一、誓名別計の異義

『歎異抄講読 異義編(第十一章について)』細川巌師述 より

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 はじめに何々のこと、とあるのが異義である。この章の異義は、「一文不通のともがらの…分明(ぶんみょう)に言いひらかずして人の心を惑わすこと」これです。一文不通のともがらとは、一文字にも通じない。即ち文字一つも読めない、そういう人達が、唯無心に念仏申して南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と喜んでおるのに会うて、「汝は誓願不思議を信じて念仏申すのか。名号不思議を信じて念仏申すのか」と「言いおどろかして」、全く唐突にそういうことを言いかけて、向うをおどろかして、「本願を信ずるのか、南無阿弥陀仏を信ずるのか。」とその二つのわけがらを詳細に、良く説明もせずに突然に問いかけて、人の心を惑わすような人がおるという。そういうことが異義である。あなたは今念仏しておるが、それは本願を信じて、念仏申しておるのか、あなたの念仏の中心点は本願を信ずるという所にあるのか。それとも名号不思議、南無阿弥陀仏の不可思議な働き、名号不思議で助かると信じて念仏しているのか、そのように本願と名号の二つのわけがらの区別、内容の詳細を明らかに説明して、納得させてたずねるのでなくて、いきなり念仏している人に問いかけて当惑させる人がある。

まず、態度が横柄(おうへい)というか高圧的である。「汝は」と上から下に向かって、学問のない素朴な念仏者の念仏を頭ごなしに、詰問(きつもん)するような態度そのものに問題がある。しかし中心は、本願と名号、誓願と南無阿弥陀仏とを別々にして、こっちを信ずるのか、あっちを信ずるのかという問いかけ、その根本にこの人自身が誤った考えを持っておる。一つのものを二つに分けて考えている。

了祥は一生に何回となく『歎異抄」を講義したが、その最後の方を門弟が筆記して『歎異抄聞記』という書物になった。その中で第十一章の異義を「誓名別計」と言っている。誓願、名号を別々に(はから)う異義という名前をつけた。


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