三、勉強することの意味

『歎異抄講読 異義編(第十二章について)』細川巌師述 より

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 それならばこの章の誤りはどこにあるか、それは「経釈を読み学せざるともがら、往生不定の由」ここが誤っている。自分が真の聞の世界にでていないからこの誤りがわからないのである。一生懸命に勉強して仏法を理解し、教理がわからなければいけないと思っている。しかし勉強が進んでそれで往生浄土するのかというと、そうではない。それは全然間違っている。それは「法の魔障なり、仏の怨敵なり」といって、厳しく叱責されている。唯円は、自分自身が本願を信じ、念仏を申す身となることが大事であるということを繰り返し教えている。ところがこの人は中途半端なところに留まって自己自身がわからないでいる。そこから異義が生まれるのである。

 世間道から出世間道へ本願を聞き開いて信心の道に立つ。第一段階の学問からこの第二段階へはどうして出られるか。それは究竟位の彼方、如来の世界よりの働きかけが到り届くこと。本願が届くこと。具体的にはよき師よき友の励まし、出世間道に立って歩んでいる方々のお勧めを聞き開くことである。それを聞其名号という。如来の働きはよき師よき友の上にある。それをうまく言っているのは二河白道である。一人の人が西に向かって出発して進んで行くと、後から群賊悪獣が追いかけてきて、この人の命を取ろうとする。逃げようとすると、思いもかけず、火の河、水の河にぶつかった。二河白道の譬は求道の実際をよく物語っている。「自ら念をなさく」これを作念(さねん)という。どうしようもない絶体絶命の処に立って、行くも死し、帰るも死す。ならばこの道を行こうと白道を進む決心をする。その時に東岸(同じ人生、私と同じ世界)に誰もいないと思っていたのに、「東岸忽ち人のすすめる声を聞く、仁者(きみ)ただ決定してこの道を尋ねてゆけ」と言う。これをよき人の仰せという。よき人の仰せのなかに本願がこもっているのである。

 本願とは南無阿弥陀仏である。光明無量、寿命無量、光きわもなく照らしたい、寿命きわまりなく届けたい、というのを法法蔵という。法の働きをいう。法とは人間存在に届く前の如来の働き。南無阿弥陀仏が光明無量、寿命無量の働きをもって、よき人の仰せを通して届いてくる。その働きを法法蔵と言う。それが届いて教を聞き開いて生まれる存在を人法蔵という。ここに人間法蔵菩薩が誕生する。法法蔵が届いて人法蔵が生まれる。人法蔵がどうして生まれるかというと『大無量寿経』には、「時に国王あり 仏の説法を聞きて心に悦豫(えつよ)(いだ)き (すなわ)ち無上正真道意を発し 国を棄て、王を()て、行じて沙門と作る。号して法蔵と()う」。(一−九)とある。如来の光明無量、寿命無量、南無阿弥陀仏の働き、誓願の働きを法法蔵という。それが説法を聞き開いて届いて法蔵菩薩が誕生し、初めて通達位に到るのである。法蔵菩薩はどこかにいるのではない。阿弥陀仏の幼い時、幼稚園時代を法蔵菩薩というのではない。今まで財産や権力を命としてきた存在が、それを捨てて求道者として誕生する処をいう。

 如来の働く姿を法という。南無阿弥陀仏が光明無量、寿命無量と働く働きを法という。法法蔵とは何か。光明無量、寿命無量を届けようとする如来の働き、光明無量、寿命無量を届けようとする働き、これがよき人の仰せを適して、私に届けられる。それは、絶壁の下まで行き着いた人にだけ届けられる。絶壁の下まで行き着かないで途中にいると届かない。途中にいるのを行きつ戻りつの人という。この状態の人には法は届かない。法が届くとは、よき人の仰せの中にこもる如来の働きが届くこと。それを法法蔵が届くという。光明無量に解らされ、寿命無量に摂めとられてそこに法蔵菩薩が生まれる。国を棄て、王を捐て、行じて沙門と作る。そこに仏道に立つ人が生まれる。仏道に立つのは学問ではない。行でも才能でもない。それはまずこの絶壁の下まで来ていることが大事なのである。第一段階を尽くしていることが大切である。すると遂に時が熟して、法法蔵、すなわち教行到り届いて信証が生ずる。それを人法蔵の誕生という。人法蔵から本当の勉強が始まる。国(財)と王(権力)をすてて求道者となった所から第二段階になる。

