八、如来の御本意を知る

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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 「学問せばいよいよ如来の御本意を知り悲願の広大の旨をも存知して」

 

(1)信の成立によって本当の学問は始まる

仏教では学問を教学という。教学とは仏教を学ぶということである。普通の場合、学問といえば社会科学、自然科学等の色々な部門において真理を追求するとか、道理を尋ねるとかをいう。しかし仏教でいう学問はこれと違う。教学といって仏の教えを学ぶこと。仏教とは仏の説きたもう教え、その内容から言えば仏となる教え。真理を探究するのでもなければ、法則を見出すのでもない。仏の説きたもうた、仏となる教を学んでいくということ、その学問を教学という。教えを学ぶのである。それはまた行学ともいうべきもので、教えをただ学ぶのではなく、行じて遂に仏となる道を学ぶ、即ち仏となる教を行じていくということを学問という。従って現代人の言う学問とは違うということを知っておく必要がある。

仏教では教信行証から教行信証への進展が大事である。教行信証から本当の教学、行学が始まるのである。教信行証とは教えを聞いてそれを信じて実行し悟りを開く。よき師よき友に遇うことが大事である。そしてその教えを信頼して実行し、悟りを得る。これが教信行証である。この悟りは救いであり仏となる道をいっている。これを就人立信という。よきひとに()いて離れずこれを信頼して進む、これが出発点となっている。教信行証の宗教は就人立信(じゅにんりっしん)の宗教ということができよう。

本当の宗教は教行信証である。教を聞き開いて、行(如来の働き)に通って、信(めざめ)と証を得る。これを就行立信(じゅぎょうりっしん)の宗教という。行に就いて信を立つ。行とは如来の行といって、如来の働きをいっている。如来の働きとは南無阿弥陀仏の働きで、光明無量(アミタユース)、寿命無量(アミターバ)という。これを阿弥陀という。阿弥陀と出遇うということは、阿弥陀仏の働きに出遇うということである。その光明無量に出遇って、照らされて照らされて、教えを聞くままが自己に本当に目が醒める。そして自分が何であるかがわかってくる。それを自己へのめざめという。そのままが如来の御いのちの中に摂めとられて、南無阿弥陀仏と念仏申す身となる。これを如来のいのちとの出遇いという。そこに自己にめざめ、如来にめざめる。これを他力の信という。信の成就という。信を賜るという。信が仏教の学問、仏の説きたもう教を聞いて仏となる教、本当の学問の出発点である。「学問せば」というのは教信行証から教行信証へ転回する。そこからを学問するという。

そこからこれが教学であり行学である。教学、行学が成り立つ原点は教行信証の信の成立にある。つまり本願を頂いて他力の信が我が身に成就して始めて本当の学問が始まる。

その学問、即ち教学、行学は、内容としてどんなものか、それを「信不具足」の涅槃経の経文から反顕して考えると次のようになろう。

一、信と推求。仏教の学問とは教法の推求であり尋求である。法の奥深い意味をさらに推しはかり、求め尋ねていくこと。

二、聞と思。教を聞いて理解し、その具体的なあり方、つまり生活上の具体的な生き方を考える。

三、得道の人、つまりよき師よき友と離れず、僧伽につながって聞法することを怠らない。

四、仏法を生きるとは具体的には僧伽とのつながりを持っていることであり、三宝は同一性相であることを忘れない。

即ち、仏教における学問とは、法を推求し僧伽をもち、よき師よき友とのつながりを持ってなされていく。そこに如来の本音を知り、悲願の広大の旨を領解する道が始まるのである。

如来の御本意とは、如来の心がわかることが大事である。「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 廻向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」これは正像末和讃、(一一−三五)にある。如来の本願を明らかにした内容である。如来の本意(本願)とは回向にある。回向とは自己の全体を衆生に届けようとする働き、これを如来の本意という。学問せばいよいよ如来の御本意を知る。教行信証を頂くとは如来の働きに出遇って、本当の信と証を得ることであり、如来の御本意が届いたことである。如来が南無阿弥陀仏となって、自己の全体を我々に届けようとするところに本願がある。それを回向という。それが本当に御本意とわかるとき、仏となる教を学び行じていくという事実が成就する。大悲は南無阿弥陀仏の廻向にある。

 

(2)如来の御本意がわからない理由

 どうしたら「如来の御本意」がわかるか、これは大問題である。これは極難事である。これについて親鸞聖人が言っておられる箇所は、『浄土文類聚鈔』に「『浄信』と言ふは 別ち利他深廣の信心也即ち是れ念彿往生之願より出でたり。亦『至心信楽之願』と名く。復た『往相信心之願』ときなり。然るに薄地(はくじ)の凡夫・底下の羣生(ぐんじょう)浄信()がたく極果証しがたき也 何を以ての故に 往相の廻向に由らざるが故に、疑網に纒縛(てんばく)せらるるに由るが故に」(一三−四)とある。如来の回向によって「往相信心」を頂いていくというのは、「浄信獲がたく極果証しがたし」その理由は、

