七、浄土門

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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(1)本願名号を旨とするは浄土門なり易行道なり

 ならば浄土門はどうか。本願名号を旨とする本願とは何か。それは弥陀の本願といい、四十八願といって『大無量寿経』に述べられているところである。本願とは根本の願、本来の願という。如来の願である。如来とは如は一如、大きな大きな世界ともいい真如ともいう。私は如の中にありながら実際は小さな殻の中に閉じ込められてにっちもさっちもいかない状態にいる。この私を助けようとする、助けるため如なるものが如来となって私に至りとどき、彼来って私になろうとする。それを根本の願といいまた、本来の願という。本来とは、元からある、始めから自然の道理としてあるもの。如来だけができる願である。人間同士にできることがある。物はやれる、金もやれるが唯一つ人に与えることができないものがある。それは私の力である。本を読む力、考える力、理解力など、子供に遣りたくてもできない。人に与えることはできない。それは何故か、低い次元にいるものはそのような力をもたない。自己自身を相手に届け得る存在は、高い高い世界、高次元の世界のものだけである。太陽は地球を超えたもので地球に光と熱となって自分を与えることができる。大きな世界にいるものは、小さな世界にいるものに自分を与えることができる。如なるものは如来となって私に届いて如なる全体を与えようとする。自ら如来となろうとする。それが如来である。光極わなく照らし破る、命極わなく摂取する、そのような働きをアミタユース、アミターバーという。それを一緒にしてアミダと言う。アミダになろう、阿弥陀となって光明無量、寿命無量の働き、はかりなき光とはかりなき命を人々に与えようとする、その願を如なるものが如来になろうという願という。それを第十二願、第十三願という。それを南無阿弥陀仏という。南無阿弥陀仏となろう、如来が自己を衆生私に届けようとする、それを如来回向という。

 いかにして届けるか。如来から生まれたよき師よき友を諸仏という。諸仏に説かせよう、勧めてもらいたい、諸仏を通して南無阿弥陀仏を説き勧めてとどける、これを諸仏称名という。諸仏の称名をもとめられた。これを十七願という。十二願、十三願、十七願が如来になろうという願なのである。浄土門は本願名号。本願、それは聞いたことのない人には、初めは全く夢のような話で何のことやら分かりにくいのであるが、だんだんとわかってくる。親の願いは子供にいくら説明してもわからない。子供が幼いからである。しかし段々成長して親となったら親の心がわかってくる。

 如来が如来になろうという願があるということは頂いてみるとわかる。いま南無阿弥陀仏という如来が諸仏という人達を通して説かれても、それを聞く耳がないうちはわからない。例えば、雨がザーザー降ってくるとバケツに水が溜まるが、バケツの底を上にしていたら一滴も溜まらない。雨はザーザー降っている、けれどもバケツが上をむいてその雨を受ける態勢にならなければバケツに水は溜まらない。如なるものが来て下さってもそれを受ける態勢にならなければ、如来は届かない。そのため衆生の態勢をつくろう。下を向いているバケツを上に向くようにしよう、という如来の願を十九願、二十願、十八願という。三つの願が建てられている。十九願は、しっかり志を立てて仏法を求めてくれよの願、至心発願という。二十願は念仏申してくれよの願である。植諸徳本という。もろもろの徳の元になる南無阿弥陀仏を、むかし田植えをして稲を一本一本植えたように植え込んで、称名念仏していく。此の二つの願の中で、さきの十九願において、浄土門における学問が生まれてくる。

 

(2)浄土門の一番初めは読む聞くから始まる

 これを至心発願、修諸功徳の願といって、まずもろもろの功徳を修めるようになってもらいたいという願である。そのところで初めやるのは五つの行、これを五種正行という。浄土門の一番初めは読む、聞くから始まる。読む、聞く、考えるが勉強にあたる。読む聞くそして、礼拝、称名、讃嘆供養、この行を教えるのを修諸功徳という。これを聞、思、修の宗教という。これが第一段階である。

 浄土門は初め聞、思、修の教である。難行道なのである。聖道門と同じように、貪欲・瞋恚・愚痴という自分自身というものがわからない、またどうしても愛憎と名利と善悪が残っている。そこに人を憎むことがあり、名聞利養の思いも残るわけである。難行というのは、愛憎と名利と善悪を離れることができない。やってもやってもなくならない。要するに聞思修の繰り返しである。しかしこれが大事、このなかでどれが難しいかというと修が一番難しい。称名は念仏である。礼拝讃嘆(感謝)供養(お花、お香をあげ仏前を掃除し仏に供養する)つまり勤行、これがなかなか続かない。念仏と勤行が続かない。そこに、行きつ戻りつがある。この段階は浄土門と言っても難行、自力の段階であって、ここからなかなか出られない。

