四、往生の要

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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 「他力真実の旨をあかせるもろもろの正教(聖教)は本願を信じ念仏をまをさば仏に成る、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや」

 「他力真実の旨をあかせるもろもろの正教」とは先ず三経一論、それらは「本願を信じ念仏をまをさば仏に成る」「そのほか何の学問かは往生の要なるべきや」往生の要とは何か、本願を信じ念仏申すのが往生の要である。要はかなめ、肝心かなめ、肝要という。往生要集には源信和尚が念仏が肝心かなめと申されている。この一点をのがしては往生浄土は成立しない。

 法然上人は「『選擇本願念彿集』南無阿弥陀仏 往生之業には念仏を本と為す」(一二−三六)したがって往生の要は念仏為本で、念仏が根本であるといわれている。

 正信偈の曇鸞章をいただくと、正定之因は「唯信心」とあり、まさしく往生が定まる根本は信心にある。また法然上人の章の最後にも次のようにいわれている。「速入寂静無為楽 必以信心為能入(速かに寂静無為の楽に入るは必ず信心を以て能入となす)」。すなわち往生浄土には必ず信心をもって入るものといわれた。

 

(1)往生の要は信心と念仏である。

 往生の要に二つある。信心と念仏である。そこで今、本願を信ずるか念仏を申すか、どちらか一つでよいのではないか。このような問いを出してみる。「他力真実の旨をあかせるもろもろの正教は本願を信ずれば仏に成る。そのほか何かは往生の要なるべきや」本願を信ずれば仏になる。これでよいのではないか、信心と念仏と二つある必要はないのではないか。往生の要は唯本願を信ずればよいのではないかという問いである。それに答えたのは善導であった。

「三業を起すと雖も名けて『雑毒之善』と為す、亦『虚仮(こけ)之行』と名く、『真実業』と(なづ)けざるなり 若し此の如きの安心・起行を作す者は、縦使(たとい)身心を苦勵して、日夜十二時急に走り急に作して頭燃(ずねん)(はら)ふが如くする者も、(すべ)て『雑毒之善』と名く 此の雑毒之行を回して、彼の仏の浄土に求生せんと欲する者は、此れ必ず不可なり 何を以ての故に、正しく彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修皆是れ真実心の中に作したまひしに由りてなり。凡そ施したまふ所趣求(しゅぐ)を為す、亦皆真実なり」(一二−五九)とある。

 この中に二つ述べられている。われわれのやることは、念仏も学問も、三業は悉く雑事の善である。貪欲瞋恚愚痴、名聞利養勝他とどうしても煩悩の毒が入る。われらがどんなにまじめに勤行しているつもりでも他の方へ心がいく。誰かに褒められたいとか、見てもらいたいとか不純なものがまじっている。このような善でしかない。これは善導大師の告白なのである。念仏であろうといろいろの善であろうと、何でも名聞、利養、勝他が入る。はからいが入っている。言われてみると全くそのとおりである。立派なところを見てもらいたいと思う心がある。このようなわれわれが起こす善に対して、弥陀の浄土、一如真如の世界から衆生を「たすけんとおぼしめしたちける」如来の本願は、真実清浄の心からできている。真実清浄の心の成就したもう浄土にわれらのお粗末な心をもって入っていく、それでは往生は絶対にできない。善導はそれを力を入れて言っている。「此れ必ず不可なり」この雑事の行をさしむけて彼の仏の浄土に求生せんとする者はこれ必ず不可なり、絶対に通用しないと、これが善導の答えである。資糧位、加行位でどれだけ力一杯やっても、どうしてもそれには人間の持つ煩悩が入り、いかなる行も人間煩悩から離れ得ない。それは浄土には通用しない。その点は聖道門も同じで、布施、持戒、忍辱、精進もやれないことはない。比叡山の回峰行もやれないことはないが、心の根っこは何なのか、それで仏になれるのか、ここが問題なのである。瞬間的に悟れるかもしれないが、それは雑事の善であると善導の教を聖人はあげておられる。そして自ら言われた。

 「一切の羣生海(ぐんじょうかい) 無始より已来(このかた) 乃至今日・今時に至るまで 穢悪(えわく)汚染にして清浄の心なく虚仮・諂偽にして真実の心無し 是を以て 如来一切苦悩の衆生海を悲憫して 不可思議兆載永劫に於て菩薩の行を行じたまいし時 三業の所修一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て圓融・無礙・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり 如来の至心を以て諸有の一切煩悩・悪業・邪智の羣生海に回施(えせ)したまへり」(一二−一八)

 無始よりこのかた、ずっとずっと昔から一切の羣生海、本能中心でのた打ち回ってきたわれら、清浄の心なし、真実の心なし、そこに浄土に生まれる資格のないわれらの実態がある。このわれらに如来は浄土から真実清浄の心をもって、南無阿弥陀仏を廻向したもう、これこそがただ一つ往生の要なのである。弥陀如来の清浄真実だけが浄土に通ずるものである。浄土に入ることのできるのは、弥陀の清浄真実の具体化した南無阿弥陀仏だけである。その南無阿弥陀仏をみずからに受けとめる。そこにだけわれわれが往生できる肝心かなめが成り立つ。それが他力真実の旨をあかせるもろもろの聖教を聞きひらくことである。学問や行を積んで善を集めるのではない、悪をやめて立派な人間になってから往生するのでもない。全部われわれがやったことには雑毒の善が入る。この善では浄土にとどかない。浄土にとどくのは南無阿弥陀仏だけである。その南無阿弥陀仏が私にとどいたところを「本願を信じ念仏申す」と言うのである。そこが往生の要となる。往生の要は、唯、南無阿弥陀仏にある。南無阿弥陀仏とは、私が口で称える念仏ではない。如来浄土、真実清浄の世界から私に届いて下さる本願の名号、そこに根本がある。如来の清浄真実のみが浄土に通ずるのである。

