二、学問の段階

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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(1)第一段階の学問

 すべて物事に於いては、勉強するということが大事で、これは間違いないことである。第十二章はこの点からいうと、唯円の言い分ではあまり勉強しないほうがいいようにもとれるが、決してそうではない。「経釈を読み学せざるともがら往生不定の由のこと」と言うことがすこぶる不足言である。不足言とは、言うに足らないとか、とんでもないとかいう意味である。取り上げるに値しない、全く愚かなことであるという。最後は、「法の魔障なり仏の怨敵なり」と、とんでもないことだと言っている。しかし勉強というのは往生の行において非常に大事であるが、勉強で往生するのではないことを力説しているのである。

求道の上から申すと、いつも申すように、法相宗で説く、資糧位、加行位これが第一段階である。資糧位は、もとでを集め糧を集める段階で、聞、思である。加行位が修である。聞、思、修、と言うのは、わかりやすく言うと、五種正行に当たる。読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養、これを五種正行という。これが資糧位、加行位の段階で、自力の段階であり、求道の基本になるものである。

 読誦、観察が聞、思に当たる。読誦は読むこと、また聞くことである。思は勉強をして考えることである。修は、礼拝合掌、勤行、称名念仏、讃嘆供養。これが修にあたります。

 この第一段階の学問を読誦、観察という。始めの段階では、聞く、読む、ということが大変大事なことである。

 蓮如上人の『御一代記聞書』(三〇−二)に、「一、蓮如上人仰せられ候「本尊は、掛けやぶれ、聖教は読みやぶれ」と対句に仰せられ候」とある。昔は仏壇を持っている人は殆どなかった。六字の名号、南無阿弥陀仏を掛け軸にして、拝んで、済んだら巻いて、なおしておく、仏壇があるのはお寺とかその他少数であった。「赤尾の道宗申され候」の章をみると「一日の(たしなみ)には朝つとめにかかさじと嗜むべし」とある。本尊をお掛けして、勤行をせよということである。また聖教は読みやぶれ。読誦、観察をしっかりやることを勧められた。聖教は読みやぶれは、読誦であり観察である。聞、思である。一番基本的な問題は、読誦、観察そして勤行である。実際は勤行のなかに念仏がはいる。勤行し、念仏し、読誦、観察する。これが基本である。基本というのは非常に大事であって、基本に忠実ということが事をなし遂げる者の条件である。第一に基本に忠実であること、ピアノをやる人は毎日三時間は練習をする。絵を描く人は、毎日デッサンをする。それぞれの道に基本がある。仏法もそのようにしてできあがる。法然上人は八十歳で亡くなるまで毎日毎日三万遍、五万遍も念仏を称えなさった。また読経を続けられた。木曽義仲が京都に乱入した一日だけ聖教を読まれなかったと言われている程、物凄く基本に忠実な方であった。基本に忠実なのは大芸術家にも仏法者にも共通である。

 第二は推敲(すいこう)を重ねる。同じことを何回も何回も頂いていく、()すか(たた)くか何度も繰り返し、検討したように、考えて考えて考えぬく。

 第三は、未来に幻想を持たないこと。この作品が完成したらどの様な評価を受けるか、どれくらいの価格がつくかなどを全く考えない。この三つが芸術家には大切であると亀井勝一郎氏が言っている。我々も必ず一日に何時聞かは本を読み、そして考え、勤行し念仏する。これを基本としなければ求道といっても話にならない。

 朝と晩に必ず勤行し、聞法し、本を読み念仏する。これを繰り返し繰り返し、縦続一貫し、そして将来に対して何らの幻影を持たない生き方をしたい。求道の最初の段階においては聞、思、修(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養)この基本に忠実なことが特に大切である。

 それを蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ、聖教は読みやぶれ」と申された。蓮如上人といえば、「信をとれ信をとれ」と信心を強調された人であるが、晩年はこのように言われた。兵馬が動き、血が流れる不安定な時代には、本も読めない、考えることもできない。「信をとれ」と強調するほかないが、平和の時代になったら基本をしっかりやらねばならないと申された。基本の出来ない人は進展しない。基本に忠実でないと大芸術家にも仏法者にもなれない。

 もう一つ言われている。「一、蓮如上人、幼少なる者には『まず物を読め』と仰せられ候、またその後には『いかに読むとも復せずば詮あるべからざる』由仰せられ候。ちと物に心も付き候へば『いかに物を読み事をよく読み知りたるとも義理をわきまえてこそ』と仰せられ候。その後に『いかに文釈を覚えたりとも信がなくばいたずら事よ』と仰せられ候」(三〇−三一)

