七、たすけられるということが成り立つためには

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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この第十一章の誓願、名号を別々に考える異義は、自分が本当に助けられるという事実が成立していない所に生まれる異義である。もし信が成立していると誓願名号は離れない。決して別々にはならない。けれど本当に助けられていない。従って助かるということが判っていない。助かるということが知性、観念の問題にとどまっているから、本願で助かるのだろうか、名号で助かるのだろうかとなる。証の問題を知性で考えたことからこの異義が生まれるのである。

助けられるとは、助からない自己がわかることである。いま、助け船がある。海の中に放り出されて、どうしようもない、波は高いし、その中にだんだんと体が冷えてきて、このままでは駄目だと思った時、一艘の船が来て助けてくれた。これを助け船という。これがなければ私は死んでおった。

死ぬべきものが生きた。これが助けられるということである。困りに困って一家心中でもするしかない時に、金がいるなら出してあげるといってくれた人があって助かった。あの人がいなかったら私の家はメチャメチャでした。この病気も、あの先生がいなかったならどうしようもなかった。そういう風に助からない現実がないと、助けられるということは成り立たない。

助からない現実がわからないと、たすけられるということが事実として成り立たない。

どんな人が助かるのか、それを明らかにしたのは親鸞である。信巻末(一二−九三)に、「それ仏、難治の機を説きて『涅槃経』に言はく、迦葉、世に三人有り、その病治し難し、一つには謗大乗(ぼうだいじょう)、二つには五逆罪、三つには、一闡提(いっせんだい)なり、是の如きの三病、世の中に極重なり、悉く声聞、縁覚、菩薩の能く治する所に非ず、善男子、たとえば病有りて必ず死して治すること無からんに、若し膽病(せんびょう)随意の医薬有らんが如し、若し膽病随意の医薬無くんば、是の如きの病定んで治すべからず、当に知るべし、是の人必ず死せんこと疑はず、善男子、是の三種の人、亦復是の如し」 助からない人とは何か、いずれも無間(むげん)地獄、この最低の地獄に落ち込んで、そこから出ることの出来ない、これを難治の三病、難化の三機という。三機は三種類の人ということ。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには、一闡提、これが涅槃経に出てくる三機である。難治とは治り難い。「世に三人あり、その病治し難し」その病は治すことが難しい。難しいというのは治らないということ、全然治らない、全く治る術がないということを言っている。

後の方に「是の如きの病定んで治すべからず」とあって徹底的にこれは駄目なんだ、「是の人必ず死せんこと疑わず」とはっきり述べてある。

謗大乗とは、誹謗正法である。これは(一二−二三)「誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕して…以っての故なり」 正法とは仏法、仏法を誹謗するものは、無間地獄の中に落ちこんで、また次の阿鼻地獄におちこんで次々とまわって、百千の阿鼻地獄をへて、しかも出てくる時がない。その罪がものすごく大きい。誹謗正法とは(一二−一一三)に「問うていわく『何等の相かこれ誹謗正法なるや』…皆『誹謗正法』と名く」。

自ら仏なし、法なしと仏をないものにし、仏法をないものにし、これを無視し、菩薩の法もなし。これを自ら領解し、人からもそれを受ける。そしてそうと心を決めて動かない如来無視の人である。五逆は、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、和合僧を破し仏身より血を出す。これは恩知らずである。

一闡提、これは梵語で、訳して断善根という。根腐れ病にかかった植物のようにどうしようもない。これを断善根という。全く善をやろうという気がない。これを一闡提という。この三つを助からないものという。

この文章は実は、『涅槃経』の原文では、

 如若有膽病随意医薬

 若無膽病随意医薬

 如是之病定不可治

 応知是人必死不疑

膽病とは看病人のことである。病人には看病する人が大事である。看病人のいい人がいて、その人がよく世話をし、よくはげまし、助け、そして支え、忠告をする。そうすると病人というのは心強い。もう一つは医者、随意自在、ああしようと思えばすぐそれが出来る。自分の自由自在に色々と珍断し、手当を講ずることが出来る人、医者、そして薬、三つが必要、三つが揃うと、病気と言うのは治り易いわけであります。