 

(2)信心があれば念仏はいらないのではないか

 本願を信じて念仏申せば仏になるというが、本願を信じていけば必ずしも念仏を申す必要はないのではないか、この問題は実は『歎異抄』第十一章に出ていたものである。第十一章はこの事を言っている。

 「一文不通のともがらの念仏まをすにあうて『汝は誓願不思議を信じて念仏まおすか、また名号不思議を信ずるか』と言ひ驚かして」その魂胆(こんたん)は誓願不思議を信ずれば念仏はいらないのではないか、ということが根本にある。誓願不思議と名号不思議を別々に考えている。信心さえあれば念仏はいらないのではないか、ということは本願を信ずるということと、念仏申すことをばらばらにしている。そこが第十一章の異義であり間違ったところである。この問いにどう答えるか、それは大事なことである。本願を信じたら念仏はなくてよいのではないか、この問いには明確な答を持たねばならない。

 本願とは第十八願である。内容は何か。「至心 信楽 欲生我国 乃至(ないし)十念」である。至心とはまごころ、清浄真実の心、信楽はまことの願い、助けようとする如来のまごころの願いである。欲生我国は我が国に生まれよと願え、来たれ、とわれわれに対するよびかけ。至心 信楽 欲生我国の三心は、如来のまごころが根本であって、それが至心であるその具体相が信楽であって、その働きが欲生我国、わが国に来たれという呼びかけである。この願いを本願という。もう一つある。乃至十念。これは念仏申せということ、乃至は、下は十声の念仏申せという。

 従って、信心決定して念仏申せの本願、至心、信楽、欲生を信心と申す。乃至十念が念仏申せである。第十八願は「信心決定、念仏申せ」の本願である。善導大師はこの十八願を大きくかえた。加減した。「又『無量寿経』に云ふが如し『若し我成仏せんに、十方の衆生、我が名號を稱せんに下十聲に至るまで、若し生まれずば、正覚を取らじ』と」(一二−二三)善導は『往生礼讃』にこのように言った。信心を略し、念仏申せの本願とした。これを本願加減の文という。加えられたのは称我名号下至十声(十声の念仏を申せ)、減じられたのは至心、信楽、欲生我国である。従って、十八願は「念仏申せ」の本願といわれる。これは信心が念仏なのである。念仏に信心が()もっている。念仏にならない信心はなく、信心と念仏は離れない。南無阿弥陀仏がわが心に至り届いて信心となり、それが口から念仏となって出ていく。信心のあるところに念仏がある、念仏の根本は信心である。

 

(3)信心は念仏となる

 始めに本願を信じて念仏申さば仏になるというが、本願を信ずるだけでよいのではないか、念仏申すのはいらないのではないか、という問いを出した。何故か、それはこの問いが現代の風潮だからである。現代は念仏を申さなくなっている。何故申さないかを考えてみると、正定之因唯信心、信心が根本であると正信偈におっしゃった。法然上人にもある。「必以信心為能入」だから信心があればよいと考えるのが現代人である。しかし「念仏申せの本願」と善導はいっている。「称我名号下至十声」に中心をおいた。これは『観経』に依っている。『観経』によって善導は念仏だけをいって信心を略している。法然も念仏だけをとり往生の業には「念仏為本」という。何故念仏だけがでているのか、よく考えると信心は念仏である。信心が念仏になるのである。念仏は必ずしも信心にならない。南無阿弥陀仏が届いて信心となり念仏となる。「至心 信楽 欲生我国」は如来の心、この心が届いて「称我名号下至十声」となる。善導の本願加減の文に下至十声があるがこれは至心、信楽、欲生我国をふくんで言ってあるのである。如来の心が届いて念仏になる。如来の心が届いて衆生の心根となる。これが信である。信はそのまま南無阿弥陀仏になる。それが称我名号である。称名念仏である。

念声(ねんしょう)是一(ぜいつ)とは、信が声となって出てくる。それは一つである。『蓮如上人御一代記聞書』に「一、『念声是一といふこと知らず』と申し候時仰せに『おもひ内にあればいろ外にあらはるるとなり。されば信を獲たる体はすなわち南無阿弥陀仏なりと心得れば口も心も一つなり』」心の中におもいが成立してくると、それが外に出てくる。信を得た本体はすなわち南無阿弥陀仏と声になって出てくる。風が吹いてくる、風が鯉のぼりに届いたところを聞という。入った風が通り抜けると鯉のぼりは大空を泳ぐ。風が入ったところが信であり、風が出ていくところが称名念仏である。

 第十八願は信心決定、念仏申せの本願、それを善導は念仏申せの本願という。念仏に信を摂めた念仏である。信は聞より生ず、そして信は必ず称となる。信と称は離れない。何故か、共に風から生まれたものだからである。他力真実の旨をあかせるもろもろの聖教は、「本願を信じ念仏を申さば仏になる」本願を信ずることと念仏申すことは離れない。風が届いて通り抜けて、聞、信、称となる。これらは一つである。それ故本願を信ずればよいのではないか、念仏を申す必要はないのではないかと考えるのを第十一章の誓名別計の異義という。頭で考えて本願と名号、念仏と信心をばらばらにする、この異義は頭のしわざで知性の計らいである。

 本当に本願を受け取ったら信心、称名は一つなのである。本願を心に受け取ったところが信、口から出ていくところが称、入ったものは必ず出ていくものであって、信と称は離れない、信心は必ず念仏になっていく。

 南無阿弥陀仏がとどいて南無阿弥陀仏が出てゆく、とどいた所を信といい、出てゆく所を念仏という。信も称も南無阿弥陀仏から生まれるから不離なのである。

 

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