十、いやしからん身にて往生はいかゞ

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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(1)いやしからん身

 「いやしからん身」というのは卑しい心、卑しい身のほどを言う。卑しい心とは自己中心で自分のことしか考えない。煩悩中心の貪欲・瞋恚・愚痴の無明煩悩の心しかない我が身。如来を信ぜず如来を疑う心、それが自己中心である。これが卑しい心の中心である。阿闍世は父を殺し王位を奪って王になったが、後にそれを悔いて自分はどうして父を殺したのだろうかといって後悔し、かさぶたが出来、身に高熱を発して悪臭は人を近づけない程になり、自ら言った。「私はこんな悪いことをしたから必ず地獄に落ちる。私の運命は極まった」と。これに対し六師外道という人達がでてきて次々と阿闍世を慰める。これが『教行信証』の信巻末に出されている。何故苦しむか、何故恐れるか。それは心の中に善因善果、悪因悪果、善をすれば善の報いがあり、悪をすれば悪い報いがある。それを疑わない。これだけ悪いことをしたから、悪い結果が起こるに違いないという人間の理性の働きがある。人間の理性では、悪いことをしたなら悪い報いがある。これこれのことをしたから、世間から色々と批判されるだろう、悪口を言われるに違いないと思う。しかし自分も悪かったが父にも非がある。父にも問題があったではないか。父が仙人を殺さなければこういうことは起こらなかったんだ。これを思うと自分だけで責任を背負う理由はない。父も悪いのではないかと責任を転嫁していく心がある。人間は迷う。それが「いやしからん身」のためで、最後には人を責めるというところが残る。自分が悪いと言いながら、自分に全てを背負えない。そこにいやしさがある。

 『歎異抄』の第九章に唯円坊が尋ねる。「念仏まをし候へども踊躍歓喜の心疎に候ふこと又いそぎ浄土へ参りたき心の候はぬは如何にと候ふべきことにて候ふやらん」(二三−四)念仏は申している。長い間よく聞いたのであるが、喜びの無さ、意欲の無さ、それが求道の者にとって命取りである。どれだけ求道しても結局卑しい心、卑しい身の程を持っていて、これでは到底往生浄土は不可能であろう。従って「如何にと候ふべきことにて候ふやらん」と問うのである。この問いは非常にややこしい表現で、その心の屈折がでている。単刀直入な表現になっていない。曲がりくねっている。そこにこの人の屈曲した心理がある。念仏は申してきた、それなのにこのていたらくであって、これではいけない、一体どうしてこうなるのであろうか、どうしたらよかろうか、私だけがどうしてこんな目に合わなければならないか、といろんな思いが混ざっている。念仏は申しているがこういうていたらくの私、これでは、というところに「いやしからん身」がある。

 天人五衰という物語がある。これは帝釈天という天の神に五つの前兆が起こってきた。一つは冠の花が萎むのである。天人は毎日湯浴びをして、冠に綺麗な花がしゃんとして立っている、それを被るのであるが花がすぐに萎れてしまう。第二は、いつも綺麗な衣服を着けているのにすぐに垢が付いて薄汚れてくる。第三は腋の下から汗がでる。第四はいつも瞬きをする。第五は自分の席にじっと落ち着いていることができない。席を立ってうろうろする。この五つのことが起こるのを天人五衰という。これが起こってくると天人はやがて地獄の底に真っ逆様に落ちて行って、地獄の苦しみを免れない。そこで帝釈天が意を決して釈尊を尋ねていく。そして問う、何故こうなるのか。釈尊は言った。「それは根本は、如来を疑う心から出てくるのである」と教えられた。帝釈天は、はたと気がついて釈専に懺悔し助かっていく。ここにどんな優れた人にも天の神様になった方にでも、如来を疑う心があるということがわかる。そういう例がでている。『涅槃経』にある。

 卑しいとは貪欲、瞋恚、愚痴、無明煩悩と言うが、その最奥に如来を無視する心がある。如来無視の私、自己中心にしか物を考える力が無く、私中心である。これを「いやしからん身」という。いやしい我が身である。この身では到底往生はできないのではと危ぶむ人に、言って聞かせる。これが教信行証から教行信証に進展した人の、即ち教学をした人の務めである。こんな人に言って聞かせることができるのが、本当の学問をした人の甲斐性である。

 

(2)学問をした人の甲斐性

 「本願には善悪・浄穢なきおもむきを説き聞かせられ候はゞこそ学生の甲斐にても候はめ」「善悪・浄穢なきおもむき」とは「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」これが大事な所である。我々が善であるから助かるのでなく、悪であるから助からないのでなく、真実清浄になって助かるのでもなく、煩悩に汚れているから助からないのでもない。我々が何であろうとも他力の悲願は、こういうていたらくの愚か者と我が身に目が覚めて、如来の本願の前に頭を下げていく人、何事も皆南無阿弥陀仏と、ただ念仏になっていく人が他力のお目当てであり、この姿が如来の本願が届いて下さった姿、本願成就の相である。

 本願の対象は本願成就文の諸有衆生である。迷い深い私である。この自己に目覚めることが本願の届く姿、そこにだけ本願は成就する。それを南無阿弥陀仏の成立と申すのである。本願成就文というのを考えると、二つある。一つは『大無量寿経』、魏訳の経典と申す。もう一つは、『無量寿如来会』、唐訳という。まず魏訳の『大経』を見てみると、「本願成就の文『経』に言はく 諸有衆生 其の名号を聞きて 信心歓喜せんこと 乃至一念せむ 至心に廻向したまへり 彼の国に生ぜんと願ずれば即ち往生を得 不退転に住せん 唯五逆と正法を誹謗するとをば除く、と」(一二−五六)