「もしは膽病、随意の医、薬有らんも、もしは膽病随意の医薬無からんも、是の如きの病定んで治すべからず、当に知るべし、是の人必ず死せんこと疑わず」この三つの病気はあまりにもひどい病気で、どうしようもない手のつけようも無いもので、たといどんな看病人、すぐれたお医者さん、薬があろうとも無かろうとも、絶対助からない。この人必ず地獄におちて出てこられない。助からないのだといっている。

親鸞聖人はこの原文を読みかえなすった。

「善男子、例えば病ありて必ず死して、治ることなからんに、もし膽病随意の医薬有らんが如し、もし膽病随意の医薬無くんば、是の如くの病定んで治すべからず」。これが有ったら助かる。無かったら助からないんじゃという文にしてしまいなすった。

すぐれた看病をしてくれる菩薩と、そしてすぐれた教えを説いてくれる医者の善知識と、南無阿弥陀仏の薬があるから、助かる。もしそれがなかったら、助からない。聖人はこのような文にして全然もとの文章とは違ったものにされた。本当はこの読み方が正しい。これで助かって行くのである。仏法においては助からないものが助かって行く、それを助けられるというのである。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて、往生をばとぐるなり」これは助からない者が助かった姿である。


もう一つ助からない人が出ている。それは第十八願に出ている。それを唯除の機という。

第十八願は本願の中の本願で、四十八願の中の中心である。その最後に「唯五逆と誹謗正法とをば除く」とある。除かれるとは助からないということである。十八願は、弥陀の本願であり、十方の衆生ことごとくを助ける願である。

「助けられまいらせて、生死をいづべし」です。しかし十八願には助からない人間があると書いてある。そこで古来仏教以外の人が、弥陀の本願を攻撃する時はそこを攻める。十方衆生を助けると言うが、ちゃんとこれだけは助けないと書いてあるではないか。だから皆を助ける力はないんだと言って、十八願を非難したものである。実際ここは疑問が起こり易い。この問題をはっきり解いた人は親鸞である。

親鸞に先立って善導である。「仏の願力を以て、『謗法闡提、回心すれば皆往く』」(一二−一一六)と善導は簡単に述べた。これをくわしく述べたのは親鸞である。「『唯除五逆誹謗正法』というは罪咎(つみとが)の重きことを示してみな往生すべしとしらせんとなり」。(一七−一)

罪人われということを知らせんがあの唯除五逆、誹謗正法の御文である。その罪の重いことを示して、回心懺悔することを教えた文章であると言われている。重い罪咎、罪人われと知らしめるが為の御文。重い罪咎とは何か。助かるべからざる者、助けられる値打ちのない、とうてい助かる手がかりのない人間、それ程の罪咎を重ねた私と知らせようが為の御文である。この文がないと、弥陀の本願に助けられるということが出来ない。助からない自分とわからないからです。

助かるとは、本願の成就である。それを述べたものを本願成就文という。

諸有衆生

聞其名号

信心歓喜 乃至一念 至心廻向

願生彼国 即得往生

住不退転

諸有の衆生

その名号を聞いて

信心歓喜し 乃至一念せん 至心に廻向したまえり

かの国に生まれんと願じ 即ち往生を得て

不退転に住せん

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて、往生をばとぐるなり」である。その為には、何が成り立たねばならないか。

一つは諸有衆生が成り立たないといけない。二つは聞が成り立つ、三つは其、四つは名号、そして五つは信心。この五つが成り立つとき、本願がとどくことを明らかにしているのが本願成就文で、『大経』下巻の初めにある。

助かるということは、諸有衆生、聞其名号、信心歓喜が成り立つことが大事である。聞とは、聞き開く、聞きぬく、聞きつらぬく。継続一貫、とうとう本当に聞きひらいた。それを「聞」という。

「其」はよき師、よき友を得て、本当にそれを聞き開いた。名号は南無阿弥陀仏のその心、弥陀の本願の心をよき師、よき友を通して、聞きぬいて、信心が生まれた。そこが大事である。

信心とは何か。信心には二つある。一つは教信行証の信心。教えを聞いて信じて、そして行じて、証を得て救はれる。キリスト教、立正佼正会、創価学会、全部こういう信心である。教えを信じる。

