三、異義は資糧位、加行位の段階でおこる

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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 以上のような異義は現代と関係があるかと言うと、文面からだけでは直ちにあるとは言えませんが、先程申すように、異義は求道の途中において中途半端な段階で起ってくるもので、これに類したことを人は犯すのである。例えば、知的関心に執われて十九願だ、二十願だ、十八願だと論じておるが、頭だけの問題で終わり易い。

 また、勤行しなければならん、念仏しなければならんと言う。けれども、それが出来た。出来ない、善い、悪いに執われて、出来ない私は駄目、ということになると、それは実行に執われている。こういうことが現実にある。従って異義篇は古い古い話ではあるが、今もそういうものがあるといわねばならない。

 求道の段階でいえば、すべて一歩一歩物事は進んでいく面を持っている。学校教育で申しますと、幼稚園から幼児教育が始まり、小学校、中学較さらに高校、さらに進む人は大学・専門学校等、色々な段階があって、そこでだんだんと勉強をつんで、進展してゆくのであります。幼稚園の子供に、高等数学を教えるわけにいかない。やはり基礎からつみあげていかねばならない。求道もそうであります。はじめを(じょう)唯識論によって申すと、資糧位という。これが一番はじめの段階、出発点で、資本や糧を集めるのが初めである。

 何をやるにしても資本がいる。どこに行くにしても食糧がいる。そういうものを準備する段階、即ち聞いて考えるという段階が第一段階である。そして実行して行く、これを加行(けぎょう)位といいます。あわせて、聞、思、修といいます。これが大事な段階である。聞いて、考えて、実行する。この段階で起ってくる事が異義である。

 聞いたものを鵜呑みにして実行するわけにいかない。考えるということが必要である。考えるという段階で色々なことを考える。にわとりが葉っぱを食べる。その食べたものを集めて、これが葉っぱだといっているような段階がある。また実行に執われて、出来ればやったといってよろこび、出来なければ落ち込んで自己嫌悪に陥って行く、そういうような段階がある。そこで異義が生まれるのである。何故か、まだ本当の事が良く判っていないからである。本当に判ったら、そういう知的関心、倫理的関心即ち人間的関心、そういうものを超えて、殻を破って大きな世界に出る。

 そこに開けるものを信心という。これは『教行信証』の信の成立です。それを通達位という。さらに修習位、次を究竟位、これは如来の世界を言っておる。右図にこれ等を一段高く上げて書いているのは何故か、それは資糧位、加行位、と進んでいって次は通達(つうだつ)位に達する。そういう考え方を連続的といいます。連続的な宗教と言う。

 連続的と言うのはエスカレーターに乗って行くと、一階から二階に着いた、次には二階から三階に行ける。そういう調子で三暗から四階、五階へと段々登って行く。これを連続的と言う。しかし本当の求道は非連続的である。これを断絶という。資程位、加行位と通達位の間に絶壁があるのである。求道に於いて絶壁があるという宗教は、世界に二つしかない。一つはキリスト教で、一つは仏教です。あとの方は皆連続の宗教で、しっかりやりなさい、そうすれば神の思し召しに叶って神様の所へ参れますという。これ等の宗教を、連続的宗教という。頑張って頑張って、同じ高嶺の月を見るかなという。しかしそれは実際は出来ない、そんな事は不可能である。非連続というのが本当である。それを断絶の宗教という。断絶というのは、人間が聞いて、考えて、実行しても、資糧位、加行位まででとまって、そこから高い世界に行けない。どういう高い世界が教えられていても、その教えがどうしても私に成り立たない。私に出来ない。そうならない、本当の広い世界に出ない。これを断絶という。断絶の宗教これが大事である。それがわからないのを異義という。知的関心に執われて、人間の知識で理解出来たものを寄せ集めて、本当のものが判ったと考える。自分で一生懸命に良いと思うことをやってやり抜いて、本当の所に到達出来ると考える。これが異義。

 断絶の宗教とは、聞思修の果てに、経典に述べられておる教の内容と私の現実とが全く食い違っておる。大きな落差を持っていて、どうしてもその落差が埋まらないということに、誠実に偽らず、誤魔化さないで、どうして出来ないのだろうかとぶつかって行った人だけが断絶を知る。この断絶にぶつかった第一は釈迦でありました。釈迦に就いては色々な説があって、無師独悟ということもいわれている。釈迦は師なくして悟ったのだと一般には言う。しかし龍樹菩薩はそう言わなかった。龍樹は第二の釈迦とうたわれた、大乗仏教中興の人である。

 彼は言った。釈迦はとうとう行き詰まった。そして悟りを開くことが出来なかった、彼は如来の教に会って悟りを開いた。燃燈(ねんとう)仏に遇うて大きな世界に出たのであると言った。これは『十住毘婆沙(びばしゃ)論』の初めの方に書いてある。龍樹は仏教は断絶の宗教であると言った。その断絶を埋め、断絶を超えるのは唯一つ如来の働きかけである。これを如来本願という。本願によって人間は、大きな世界に、断絶を超えて出ることが出来るのであるということを明らかにしたのが『十住毘婆沙論』である。不幸にして、中国においてこの『十住毘婆沙論』は龍樹菩薩の主たる著書とは認められなかった。中国では龍樹の主著は中論であると誤解され、中論を主とした三論宗が生まれ、これが龍樹の主たる教えであると解釈されて来た。龍樹を本当に理解して、『十住毘婆沙論』をとりあげたのは曇鸞大師です。この曇鸞が中国の仏教に大きな影響を与え、親鸞にまでその影響が及んでくる。それは断絶の宗教という考えです。

 異義というのは、資糧位、加行位の段階で起る。通達位に速くない段階で起る。聞、思、修の段階で、聞いて考えている。本願とはどういうものか、それを本当に聞いて学んで行かなければいけない。それを理解することが大事である。ここで知的関心に執われて、誓名別計というものが起ってくる。また、聞、思、修、の修の段階で、一生懸命に努力する。自分の努力を積んで、善を行じ、悪をやめるということが大事となってくる。そういう所に賢善精進への執われが生まれてくる。

 これが中途に於ける考え方というものである。従って多少ニュアンスの差がありますが、皆同じように間違いを起すのである。この段階を、浄土真宗では、自力の計いという。自力の計いの段階を超えた世界を他力の世界、如来本願の世界という。自力の計いが異義の根である。異義の根本である。

 自力とは、『唯信抄文意』にいわれている。

(二〇−六)「自力の心をすつ」というはやうやうさまざまの大小の聖人、善悪の凡夫のみづからが身をよしと思う心を捨て身をたのまず、悪しき心をさがしくかえりみず、又人をよしあしと思う心をすてて、一向(ひとすじ)具縛(ぐばく)の凡夫、屠沽(とこ)下類(げるい)、無碍光仏の不可思議の誓願、広大智慧の名号を信楽(しんぎょう)すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。


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