 魏訳によると、諸有衆生、自分自身がもろもろの迷い深い衆生という目覚め、それが主体になっている。それが其の名号を聞く。其の名号とはよき師よき友、善知識の教えてくださる名号である。諸有衆生というのが一番初めにでて本願成就の主体が何であるかを示している。

 成就文では諸有衆生と聞と其の名号、この三つが強調されている。聞は聞きひらく、よき師よき友の勧めたもう教。現在の浄土真宗はこの諸有衆生をあまり説かない。諸有衆生がなくなった。そして聞其名号の其がなくなった。聞名号、聞きなさい、南無阿弥陀仏を聞きなさい。南無阿弥陀仏の教を聞きひらきなさいと浄土真宗では説くが、これは間違っている。聞其名号の其が落ちている。其とは善知識で、善知識の教を通してというところが抜けている。そこはさすがに蓮如上人である。そのところを非常にはっきりとして言われている。現在はそこが抜けていることが信心の人が生まれない理由である。蓮如上人は『御文章』の一帖目十五通に「されば『経』には「聞其名号信心歓喜」と説けり「其の名号を聞く」といへるは南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実に聞くにあらず、善知識にあひてその教を受けてこの南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば必ず阿弥陀仏の助けたまふという道理なり、これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり」(二九−一三)とある。聞名号ではない。

それは無名無実というのである。聞其名号でなければならないと強調されている。「善知識にあひてその教を受けて」とそこを力説してある。現在の浄土真宗はここが抜けている。聞名号、「聞きなさい、聞きひらきなさい南無阿弥陀仏の教を」となっている。そこが誤りである。もう一つは諸有衆生が抜けている。これもあまり言わない。迷い深い自己と目が覚めることなしに如来の本願は成り立たない。本願成就というのはこの二つに力点がある。

 親鸞聖人は信巻に 『無量寿如来会』を引用された。「『無量寿如来会』に言はく 他方の仏国の所有の衆生 無量寿如来の名号を聞きて 能く一念の浄信を発して歓喜し 所有の善根廻向したまへるを愛楽して 無量寿国に生ぜんと願ぜば願に随ひて皆生まれ 不退転乃至無上正等菩提を得ん 五無間と正法を誹謗すると及び聖者を謗るとをば除く、と」(一二−五六) これによると、今力説した箇所が一つもでていない。他方の仏国の所有の衆生となって、迷いの衆生というのは、明らかでない。「無量寿如来の名号を聞いて」とあって、「其」とは書いていない。しかし「所有の善根廻向したまへるを愛楽する」如来が持っておられる善根を回向してくださった。それを受け止めて、それを愛楽するところが力説されている。

 所有の善根廻向とは光明無量アミタユース、寿命無量アミターバー、その二つが如来の所有の善根である。それを私にとどけて下さった。そこに生まれるものが愛楽である。そこに光明無量と私が照らされる、そして寿命無量に私が摂め取られる。それが愛楽である。この点が力説されている。本願というものは信ずるというものでなしに、如来の功徳に照らされていくことである。所有の善根廻向というところに本願が届く姿がある。回向によって照らされたところに生まれるものが諸有衆生の自覚である。摂め取られたところに南無阿弥陀仏と念仏になるのである。そういうところがよく強調されていて、聖人は両方の経を出されている。本願成就について、諸有衆生聞其名号のところに『大経』の重点があり、『無量寿如来会』では所有の善根廻向というところに重点がある。このように二つを頂くとそれぞれに本願の重点が発見されて本願成就の意味が明らかになる。

 善いから助かるのではない、悪いから助からないのでもない。我々が何になるかということよりも、如来の本願がこの私のためと、本当に頂くことが大事。他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりである。それがわかるには「かくの如きのわれ」本当の私がわかることが大切、これを諸有衆生と目が覚めるという。これを聞きひらくという。よき師よき友を頂いて聞きぬく、そこにこの目覚めがある。『如来会』では如来所有の善根回向によって照らされていくところに中心がある。学問してそういうところを知って「いやしからん身にて往生はいかがあらんずらん」という人達に言って聞かせることができると、そこに本当の『教行信証』を頂いた甲斐があるのであって、勉強というのもそこに意味を発揮してくる。

 勉強のつづまりは、前を訪い後を導く働きにある。この言葉は『教行信証』の最後にある。「『安楽集』に云く 眞言を採集して、往益を助修せしむ 何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪ひ、連続無窮にして、願はくは休止せざら使めんと欲す。無辺の生死海を尽さんが為の故なり、と」。(一二−二二五) ここに尽きる。前を訪いが自利で後を導くが利他。前を訪い後を導く、そこに勉強の意味がある。願はくは休止せざら使めん、連続無窮この一道が続いて、一刻も休むことがないように無辺の生死海を尽くす。これは如来心に他ならない。この如来の心が我々の心となってくださって、さらに勉強し勉学して読誦する。それが一生継続する。そこに真の求道者がある。それ故、ただ単に経典を解釈するだけに止まったり、人に負けたりしてはならないという名聞利養で勉強することがあってはならないと、切に『歎異抄』の著者は教えている。

 

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