一、不学難生の異義

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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 「一、経釈を読み学せざるともがら往生不定の由のこと」ここまでが異義である。これを不学難生(なんしょう)の異義という。了祥師の命名です。経釈というと経、論、釈をいいます。経は仏説という。それを菩薩が解釈したのを論という。釈は高僧の解釈です。そこで聖教を普通は経、論、釈といいますが今はそれを略して経釈という。

 このようなお経やその他の解釈書を読まず、ただ南無阿弥陀仏と念仏申しているような人々は、報土の往生、真実浄土の往生はできがたいという異義、これを不学難生の異義と言ってある。この異義には非常に厳しい批判が加えられていて、最後をみると、「たまたま何心もなくて本願に相応して念仏する人をも」すなわち本願を聞き開いて、念仏している人に対しても「学問しなければ、往生は不可能である」と「言いおどす」藤秀璻(しゅうすい)先生は、「言いおとす」ではなくて「言いおどす」ではないかと言われています。この異義に対して「法の魔障なり仏の怨敵なり」と厳しい批判がなされている。これは単なる異義ではなくて、仏法を妨げる仏の怨敵のしわざであって、自ら他力の信心が欠けているのみでなく、「あやまって他を迷わす。まことにおそるべし、先師のお心に叛くことを、かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることを」と言って、第十一章から第十八章の異義のなかでも最も厳しい叱責になっている。

関連して言えば、もう一つ厳しいのは第十八章で「仏法の方に施人物の多少にしたがいて大小仏に成る」という異義。お寺や僧侶の人達に、布施をする、その多い少ないによって、仏に成るときに、布施が多ければ大きな仏になり、少なければ小さな仏になるという異義。「この条不可説なり比興(ひきょう)のことなり」といってこれはまた厳しい。まことに不可説、説くべからざること、言ってはならんこと、ある筈もないこと、比輿、とんでもない不都合千万な話であるとなっている。その最後の結びは、「すべて仏法に言を寄せて世間の欲心もある故に」すなわち世間心の貪欲の心で、「同朋を言いおどさるにや」といってある。この第十二章と第十八章が厳しい批判になっている。これはこの二章は「異義の中の異義」と言うか、「とんでもない間違いである」と著者が申している章です。


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