 そこから「前を訪らい後を導く」働きが生まれる。『教行信証』の総序をみると「爰に愚禿釈の親鸞 慶ばしき哉や 西蕃(さいばん)月氏(げっし)の聖典 東夏(とうか)日域(じちいき)の師釈に ()ひ難くして今遇ふことを得たり 聞き難くして(すで)に聞くことを得たり 真宗の教・行・証を敬信して 特に如来の恩徳の深きことを知んぬ」(一二−二)「真宗の教・行・証を敬信する」これが真の学問、本当の勉強がなされている相である。そこに如来の恩徳の深いことをいよいよ知らしていただいたと喜ばれたのが聖人であった。

 

 『御一代記聞書』をみると善従の章によくこの趣があらわれている。「一、金森の善従に或人申され候、『この間さこそ徒然(つれづれ)に御入り候ひつらん』と申しければ、善従申され候『我が身は八十にあまるまで徒然といふ事を知らず、その故は弥陀のご恩の有り難きほどを存じ、和讃・聖教等を拝見申し候へば心面白くも又たふときこと充満する故に、徒然なる事も更になく候ふ』と申され候ふ由に候」(三〇−二八) これが本当の勉強である。金森の善従は、もとは弥七といった。一生涯蓮如上人と行動を共にしたので善従というのであろう。叡山の悪僧たちにより本願寺が焼け落ちたとき、蓮如上人を金森へ案内した。そして吉崎までもどこまでも、上人に従って行き、上人を陰に陽にお助けした人である。章の意味は、「この頃はあなたも御老年で訪ねてくる人もなく、お仕事もない。定めしお暇で退屈で苦しんでおられることでしょう」これに対し善従申され候『我が身は八十にあまるまで徒然といふ事を知らず』まさに老いの到ることを忘れて朝に晩に『弥陀のご恩の有り難きほどを存じ、和讃・聖教等を拝見申し候』これが本当の勉強である。人に話すために材料を集める勉強でもなく、読んで覚えようとしている読書でもない。誠に前を訪らい、ご恩の程を喜ぶのである。そのままが後を導く働きをしている。「聖教等を拝見申し候へば心面白くも又たふときこと充満」するという。これを真の学びという。それを第二の学問というのである。それを出世間道における読誦、観察という。そこには何等の幻影を持たない。これを読んで人に話そうとも考えず、学者になろうとも思わず、本を書こうとも考えず、ただ本当に頂いていく。そして「慶ばしき哉や西蕃・月氏の聖典」と親鸞聖人がおっしゃったように「聞くところを慶び、得るところを嘆ずる」そういう勉強が本当の勉強であって、仏法における真の学問とはこのような段階であることがわかる。

 学問は常に大事である。まず始めが大事である。始めの学問は、人法蔵が誕生するために聞思修の果てまで力を尽くさねばならない。そして法が届いて人法蔵となって通達位に達した時に、本当の勉強が始まるのである。これが大事で、このことを第十二章を頂くときに根本において置かなければならない。勉強が必要でないというのではない。常に勉強は必要である。けれども勉強には段階に応じて内容に相違がある。真の勉強は、これを仏教用語でいうと信力増上といえるものであろう。信力増上していく働き、それが勉強となってでてくる。信力増上とは信心の働きが増してくる、深まってくることである。信力とはかねて申すように信知である。信知する働き、その働きが増大してくる。信知とは本当にわかる。自分自身が本当にわかってくること。自己自身が何であるかがわかり、愚かさがわかってくることをいう。

