九、悲願の廣大の旨をも存知して

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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 悲願とは大悲の願、大慈悲の願である。如来は大きい。大森先生の『正信偈にきく』を読んでみると、始めて長い講習会に出て、それが済み日本海で海水浴をして海に浮かんで大空を見上げた時、空は広い、如来は大きいということを感じたとある。如来は大きい、そして私は小さい。これがわかったということが最初の感想であったと述べてあるが、実にそうである。如来は大きい、その悲願は広大無辺である。私は小さい。

 私が如来の本願を信じる時は私が主語である。それ以下を述語という。述語の中に信ずるという動詞がある。また如来本願が目的語になっている。私が主語のとき私が大きい。述語にあたる如来本願は小さい。私が本願を信じるという場合は本願は小さい。私が大きい。何故か、私が水を飲む、この時私の方が大きくて水が小さい。従ってその水はコップ一杯の水にすぎない。水が主語になれば、水が私を呑むである。この時は水の方が大きく、私が小さい、大洪水の中で押し流されて沈んでしまったか、大きな海で溺れたか、そのような時は、水私を呑むである。悲願の広大、向こうが大きいのだ。如来が大きい、私が小さいというのがわかること、これが大事である。

 私が如来本願を信ずるのではない。如来本願が私を信じているのである。如来は、本願を建てて必ず衆生がこれを受け取ってくれるということを信じて疑わない。如来が私を信じているのである。それを如来の真心という。至心 信楽 欲生というのは如来の心を表す。その中心は至心、信楽という。如来は誠こめて私に働きかけている。だからどこどこまでも私に働きかけて止まない。そういう願いを持っている。それがわかった時、如来は大きい私は小さい、となる。広大の広は弘ともいう。十方衆生悉くという。大は体大、相大、用大と申してその本体は大小を超えた大、相対的な大ではなくて本来大きい。それを体大という。その相、姿が清浄真実、真実功徳相という。これが相大。その働きは一切衆生を仏たらしめる、それが用大。そういうところに大がある。大きい小さいでなしに衆生を超え離れているということである。現代語で言えば次元を異にしている、我々の考える大小の世界でなしにもう一つ高次元の世界を表そうとして広大と言っている。体大、相大、用大、その本体から言えば我々の低い世界を超えた真如一実の世界であり、その姿から言えば我々の煩悩では考えつかないような清浄真実の姿であり、その働きから言えば無限の働きを持っている。それを大と言う。

 悲願の広大ということを本当に頂くと、南無阿弥陀仏、不可称、不可説、不可思議、南無不可思議光と申すほかはないようになる。

 

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