英語で言うとFaith、キリスト教でいう信仰である。神の言葉を信じて疑わない。それを信頼してゆく。

いま言うのはこれではない。信心というのは仏教では『教行信証』という。この信心は他に無い。英語に訳せない。何故かというと、英語の国にはないからである。如来のはたらきを南無阿弥陀仏という。それが到り届いて信が生まれる。到り届くとはその働きが到り届く、その働きを光明無量、寿命無量という。無量の光明と無量の命をもって、働きかけてくる。従って、私を照らして、照らして、照らして、照らしぬく。私を摂めて、摂めて、摂めぬいて、そこに成り立つもの、与えられるめざめを仏教に於ける信心という。この信心を英語でいうと何というか。

鈴木大拙という先生は亡くなられましたが、英語の上手な先生でアメリカの人を奥さんとしておられた方である。親鸞聖人誕生八〇〇年を記念して、『教行信証』を英訳された。なかなか名訳でした。

名訳の一つは、『教行信証』の行を先生はLivingと訳された。これは名訳ですね。Liveとは、生活するとか生きるとか、生命が働くという動詞である。動詞にingを付けて名詞化した。これを行という。なるほど、われらの生活が如来の働きである。Livingこれは凄い名訳と驚きました。

信を先生は、Faithと訳された。これはいかん。これは信頼するということである。信頼ではない。教行到り届いて生まれる信はFaithではない。これは間違っている。偉い人が必ずしもいつも偉いとは限らない。時には間違っていることがありますね。信を何と訳したらよいか。Truth真実。真実ということですね。これなら近いのではないかな。要するに訳しにくいですね。向うの国にはないからね。教行到り届いて信証を生ずというのがないから、訳しにくい言葉ですね。一番無難なのはShinだろう。どうしても訳せないからです。ちょうど、禅というのはアメリカではZenという。訳せないから。こっちにあるものが向うにないからである。だからShinである。これなら簡単であるが先方様にはいよいよわからんでしょうね。

諸有衆生とは何か、諸は諸々の、有は迷いに迷って、そして助からない私ということ。このめざめが生まれて、聞其名号、信心歓喜となる。そこを助かるというのである。助からない自己と目がさめた人が誕生して、聞其名号、信心歓喜となる、そこに助かるということがある。雨がザーザー降っている。たくさんのバケツが並んでいる、しかしバケツに水が入らない。何故かというと、バケツが下を向いているからである。下を向いているとは、それは「善人意識」私は間違っていない。これだけ精進して長い間聞法をして、念仏して、お金も使って、十分な努力をしております。私が助からない筈はない。人に負けない位にやっております。こういう優等生意識ですね。あれもやっております、これもやっております。いや十分とはいえませんができるだけのことはやっております。

この人は、「地獄は一定すみかぞかし」とは思わない。「極楽は一定すみかぞかし」私がたすからないで誰が助かるかという精神。これで助からないのですよ。諸有衆生となっていない。諸有衆生とならない人は助からない。これが一番やま場です。しかし昔からの書物を見てもこのことを言ってくれた人は少ないですね。私の先生は偉かった。諸有衆生というのがかなめと教えられました。それをきびしく教えられました。私のやったこと、私の思ったこと、聞法したこと、念仏したこと、努力したことで助かるのではない。自己がわかることが大切。自己がわかれば如来がわかる。如来の本願で助かるとわかる。その時が南無阿弥陀仏である。本願で助かる時を『ただ「南無阿弥陀仏」』という。誓願と名号は離れない。誓願で助かると言うことが南無阿弥陀仏と念仏になることである。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんと思いたつ心のおこる時」と第一章は続いている。

実によく出来ている文章である。第十一章に「まづ弥陀の大悲…生死を出ずべしと信じて」。助からない私と目が覚めて、私の重い罪咎を知って、罪人つみびとわれと目が覚めた時に、はじめて「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」南無阿弥陀仏とわかる。南無阿弥陀仏と念仏が出て来て、「『念仏の申さるるも如来の御はからいなりと』思えば少しもみづからのはからいまじわらざるが故に、…異なることなきなり。」と続いている。文章は少しだらだらしているが大切なことを言おうとしている。


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