となるとは死んでから仏となるということでなくて、生きている今の問題である。
 この真実信楽を得たらん人は正定聚に住むと言う。われわれは仏教を学んで仏となるべき人になることが目標である。
 教行信証の宗教とは教行が私に至り届いて信証を生ずることである。教の中にこもる南無阿弥陀仏の働きが私に届いて私自身が照らされ、お粗末な自分にめざめるのである。このめざめが生まれるのを信を生ずるという。
 そのめざめのままが大いなるいのちに摂めとられて、他力の悲願はかくの如きのわれらが為なりけり南無阿弥陀仏と念仏するところが証である。
 先生、この頃はお体の具合は如何ですか。麦藁(むぎわら)帽子をかぶってカボチャ畑で草とりをしておられるお姿をいつも目に浮べております。このやさしいお姿がいついつまでもお変わりないことを祈っております。
 『歎異抄講読』のあとがきを私に書かせて頂き因縁の深さをしみじみ感じております。再起のご様子をお聞きし喜んでおります。
 この異義篇十一章から十三章が出版されるについては、九州の島田清子・吉田加穂子様。日野市の田中徳子・田中郁雄・佐々木玄吾・佐々木文子様のお世話を頂きました。厚くお礼申し上げます。
                                           合掌
平成五年七月

                                           田 中 佳一郎

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