 先ず、第一段階に於いて大事なことの筆頭は、読誦になっている。一般的に申すと五種正行である。求道心を起こし、縦統一貫、読誦・観察し実行する。実行は行と戒をいう。先ず読み、先ず聞く。これが大事。第一段階で求道から読誦を除くことは出来ない。しかし、問題は、読誦が資糧位、加行位では大切であるが、それを繰り返し継続一貫してゆくことが遂に悟りを開く必須条件になるのか、ということにある。

(2)第二段階の学問

 いつも申すように資糧位、加行位と通達位のあいだには深い断絶がある。この断絶は読誦・観察では超えられない。礼拝、称名、讃嘆供養でも同じである。その高い断崖の上に通達位、修習位、究竟位(くぎょうい)がある。通達位が菩薩の世界で信心界という。そして信の生活、実践生活、それが修習位である。資糧位、加行位を世間道という。通達位以上を出世間道という。

 我々の心根は人間中心である。求道においても、頑張らなくてはという求道心と、幸福を得たいという欲とが一つになっている。この人間の心が土台になっているのが求道の第一段階である。この段階はまだ世間道である。

 世間道とは、卵の殻の中の状態をいう。その殻を脱する。卵からヒヨコになるのが信心、これが通達位、生まれたヒヨコがだんだん成長して雛となっていくのが修習位、遂に親鳥となる、これが究竟位。それを仏果に至るという。この仏法の世界と世間道の間には大きな大きな断絶がある。この大きな崖の下まで到達する道が聞、思、修である。読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養を継続一貫やり遂げないと、ここまで到達しない。しかし、この断絶の谷間から仏道に入るのは学問ではない。読誦・観察ではできない。異義の人達は、学ばざれば得ず、経釈を読み学せざるともがら往生不定、出世間の世界に出ることはできないという。これは誤りである。そんなことはない。そこに学問はいらない。この絶壁の下までくるのは資糧位、加行位と進み、聞、思、修の果てに達するのであるから、学問も必要であり、読誦もなければならない。しかしこの断絶の谷間からいよいよ高い世界へ上っていくのは、他力の働きであって学問ではない。従って第十二章を注意してみると「他力真実の旨をあかせるもろもろの正教は、本願を信じて念仏を申さば仏になる。そのほか何の学問かは、往生の要なるべきや」(二三−五)往生の要について言われている。本願を聞き開いて念仏申す身になることが要である。往生の要は学問ではない。

 仏法の学問には二つの段階がある。第一段階は、殻を出るための準備段階である。第一段階の学問は資糧位、加行位の段階を昇ってこの絶壁の下までくる。これを要門の段階という。要門とは肝要に入る門、そこまで進む教、いわゆる定善、散善、心を正して行を実行してゆく教。それが要門の教。これを聞いて、考えて、実行していく、最後に行き着くところ、それが崖の下である。これが要門の教である。五種正行をしっかりやるのが最も基本。要門の教の意義は、自分の力の限界、私の現実に目がさめてくることにある。私の現実とは、教えを聞いて実行してみると続かない自分の貧弱さ、頭ではわかっていても実際の行が伴わない鈍根の自己、そこに教えと私の現実との間の大きな落差がわかってくる。それが要門の教の持つ意義である。第一の学問、そして第一の求道は私に大きな絶壁を発見させるところに意味がある。そこまでやらねばいけない。

 第二の学問は出世間道におけるもの。この段階を弘願の教、本願の教と言う。弘は十方衆生ことごとくを相手にする。弘願は本願をいう。第二の学問とは南無阿弥陀仏の本願の教を聞き開くことから始まる。聞き開く、これを仏願の生起(しょうき)本末(ほんまつ)を聞くという。それが開けてくると、私の上に南無阿弥陀仏が到りとどいて、そこから本当の勉強ができるようになる。弘願の教を聞き開いてはじめて、本当の教、真の学問ができるようになる。真の学問とは何か、それを前を訪らい後を導くという。前を訪らうとは、私の先を歩いて下さった七高僧、法然上人、親鸞聖人、よき師よき友の教えをたずねていって、いよいよ如来のお心の深さを知り、自己自身の愚かさを知らされる。後を導くとは人々の為に本願の教を伝えていく、そういう勉強が如来を明らかにし、自己を明らかにする。これを本当の学問という。前を訪らい後を導く。そういう勉強を報恩謝徳の学問という。このように学問には二つの段階がある。


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