五、聖経の本意

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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弥陀(みだ)の名號となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 彿恩報ずるおもひあり」

 

これを冠頭讃という。浄土和讃の一番始めにある。わざわざ「弥陀の名號となえつつ」と言わなくても「信心まことにうるひとは」でよいのではないかと思うがそうではない。二つが離れないことを示されている和讃である。正像末和讃には「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみなねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」とある。何故、南無阿弥陀仏を称えるのかというと、本願を信ずるというそのことは、信ずればそれで終わりではない、信心は必ず念仏となる。念仏を除いて信心はない。時、所を隔てず、いつでもどこでも念仏申すことが大事であるということを教えられたのである。本願を聞き開いて信心、念仏申すこと、それが往生の要である。学問で悟りを開くものでもなく、念仏だけで往生浄土していくのでもない。このことを述べたのが先の第十一章である。そこで第十二章にかえると、「経釋をよみ学すといへども聖教の本意を心得ざる條もとも不便のことなり」とある。「聖教を学す」その本意は何か、聖教は往生の要を明かすもの、要とは肝心かなめ、それを明かすのが聖教の本意、すなわち往生の要は「本願を信じ念仏を申す」ということを明かす。それが聖教の本意である。したがって、その本意にかなうということは、私のこの身に本願が本当に明らかになること、信心決定して念仏申す身となるそのことが大事である。それを聖教の本意と申す。

 聖教とは諸仏(七高僧)の咨嗟讃嘆、それを十七願海という。十七願海とは、「『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏(さんやさんぶつ)薩楼仏壇(さるぶつだん)過度人道(かどにんどう)経』(『大阿弥陀経』)に言はく 第四に願ずらく もし某作佛せん時、我が名字をして皆八方・上下・無央数の佛国に聞こえ令め、皆諸仏をして各比丘僧大衆の中に於て、我が功徳と国土之善を説か令めん 諸天人民 蝟飛(けんび)蠕動(ねんどう)之類(のたぐい)、我が名字を聞きて、慈心し歓喜踊躍せざる者莫く、皆我が国に来生せ令めん 是の願を得ば乃ち作佛せん、是の願を得ずば終に作佛せじ、と」 (一二−七)

 『大阿弥陀経』とは、諸仏が阿弥陀、阿弥陀が諸仏であるという。それを諸仏仏阿弥陀という。仏の悟りを三耶三仏(さんやさんぶつ)薩楼仏壇(さるぶつだん)、それを訳すと正覚という。それをもって世間道を超え過ぎ、迷いの世界を渡してくださるという経名である。諸仏をして我が名を説かしめん、そして衆生に聞かしめん。これを大悲の願という。(第十七、十八願)。諸仏の咨嗟讃嘆とは弥陀の名号をほめたたえる、それが十七願である。諸仏にどうぞ名号を説いてくれよという弥陀の願いである。この願いによって諸仏が弥陀を讃え、讃嘆するのが聖教である。これが往生を明かせるもろもろの聖教で、それが諸仏の咨嗟讃嘆である。私に先がけて、弥陀の本願によって仏になったその人たちが弥陀の本願を讃える、その声を私が聞く、諸仏の教によって弥陀の働きがとどいてくる。諸仏の教はそれを聞かしめようがためである。弥陀が諸仏に衆生のなかで説いてくれよと願われた、それによって説かれているのが往生の要を明かした聖教である。それが諸仏の教であり、それを聞くことによって本願を信じ念仏を申す身となる。聖教の本意とは何か。一つには、往生の要を明かすことが聖教の本意である。第二は、弥陀が諸仏に願われて、諸仏がその願に応じて説く、それが聖教の本意である。だからお聖教の正意は弥陀にある。弥陀の本願に応じて、南無阿弥陀仏を我々にすすめられているものを聖教という。聖教には、弥陀の願が諸仏を通して、聞いてくれよ、是非ともこれを届けたいという願がこもっている。これがお聖教である。我々は、法然上人、親鸞聖人の話を聞くのであるが、それには弥陀の願がこもっている。皆に説いてやってくれよ、聞かしてやってくれよという願によってこの説法がなされている。したがってよき人の仰せをこうむってそれを頂いていくままが、弥陀の本願を聞きひらくことになっているのである。

 親鸞聖人は法然上人を弥陀の化身と仰がれた。「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ」という和讃がある。法然上人が私に教えて下さったその教は、弥陀が上人の上にあらわれて説いて下さったものと、喜ばれた。われわれがよき師の教を聞いていくということは、実は如来の教を聞いていく事なのである。教の中身が弥陀の本意である。いかに聖教を読んでもそれを向こう側において、ここにはこう書いてある、あそこにはこう書いてあると比較して論ずるような姿勢、または頭だけで受け止めて本当に我が身のこととならないような聞き方は、いかに聖教を学すといえども、聖教の本意を心得ざる、まことにもって不憫(ふびん)なことである、可哀相なことである。愚かなことであると述べられている。

 

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