 また、如来のお働き、如来のご恩がだんだんと信知されて、そして教を信受、受け取る力が増してくる。今までは教の表面だけしかわかっていなかった。深い意味がわからなかった。それを聞いて理解できても、それだけでは受け取ったことにならない。受け取るとは体解をいう。それが信受である。だんだんと教を受け取る力が増し深まると、現実を受け取る力が増してくる。現実とは現前の事実、いろいろの事件、そして子供、夫、妻、私の受け取るべきもの、念仏の種として受け取るべきものをいう。現実を受け取る力が増し、深まってくるのを信力増上という。信力増上するから勉強が進んで教がよくわかるようになる。第二段階の勉強の進展は信力増上と不即不離である。親鸞聖人は本当に偉かったと思う。このお方の信力増上である。一生、信力増上されたところに聖人の偉大さがある。

 「いづれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし」と『歎異抄』第二章にある。その地獄一定こそ聖人の信知、信受の最も深い表現である。世界の聖者と言われる人の中で、これほど深く自己を信知されたお方があるであろうか。


 先般、稲田で正像末和讃、疑惑和讃、愚禿悲嘆述懐和讃等を頂きました。これらを一貫するものは聖人の懺悔(さんげ)の深さである。「蛇蝎(だかつ)奸詐(かんさ)の心にて 自力修善はかなふまじ 如来の廻向をたのまでは 無慚(むざん)無愧(むぎ)にてはてぞせん」 疑惑和讃は聖人御自身のことをいってある。

 「自力諸善の人はみな仏智の不思議をうたがへば自業自得の道理にて七宝の獄にぞいりにける」

 聖人ご自身が仏智疑惑の深い深い処におったという懺悔をなされて地獄一定と示された。このような懺悔はわれらにないものである。我々は自分は極楽一定と思っていて、決して地獄一定とは思っていない。それがそのまま七宝の獄、疑城胎宮にとどまっている姿である。

 聖人が万人に優れ給う点は、何といっても領解の深さにあろう。教法を領解するその深さはまことに驚くばかりである。聖人が『教行信証』に引用されている文章は、元の文章の中心点をおさえたものばかりである。本当によく勉強なされて、信受する力がおありの方と仰がざるを得ない。何故親鸞聖人はこんなにもお偉いのかと考えると、第一に聖人は人生において苦労をなされた。三十五歳で流罪の身となった。また七高僧の誰もが体験しなかった肉食妻帯の現実があった。このようなことによって、自己自身を信知する力、智慧を増されたのであろう。単に聖人の天賦の才というばかりではない。苦労というものは非常に大事な金床(かなとこ)であって、この金床の上に身を置いて教のハンマーを頂くとき、はじめて教はわが身に徹するものとなる。人生の現実の中で苦労を重ねた人は、深く人生を考え教を頂く力を与えられる。かつて、電力の鬼といわれた松永安佐衛門氏は、超一流企業の社長として相応(ふさわ)しい人として、刑務所に入ったことのある人、職を失って浪人した事のある人、大病をした人を挙げているが、これらの人々は、人生で冷たい飯を食べた苦労の人である。苦労が人を大成させる力をもつことを言われたものであろう。

 第二は、宿善。親鸞聖人は宿善の厚い方であった。京都の東の日野で誕生された。日野には大きな仏殿があって、阿弥陀仏がまつってある。日野家の先祖は毎日この仏殿に参拝されたのであろう。聖人も小さいときには、父母に抱かれてお参りなさったにちがいない。先祖の徳、その宿善が開発して善知識に遇われた。これがこのお方を大きく進展させたのであるといえよう。

 高僧和讃を頂くと、源空聖人和讃に二十首がある。そのなか(ことごと)悉くに本師源空という言葉が一貫している。そうでないのは三首しかないが、その三首もすべて法然上人の徳を述べられたものである。法然讃は法然上人、法然上人と聖人がよびかけられた讃嘆の歌である。善知識を得られたこのことが領解の深さを得られる根本であった。この根本があって、その上に本当の勉強がなされた。『教行信証』はまことに通達位、修習位の処に立って如来のお心を頂戴されたものである。

 以上、学問の段階が二段階あることについて述べた。

 