本当の世界を十八願と言う。それは殻を破って広い世界に出た段階である。それを他力の世界という。他力の世界から、自己自身に目覚めて愛憎、名利、善悪を超える天地が生まれてくる、それが易行。しかし、人は、聖道門でなくとも浄土門のなかでも、本願を本当に受け取るだけの力がない、そういう段階に長く留まっている。そこは難行の世界である。したがって聖道門だけが難行道で浄土門が易行道というわけにはいかない。浄土門も十九願、二十願の段階では難行道といわねばならない。まだ本当の段階に達していないからである。禅宗は一生を命懸けで修行して悟りを開くという。だから難行道。浄土門は易行道であって念仏一つで助かるから実に簡単、そういうものではない、そんなことはない。南無阿弥陀仏で助かるという道が本当に開けるのは命懸けでないとできない、人間の努力を尽くさなければできっこないのである。

 今日、浄土真宗が力を失っているのは何故か。命がけで求道しないと本願はわからないのだということを忘れてしまい、その行き方を失ってしまったからである。易行という名前のもとに何か容易に救われていく気がして、死んでから浄土に往生とか、いのちのめざめとか、わけのわからないことになるからである。親鸞聖人は死んでから浄土にいくということを強調されていない。生きているうちに、殻を破って広い世界に出るのだと強調されたお方である。現生正定聚が聖人の教の中心である。生きているうちに易行が成立しなければならない。そのためには必死の努力精進が必要である。

 

(3)難行から易行へはどうしてできるか

 浄土門も十九願、二十願の段階は聞思修の難行道でこれをぬけ難い。それではその難行道から易行道にどうしたらなれるのか。その易行道はどのようにして成り立つのか、 それは如来の働きによるのである。それを果遂の誓という。それがあるから浄土門が難行道で終わらない。それがなければ、浄土門も結局難行道で終わる。果遂の警が大事、果遂の警とは、二十願の最後に「果遂せずば正覚をとらじ」果たし遂げずば正覚をとらじという。それは、二十願の終わりに述べられている。二十願は念仏申してくれよの願である。そして念仏申す世界まで出てきた者は、必ず十八願の世界に出したい、これを果たし遂げずば正覚をとらじという、そういう誓を果遂の誓と言う。念仏申す者を易行の世界にどうしても出したいという願である。この如来の願いによって我々は転回していくのである。

 

(4)果遂(かすい)(ちかい)−本罪を()る−

 『大経』和讃に「定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ をしへざれども自然に 真如の門に転入する」(一一−一八)とある。この称名は自力の段階である。それが果遂のちかひに帰してこそをしへざれども自然に真如の門に転入する。真如の門は如来への門、それを十八願の世界という。十八願の世界に転入するのである。二十願の世界は聞思修、聞いて考えて実行する。何を実行するのか、礼拝、称名、讃嘆供養で称名が柱。しかしそれをやっているのは名聞・利養・勝他の心。念仏を申して幸せを得たいとか、信心を得たいとか、そういうものが二十願。しかしそこまできた者は「果遂のちかひに帰してこそ をしへざれども自然に 真如の門に転入する」そこに二十願から十八願への転回が願われている。『大無量寿経』では二十願から十八願の転回は「若し此の衆生、其の本罪を識り、深く自ら悔責(けしゃく)し、彼の処を離れんと求むれば、即ち意の如く無量寿仏の所に往詣(おうし)し、恭敬供養することを得 (また)(あまね)く無量無数諸余の仏の所に至り、諸の功徳を修することを得ん」(一−七三)とでている。この文の前のほうは略したが、この衆生は疑城胎宮に閉じ込められて、寿五百歳、仏を見ず、教法を聞かず、菩薩声聞聖衆を見ず、三宝を見ずという。その衆生が二十願の世界を出るということはどういうことか。「その本罪を識り深く自ら悔責する」これが成り立つことを教えている。従って十九願二十願の世界はそれを知らないのである。本罪とは根本の罪、一番根っこの罪、本来の罪で皆が元から持っている罪。後からできたのではない、生まれながらにして持っている罪、それを本来の罪という。それに目が覚めるところが果遂の誓が届く処である。根本の罪、本来の罪とはキリスト教では原罪という。神が人間を作った。神は土くれでアダムを造り神の世界を全部与えて治めさせようとしたが、アダムは楽しまず悲しげな顔をしている。そこで彼が昼寝をしている時にその肋骨の一本を引き抜いてイブという女を作った。アダムとイブは仲良くやっていたが、神の掟を破って禁断の木の実を食べた。そこで神は怒って二人を追放した、これが原罪であるという。面白い話だがピンとこない。先祖の犯した罪を子孫の我等が背負うのはおかしいではないかと言いたい。本罪とは先祖の罪ではない。皆が生まれながらにして持っている自分の罪、根本の罪、それは何か。先祖が神様の言いつけを聞かなかったのか、そういうことではない。五逆という。五つ、父を殺し母を殺し、よき師よき友を殺し、仏身より血を出だす。私が大変お世話になった人達に反逆をする。反逆は皆が生まれながらにして持っている私の根本の罪である。何故あるのか、それは、人間はだんだん成長するにしたがって自立していく。自立するとは自分の力がついてくることである。