一、人間は自己を過信し回向などを必要と考えない。原文では「往相の廻向に由らざるが故に」といわれている。

二、「疑網に纏縛せらるるに由るが故に」疑いの心が深い。疑いとは如来無視で如来を疑う。如来を問題にしない、自己中心の心を疑いという。それが深いからであると述べられている。

 まことに人間には最後の最後まで自分でやろうという気持ちがある。勿論そうでない人もいる、他の人からやってもらうという人もないではないが、仏となる教、この教を聞いて頑張っていこうというほどの人間は自分でやるという精神を強く持っている。一面からいえばそれが大事なことである。その位の根性がないと仏法は成就しない。

 法然は四十三歳まで自分でこの道をやり遂げようと頑張った。親鸞も二十九歳まで自分で何とか道を切り開こうと努力した。曇鸞は五十余歳まで自分でやると頑張った。その位の人でないと本当の如来の回向、南無阿弥陀仏はわからない。初めから私の力は限界があるから如来に頼もうなんて言う人には、如来のほうがあっちを向いて出ていってしまう。相手にされない。「お前しっかりやれ」「はい、やります」という人でないと助からないようになっている。それを十九願、二十願という。病気しても、病気を治そう、何としても治りたいという意志がないと病気は治りにくいと言う。何もかもお医者さんに任せた、俺は死んでも生きてもいい、というのは治り難いのではないかと思われる。真珠王と言われた御木本幸吉氏の話はご存じと思うが、この人が七十六歳になった時に主治医の東大教授の勝畑先生に「私はもう十年生きたい。どうか生きる方法を教えてください」と頼んだ。この先生は答えを言われた。第一はもう十年生き延びたいという願いを持ち続けること。第二は海草と小魚をしっかり食べること。第三には仕事の量を減らすこと。第四は夜は便所に行かないで尿瓶でとること。この四つを言いなさった。御木本氏はこれを実行して九十六歳まで長寿されたそうである。私はこの初めの事が気に入りました。元気で生きていこうと決心すること、これは大事なことだと思った。

 このように、一面においては、自分の意志や頑張りがないと道は成就しないといえるが、同時に私は私で頑張るんだ、そして道を切り開くのだと思っている人は、私の全体を届けようという仏の本願を全く受け付けない。だから届かない。如来を信じないで自己を信じている。やればできる筈だ、頑張ればそこまで行ける筈だ、頑張らなくちゃ、という心があって深い自己中心の如来無視である。だからどうしても「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 廻向を首としたまひて」大悲心を成就しようとされるけれども受け取る人がいない。それが本願が届かない原因であると親鸞は言ったのである。

 自己中心の頑張りから転回して如来廻向をうける身となるには、自己自身へのめざめが生まれることが必要である。

 

(3)よき師よき友の善巧方便による

「又云く 門門不同にして八萬四なり 無明と果と業因とを滅せん為なり 利剣は即ち是れ弥陀の号なり、一声称念するに罪皆除こる 微塵の故業、智に随ひて滅す、覚へざるに眞如の門に転入す 娑婆長劫の難を免るゝことを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり 種種の思量巧方便をもて選んで弥陀弘誓の門を得しめたまえり、と」(一二−二五)

 

 これはさきにも申したが善導の『般舟讃』にある。微塵の故業とは無数の先天的な悪業、業とはその人にしみ着いている深い特性。随智ははからいという。この二つが問題であると『般舟讃』の中で言ってある。これを聖人は「一声称念するに…微塵の故業と随智と滅す」と読まれた。弥陀の回向が届く所に念仏申す身となって、これらが打ち破かれるのである。微塵の故業とは、人は深い業を持っている。現代的な表現で言えば、人間の先祖はこの世に生まれてきてから、皆自分で努力して努力して生き延びた。先ず食べ物が必要である。食べ物を自分で得なければならない。生きている物を捕まえるか、木の実を探してくるか、何かを植えて育つのを待つか、自分が努力しなければ何も得られる物はなかった。だから人間は生まれながらに自分で頑張らなければいけないという考えを持っている。最近の飽食時代では、大きく間違った世の中になってしまって、食べ物を手に入れるのにあまり努力をしなくてもいいような感じを持っているがそうではない。こんなことを繰り返していたら、日本人はそのうち滅亡するのではないか。もう少ししっかり自分で頑張ろうという考えを確立しなければいかんのではないか。人間の祖先は骨身に徹して、自分で頑張らなければだめだ、決っして食っていけないんだという考えを長い長い業として持っている。もう一つ私の想像だが、爬虫類から過去の歴史の中で物凄くやられた。大きな恐竜から小さな蛇、それが人間に物凄く害を与えた。それが今に至るまで爬虫類に対する恐怖心となって残っており、蛇を見たらぞっとするようになっておるのは、その時からの先天的な業ではないかと思う。これは余談。人間は頑張らなければいかんというものを心に持っている。今でも恵まれない人、ハングリーな人は金がなくてその日その日の生活にも困るので頑張る。ボクシング、プロレスなんかでも貧乏な国の人の方が強い、頑張る。小さい時から苦労が骨身に徹しているからである。俺が頑張らなければどうするか、という心を持っている。今頃の日本人では世界チャンピオンが出にくくなっているようだ。