 「経釈を読み学せざるともがら往生不定の由のこと」この不学難生の異義は経論を読み、学すということの意味がよくわかっていない、そのことを批判している。始めのほうをみると、「他力真実の旨をあかせるもろもろの正教(正教は聖教)は本願を信じ念仏をまおさば仏に成る、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや」とある。他力真実の旨をあかせるもろもろの正教を、三経一論と法然上人はいわれている。三経とは『大経』、『観経』、『阿弥陀経』、一論とは『無量寿経優婆提舎(うばだいしゃ)願生偈』、すなわち天親菩薩の『浄土論』である。『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』は全部無量寿経である。優婆提舎とは三経の意味を現代に近づけてあきらかにすることをいう。無量寿経を優婆提舎した天親は、そこに自らが「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」、と願生の歌たからかに願生浄土していくほかなかった。それを天親菩薩の『願生偈』という。

 『大経』は如来浄土をあらわすお経、これを法の真実を顕すという。法とは如来の働き(ダルマ)である。『観経』はその如来の働きがこの世に実現する道行をあらわしている。韋提希という一人の女性のうえに、南無阿弥陀仏の如来本願が本当に生きてくる。そういう道行をあらわし、それを通して法の真実がいかにして人の上に成就するか、その過程をあらわしている。これを機の真実をあらわすという。機とは法を受け取る人をいう。機の真実とは教をうける人間の真実の姿をいう。法の真実がとどいて機の真実が明らかになる。『観経』は南無阿弥陀仏が下品下生の一生造悪の人の上に届くことを明確に示している。『阿弥陀経』は、機法合説といって「不可以少善根 福徳因縁 得生彼国」人の努力だけで如来浄土には、達せられない。「執持名号一心不乱」が大事なことである。人間の少善根では彼の国に生まれることを得ず、それを機の真実という。執持名号、それを法の真実という。機と法の真実の両方を合説された。これらを三部経という。三部経を項いた天親の領解が「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」の願生偈である。三経一論のほかに七高僧の教もあわせて「他力真実の旨をあかせるもろもろの聖教」という。これらの教によって、如来浄土の働きがこの世に実現する過程が理解できる。これが第一段階の学びである。そしてそのはてに如来本願の教がわが身にとどいてくる。それからが第二段階の学びである。したがって、決して第一段階にとどまってはいけない。学んで学んで遂に私自身の愚かさに目覚めて、いよいよ愚者となっていくということが大事である。本当に仏法を学ぶというのは、第二段階の学びをいっている。

 

 次に経釈を学ぶ者の陥り易い点を述べると、学ぶということは、やはり知性中心の立場であるから、頭でわかると全てわかったような気がする。そこが第一の問題点である。頭で考えるしかないから、どうしても頭中心になる。わからなければ駄目だと思うし、わかったらわかったで自惚れになりやすい。知性中心でわかっても本当にわかったのではない。「得たと思うは得ざるなり 得ざると思うは得たるなり」蓮如上人の『御一代記聞書』のとおりである。これは実に名言である。頭でわかって、わかったと思うのは、まだわかっていないのである。本当は愚かな私とわかることが大事、すなわち、教は先ず知性的に受け取らねばならないが、教は私を照らすもの、したがって教に照らされて私は何とお粗末なものであるかと、お聖教を項いた最後はそうならねばならない。こうならないところを知性中心という。ここが陥り易いところである。

 第二は、念仏申すことを忘れがちである。これが大きな欠点である。学問した人は学問をすればするほど如来や聖人を向こう側において、ああ親鸞か、阿弥陀か、と対象化して、自分というものは如来や聖人と切り離された存在となって、自身に対し眼が覚めなくなってくる。そこに学ぶほど念仏が失せていく。今日でも、勉強する人ほど念仏を申さないというのが悲しい事実である。

 『一枚起請文』に法然上人の戒めがでている。「もろこし我が朝に智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず また学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず ただ『往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑なく往生するぞ』と思ひとりて申すほかには別の仔細候はず(略)念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、妄不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じて、智者の振舞をせずして、唯一向に念仏すべし」。学んでいよいよ愚者にかえり、愚者にかえって念仏申すことを忘れてはならない。

 第十二章は長い章であるが、始めの段階でまず勉強することの意味を明らかにしている。聖教を勉強することは大事なことであるが、それはどんな意味をもっているのか、そのことを考えねばならないことを教えている。

 

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