私には私の考えがあるという自我意識が生まれて、自分を教えてくれた者から離れていく、背中を向ける、反逆していく、それが人間というものである。子供が何人いても、最後まで親と一緒にいる子はほとんどいない。皆出ていってしまい、それぞれの家庭を創り、あとは親夫婦二人きりとなる。背いて行くのではないが、離れていくのである。第一反抗期、第二反抗期と子供が大きくなって親から離れていく、親の言うことを聞かなくなる、それが子供が自立していくことなのである。人間は自分の思うとおりにやろうとすれば結局離れていく他にない。

誹謗正法、如来を無視して、私には私の考えがあると、如来のことを考えなくなる。それを誹謗正法という。これが根本の罪である。人間はそういうものは根本の罪とは思わない、又そのような罪があるとも思わない。それが分かることを本罪を知る、二十願の世界を出るという。それが果遂の誓である。そういう本罪を是非とも分からせたいという誓である。

 

この和讃の根拠になるものは善導大師にある。「又『般舟讃』云く 門門不同にして八萬四なり無明と果と業因とを滅せん為なり 利剣は即ち是れ弥陀の号なり、一声称念するに罪皆除こる微塵(みじん)故業(こごう)智に(したが)ひて滅す、那へざるに眞如の門に転入す 娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり 種種の思量巧方便をもて選んで弥陀弘誓の門を得しめたまえり」(一二−二五)とそこに「覚へざるに眞如の門に転入す」とある。ここから出ている。転入の文字は『大経』にはない。善導の般舟讃から出ている。大事なところは、「教えざれども眞如の門に転入する」とは、釈迦の恩によるのである。釈迦なきあとは七高僧、よき師よき友の御恩のおかげである。よき師よき友の善巧方便をもって弥陀の弘誓を説いてくださったその力によるのである。だから十九願二十願から十八願に転入するにはどうしたらよいか、こうしなさい、ああしなさいと、そういうことは教えないが、よき師よき友は、ここまで来た者はどうしても本当の世界に進めずばやまず、進展させずにはおかないという心をもって善巧方便してだんだんと知らせてくださるのである。果遂の誓は如来の誓、しかし実際はよき師よき友の願、善巧方便となって私に教えてくださる。届くのは、利剣即是弥陀名号がとどくのである。そして微塵の故業は随智と共に滅び去ってゆく。滅すとは名号の働きで、微塵は小さな無数の、故業は私の古い業、古い古い悪業、随智ははからいをいう。私が自分に目が覚めないのは、自己中心の考えでいろいろの反逆をやってきた、その悪業の累積と、自己のはからいで如来を無視し、ああすべきこうすべきと自分の考えではからうのを智に随うという。

そういうものから、目が覚めるときがくる。それは南無阿弥陀仏の働きによって私のめざめとなる。私に永い永い悪業があった、はからいがあったとめざめる時がある。それを善知識の善巧方便によって我が身に得るのである。

 

(5)浄土門は初めは難行道である

大事なところを話したが、浄土門は初めは難行道、それが易行道になるのには転回が大事である。まず二十願までやってこなければならない。念仏申し、勤行し仏法を聞きぬいて聞思修をやっていくところに、よき師よき友の願いと善巧方便とが届いて、私のめざめとなる。その時廻心懺悔して、南無阿弥陀仏になるのである。申し訳ないことであったと如来の前に懺悔念仏する、それを易行というのであって、単なる念仏ではない。果遂の誓によってわれわれの上に深く本罪を識ることが成り立つ。それが信の成立である。信心念仏である。具体的には善知識の働きである。そこに易行が成り立つ。聖道門では、結局はその果てまで行っても、もう一つそこで翻ることができない。それが聖道門。如来の力があるから翻されていく、それが浄土門なのである。聖道門も浄土門もいわゆる仏教ということから言えば、初めは同じく難行道、浄土門はその果てに如来の働きが届いて易行道になる。如来の働きを本願という。難行道、それを突破して易行たらしめるのは如来の働きである。聖道門も浄土門もどちらも初めは学問から始まる。しかし最後まで学問を旨としているから難行なのである。遂に本願名号を旨とするようになるから易行道なのである。

 

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