 人間は長い歴史を重ねてきて、人から与えられることを期待せず私のことは私で頑張るぞというのを持っている。微塵の故業を持っている。そして随智、人間の智恵に随う、はからう。如来のお世話にならなくても自分がこうすべきだ、ああすべきだと判断して自分でやっていこう、そういう心が人間の根本にある。回向の宗教、如来廻向の南無阿弥陀仏にお遇いして転回していくというような宗教は、人間にとっては非常に難しいものである。だから座禅を組んだり、滝に打たれたりして、悟りを開くというような宗教の方が理解しやすい、浄土真宗という宗教はわかりにくい。何故か、自力でやるという方がわかりやすい。他力をえらぶというところには、易い方がよいという打算心が入る。しかし宗教は最後に自己を超えることを要求する。けれども自己を超える力を我々は持っていない。それを突破して人間が自己超越の道に本当に立つことはどうして可能か。それは次に書いてある。「娑婆長劫の難を免るることを得ること」は「特に知識釈迦の恩を蒙れり種々の思量巧方便をもて選んで弥陀弘誓の門を得しめたまえり」この困難性を突破するには、たった一つよき師よき友(その代表者が釈迦)の善巧方便(お勧め、励まし、指導)によって人間が弥陀の本願に遇うことである。善巧はてだてを早くして色々とその人にわかるように、その人に近づいて(方便とはウパーヤ、近づくということ)教えてくれる。そのことが困難性の突破ということになる。それがここで言われている。

  我々だけではどうしようもない。我々は自分の考えを持っている。そしてそれを決して捨てることはできない。私は保育園をやっており、色々な子供達に接するがおさない子と話す機会が多い。生後何ケ月というのから一歳前後のゼロ歳児の子供がいて、そこに行って私が勤行をする。仏壇の前に座って「光顔巍々 威神無極…」チンと鐘を叩く。保母が子供を連れて私の後ろに座っております。勤行がすんで「みやちゃん、たたいてごらん」と言うと鐘を叩きます。「次はたけろう君」と言うとみやちゃんが木択を放さない。「たけろう君に渡しなさい」と言うと「いや」と言う。そうするとたけろう君はブスとして泣きべそをかいたような顔をしている。たけろう君に渡したら、また握りしめて他の子に渡そうとしない。そこで考えてこの木択を三本位用意して、たけろう君、みやちゃん、まりちゃんと渡すと三人が一緒に叩くからろくでもない音がする。そこで何がわかるかというと、握ったものは放さない、生まれて何カ月という時から放さない。大人になって放さない筈だ。もしもぎ取ってみなさい、火がついたように泣いて収まりがつかなくなってしまう。そうかといって、「たけろう君に渡しなさいよ」とどんなに優しく言っても渡さない。人間は強情な強情なものを内に持っていることがよくわかる。一遍こうと思ったらそれが捨てられない、どうしようもない執着力を持っている、微塵の故業である。こうなったら方法を考えなければいけない。手にしっかり持っていて放さなければ、何か他の物を与えれば、それなら渡そうかとなる。善巧方便を使わなければならない。

 一つのこだわりを持っている者に対して、釈迦を代表とした善知識が色々のことを考えてくださって勧めてくださるのである。これが我々の前進できるたった一つの道である。それがここに書いてある。釈迦亡き後はその志を継ぐ、その教を受け継いだ七高僧と呼ばれる人、それに親鸞聖人、そういう人達の善巧方便によって、我々が自分の間違いを知り、自分の考えに閉じ籠もってはいけないと、如来のお心をだんだん知って、とうとうひっくり返っていくというようなことが生まれるのである。

 本当に学問をした人、本当に『教行信証』を頂いていったお方がいよいよ私を育てて下さった。善巧方便のよき師よき友のお心を思い、それを見習って如来の本意を後の人に勧めていく。人に勧めていろいろの手だてを尽くし教えていくことが、更にまた深く如来のご本意を知る手だてとなる。そこに勉強した、本当に『教行信証』を頂いていったという甲斐があり、働きがでてくるのである。「学問せばいよいよ如来の御本意を知り」自分が教を本当に頂いていったならば、いよいよ如来の心と師主善知識の善巧方便を感謝し、何とかしてそれを人々に伝えたいというようになってくる。それが自信教人信の道である。

 

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